小町草紙(一)





14、 宇治の橋姫




承和11年(西暦844年)が、もうちょっと続くんじゃ。

六歌仙の1人、喜撰法師が宇治川の
ほとりを、ぼ〜っと歩いてくる。
この年44才、父の名虎と妹の静子に説教されてから、早9年。
「おや? あの女人は… もしや、今噂の…」

最近、宇治橋の周辺でよく目撃され… 
橋のたもとに祀られた「橋姫」の化身か?
と噂されている、謎の女かもしれない。
「あの〜、何を見てらっしゃるのです?」
水辺にたたずむ、市女笠をかむった、うら若い女に声をかける。

「まあ… お坊さま…?」
ささやくような、水の流れに消え入るような、優しい声。
「こんな田舎で、あなたさまのような、りっぱなお坊さまを
お見かけするなんて、ちょっと意外…」
笑ったような優しい目元の、天使のような無垢な美女である。

喜撰はフッと、自嘲するような笑みを浮かべ、歌を詠んだ。

わが庵(いお)は 都のたつみ しかぞすむ 
世をうぢ山と 人はいふなり


「世をうぢ山」のところは、「宇治山」と「世を憂じ」をかけている。
私は、世捨て人… 都を離れ、このひなびた
田舎の宇治で、人と交わらずに生きている…
という、自己紹介である。

「何か、おつらいことがあったのですね… 
世をお捨てになるなんて」
「あ〜 そんなことより、川に何かいますか? 
一心に、のぞきこんでらっしゃったようだが」
女の横に腰を下ろし、喜撰も水面をのぞきこむ。

「ここでお会いできたのも、何かのご縁でしょう。
お坊さま、お願いがあるのですが…」
「はあ…」
「実は… この川底にある岩の陰に、人の骨が見えるのです…
拾いあげて、供養していただけませんか?」


異常な展開になってきた… 喜撰は衣を脱ぎ、
川底の骨を回収する。
頭骨から足骨まで、ほとんど一式そろっていた。
あたりはすっかり、薄暗くなっている。

「ありがとうございます…」
女は自らの袖で、喜撰の濡れた体をぬぐう。
女の香が喜撰の鼻をくすぐり、忘れかけていた
欲情が、よみがえってくるようだ。
しかし、ひとつ気になることがある。

「どんなに目のいい人間でも、上からのぞいてあの骨を
見つけることはできない。あなたは見つけたのではなく、
あそこに骨があると知ってたんだ…」
女は、手を止めた。
優しい無垢な瞳が、喜撰を見つめる。
「だれなんです… この骨は」

女は、きれいに並べた人骨のわきにしゃがみ
こむと、そっと骨をなで、語り始めた。
「昔… 瀬織(せおり)という女が、おりました…」



弘仁11年というから、今から24年前(西暦820年)のこと。
都に住む、瀬織という娘には、恋人がいた。
「中将」と呼ばれているので、左か右の近衛府の次官であろう。

その夜、いつものように通ってきた中将と
愛を交わした後、瀬織は打ち明けた。
天使のような無垢な笑顔で、ささやくような優しい声で。
「赤ちゃんができたの」
中将の目の中で、何かが動いた… が、口では
「そうかー、それはよかった! 何か、必要なものはない?」

妊娠すると、女性は変なものを食べたくなる。
瀬織は、「七尋(ななひろ)のワカメ」を欲しがった。
(1尋=約1.818mなので、7尋=13mくらい?)
これはまた、変なものを欲しがったもので
築地市場でも売ってないだろう。

しかし中将は、
「よーし! 海に行って、採ってきちゃる!」
と、約束。
「うれしい…」
目に涙を浮かべ、瀬織は中将の肩によりかかる。


それっきり、中将は姿を見せなくなった。
捨てられたかと思い、家の下人に、ようすを探らせてみると、
「たいへんですよ、お嬢さま! 中将さまが、海で…」

中将は、海まで「七尋のワカメ」を探しに行ったらしい。
しかし、見つからないのでムキーッとなり、心を鎮めようと笛を
取り出し、「青海波(せいがいは)」という曲を吹いていた。
と、その美しい調べを聞きつけ…

「龍神が海から出てきて… 中将さまを… 
海の底へ、さらってしまったんだそうです!」
あまりのショックに、崩れ折れる瀬織。
「私のせいだ… 私がバカなお願いしたから… 龍神ですって?」
ということは、今ごろは竜宮城か。


この後、瀬織はとんでもない行動力を発揮した。
牛車を用意させ、下女をひとり連れただけで、
海まで遠征したのである。
もちろん、中将を救出するつもりだった。

しかし。
「竜宮城に行く!」
と、海に入ろうとしたところを、下女が必死に止めた。

結局、中将は見つからなかった。
絶望に打ちひしがれ、瀬織は都に帰ってきた。
このときの無理がたたって、子は流れてしまった。


もちろん、中将は竜宮城なんかにいない。
もう1人の、女のところにいたのだ。
本命ではなかった瀬織に、子ができたと聞いたとたん、
重苦しい気分になった。
瀬織と手を切る方法をあれこれ考え、その結果、
「龍神にさらわれた」なんて話をでっちあげた。

「あの女は純粋だ… もしかしたら、ほんとに
『竜宮城にいく!』なんて言いだして、うまい
ぐあいに入水してくれるかもしれない…」
酒の席で、かわいがってる部下の若者に、そんな話をした。

この若者は、優柔不断でボ〜ッとしているが、歌作りの才があり、
中将が女に送る歌を代筆したりして、信頼を得ていた。
そんなボ〜ッとした若者でも、今回の仕打ちは
あまりにひどすぎるよう感じる。
中将も、多少は良心がとがめるようで、こんな歌を詠んだ。

さむしろに 衣かたしき 今宵(こよい)もや
我を待つらん 宇治の橋姫

(むしろの上に、さびしく独り寝をして、今夜もまた、
宇治の橋姫は私を待っているのだろうなあ…)

「宇治の橋姫」とは、宇治橋のたもとに祀られた女神で、
本名を「瀬織津姫(せおりつひめ)」という。
瀬織と、たまたまいっしょの名前なので、彼女のことを
「宇治の橋姫」と、雅やかに呼んでみたのである。
この歌を聞いて、部下の若者は涙を流した。


しかし、いつまでも、隠しつづけることはできない。
中将をしのんで泣き暮らした、3年の月日の後… 
ついに瀬織は、真相を知ってしまった。
弘仁14年(西暦823年)のことである。

瀬織は、下人に命じ、牛車の用意をさせた。
「貴船神社へ行ってください」
ささやくような声で、天使のような笑顔で命じる。

深夜、丑(うし)の刻(午前1〜3時)、貴船神社の
長い石段を、瀬織は登っていく。
これが日本最初の「丑の刻参り(うしのこくまいり)」である。
このころはまだ、ワラ人形や五寸釘はなく、文字通り
「丑の刻」に、お参りするだけ。

※注意! 現在、貴船神社の境内で「丑の刻参り」を行うと、
犯罪行為になります! 神社は大変迷惑しておりますので、
決してマネをしないでください!
貴船神社 公式サイト http://kyoto.kibune.or.jp/jinja/

瀬織はなぜ、こんな真夜中に参詣するのか。
それは、決して人に知られてはならない、
恐ろしい祈願をするためである。
「あの男を、地獄に落として… それがかなわぬなら、
私を鬼に変えてほしいのです…」
風に消え入るような、優しいささやき声であった。

お告げがあった。
いや、瀬織の狂った脳が生み出した、幻聴だったかもしれない。
「髪を五つに分け、松ヤニで固め角を作り、その先に火を灯せ…
鉄輪(かんなわ)をかぶり、火のついた松明を口にくわえ、
宇治川に22日のあいだ、つかるのだ」

天使のように、瀬織は微笑んだ。
「そうすれば… 鬼になれますのね」
日本のヤンデレの歴史、ここに始まる。


22日後の夜。
中将は女とまぐわった後、いびきをかいて寝ていた。
「んん… 何の音?」
雨漏りのような音で、目が覚めた。

髪から着物からポタポタと、水滴をしたたらせ、
見覚えのある女が立っている。
「中将さま… 七尋のワカメが、見つかりましたの…」
ささやくような優しい声、天使のような無垢な笑顔。

「お、お前… 瀬織か? ズブ濡れじゃないか、一体… 
あ、ああ、すまなかったね。つい最近、竜宮城から
戻ってこれたんだ。お前に真っ先に、会いに行き…」
「嘘だッッッッッ!!!」
突如ブチ切れた瀬織の叫びに、中将は縮みあがる。

瀬織が着物を脱ぐと、白装束が下から現れ… 
変化はそれだけではない。
頭に鉄輪をかぶり、松ヤニで髪を固めた角の先には火が灯り、
目の釣り上がったすさまじい形相…
「ヒイイイィィッ!!」
中将と女は、その姿を見ただけで失禁し、体が麻痺してしまった。

「ワカメ… 採ってきてくれるって、言ったよね… 
イッタヨネエエエェェーッ!!!!」
濡れた髪の毛で、中将の首を締め上げる。
「ぐお… グォオオオオーッ」
「これが七尋のワカメだよオオオォーッッ!!!!」


翌日、中将と女の死体が発見された。
床は濡れ、2人の遺体は、この世のものと
思えぬ恐怖の表情を浮かべている。
死因は、ショック死らしかった。
部屋の外はまったく濡れていないので、検死に
あたった役人たちも、首をひねるばかり。

中将の部下の若者は、瀬織も宇治川に向かった
きり行方不明になったと聞いて、これは瀬織の
呪詛(じゅそ)のせいだと確信した。
男と女とは、なんと悲しいものなのだろうか…

すっかり世の中をはかなく感じた若者は職を辞し、
つきあっていた恋人とも別れ、出家した。
そして宇治に隠棲すると、宇治川に消えた
女を弔って、日々を送るのである。
名を、「喜撰」と変えて…



暗闇の中、宇治川のほとりで、喜撰と女は肌を重ねた。
「ありがとう… あなたの気持ちは、決して忘れません…」
星だけが、幽明の境を越えた、2人の逢瀬を見下ろしていた。

「さようなら… 私のために、世を捨てた方…」
明け方、女は消えていた。
川の方で、何かが水に飛びこむ音がしたので
急いで行ってみると…
1匹の蛇が、水面を泳ぎ去っていく。

喜撰は、引き上げた骨を塚に埋め、念入りに弔った。
不思議な因縁で結ばれた2人は、来世でもめぐり会うことになる。
すなわち、熊野の真砂集落の庄司清重と
その妻となる沙織である。