小町草紙(一)





プロローグ(1) 世界で最も美しい女




紀元前1250年ごろ、古代ギリシアの都市国家スパルタ。
子供に厳しい軍事訓練を課し、「スパルタ教育」の名を残した、
あのスパルタである。
アフロディーテの神殿で、巫女は目を覚ました。
「今の夢は… 女神のお告げ…」

愛と美の女神アフロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)、
実は、戦士の国スパルタで崇拝されていることからもわかるよう、
戦いの女神としての顔ももつ。
本来は、作物の豊穣を司る大地の女神であった。

夢の中で拝するアフロディーテは、小柄ながらも
バストはつんと張り、ウエストは引き締まり、
脚はスラッと伸びる理想のプロポーションで、
スケベの神エロスの母だけに、美人というより
エロかわいい感じの、ぴちぴちハツラツとした、
娘のような姿だった。
スパルタの女神らしく、軽装の鎧をまとっている。

「3日後にトロイアの王子が、ヘレネちんをさらいに来るから。
ちゃんと手引きしてやっとくれ。よろしくたのむじょ〜」

「ヘレネちん」というのは、スパルタの王妃ヘレネのことだろう。
とんでもないことをサラッという女神に、巫女は青ざめ
「あ、あの…」
「なーに、巫女ちん?」
「どうして、トロイアの王子の手助けなど…」
「詳しくは、「ギリシア神話 黄金のリンゴ」でググれ。以上!」


「3日後…」
巫女は鏡に映した、自分の地味な顔をながめて、ため息をつく。
「ヘレネさまなら、誰が奪いに来てもおかしくはない… だって」
世界で最も美しい女性だから。
あんな美女に生まれていたら、どんなに人生が楽しいだろう…



トロイア… それは現在のトルコ、エーゲ海岸に
建設された都市国家。
その遺跡は現在、世界遺産に指定されている。
トロイアの王子パリスは、わずかな供をつれ、
3日後の夜、現れた。

城門を開け、中に引きこんだのは、アフロディーテの巫女である。
これは国家に対する、とんでもない反逆で、
見つかれば死刑どころの騒ぎではない。
恐怖に足が震えるが、女神の命令は絶対だ。

(それにしても…)
ちらっとパリスの横顔を見て、巫女の心臓は高鳴った。
なんて、美しい男… いや、美しいだけではない。

わけあって、成人するまで羊飼いの子として育てられた
というこの王子は、どことなく野性味と逞しさがあった。
今も、戦闘国家スパルタに不法侵入しながら、
まったく恐れを感じていないようだ。
ヘレネと会える喜びに、顔が輝いている。
図太いのか、よほどの女好きなのか。

あらかじめ連絡をつけておいたので、ヘレネは数人の
忠実な侍女らとともに、神殿に隠れていた。
彼女もまた、アフロディーテより、お告げを受けていたのだ。
退屈な夫との日常が終わり、めくるめく
ロマンスの日々が始まると…

「行こう… いっしょに」
深みのある、ゾクッとする声でパリスは手を差し伸べる。
この瞬間、パリスとヘレネは恋に落ちていた。

ヘレネ、スパルタ王メネラオスの妻。
月明かりに輝く露のような、はかない、たよりなげな、
消えてしまいそうな美女。
長いまつ毛の下で潤む、溶けるような瞳。
薔薇色に上気する頬、柔らかく波打つブロンド。
巫女は、パリスにだけでなく、ヘレネにも見とれてしまった。

(絶世の美女が恋に落ちる瞬間… 
そしてたぶん、ちょっとエッチなことを考えてる瞬間…
私もこんな美女に生まれて、こんな王子さまと恋を…)



一行は、ひそかにスパルタを脱出、船でトロイアに向かった。
巫女も、これだけのことをしでかして、スパルタに
残るわけにもいかず、行動をともにする。

その間に、事情がわかってきたのだが… 
ことの起こりは、オリンポス山での神々の宴会だそうだ。
「どの女神が1番美しいか」というテーマで、口論となったらしい。
何しろ、個性の強いワガママな女神さまたちが、
顔をそろえていらっしゃる。

「もちろん、神々の女王である私でしょう!」
「女神の美しさには、知性と強さが伴わなければ(CV:潘恵子)」
「あの〜 いちおう、「愛と美」を担当してるのは
私なんですけどね〜」

「こうなったら、ゼウスさまに決めていただき
ましょう!(CV:潘恵子)」
「あなた! もちろん、妻であるこの私を選びますわよね?」
主神ゼウスは、いきなり話をふられて、あせった。
とっさに地上を見渡し、適当な人間を選んで
「こいつを審査員にするわ。こいつに決めてもらって」


「それが… パリスさまだったと?」
その夜、巫女は再び、夢の中で女神と会った。
「そそそそ」

言い争う3人の女神は、それぞれ、審査員のパリスに約束をした。
ゼウスの妻で、神々の女王であるヘラは、「権力」を。
知恵と戦いの女神アテナは、「黄金聖闘士なみの戦闘能力」を。
そしてアフロディーテは、「世界で最も美しい女」を与えると…

「みんなして、パリスさまを買収しようだなんて! 
神さまのくせに…」
巫女は思わず、あきれてしまう。
「だーって… ババアや格闘マニアには負けたくねえっす」
「それで結局、パリスさまはあなたを…」

つまり、アフロディーテを「最も美しい女神・オブ・ギリシア」に選ぶ。
その返礼に、「世界で1番美しい女」、
つまりヘレネを与えられたわけだ。

「そんなくだらないことのために、私は危険を冒し、祖国を捨て…」
巫女は、涙が出てきた。
「まーともかく、うまくいってよかった。私を選んでくれたパリ助にも
借りは返したし、ヘレネちんも幸せになるだろうし。
巫女ちんもお疲れさまだったね。そりじゃ!」
ミニスカのような甲冑をひるがえし、走り去る女神さま。
「そりじゃ! じゃねーよ…」



トロイアに到着した一行を、最初に出迎えたのがカサンドラだった。
王女であり、パリスの妹、太陽神アポロンに仕える巫女。
「神のお告げがありました! この女を決して、
トロイアに入れてはなりません!」
ヘレネをまっすぐに、指さす。

「帰れ! トロイアに不幸をもたらす者!」
美形だがきつい感じのカサンドラが、たおやかなヘレネを
責めたてる図は、いじめてるようにしか見えない。

ヘレネは泣き出し、アフロディーテの巫女は思わず、カサンドラの
前に立ちはだかって、ヘレネをかばってしまう。
なんで私が… かばう理由も義理もないのに…
でも、なぜか守りたくなってしまう、
そんな魅力がヘレネにはあった。

「ヘレネさまは、トロイアに永遠の栄をもたらすお方です!!」
勢いで叫んでしまったが、心の底では
カサンドラが正しいという予感がした。
アポロンは、アフロディーテのようなスチャラカな神ではない。
その予言は、ガチだ。

しかし、トロイアの人々は意外にも、カサンドラではなく、
スパルタから来た巫女の方を信じた。
これには事情があるのだが、実はカサンドラは以前、アポロンに
仕える神官の長から、たびたびセクハラを受けていた。
それに対して厳しく抗議したところ、逆恨みされてしまった。

「カサンドラさまは、霊感も予知能力もまったくない。カケラもない。
あれは、てきとうなホラを吹いとるだけじゃ…」
こんな噂を、神官の長は、陰で流した。
その結果、カサンドラの予言をまともに聞く者は、
いなくなってしまったのである。



トロイア市民は、ヘレネを外国から来たスターか何かのように
歓迎し、パリスとの盛大な婚礼の儀が、とり行われた。

その夜、最高に美しく輝いてるヘレネは、巫女をぎゅっと抱きしめ、
「これからも、私を守ってね…」
女でも気が狂いそうになるくらい、ヘレネは美しく、
巫女の心臓はバクバクした。

「私… 今夜、あの方に抱かれるの…」
耳もとでささやく、ヘレネの息が、熱かった。
巫女の胸には、あこがれ、妬み、そしてヘレネを愛おしく
思う気持ちが、嵐のように吹き荒れ…



もちろん、これで済むわけはなかった。
愛しい妻を拉致されたスパルタ王メネラオスは怒り狂い、
兄であるミケーネ王アガメムノンに協力を求め、
智将オデュッセウス、不死身の勇者アキレウスなど、
ギリシア全土から戦士を募り、大軍団を編成した。

総勢10万のギリシア連合軍はトロイアに攻めこみ、
ここにトロイア戦争が幕を開けたのである。

つづく