小町草紙(二)





1、 小町




年が明け、承和14年(西暦847年)。

吉子は、仁明帝の御前に、ひれ伏していた。
「小町でございます」
きれいに波打つ茶色い髪が、赤銅のように、まぶしく輝く。
帝は、まるで天竺(インド)か胡の国(中央アジア)の
女を妾(めかけ)にした気分である。

「私の母も異国の人のようだと、よく言われたそうだが…
そなた、母に似ているな」
「恐れいります…」
「これこれ、そのように怯えなくともよい。震えているのか? 
もう少し、気楽におし」
「………」

「内弁慶」とは、吉子のためにあるような言葉だが、
この時代まだ弁慶は生まれていない。
家ではあれほど気の強い吉子も、外に出ると
からっきし、まるで怯えた子羊。
まして、ここは御所… どんな肝の太い人間でも
緊張しまくるのが当たり前。
顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな吉子であった。

帝は知らないが、母=橘嘉智子(たちばな の かちこ)
に似るのは当然。
吉子は嘉智子の孫であり、帝の姪にあたる。
(しかし、世評の通りの美女かどうか、人によって
意見が分かれるかもな… 私は好きだが…)


昨年、盗賊の人質になるというスリリングな体験を
した吉子は、半年ほど自宅で療養。
その間に、在原業平が絶賛したという美貌が
都で大いに話題になっていた。
業平だけではない、盗賊の首領までが「日本一の美女」と
断言した、という噂が伝わると、
「小野家のご息女、いったいどのような
女性なのだ? 一目見たい!」

どんな美容やファッションよりも女性を輝かせるもの、
それが「ほめ言葉」である。
多襄丸や業平の言葉は、ドーピング剤のように
吉子の潜在意識に作用、長年のコンプレックスを
打ち破り、自分の美貌への自信を育んだ。
それに加えて、良岑宗貞(よしみね の むねさだ)から
評価された、才能への自信もある。
吉子は今や、父から見てもまぶしいほどの、
太陽のように輝く美女となっていた。

「更衣として、帝にお仕えするよう… 
もはや、断ることは許されません」
ここまで評判の美女となっては、こういう話が
来るのも、時間の問題だった。
かぐや姫のように、なおも固辞するか。
それとも華やかな大舞台で、女の一世一代の勝負に出るか。

「たった1度の人生… そして今、人生で1番輝いてる時… 
髪が少しくらいウネウネしてたって、ご愛嬌だよね! 
宮中には、きれいな人がたくさんいるだろうけど、そんなの
気にしない! 父さま、私いく! 姉さまにも会いたいし」
これまでの吉子からは、考えられないような言葉だった。


女官ネームは「小町」。
「小町」とはどうい意味か、いろいろ説があるのだが、
1番説得力があるのは。
皇后の御所「常寧殿(じょうねいでん)」は、
別名「后町(きさいまち)」と呼ばれる。
この常寧殿につながる渡り廊下(后町廊)に、身分の低い
更衣たちの局(つぼね=部屋)があった。
御殿の中に住めず、廊下に寝泊りするとは、かわいそうな…

で、この「后町廊」に局がある更衣たちは、「XXの町」と呼ばれる。
姉の操は「小野の町」と呼ばれ、その妹なので、「小野の小町」。
ほほお〜 ふ〜ん

その後、「小町」という言葉は、「美女」を表す
日本語として定着するのは、ご存知の通り。
「君は赤道小町」とか、「あきたこまち」とか、そういえば
町田の東急の食料品売場で、「鎌倉小町」という店の
惣菜をよく買いますが、おいしいですよ。
「鎌倉」と「小町」、なんの関係もないけどな。


「姉さま!」
「よっちゃん!」
久々の再会、さなぎから蝶に脱皮したような、まばゆい
ばかりに変わった妹の美しさに、まず驚く。
しかも性格も、別人のように素直で、かわいくなっている。
「姉さま、もう私を… 1人にしないでくださいまし…」
「こんなかわいいよっちゃん、よっちゃんじゃないみたいね」

もともと吉子は小心者で、家にいる時は「強気ブリッコ」を
していただけなのだが、いきなり見知らぬ人のただ中、
しかも超上流社会に飛びこんで、虚勢をはる余裕もなく、
ただもう幼子のように、姉にすがりきっている。

「へえ、そうなの… 業平さまと、そんなことがあったんだ…」
姉と同じ局が割りふられ、昔のようにいっしょに寝ている2人。
「人のことジロジロ見て、すごい失礼なやつだった… 
私、てっきり盗賊の一味だと思って」

業平の頬を、思いきり張り飛ばし、
「お前のような下司(げす)に手ごめにされる
くらいなら、唇を噛んで死にます!」
言ってから、「舌を噛む」のまちがいと気づいた。

業平は笑い転げて、
「私は近衛府の役人ですよ、お嬢さん。
盗賊どもが気になるし、もう戻らねば… さあ、お手を」
吉子に、手を差し出す。
「馬で送りましょう」

ついつい、その手をにぎってしまう吉子。
「それからね、唇は噛むものではなく… こうするものですよ」
吉子を引き起こしながら、その唇に軽くキス。
「あ…」
あまりのショックで、ぼおーっとしてる間に
馬に乗せられ、家へ…

「よ、よっちゃん、それ… 男の人と初めてだよね?」
「しかも都に戻ってから、私のこと、あることないこと
言いふらしたんでしょう? そのせいで、私まで
出仕するハメに… あの男、最低だよ…」

「業平… 許さない… 私のよっちゃんを…」
かつて見たことのない、恐ろしい形相の姉に、吉子はびびった。
「姉さま、あの… 仕返しとか、いいから。
もう会わないと思うし、会っても無視する」
「そう? でも、ここでは泣き寝入りは禁物よ? 
やられたら、やり返さないと」
変わったのは吉子だけでない… 
操もまた、宮中に染まりきっていた。


雅びでたおやかな和風美女の姉、華やかで異国風の妹、
どこにいても目立つ2人。
子猫のようにじゃれあう「小野の町&小町シスターズ」は、
今や宮中の注目の的だった。
「小町どの… ようやく会えたね」
文通相手、良岑宗貞とついに対面。

「毎日最低でも10首、歌を作るよう以前手紙に
書きましたが、続けてらっしゃいますか?」
「も、もちろんです!」
もじもじしながらも、まっすぐ宗貞の目を見て答える。
以前の吉子だったら、考えられないこと。

「せ、先生… 私、先生のおかげで… 
歌の心が少し、わかってきたような気が…」
宗貞は、予想以上に渋くて落ち着きのある
ダンディーな大人の男だった。
胸の鼓動が、早くなってくる。
「美しい…」
「え?」

「私がもう少し若かったら、帝を裏切ってでも… 
あなたを奪ったかもしれない」
「か、からかわないでください!」
「今でも、お姉さんが1番好きなの?」
「操姉さまは、私の永遠の恋人です! 
男の人なんか、興味ありません」

宗貞は苦笑した。
「しかし君は、男たちから大量の恋文をもらうだろうね。
姉さんの記録を抜くかもな」
実はもう、すでに相当な恋文が届いている。
「もらっても、読んでません… 量がたまったら、
お墓を作って埋めようと思います」
現在、随心院に残る「文塚」こそ、小町が捨てた
「ラブレターの墓」である。

「やれやれ… 恋の歌をやり取りするのも、
大切な歌の修行なんだけどな」
「そうだ… 姉さまの他にも恋人いました! 
私の大切な、愛しい恋人…
それは歌です! 歌が私の恋人なんです!」
吉子の瞳が輝き、宗貞は、まぶしさに目を細める。

「私、今のお勤めが終わって御所を退出した後も、
歌を詠んで暮らしていきたい…
人に頼らずに、男性の歌人のように、
歌を職業として自立したいんです」
平安朝最初の女流歌人、小野小町の誕生であった。


ある夜、帝は初めて小町を召した。
いくら「男の人なんか、興味ありません」と言っても、
更衣である以上、これも仕事である。
小町にとって帝は天上の存在であり、恋愛感情の対象ではない。

「そなた、歌で生きていきたいそうだな」
「はい」
「がんばりなさい。太皇太后さまも応援するとおっしゃっていたよ」
太皇太后さま… 帝のお母さまが、なぜ?

小町、22才にして初めての男性経験。
そして仁明帝こそが、生涯を通じて唯一、
小町が契りを結んだ男性であった。
たぶんな。



そのころ、大和の国、石上集落では。

子供のころ、あんなに仲の良かった櫟丸(いちいまる)と
なず菜だが、成長するにつれて、すっかり口も
きかなくなってしまっていた。
2人とも、もう19才、この時代ではとっくに婚期に入ってるが、
どちらもなんとなく、親のもってくる結婚話を断って、今にいたる。

そんな、ある日。
なず菜のもとへ、文が届いた… 櫟丸からである。

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 
過ぎにけらしな 妹(いも)見ざるまに


「妹(いも)」=愛しい人、ダーリン、ハニー。
井戸の丈よりも足りなかった私の背丈が、井戸を越えたようです、
愛しいあなたを見ない間に。

「待ってた… この時を、ずっと待ってたんだ…」
なず菜の頬を、涙がつたい落ちた。
さっそく、返事を出す。

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 
君ならずして たれかあぐべき


昔、あなたと長さを比べた、この左右にふりわけた髪も、
肩を過ぎる長さになりました。
あなた以外に、誰がこの髪を結い上げてくれるの?
(髪を結い上げる=成人する=結婚する)

幼なじみカップル、ついにゴールイン。



10月2日、苦難の末、ついに円仁(えんにん)、唐より帰国。
「どえらい旅だった… 叡山(えいざん)は
何も変わっておらぬな…」
「円仁さま! よくぞご無事で… 私は… 私は…」
その足にすがりつかんばかりに跪き、涙をこぼす
この年24才の湛慶(たんけい)。

「湛慶! お前にも心配かけた… ん? お前、
ナマグサでも食ったのか?」
「な、何をおっしゃるのです? ここ数年、
粥と菜っ葉しか、口に入れておりませぬ」
「そうか、では気のせいか… お前から、
血の匂いがしたような気がして」
頭を殴られたような、衝撃だった。

3年… もう、3年になる… 奈良の小役人の
娘の喉を剃刀でかき切る、通り魔的犯行。
家の者たちは、娘がなぜ殺されたのか、見当もつかないだろう。
まさに鬼畜… 今のところ捜査の手は、
ここ比叡山まで伸びてはいない。
なんとしても、このまま隠し通さなければ… 
俺には、将来がある。
俺には、進むべき道がある…