小町草紙(一)





5、 曠野(あらの)




奈良を拠点に盗人働きをする黒太郎・黒次郎の兄弟にも、
人生の転機が訪れようとしていた。
以前、清乃を産んだ情婦がまた、黒次郎の子を出産。
またしても女の子だが、今回のお産は母親の命を奪ってしまう。

「さて、どうしたものかな、兄貴。おーよしよし…」
アジトで赤ん坊をあやしながら、黒次郎が困り果てていると、
「寺にでも、捨ててこい」
「え…」

黒次郎という男は、他人の命など屁とも思わないかわり、
身内には優しいところがあった。
盗人働きについても、手下を増やして、必要なら殺しも
する荒っぽい仕事をして、もっと派手に稼ごうじゃないか
と、兄に提案してきたが、その一方で、こました女や
生まれた子供を気づかう優しさをもっている。

その反対に兄の黒太郎は、決して殺しはしない、
貧乏人からは盗まないという盗人としてのモラルを
厳しく守る一方、身内には冷徹だった。
「仕事の足手まといになる… ここには置くな」

もの静かだが、底知れぬ恐ろしさを秘めた兄に、
黒次郎は逆らうことができなかった。
「盗人は至高の芸だ、決して血は流さねえ、なんて抜かしてる
くせによ… 本当の悪鬼てのは、兄貴のことだぜ。
この偽善者が… どうせ鬼になるなら、殺しだろうとなんだろうと、
片っ端から汚ねえことをやればいいものを」
結局、川原で暮らす人たちの部落に、赤ん坊を捨ててきた。


ちなみに、今年8才になる清乃は、大和国府に勤める
下っ端役人の家で、下女として働いている。
この家の14と12才になる娘たちは、ちょっと
意地悪な姉妹で、たびたび清乃をいじめた。
「今にきっと、神さまが罰を当ててくださるから… きっと…」
幼い清乃は、そう信じていた。

この年、この役人の家に、3人目の娘が誕生。
またしても、数奇な運命をもって生まれた娘である。



承和3年(西暦836年)。

中務大輔は、遣唐使に関わる用向きで、わずかな
従者と護衛を連れ、難波(なにわ)へと下った。
護衛のリーダーは、衛士の金沢武弘。
「大輔どの、怪しい奴が2人、つけて参ります… 
ここで斬りましょうか」
「2人、か… よし、罠にかけて生け捕りにしてやろう」


その夜の宿舎。
侵入した黒太郎・黒次郎の兄弟が、大輔一行の荷物を
あさっていると… パッと灯りがついた。
「観念しろ。お前ら、囲まれてるぞ」

「チッ」
警告を無視して、黒次郎が囲みを破ろうとする。
「逃がすな!」
武弘の号令で、武士たちが斬りかかる。

黒太郎が、すばやく動いた。
大輔の後ろに回り、押さえつけ、匕首(あいくち)をつきつける。
「動くな! 大輔の命はないぞ!」
弟を助けようと、とっさの行動だった。

「わしにかまうな! 曲者をとらえ…」
刃が、のどをかき切った。
噴き出す鮮血が、目くらましになる。
「た、大輔!」

金沢武弘は、ぼうぜんと立ちつくす。
盗人は消え去り、中務大輔の死体が血だまりに転がっていた。


兄弟は、命からがらアジトに帰りついた。
「兄貴、すまねえ…」
武弘の一太刀で額を割られ、黒次郎の顔と胸は血まみれだった。
「とうとう、やっちまった… 人を殺めてしまった…」
黒太郎の顔は、苦悩に満ちている。

「もう、盗人稼業もここまでだ」
「足を洗うってのか? 俺はどうすれば…」
「お前は、好きに生きろ。じゃあな、達者でな」
とうとう、黒次郎は1人になった。


「お父さまが…」
曠野の家に、中務大輔の訃報が届いた。
母はショックで倒れ、半年後には後を追うように他界する。



この年、左兵衛督(さひょうえ の かみ)を務める藤原
長良(ながら)に、三男の基経(もとつね)が誕生。
後に良房の養子となり、日本最初の関白に就任。

紀松永こと真済は、唐に留学しようとして、船が難破。
「死ぬかとオモタ… もう海イヤ。唐はあきらめる」
以後12年間、都の北西、高雄山の神護寺
(じんごじ)にこもって、修行の日々。



承和4年(西暦837年)。

曠野の家は、日に日に荒れていく。
父を亡くしたので、収入がない。
使用人の米や着物を買えないので、使用人は出て行くしかない。
元々古びた邸だったが、ほとんど廃屋のようになってしまった。

夫の恒輔は、どうしたのか?
まだ中級役人で、給料も多くはない。
実家には、養うべき老いた両親もいる。
もちろん、実家に「北の方」を設け、妻を
囲えるような身分には、ほど遠い。

それでも、恒輔は曠野の家に通い続けた。
「あなたの新しい着物をご用意するのも、難しくなって
まいりました… 私にかまわず、新しい奥さまを
見つけていただいて、よろしいのですよ」
「な、なんてこと言うんだ、お前…」

あまりにあっさりと言うので、ショックを受けたようだ。
「俺の方こそ、この家の維持費くらい出せなくて、
心苦しいと思っているのに。今の安月給では…」
「私、あきらめてますから…」
不幸が続いて曠野の心は、その名の通り、
冬の荒野のようだった。

「曠野が働けばいいじゃん」と、ツッコミたいあなた。
バカ! 平安時代に、貴族女性の
働き口なんて、ほとんどないのよ!!
ごめん… こんな言い方して…

「ともかく、そんなことは2度と言うな。俺の妻は、お前なのだから」
男らしく言い切った恒輔は、その後も毎日、曠野のもとへ。
曠野は心に、ぽっ… と、かすかな灯りがともったように感じた。



黒太郎はひたすら、仏像を刻む毎日だった。
自分が殺めた犠牲者の、慰霊のためである。
盗人時代から「仏師(ぶっし=仏像を彫る彫刻師)」を
表向きの稼業としていたし、手先が器用で天分も
あったので、できあがった作品はみごとだった。

「おぬし、人を殺めたな…」
彫り刀をもつ手が止まる。
見ると、お堂の片すみに、いつの間に
入りこんだのか、老いた尼僧が1人。

「見ていたぞ。のどを掻っ切って、血霧で目くらまし… 
殺しの才覚があるようじゃ。好きなんじゃろ? 殺すのが」
心の奥底を見透かされ、黒太郎は奈落へ落ちるような気がした。
確かに後悔の念だけでなく、ワクワクする
ような快感がうずいていた。

「おぬしを仕込んで外道人にしようと思う。報酬はそれなりに
出すぞ。断れば役人に、おぬしが大輔殺しの下手人と
訴え出るが、どうじゃ? ヒヒヒ… 
わしの名は、死水尼(しすいに)という。以後、よろしくな」



秋が来た。
恒輔は変わらず、浮気もせず、曠野の家に通っている。
しかし、曠野はうわさを聞いてしまった。
けっこういい家から恒輔に、婿の口が
かかったのだが、恒輔は断ったと。
(あなた…)
自分を思ってくれる夫の心根に、涙がこぼれる曠野であった。

しかし… ある日、夫の着物のすそが、ボロボロに
すり切れているのを、見てしまった。
もう、これ以上は… 曠野は決意を固めた。
「あなた、お願いです。他に奥さまを見つけて下さいませ… 
こんなすり切れた着物で出仕させるなんて、
私に妻の資格はありません」
「まだ言うのか! その話はよせと、あれほど…」

「言わせていただきます! ちゃんとした奥さまを
見つけて、たまになつかしくなったら、こちらへ
よっていただければ結構ですから… 
私はそれで、じゅうぶん幸せです」
「う〜〜〜〜ん」
なおも1時間ほど言い争ったが、曠野の決意が
あまりに固く、恒輔はついに折れた。

「仕方ない。しかし、週に1回はようすを
見に来るからな。元気でいろよ」
こうして夫は、よその家の婿となり、曠野は1人になった。
愛が本物かどうかは、ギリギリのところで試される。
最後の最後で折れてしまった恒輔の愛は、ここが限界だった。



1人になった黒次郎は、新たに仲間を集め、盗人稼業を再開する。
厳しい掟で押さえこんでいた黒太郎は、もういない… 
殺しでもなんでも、アリである。
12月2日、ついに内裏にまで侵入した。
承明門を入って右側に立つ春興殿から、
絹50余疋(ひき)を盗む、と記録にある。
(1疋=2反(たん)、1反は絹の場合、30cmX9mくらいなので、
50余疋というと30cmX900m以上の絹布が盗まれたことになる)



承和5年(西暦838年)。

この年、ついに出羽の郡司、小野良真の任期が終了した。
小野ファミリー、都に向かって帰還の旅路。
「都って、どんなとこなんだろう? ワクワクするね、よっちゃん」
「何いってんだか… 都には、オシャレでイケてる女の人が
たくさんいるんだよ? 私たちみたいな田舎もの、笑い者だよ?
姉さまなんて、洗濯おばさんよりダサイだろうね」
「(T_T)えええ〜 そうなの? 行きたくないかも…」



「多襄丸(たじょうまる)」と名を改めた盗賊の黒次郎は、
畿内を中心に暴れ回る。
2月12日、左衛門府・右衛門府に逮捕命令が下る。
が、「丹後の黒猫」と恐れられる多襄丸は、
おいそれとは捕まらない。

この年、藤原淑子(よしこ)生まれる。
後に尚司となり、藤原摂関家のために、数々の陰謀を主導した。
最後はおぞましい姿の怨霊となって、
時平や伊勢の前に現れたが…

同年、藤原高藤(たかふじ)も誕生。
あれ、誰だっけ



そしてついに、小野小町が京にやって来た!
「うわああああ。よっちゃん、大きな町だねえ! 
人も、こんなにたくさん…」
「そ、そう? 思ったより、ぜ、ぜんぜん大したことないよ… 
ちょっと洗練されてるだけで…」
「いや、あのね、お前たちwww ここは、まだ」

そう、小野ファミリーの家があるのは、京のとなり、
山科(やましな)にある、小野の里。
最寄り駅は、地下鉄東西線の小野駅。
都の郊外の片田舎、といったところである。
「こ、こ、これが片田舎…」ガクガクプルプル