小町草紙(二)





9、 草紙洗(そうしあらい)




仁寿4年(西暦854年)。

この年、円仁(61)が比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の
第三代天台座主(ざす)に就任。

讃岐(さぬき)では、後に真言宗の高僧となる、
観賢(かんげん)が誕生。
聖宝の弟子となり、空海に「弘法大師」の号を
賜るよう活動する人物だ。

奈良の春日大社、神人を務める太岐口田島の家で、長男が誕生。
将来、「獣心」と名乗るこの赤子、
ベタだけど柳生十兵衛の前世…

4月13日、文徳帝は内裏にある梨本院から、内裏の外の
離宮・冷然院(れいぜいいん)に移った。
二条城の北側あたりである。(この時、二条城はないけどな)

世間には暗いムードが漂ってるし、引越しの祝いに
歌合せでも開くか。
「小町も呼ぶのだぞ」
という、帝のお言葉。

4月26日、仁明帝の妃・順子が皇太后、
淳和帝の妃・正子が太皇太后となる。

5月某日、小町の元に「お題」と「対戦者」の知らせが届く。
お題は「春雨」、対戦者は… 大伴黒主!



「相手は、あの小町… 六歌仙同士の対決だよ、兄さん…」
黒主は、今は亡き2人の兄の墓に参っていた。
「歌の実力なら、決して負けはしない! が、相手はなんと
いっても三国一の美女、華やかな雰囲気に包まれている… 
それに対し、私は卑しい盗賊上がり。会場では歌そのものより、
この雰囲気で勝負が決まってしまいそうだ…」

今年42才、黒主の暗い影をたたえた瞳に、静かな炎が燃える。
「歌で天下を取るという少年のころからの野望、
今も変わりはない… やる… やるしかない… 
どんな手段を使っても、小町を…」


その夜、黒主は小町の家に侵入した。
盗賊としての技能を使うのは、久しぶりであるが… 
やがて、小町の部屋を見つけた。
天井裏から黒主がのぞいているとも知らず、
小町は歌の想を練っている。
「うーん… 春雨、春雨…」
胸もとを開けて、愛用の扇でパタパタあおぐ。

「あら、いらっしゃい… どうぞ、おあがりくださいな」
隣の姉の部屋からは、そんな声が聞こえる。
(ほう… 男が訪ねてきたか…)
その男が業平とは、黒主は知るよしもないが、
やがて男女の楽しげな笑いが聞こえてきた。

小町のようすがおかしい… 肩が震えているようだ。
(笑ってる? …いや、泣いてるのか)
無理もない、女ざかりだというのに、男との逢瀬も楽しまず、
〆切りに追われ、歌の創作をしているのだから。

黒主の心に、小町への同情が湧き上がった。
あなたさえ心を開いてくれるなら、私があなたを
慰めてあげるのだが…
文机につっぷしていた小町は顔を上げ、
涙でぐしょぐしょになった片袖を見る。
やにわに紙と筆を取ると、

春雨の 沢へふるごと 音もなく 
人に知られで 濡るる袖かな

(春雨が音もなく沢へ降るように、人に知られず
涙で濡れる私の袖なんです)

大きな声で詠み上げながら、書き記した。
隣の部屋は、シ〜ンとなる。
黒主も今の歌をメモしながら、小町の創作の
秘密の一端がわかったような気がした。
恋人に恵まれない寂しさを、歌に転化しているのか…



さて、歌合せの日。
小町VS黒主の対戦の番が来て、両者、進み出る。
まず、先攻の黒主が

春雨の ふるは涙か 桜花 ちるを惜しまぬ 人しなければ
(春雨が降るのは、人々の涙だろうか。桜の花が散るのを
惜しまない人などいないのだから)

ハッとする小町。
(似てる…)
後攻の小町、例の「春雨の 沢へふるごと 音もなく」を、
美しい声で詠み上げる。
ギャラリーから、感嘆の声が上がり、
「これはなかなか、どちらも力作」「判定が難しいですなあ」

「ちょっと、お待ちを」
手を上げたのは、黒主である。
「私、今回の歌を作るにあたり、万葉のころの古い歌集を
読み漁って勉強したのですが、その中に… 申し上げにくい
のですが、今の小町どのの歌と、そっくりなものを見たような」

ザワザワ…
「あいにく勉強不足なもので、どの歌と似てるとおっしゃるのか、
よくわからないのですが… 今の歌は3日前に自宅で、
本物の涙を絞りながら作ったものでございます」
予想外のクレームにうろたえながらも、毅然と答える小町。
帝の前でなければ、もっとキツイ言葉で反撃するのだが。

「黒主どの、それは確かなんでしょうな? 思い違いで人の
名誉を貶めたとあれば、謝ってすむことでは、ありませんぞ」
こう言い出したのは、安倍清行(あべ の きよゆき)という、
今年30才のエリート学者。
小町のファンらしい。

「待ってください。私の文箱の中に、その歌集があったはず… 
ああ、これです」
黒主は、1冊の草紙を取り出し、ページをめくる。
「ここです! この歌…」
審査員や参加者たちに、その草紙を回す。

「おお!」「こ、これは…」「ふうむ、確かにこれは、都が奈良に
あったころの歌集ですな」「まちがいない、動かぬ証拠です」
「黒主どのの指摘がなければ、誰も気づかなかった…」
「小町どの、これはどういうことなのです?」
「丸ごと剽窃するとは芸のない、少しは変えるとか…」

小町は真っ赤になってうつむいて、小さく震えていた。
(そんなわけない… 姉さま、どうしよう… 姉さま、助けて…)
自分のところに草紙が回ってきたので、穴の開くほど見つめる。
まちがいなく万葉の古歌にまじって、
「春雨の 沢へふるごと…」
の歌が書かれている。

だが、絶対そんなことはありえないはず。
タイムマシンなんて言葉は知らない小町だが、時をさかのぼらない
限り、この歌が奈良時代に存在するわけがない。
「桶と柄杓(ひしゃく)を、お願いいたしします!」

庭の井戸で、自ら水をくんでくる小町。
(現在、一条戻橋の近くに「小町草紙洗ノ井」という石碑が
ありますが、この井戸のあった場所らしい)
一同の見ている前で、草紙の例のページに、柄杓で水をかける。
100年以上前の古い墨は固まって流れないが、数日前に
書きこんだ新しい墨は、たちまち薄くなって消えていく。

左手に草紙をもって、それを確認した小町は、一同に
合図をするように、右手の扇を振り上げる。
美人画の大家、上村松園の「草紙洗小町」に
描かれた名場面である。
非難の視線が集まる中、黒主は黙っている。
自分の歌人としての生命が断たれたことを、実感していた。

黒主の手口は子供だましのようだが、この時代の
一般的な女性だったら、わけもわからず泣き寝入り
してしまうシチュエーションだった。
見た目は完璧に「古歌」に偽装していたのに、
まさか自ら水をくんできて草紙を洗うとは… 
小町にそんな行動力があったとは…
黒主は、小町を甘く見ていたと言えるだろう。

帝が自ら、黒主の反則負けと、謹慎処分を言い渡す。
緊張が一気にゆるんだ小町は、急に涙が止まらなくなった。
「おお、かわいそうに」「さっきは疑って悪かったね」
「さ、こちらで休みなさい」
手のひらを返したように、まわりの男たちが優しくなる。
が、小町はそれを断り、(出番は終わったが)
歌合せの最後まで参加した。

今回の事件は、「美貌・知性・度胸」と3拍子そろった
小町の評判を、一気に高めた。
しかし、小町はモヤモヤが晴れない。
「どうして黒主は、あの歌を知っていたのか?」
その真相を究明しなければ… 
そして、小町の思いつく可能性は、1つしかなかった。


パシッ!
姉を訪ねてきた業平を待ち伏せし、小町はその頬を叩いた。
「こんなことをする理由を、聞かせてもらおうか」
さすがに業平も、不快そうな表情を浮かべている。

「しらばっくれないでよ! あんたが黒主に
あの歌を教えたんでしょう!?」
「ああ、そのこと…」
例の事件のことは、業平も聞いている。
「誰にも言ってないよ。それにあの歌は、俺たちへの
当てつけに詠んだと思っていた。
まさか、あんなひどい歌を、歌合せに使うつもりだったとは…」

小町の額に、青スジがピクピク
「へえ、そう… 姉さまを除けば、あんたしか、あの歌を知る
人はいないんだけどな。あんたなら、昔さんざん私に袖に
された恨みを晴らすっていう、動機もあるしね」

業平も、マジギレモードである。
「そこまで言うなら、黒主を叩きのめして、真相を吐かせてやる」
背を向けて立ち去る業平、去り際に
「この家には、もう2度と来ないから。姉さんによろしくな」

姉の操は、泣いていた… 
こんな悲しそうな姉を見るのは、生まれて初めてだった。
小町のために、自分の恋をブチ壊しに
されたのだから、無理もない。
「業平さま、そんなことする人じゃないよ… 
よっちゃんだって、わかってるでしょう?」
その言葉が、小町のカンにさわった。

「そうだね、姉さまの言うとおりかもね。でも、そうすると… 
犯人は姉さまってことになるんですけど」
「わ… 私がやるわけないじゃない!」
「最近、私のこと邪魔に思ってない? 
歌合せで私が恥をかいて、自害でもすればいいと…」
パシッ!

小町は生まれて初めて、姉に叩かれた。
そしてこの日以来、2人の溝は2度と埋まることはなかった。


…というのはウソで、
明け方ごろ、頭がクールダウンしてきた
小町は、姉の部屋に入ると
「姉さま、さっきはごめんね… 前から欲しがってた、
この金箔ちらしの料紙、分けてあげるよ」
料紙とは、色を染めたり模様を刷りこんだりした、美しい和紙。
小町が少しずつ集めた高価なお宝で、それを手放す気に
なったのは、このままでは姉との溝が2度と埋まらなく
なるような、イヤな予感がしたからである。

操も、眠れずに起きていた。
「そうね、私も… このところ、よっちゃんを1人にして、
寂しい思いをさせてたかもね…
ごめんなさいね。これ、いただいていいの? ありがとう。 
でもね、よっちゃん… 業平さまが、そんな卑劣なことする
わけがないよ。例えばだけど、黒主が忍びこんで
盗み聞きしていたとか、考えられない?」

「それじゃ、まるで盗人… はっ?」
以前から、黒主の顔が誰かに似てると思っていたのだが… 
恐ろしい記憶がよみがえってきた。

「あの時の… 私を人質にした盗賊! 
黒主と、まるで兄弟のように似ている…」
「それよ、よっちゃん!」
「でも、どういうこと? 盗賊の兄弟が、都で
歌詠みをしてるなんて… ありえる?」
ともかく、謎の多い大伴黒主という人物、
探ってみる必要がありそうだ。