小町草紙(三)





4、 芥川(あくたがわ)




「なんだ? この匂いは…」
ネットリした熱帯の空気の中、
腐臭に似た香気が鼻を突く。

「真如さん、あれを見てください!」
その時、彼らが見たものは!
(ナレーション:バッキー木場)

「うわあ、なんちゅうデカい花だ!」
木々の間に直径1mの花弁を広げる、
日本人が初めて目にするラフレシア。

今年67才、オレンジ色の僧衣をまとった
真如は、10人ほどの隊員らを制して、
「毒があるかもしれない… 先へ進もう」

「うわああーッ」
頭上から、シマシマ模様の毒蛇がからみつく。
驚いた隊員が、沼地へと転落した。
ここはマレー半島南部、熱帯の大ジャングル…
大自然が真如一行に、次々牙をむく。

そもそも、天竺へと向かうのに通常のルート(いわゆる
シルクロード)を通らず、「海のシルクロード」と呼ばれる
海路で行こうと、マレー半島へ南下したのは、
真如自身の発案だった。

が、インド洋を渡るはずの船がサイクロンに
巻きこまれ、マレー南部に漂着。
飲み水を求めてジャングルへと分け入った
一行は、大自然の洗礼を受けるハメに…

「ダメだ! 行き止まりです!」
ついに、半島南端の断崖絶壁に出てしまった。
眼前には、海峡を挟んで大きな島
(現在のシンガポール)が見える。

その時… 
眼下の水面が、ボコボコ… ゴオオオッと渦を巻く。
「真如さんッ あれはァーッ」
その時、想像を絶する光景を、彼らは見た!

海面を割って、姿を現した巨大な怪獣…
後になって冷静に考えると、それは哺乳類、
トドのような海獣の類であったろう。
だがサイズが、ザトウクジラなみにデカかった。
しかも頭部に、まるでタテガミのような毛がある…

ゴウワアアアァァーと、身のすくむような咆哮を
上げ、鉤爪のついた前足を振り上げる。
探検隊は狂ったように叫ぶと、海に背を
向け… 内陸へと逃れんとするが。

大怪獣は口からゲロでも吐くように、
海水をグバアアッと吐き出す。
ダムの放水のような水流を浴び、5人ほど
海へと流され… 捕食された。

後にシンガポールを建国するイギリス人、ラッフルズ卿も
目撃し、「海の獅子(マーライオン)」と命名する、
幻の生物である。
ちなみに「ラフレシア」という名は、
「ラッフルズ」にちなんだものだそうな。
ちなみに世界最大の花はラフレシア
ではなく、スマトラオオコンニャク。

真如以下、生き残った者たちは、無我夢中で
ジャングルを突っ走る… と、その時。

行く手に、黄色い悪魔のような、
恐ろしい野獣が飛び出した。
ここはマレー虎の生息地…
「私は御仏に仕える身ッ この体を害してはならぬッ」

これが真如の、最後の言葉だったと伝わる。


10年後…
探検隊のうち、たった1人の生存者が、
西安の貿易商のもとへ帰りついた。
「なんと… 真如さまが…」
この商人を通して、真如の悲報が日本へと伝わるのは、
その死から16年後の元慶5年(西暦881年)のこと。

現在、シンガポールの対岸、マレーシア領ジョホール・バル
に、真如法親王の供養塔が建立されている。
初めてマレーの地を踏んだ、そして恐らく、
初めて虎に食われた日本人…



7月27日、唐の商人が大船団を組み、来航したという。
この時、商人だけでなく、2人の道士も上陸した。
後の鳴神上人こと李終南(りしゅうなん)と、その
第1の弟子、黒雲坊こと趙帰真(ちょうきしん)。

「老師よ… 不思議な運命に導かれ、このような辺境の
国まで、はるばると来たことでございますなあ」
「頬にコブのある魔神… 必ず見つけ出し、
復讐せずにはおかぬ…」

「とりあえず、どう動きますか? 初めての
土地だし、案内人を雇うべきでしょう」
「その通りだな。唐の言葉がわかるだけでなく、
この国の地理や文化に詳しい者を…
おや? あそこで、こちらをジッと見ている男… 
フッ 邪悪な気を放っておるわ」
適任者を見つけた… と、李終南は直感した。



秋が来て、藤原高子(24)は、「染殿」に
住む従姉妹の明子(37)を訪ねた。
「あいも変わらず、誰ともわからぬ方を
待っていらっしゃるの、明子さん?」

「うん… 誰かはわからないけど、きっと
会いに来てくれる… あの方は…」
夢見る乙女のような瞳で、秋空を見上げる明子…
その手には、かつて彼女に取りついた怨霊… 
あの真済が残していった、ひとひらの
紅葉が握られている。

この後35年もある寿命を、こんな風にして
過ごすことになる明子だが、そんな彼女が
少しうらやましい高子であった。

(私の場合、「誰か」はハッキリしている… 
ただ「来てくれる」かどうか、確信がもてない…
お願い恋夜、あの方をうまく連れ出して…)
それが目的で、警備の手薄な「染殿」まで来たのである。

この年になるまで高子が入内しないでいる
のは、帝がまだ若いということもあるが、
「業平によって高子がキズモノにされてしまった」
という世間の噂が、消えるのを待つ…
そんな意味合いもあった。
が、とうとう帝も16才となり、高子も
来年には入内することに決定。

(あれから6年… あの方も、きっと
私に会いたがっている… 
2年前の斎宮での醜聞は、私に会わせ
ようとしない兄・基経への当て付け… 
そうにちがいない…)

考えぬいたあげく、高子は賭けに出た。
(あの方は何もかも振り捨て、私に会いに来て
くださる… そう、信じてはいるけれど…)
なにぶん男というものは、まだよくわからない
ところがある… イチかバチか、であった。


その夜… 几帳の向こうから、懐かしい声がした。
「起きてらっしゃいますか?」
「眠れるはずもないでしょう」
高子は胸が熱くなった。

「もう1度だけ… どうしても、お会い
したかった… それで、恋夜に…」
これから夜が明けるまで、命の限りを
尽くし、この方と睦み合おう。
そして残りの人生を、この夜の思い出
だけを胸に生きていくのだ…

「恋夜から聞きましたよ。年明け、
いよいよ入内されるそうで」
「ええ… ですから、これが最後…」
「そんなことはさせない」
「え?」
「馬を用意してあります… さ、行きましょう」

これから天皇のもとに嫁ぐ娘と、
駆け落ちしようというのだ。

「なんという… なんて強引で、とんでもない方なのでしょう… 
捕まれば、ただでは済みませんよ? 
それに私、馬になんか乗ったことありません」
文句を言いながらも、高子の頬を涙が伝う。

口先だけの、耳に心地いいだけの愛の歌を
作る男なんて、いくらでもいる。
だが、この人は… 私のために命をかけ、行動している…
少女の背伸び、兄への反抗から始まった業平との恋…
それは今、高子の中で本物の愛へと変わった。

「車より乗り心地は悪いが、馬に乗れば
自由になれる… 摂関家の人形ではなく、
自分の意思をもった、自由な人間に… 
さ、私といっしょに」
差し出された手を、高子は握った。
そして、逃避行が始まる。


翌日、かなり遅くなってから、高子の逃亡が発覚した。
「お前ら、どうして今まで気がつかないんだッ!?」
駆けつけた基経は、使用人たちに激怒する。
「それが… 実は…」

高子さんは疲れて寝てますから、
そっとしておいてあげなさい…
なんて命じられていたのだ。

「誰に?」
「皇太后さまです…」
明子は、ぼーっとしているようで、実は
高子の計画に気づいていたらしい。
自身も、入内によって女としての幸福を
犠牲にしていた明子である。
(高子さん、幸せにね…)



昼前には、都の西、大原野まで
到達していた2人であった。
「さあ、ここで少し休憩をしましょう」
小塩山の麓に、業平の秘密の別荘がある。
(後に業平は都を離れ、ここで暮らす
ようになる… 現在の十輪寺である。)

高子は、馬に長時間揺られ、乗り物
酔いのうえに全身ガクガク。
湯漬けと果物を出してもらったが、
まるで喉を通らない。

「高子さま、少しは召し上がらないと… 
まだ先は長いですから」
「そういえば、聞いてなかったけれど… 
どこまで行くのですか?」
「難波津です。そこから船で…」
「船!?」
「唐へ渡りましょう」

あまりにも壮大な計画に、あきれるのを
通りこして、高子は笑ってしまった。
「確かに、唐まで逃げれば… 
兄も追ってはこれませんね」

「向こうに知り合いがいます。叔父の真如法親王が留学
してますから、しばらくはそこで厄介になりましょう」
まさかマレーで虎に食われたとは、夢にも思わない…

「なんとまあ、本気でいらっしゃるのね… 
でも船の手配はどうするの?」
「だいじょうぶ。住吉に櫟丸(いちいまる)という
旧知の者がいて、手紙で知らせてあるので… 
船が見つかるまで匿ってもらえるし、
船との交渉もやってくれます」

「手回しのよいこと… もしかして、
以前から計画を立てていたとか?」
「いえ… あなたから使いが来た時に… 
あなたが入内すると知った時に、
すべてを決断したのです」

なんという行動力… そして、すべては私のために…
そう思うと、高子はあらためて感動に
包まれ、疲れも吹き飛ぶ気がした。
「そういうことなら、私が足手まといに
なるわけにはゆきませんね」
少しでも体力をつけようと、干し柿を手にする。

が、頬を赤らめ、
「食べてる間、几帳の向こうにいてくだ
さいまし… 恥ずかしいですから」
この時代、高貴な女性は人前で
食事はしない慣わしである。
「お、これは失礼… では、ごゆるりと」


山を越えるため、日の高いうちに2人は出発する。
馬も通れないような山道を行くので、
高子は業平の背に、体を預ける。
ぷっくらとした高子は、意外に体重がある…

が、業平も日ごろ鍛えてあるし、愛する
女のためなら無限にパワーの出る男
だったので、まったく苦にならない。
「難波って、こんな山の中なの?」

淀川を下るメインルートは、難波と都を結ぶ物流の
大動脈であり、人目がありすぎて危険… 
遠回りでも、深い山中を行くしかない。

「ほら。あそこに見える細い流れが、芥川(あくたがわ)…
あの流れに沿っていくと、淀川に合流します。
そこで櫟丸が待っているはず… 難波の、すぐ手前です」

芥川のほとりに降り立つころには、
すっかり夜も更けていた。
この辺りは、現在の大阪府高槻市に該当する。
さすがの業平も、体力を消耗している。
「もうすぐ休ませてあげますから… 
がんばってください、高子さま」

高子は愛する男の背に揺られ、半ば夢心地。
「あれ… あれは何です? あのキラキラ
してる、真珠みたいのは…」
川べりに生えた水草の葉に水滴がたまり、
月光を反射して輝いている。

何を、子供みたいなことを…
疲労困憊した業平は、その問いかけを聞き流した。
「炭焼き小屋がある… あそこで夜を明かしましょう」
崩れかけた廃屋だが、夜露はしのげそうだ…

高子を中に入れると、自分は戸口に
寄りかかって、寝ずの番をする態勢。
「雲が出てきたな…」

黒雲が月を隠し、ゴロゴロ… と遠雷が響いてくる。
「高子さま! 雷が怖かったら、耳をふさいで、
とにかく少しでも睡眠を取ってください!」

雷などこれっぽっちも怖くはない、
度胸の据わった高子だが、小屋の
内部の荒れ果てた有様には閉口した。
「ま、たまには、こういう経験もいいかもね…」

クタクタに疲れていたので、湿って腐りかけた
床板でも気にせず、横になる。
いつもは感覚の鋭い高子も、闇が
蠢いていることに気づかない。

外でピカッと、何発か光った。
全身を黒く塗りたくった、不気味な
大男の姿が浮かび上がる…