小町草紙(一)





6、 しのぶのみだれ




承和5年(西暦838年)、続き。

最後の遣唐使が出航。
天台宗に本格的な密教の導入をめざす円仁(えんにん、45才)、
3度目のチャレンジで、ようやく唐に渡ることができた。
「ここが唐… 夢にまで見た唐…」

「円仁さま! 日付が日本と同じですよ!」
宿を世話してくれた地元の人と筆談し、お供の少年僧が叫ぶ。
「当たり前じゃないか、湛慶(たんけい)。
日本は唐と、同じ暦を使ってるんだから」
今年15才になる弟子の湛慶は、円仁の世話をするため
ついてきたが、後に円仁が長安めざして出発する時、
危険だということで、先に日本に帰されている。

「おーい。日本人が泊ってる家はここかい」
野太い、まのびした声とともに、一目見たら
忘れられない強烈なオヤジが入ってきた。
上半身裸で、ぼよ〜んと突き出た超メタボな腹。
ハゲ上がった頭に、ニコニコ顔。
大きなズタ袋を背負っている。

「朋友! 遠路はるばる、よく来たな〜」
あり余る肉をタプンタプンさせながら、円仁にハグ。
「…あんた、だれ?」
「お前らと同じ坊主だよ。腹すいたろ、これ食え」
袋から、まんじゅうや月餅、チャーシューの塊
などを取り出し、並べる。

「僧侶だと? そんなかっこうで? しかもこんな生臭ものまで…」
「俺はいつも、この袋をもち歩いてるんで、布袋(ほてい)
って呼ばれてるんだ。よろしくな」
七福神で唯一実在の人物、布袋さまは、
この時代の唐の僧侶である。
しかし、見るからに怪しい雰囲気に、あまり
関わりたくないと思う円仁であった。



半年くらいの間、恒輔は約束どおり、週1で通ってきた。
しかし、新しい妻への愛情が深まるにつれ、しだいに
間隔が伸びていき、10月にハレー彗星が夜空を彩る
ころには、すっかり現れなくなった。

かわりに、怪しい老尼僧が、荒れ果てた邸に住み着いた。
尼は、家賃がわりに米や果物を曠野に届け、
おかげで曠野は餓死せずにすんだ。
尼の正体は死水尼であり、邸を勝手に外道人の
アジトとして使用することもあった。

「ここは、お前が殺めた大輔の邸よ」
「なに? では、あの娘御が大輔の… 
申し訳ないことをした。 なんとかしてやれぬか」
時折見かける曠野の姿に、黒太郎の心は痛んだ。
「うむ、わしも気の毒に思ってな。いい婿を
見つけてやれれば、と思うのだが…」
殺しの斡旋を生業としているくせに、意外に親切な死水尼である。

「まだあんなに若くてきれいだし、嫁にほしい男は、きっといる。
ただ、あの娘な… なんというか、こう… 
心を閉ざしてしまっておる」
なんとしても、曠野だけは幸せにしてやらねば… 
心に誓う黒太郎。

黒太郎は死水尼の命令で、すでに何人かの命を奪っていた。
殺しの仕事のない時は、「闇黒(あんこく)仏師」と名乗り、
ひたすら御仏を刻む。
人を殺め、その罪の深さに苦悩すればするほど、
彫り上げる像は、完成度の高いものになった。
犠牲者の魂の安らかなること、己の罪の救済… 
一刀一刀が、黒太郎の祈りであった。



承和6年(西暦839年)。

昨年ハレー彗星が観測されたばかりだというのに、
この2月にも、新たな彗星が出現。
14才になった吉子は、めずらしく庭に出て、ほうき星を見ていた。
純粋な日本人とは思えない、綿菓子のように
柔らかなウェーブの、茶金色の髪。
東北地方には時折、金髪や青い瞳の日本人が生まれるというが…

顔立ちもまた、ちょっとフランス映画の女優っぽい。
二重のくっきりした目、プライドの高そうな眉。
その表情はいつも不機嫌そうで、攻撃的。
この時代の美女の基準からは遠く外れているが、
見る者に強い印象を与える顔だった。

「お星さま。私は今日、姉さまに言ってやりました。
もう14才だし、1人で寝るって」
実は3日前、姉から
「よっちゃん、あのね。もう14才だし、夜は別々に
寝た方がいいと思うの」
と言われ、天が落ちてくるようなショックを受けた。

「姉さま、男から文をもらったんだよね… 
もう19だし、男、欲しいよね…」
「よっちゃん、そんなイヤラシイ言い方…」
どよどよした怨念のオーラを発しながら吉子は、
涙にぬれた目で、姉をにらんだ。
「姉さま… 容姿は私より上かもしれないけど、
歌を詠むのは私の方がうまいんだからね!」
「それとこれと、なんの関係が…」

姉の要請を無視して、それ以降の夜も、
姉の寝床にもぐりこむ吉子であった。
(姉さまに男ができるなんて… 絶対許さない…)
姉の操は日に日に美しさを増し、見なれている
はずの吉子でさえ、クラクラするほどだった。
しかし、いくら大好きとはいえ、いつまでも
自分が独占するわけにもいかない…
姉さまの幸せも考えてあげなくちゃ… 
ということで、今日あらためて吉子の方から、
「1人で寝る」宣言をしたのだが…

垣根の外に、牛車が止まってるのに気がついた。
あわてて顔を隠すが、ウネウネした髪は隠しようがない。
姉の恋人だろうか。
しかし車は女物で、しかもやたら豪華である。

「隠さないで… もっとよく、顔を見せて」
優しい、しかし強さが底にある、女の声だった。
われしらず、吉子は無防備に、牛車に近づいていく。
「美しい… なんて美しいの、あなたのお顔」

「え…」
思わずほおを染める吉子、胸がドキドキする。
「そんな… 髪だって、こんなだし…」
「そうね。男の人にはモテないかもね。でも、あなたの顔は… 
この国で初めて、男に頼らずに自分の足でしっかりと立つ、
そんな女の美しさがあるの」

牛車は、去っていった。
吉子は真っ赤な顔で、姉の寝床にもぐりこんだ。
「私、美しいって言われちゃった…」
「えっ!? よっちゃん、いったい誰と…」

目をうるませ、日ごろ見せないような笑顔を浮かべた
吉子は確かに、匂い立つような美少女だった。
操は、思わず妹を抱きしめ、
「ダメ! よっちゃんに恋人ができるなんて! 絶対許さない!」
「もう、しょうがないなー。姉さまが大人になるまで
いっしょに寝てあげるか」



大和の石上集落はこの日、珍しく華やいだムードである。
「ちい皇子さまも、ようやく元服か…」
村人たちから「皇子(みこ)さま」と慕われてる、在原の兄弟。
兄は7年前に元服、行平(ゆきひら)を名乗り、
そして今日は弟の番である。

祝いの宴には、村人全員が招かれた。
11才になる櫟丸(いちいまる)は、久しぶりに
なず菜の姿を見かけた。
「や…」
軽く目を伏せてあいさつしたが、それきりだった。

小さいころは、あんなに仲が良くて、いっしょに遊んだのに…
最近はほとんど、口もきいてない。
井戸でばったり出会うことがあるが、お互い
そそくさと用を済ませて帰る。
どちらも、異性といっしょにいるのが恥ずかしい年ごろだった。

「ちい皇子さま」は、業平(なりひら)という名をもらった。
成人の記念に、奈良の春日野へ狩りに出かけることに。
「櫟丸、いっしょに来るか?」
「はい! ちい皇子さま」


道中、馬の上から業平が、
「なず菜とケンカでもしたのか?」
「いえ、そんな… 女といても、つまらないだけです… 
女なんて、何がいいのかな?」
さわやかな笑みが、業平の顔に浮かぶ。
「お前はまだガキなんだよ… あ、鹿のフンふむなよ」


奈良の小役人の家では、姉妹がピクニックに
出かける仕度をしていた。
「清乃、お弁当の用意できた?」
「清乃、敷物も忘れずにね」
今年12才の清乃は相変わらず、こき使われている。

父譲りの邪悪な血が流れる清乃は時折、鎌を手に
この一家皆殺しにしてやろうか…
などと考えるが、なんとか自分を抑えている。
「清乃が美人だから、ねたんでるんだよ。姉ちゃんたち」
今年5才になる末の妹だけは、優しくかわいい。

「美人…」
手桶の水に映る、ほつれた髪の猫っぽい顔を見つめる。
私、きれいなんだろうか?
世界のどこかで私だけを待っていてくれる、
運命の人と出会えるのだろうか?


現在は奈良公園の一部となっている春日野で、
ピクニックしている美人姉妹を、業平は見た。
「きれいな人たちだな…」
今まで何度か、美しい女性を見て、心をときめかせたことはある。
しかし歌を送ってナンパするほど、本気で引かれたことはない。

業平は、狩装束のすそを切り裂いて、さらさらと歌を書いた。
「よし…」
歌人・在原業平のデビュー作である。

春日野の 若紫の すりごろも 
しのぶのみだれ かぎり知られず


しのぶ=「しのぶずり」、「しのぶもちずり」ともいう。
福島県信夫(しのぶ)郡で生産される、天然草木染の絹織物。
いろんな色彩が乱れて混じりあう感じが、
とてもオーガニックでナチュラルなフレーバー。
もちろん、「忍ぶ」と掛詞になってるの。

「この布のしのぶ染めの色のように、私の恋を
忍ぶ心は乱れて、限り知れないほど」
といったような意味かしらね。
この歌を櫟丸に託し、櫟丸は清乃に渡し、
清乃は主人である姉妹に届けた。
キャーッと、布切れのメッセージを見た姉妹は、歓声を上げる。

(いいな… 私もあんな貴公子みたいな人から、歌をもらえたら…)
かなうはずもない夢を見る清乃。
業平はとりあえず、笑われもせず、喜んで
くれてるようなのでホッとした。

櫟丸が戻ってきて、長女からの返歌とともにメッセージを伝える。
「よし… 今夜か」
業平の目が、興奮に輝く。
それを見て、何がそんなに楽しいんだろう… 
と、理解に苦しむ櫟丸。


その夜、姉妹の家に忍んでいった業平は、長女と結ばれた。
業平にとって、初めての体験である。
単にスケベ心だけで、ワクワクしていたわけではない。
まるで盗人のようにこっそりと忍んでいき、美しい花を摘み取る。
このなんともいえないスリルが、彼の冒険心に火をつけたのだ。
以後、彼の人生において、いくどとなく
アドベンチャーな恋を経験することに…