小町草紙(一)





10、 蟹の恩返し




承和8年(西暦841年)は、まだ続く。

京都のずっと南、奈良に近いあたりに
綺田(かばた)の集落がある。
7世紀後半、ここに大きな寺院が建てられたが、
誰がなんのために建てた寺か、はっきりしない。
今や、朽ち果てた伽藍(がらん)は集落の人々の住居となり… 
ただひとつ2m40pを超すジャンボな金銅製の釈迦如来(しゃか
にょらい)坐像だけが、失われた巨大寺院の遺物として、
小さな集落に不似合いなほどの、存在感を放っている。

集落の西を流れる木津川で、根黒衆(ネグロス)の
甲羅丸は、沢蟹を捕っていた。
彼の秘術「白骨供養」に使うためのもので
この辺りで、質のいいのが捕れるのだ。

「その蟹を食べるのでしょう? 放してやっていただけませんか」
振り向くと、愛らしいが芯の強そうな娘が立っている。
「商売道具だし、そういうわけにもいかねえな」
「お金なら、差し上げますから… 殺生はおやめ
ください。観音さまが見てらっしゃいます」

甲羅丸は、さげすむような笑みを浮かべた。
「蟹ってのはな、小魚を食うんだぜ、娘さんよ。
今こいつらを放せば、川の中で何百何千という
小魚を殺すことになるが、どうするよ?」

「う… そ、それは…」
「情け深いのもけっこうだが、深い思案もなしに、
感情のまま行動するのは良くねえな」
甲羅丸のことを卑しい川漁師か何かと思っていたようだが、
思いもかけず諭されてしまい、娘は、しゅんとうなだれた。

「じゃあな」
甲羅丸が立ち上がると、ビクから1匹の
蟹が落ちて、ちょこちょこと走る。
娘はタックルでもするように、両手で蟹を捕まえると
「よかったですね。あなただけでも助けてあげます」
愛おしそうに指でつついて、川に放してやった。

甲羅丸は、思わず苦笑して
「蟹が気持ち悪くないのかい?」
「どうして? かわいいじゃないですか」
人間を一切信用せず、おのれが飼いならした
蟹どもを唯一の友として育った男。
それが甲羅丸である。

その友である蟹に、ここまでの愛情を注ぐ娘に
つい心が和んでしまった。
「仕方のねえ娘さんだ…」
ビクにみっちりと入った沢蟹を、すべて川に放す。
「うわー! ありがとうございます!」
感激した娘は、甲羅丸の手を握り、何度も礼を言った。


住職もいない荒れ果てたお堂に、圧倒的な
迫力の金銅仏が鎮座している。
先ほどの娘が堂内を掃き清め、線香を供えた。
「お釈迦さま、今日はたくさんの小さな命を助けました。
でも… 川の小魚たちは、今ごろ…」

甲羅丸は、天井裏から、それを見ていた。
(村の長者の娘か… どおりで、品がいいわけだ)
娘はこれまで、ただ単純に「生き物を殺す=悪いこと」
「生き物を助ける=良いこと」という図式でしか考えてこな
かったが、甲羅丸の言葉によって、疑問が生じたようだ。

(殺すことが助けることになり、助けることが殺すことになる…)
そんな世界があることを、この純粋な
お嬢さんにわかってもらえるだろうか。
もう少し、娘を見守ってみることにした。



娘の父もまた、科学的知識に基づかない、
誤った感情的動物愛護主義者だった。
林の中で、蛇が蛙を捕食しようとしてる場面に遭遇、
あわてて蛇の前に飛びこんだ。
「蛇さん、たのむ! 蛙さんを助けてやってくれ! 
わしの娘をやるから!」

蛙は逃げてしまい、蛇は鎌首をもち上げ警戒する。
「親がいうのもなんだが、美しい娘だぞ」
しばらくの間、蛇は長者とにらみ合っていたが、
やがて去っていった。


夕食の時、長者は娘に
「実は、こんなことがあったんだよワハハハハ」
「まあ、お父さまったら」
蛙を助けたのはグッジョブだが、この父は生き物を助けるたびに
「娘をやるから!」なんて約束してるのだろうか。

(お父さまにとって、私の存在って、なんなんだろう…)
複雑の思いの娘だったが、父にしても、本気で
動物が娘をもらいに来るとは思ってない。
が、しかし。

「こんばんわー。お嬢さまをいただきに参りました」

訪ねてきたのは、20代くらいの青年… 
長く伸びた髪、刃物のように鋭い尊大な目つき、
荒々しい美貌… 明らかに、カタギの人間ではではない。
「なんだね、いったい、お前さんは」
「蛇さんでーす」

ガチョーン! と、のけぞってしまう父、
まさしく想定外の事態が発生したのだ。
「う…」
「あんた… 約束したよな?」
「うう… わ、わかった。だが、3日だけ待ってくれ。
嫁入り支度をしなくては…」
「よし。3日後に、釈迦堂で待っている」

青年が帰った後、娘はワーッと、泣きふした。
「お父さま、ひどい! どうして私が蛇なんかと… 
どうして蛙なんか助けたのよ!?」
「ああ、こんなことになるとは… どうしたものか、困った困った」

屋根裏から見下ろしている甲羅丸は、悲しくなった。
これが、この連中の正体… 生き物に対する
慈悲も、しょせんは自分に酔っているだけ。
「生き物を守ってあげる私って、なんて慈悲深くて良い人なの!」
という自己満足。
こいつらがどうなろうと、俺の知ったことか。



3日が過ぎた。
甲羅丸は、綺田の集落より少し上流で、沢蟹をとっていた。
(いよいよ今日か… あいつが相手じゃ、長者も何をしてもムダ…)
1匹の蟹をつまみ上げ、考えこむ。

脳裏に浮かぶのは、こぼれた蟹を必死につかんで、
愛おしそうにつついてる娘の姿…
「何を考えてるんだ、俺は… 根黒衆の甲羅丸
ともあろう者が、何をバカな…」
愚かな娘… あの娘は、生き物たちのいったい
何を知っているというのだろう。
生き物が他の生き物を食らうのも、天が定めた
生き物の道だというのに。
でも…


「む… おぬし、甲羅丸ではないか」
釈迦堂で待ち受ける男は、意外そうな顔をした。
「蛇骨。なぜこんなマネをするのだ」
いや、自分こそなぜ、こんなことを… 
甲羅丸は結局、ここに来てしまった。

「ここの長者の娘を「嫁」にしようと、ひっさらう機会を
うかがっていたが… 長者が、俺の蛇に向かって、
おもしろいことを言いやがるんでな」
凄みのある美しい顔に、笑みを浮かべる青年。
見れば確かに、その首にはマフラーのように
蛇がからみついている。

「蛇に餌を食うなとは、蛇に死ねというのと同じ! 
観音の慈悲か何か知らぬが、そんな理不尽を
言うあのジジイを、こらしめてやろうと思うのだ」
甲羅丸が蟹を友と思っているように、蛇骨にとっても
蛇は大切なパートナー、その蛇に向かって「死ね」と
言うに等しい暴言、見逃すことはできない。

「おぬしの言うことは、実にもっともだ」
「そうだろう」
「しかし、そこを曲げて、あの父子を許してやってもらえまいか」
「なに」

突き刺すような視線が、甲羅丸を射抜く。
「おぬし… 惚れたな」
「……」
「おぬしはすでに、「嫁」がおろうが! なぜ俺の獲物を奪うか!」
「いや、そうではない。あの娘を… 
このまま平和に、一生を送らせてやりたいのだ」

蛇骨は、蛇のマフラーをほどいた。
「私情で動く者は許さない… 根黒衆の掟、承知しておるな?」
蛇を投げつける。
「ッ!!」
甲羅丸の顔の、ちょうど目の位置に巻きついた蛇、
意表をついた目隠しである。

電光のスピードでつっこむ蛇骨の手に、
「目打ち」というキリのような凶器が。
ガキイィッと、心臓に打ちこんだ目打ちの先端が、
何か固い物に阻まれた。
「ぬッ!?」

抜いてみると、1匹の沢蟹が刺さっている。
甲羅丸の背中にビッチリ張りついていた蟹どもが、
それぞれ移動して、急所をカバーしているのだ。

顔に巻きついた蛇も、たちまち蟹が群がって、ズタズタに切断。
「掟破りは承知の上! たのむ、蛇骨… さもなくば、お前を…」
甲羅丸の手にも、奇妙な恐ろしい道具が。
現在「カニコンパス」という名で売られる彫金の道具で、蟹の
ハサミのような、2本の湾曲した太い針のついたコンパス… 
これで目や喉笛をえぐられたら、ひとたまりもない。

しかし蛇骨のスピードは、甲羅丸の反応を上回った。
蛇が獲物に飛びかかるように、全身を
バネにして、甲羅丸にからみつく。
背後に回って、7秒で失神する必殺の
チョークスリーパーホールド!
蟹どもが蛇骨に群がってくるが、いかんせん
動きが遅く、間に合わない。
たちまち、白目をむく甲羅丸。

最期の瞬間、蛇骨の腕に、指で文字を書く。
「俺の命と引きかえに、あのむすめを」
ボキイィッ
首が折れた。

床に転がる死体を見下ろし、苦い顔をする。
「ち… 興が冷めたわ」
闇に溶けこむように、消えていく蛇骨。
冷たくなった体から離れていく甲羅丸の魂は
蟹どもに最後の指令を下す。

蟹は死体に群がり、30分ほどで白骨に変える。
けなげに働いた蟹どもは、オーバーワークのため、
次々と骨の周りに転がり、息絶える。
2.4mの釈迦如来坐像だけが、それを見下ろしていた。


釈迦堂の周囲では、村人が焼打ちの準備をして
取り巻いていたが、人の気配がしないので中を
のぞいてみると、誰のものかわからぬ白骨と
1匹の蛇、無数の蟹の死骸が転がっていた。

「これはいったい、どうしたことなのだ?」
「あ! この蟹は…」
長者の娘には、思い当たることがあった。

「私を助けに来てくれたの…? 蛇と戦ってくれたの?」
蛇と蟹の死骸を交互に見ているうち、涙がこぼれてきた。
長者と娘は、蛇・蟹・人骨を手厚く葬り、新たに観音堂を建立して、
恩人の魂の平安を祈った。
これが、蟹満寺(かにまんじ)の起源である。

蟹満寺 観光サイト 
http://www.city.kizugawa.lg.jp/article.php?id=435&f=275&t=cat

静かな住宅地にある、こじんまりとした蟹満寺。
白鳳時代の釈迦如来坐像だけが、小さな寺に
不釣合いな、異様な存在感を放っている。