小町草紙(一)





9、 再会




承和7年(西暦840年)、5月8日。
「淳和院」でのんびりと暮らしていた、淳和上皇が崩御。
「葬儀は、できるだけ簡略に。骨を砕いて、山にまいてほしい… 
私が鬼となって、祟らないように」

祟るほどの、恨みや無念があったのだろうか。
意味深な言葉を、没する前に残した上皇だった。



この年、円仁の弟子の湛慶(たんけい)が1人、唐から帰国。
円仁は長安めざして出発した後、行方不明となり、
湛慶は責任を感じていた。
「ああ… やはり、私も長安まで、お供すべきだった…」
17才の少年僧は、後悔の念にかられるあまり、
自分を罰するような厳しい修行に打ちこむ。

「おい、湛慶! もう、やめろ! 無茶しやがって、こいつ…」
先輩たちに介抱され、ぼんやりとした意識の中で… 
静かに告げる声があった。
「そなたは、いつの日か、女人に溺れることになる」
「なにッ?」

ガバッと起き上がると、手当たりしだい、先輩につかみかかる。
「誰です、そんなこと言うのは! 私が女に溺れるだと!?」
「うわっ よせ、湛慶! 誰も何も言ってない!」
「…じゃあ、今の声は… いったい…」



丹波の亀岡では、真砂と武弘の、新しい生活が始まっていた。
2人はもはや、形だけの夫婦だった。
真砂は夫に対し、軽蔑しか感じない。
武弘は妻といると、ただただ自分がみじめに感じられた。

真砂は生涯、ただ1人を除き、レイプ事件の
ことは誰にも一切話さなかった。
その1人の例外というのは、亀岡のある大寺の住職で、
真砂は胸の奥にたまったものを吐き出すように、
嗚咽しながら、ありのまま全てを話した。

この住職が真砂の話を記録したことから、後に「今昔物語集」
に収録され、さらに時代が下って芥川龍之介が、これを題材に
「藪の中」という小説を書く。
これを黒澤明監督が映画化したのが、名作「羅生門」であり、
日本映画として初めて、ヴェネチア国際映画祭グランプリ
(金獅子賞)を受賞。

映画で多襄丸を演じるのは、若き日の三船敏郎。
「日本魔史」での多襄丸は、どちらかというと
夏八木勲さんですかねー。
ああいう髭の剃り跡が濃い感じの、男くさい
俳優さんは最近少なくなりましたねー。
かんたんに飼いならせる小動物みたいな
男優さんばかりで、TVも映画もつまらんねー。

「その男が憎いか? 殺したいほどに… 憎いかな?」
住職が、真砂の目をじっと見て、とんでもない話を始めた。
金で殺しを請け負ってくれる、「外道人」という商売がある。
「外道人…」
「ただ謝礼は… それなりの金子(きんす)が必要ですぞ」

その日以来、夏八木勲、じゃなくて多襄丸に復讐するため、
ひたすら金をためるのが、真砂の生きがいとなった。
「この壺いっぱいに、銭がたまった時… 
あんたのお命、終わります…」
映画では若き日の京マチ子が、真砂を演じている。


その多襄丸も今、亀岡に潜伏している。
「お頭… 紅蓮(ぐれん)以下7名、ただ今
ご当地に着きましてございます」
「おう、お前ら。よく来たな… まずは、ゆっくり体を休めろ。
紅蓮、こいや。かわいがってやるぜ」

紅蓮というのは、16才になる細面の、ぞっとするような美少女で、
長いまつ毛のかかる左目の下に、ほくろがある。
実は3年前まで、中務大輔の邸、つまり曠野の
家に住みこみで働く童女だった。

主人の死後、邸は荒れ果て、使用人が次々とやめていく中、
この童女は最後まで1人残った。
行くところもないのだが、何より、優しくて美しい曠野は、
童女のあこがれであり、敬愛していた。

「お前に食べさせる米も着物も、もうないのです… 
このままでは、お前を飢えさせてしまう。
どうか、新しい奉公先を見つけておくれ。
今まで、ほんとうにありがとう…」

こう言われて、泣く泣く出てきたが、さてどうしようと、
都の大路をうろつていると…
「お前、きれいな顔してるな…」

声をかけてきたのは、多襄丸である。
はじめは人買いに売り飛ばすつもりだったが、話を聞いて
みると、自分らが殺した中務大輔の使用人で、主人が亡く
なった後も、最後まで残って娘の世話をしていたが、もう
限界… と、涙ながらに語るので、ふびんになってきた。

罪滅ぼしの気持ちもあって、「紅蓮」と名づけて
養女にするが、やがて男女の仲に。
さらに、しばらく生活をともにするうち、「紅蓮」には生まれ
ついての度胸があって、頭の回転が速く、身が軽く、
盗人としての才覚に恵まれていることがわかった。

「こいつは… 俺の跡取りにするために、神さまが
よこして下すったにちがいねえ」

こうして盗賊の情婦&跡取り候補として、悪のエリート教育を
受け始めた紅蓮だが、ひとつ気になることがあった。
もちろん、曠野の行く末である。

手下に邸を探ってもらい、甲賀郡の郡司の家に
嫁いだことがわかった。
「貴族の娘だったあの方が、郡司のせがれなどに… 
でもまあ、これで飢えることもありますまい」

とりあえず、「困窮して飢え死に」という最悪の事態は
避けられたようだが、いつか甲賀まで行って、どんな
暮らしをしているか、確かめなくては…
「曠野さま… どうか、幸せになってくださいまし…」
悪に染まっていく紅蓮の中で、曠野を思いやる心
だけが、唯一残された純粋さであった。



「これは、まあ、なんと…」
エロティックな観音像だろうと、太皇太后・橘嘉智子は息を飲んだ。
嘉智子の体の奥から匂い立つ、官能の埋み火を
みごとに表現している。
それでいて高貴で、慈愛にあふれ… 
それはまさしく、仏の姿で表現された
「愛の女神」であり、「大地の女神」であった。

この「如意輪観音像」は、河内長野の観心寺の
本尊となり、後に国宝に指定される。
毎年4月17日・18日しか公開されないので、
拝観するには行列覚悟!

闇黒仏師は、かなりの報酬を受け取ったが、
ほとんどを恵まれない人々に分け与えた。
特に、外道人として仕留めた犠牲者の遺児や未亡人には、
じゅうぶん暮らしていけるだけの金銀を。

「おっちゃん、こわい顔して、いい奴だなもす」
かる女も、今ではすっかりなついている。



翌、承和8年(西暦841年)。

近江の国に、新しい国司が着任した。
ひと通り業務の引継ぎが終わると、国内の視察に出発する。
「甲賀にも、いらっしゃるそうだ。やれ、これは大変」
ということで、郡司の館も準備に大わらわとなった。

大掃除、庭の手入れ、酒器や食器の仕度、
贈り物の用意、警護の手配。
曠野も下女同然の扱いで、髪をアップし、手伝いにかり出される。
(高貴な女性は髪を垂らし、働く女=身分の低い女は、髪を上げる)
郡司の家に嫁ぐだけでも屈辱なのに、本妻どころか
妾にすらなれず、下女としてこき使われる。
死にたいほどの辱めだが、すでに曠野の心はマヒしていた。

そうしているうち、国司が到着。
まだ若いが、キビキビした有能そうな男だ。
国司で終わることなく、まだまだ出世するだろう。
「さ、どうぞ、こちらへ… 宴の用意をしてあります」

館中の女が総動員で、接待をする。
曠野も下女に混じって、食器の上げ下げをした。
その姿が国司の目にとまり、
「ほう… あの女、やけに物腰が優雅で、気品があるな… 
どういう素性の女だろう? こんな山深い地で育った
ようには、とても見えないが」

「あれは、せがれが京で拾ってきた女でございます。
やはり立ち居ふるまいに、都ぶりが出るのでございましょう。
よろしければ、今夜、ご寝所に…」
「うむ。ぜひ、お願いしたい」
「そうだ。あの女をお召しになるなら、ひとつ、
おもしろい趣向がございます」
郡司は単なるサービス精神から、そのアイデアを
思いついたのであるが…


曠野は今や、単なる下女ですらなく、郡司の意思ひとつで
見知らぬ男に体を与えねばならない、遊女も同然の身分。
「私、どこまで堕ちるんだろう」
もはや悲しみを通りこして、ケタケタ笑うしかない曠野。

だが、単なる遊女ですらない… 
さらにまだ、落ちるところがあった。
座敷には、海牛道人が控えていた。
「これより… 女体蛞蝓責めの秘術をご覧に入れまする」
もう、どうなってもいい… 私なんか、どうなってもいいんだ…

白い裸身を蛞蝓が這い回り、いつものように
曠野は、身をよじって悶え狂った。
いや、若い国司が目をギラギラさせ、興奮しながら
見学しているぶん、いつも以上に背徳の快感が
全身をかけめぐる。

曠野が、女の体から出るあらゆる液体を垂れ流して
全身がヌチャヌチャになったころ、ついに国司は我慢の
リミッターが切れて、蛞蝓と交替することになった。
「どうぞ、ごゆるりと…」
曠野におおいかぶさって、獣のように腰を
動かす国司を残し、郡司と道人は退出。


明け方の光が差すころ、国司は全身の精を
出しきってカラカラになっていた。
「いや、これほど興奮したのは、生まれて初めて… 
そなた、顔をよく見せてくれないか」

曠野は、全裸で乱れ髪のまま、もうろうとしていたが…
男が自分を、じっと見下ろしているのに気がついた。
「そなた… どこかで、出会ったことはないか?」

目を見開き、朝の光の中、至近距離で男の顔を見ると…
それは、かつての夫… 藤原恒輔。
「だめ…」

曠野の中で、何かがマグマのように湧き上がってきた。
それは、恐怖… 世界を消滅させ、もう1度リセット
しない限り、逃れることのできない恐怖…
「思い出してはダメエエエエーッ!!!」

その悲痛な叫びに圧倒されながらも、恒輔の
記憶はよみがえってしまった。
「あ… ら… の…?」
恒輔との思い出、恒輔の愛情だけが、曠野の中で、
決して汚されることのない大切な宝物だった。
しかし、それも今、粉々に打ち砕かれた。

「曠野おおおおおーッ なぜだあああッ なぜ、こんな
ところにいる!? なぜ、こんな目に… ううううう… 
うおおおおおおおッ」
恒輔は号泣し、かつての妻を抱きしめた。
「すまない、すまない… 俺のせいだ… 許してくれ…」

恒輔は、今になってようやく気がついた。
自分が、この妻をどんなに愛していたか… 
自分の心にぽっかり空いた穴が、何だったのか…
「お前を連れていく! 都へ連れていく! 
誰にも邪魔させん、お前は俺の妻だ…
おい、曠野… 曠野? 曠野、どうしたんだ、おい」

体を離してみると、曠野は目を見開いて、
じっとこちらを見つめている。
その顔は死に顔であり、体は冷たかった。
舌を噛んだわけでも、毒を飲んだわけでもない。
もはや恥辱の限界点に達し、自ら生存することを止めた… 
意志の力で、心臓を止めたのである。

恒輔はしばらく、妻の亡骸とともにぼうぜんとしていたが、
やがて復讐の炎が燃え上がる。
「おのれええええッ 郡司どもおおお!」

郡司、小三郎、その本妻、海牛道人を呼び出し、
激しく糾弾したが、結局はっきりしたのは、
1、自分が最初に曠野を見捨てたのが、そもそもの原因である。
2、曠野が陵辱される姿を見て喜び、最後に
トドメを刺したのも自分である。


国府へと帰る途中、瀬田大橋の上から、恒輔は
身を投げ、2度と浮かんでこなかった。