安珍と清姫





10、 鐘巻(かねまき)




清音の目が突然開いた時、道成寺のほとんどの僧が
勤めを投げ出し、まわりに集まっていた。
僧たちが反応する前に、鎌が一閃する。
天国の研いだ、恐ろしい切れ味の鎌である。

血が、夕立のように降ってきた。
最初の悲鳴が上がる前に、10人は死んでいたろう。
それから30分以内に、逃げようとしたもの、武具をとって
戦おうとしたもの、ありがたいお経で調伏しようとしたもの…

すべて、死に絶えた。
ただ1人、清音を最初に見つけた寺男だけが、
物陰から一部始終を見ていた。

日はすっかり沈み、惨劇の跡を薄闇が隠す。
月が西から、昇り始めていた。
清音は、安珍が隠れた鐘に近づくと、
まずグッと押してみる。

中にいる安珍は、外から鐘が押されたり
叩かれたりするのを感じ、
「ヒッ!」
頭をかかえて、へたりこむ。
しかし… さすがに、4トンの大鐘はビクともしない。

次に清音は、下に板が敷いてあり、わずかに隙間が
できてるのを見つけ、そこから手を入れてみようとした。
しかし、いくら清音の細い指でも、1センチも
ない隙間ではまったく入らない。

安珍はしだいに、自分が鉄壁の要塞に
守られていることに気づいてきた。
さすが、年老いた和尚のアイデアだけある…
これなら、あの化け物女も手出しできまい。
そのうち生き残った者か、あるいは村人が役人を
連れてきて、この化け物を退治してくれるだろう。

外では清音が歯噛みして、鎌の刃を思いきり鐘に
叩きつけてみるが、刃が折れただけだった。
「ぐうううううっ」
くやし涙を流しながら、清音は鐘に爪を立て、引っかくが…
生爪が痛々しく剥がれるのみ。

せっかく、ここまで追いつめたのに…
ほとんど死んだも同然の体で、執念だけで
立ち上がってきたというのに…
この鐘が… この鐘が…

「…う… うわああああああああああああああっっ」
鐘に取りすがって、清音は号泣した。

勝った…!
勝利の確信が、安珍の心に安堵をもたらした。
「わはははははっ お前の運もここで尽きたり!
迷わず地獄へゆけい!」

しかし… 外はシーンとしていた。
力尽きて、死んだろうか…?
隙間からのぞいても、暗くて何も見えない。
が、そのうち… ある匂いが鼻をついた。

油だ。
蒸し暑い大鐘の中で、安珍の体がサッと冷たくなる。
まさか…

清音は倉庫へ往復して、油の壺をいくつも運んできた。
踏み台も見つけて、それに乗ると、鐘の上から
タップリと油を注ぐ。
さらに蒔も大量にもってきて、鐘のまわりに敷き詰めた。
最後に、火の灯った燭台を手に、鐘の前に立つ。

血と泥にまみれた、一糸まとわぬ姿の清音の顔は、
ろうそくの炎に照らされ、まるでミサにのぞんだ
聖女のような、静かで厳かな顔をしていた。

「安珍さま… これでようやく、あなたといっしょになれる…
あなたと愛を交わすことができる…」
ろうそくを、積み上げた薪に投げこんだ。

鐘は、一瞬にして燃え上がる。
「でも、その後は… 根の国に行った後は、
解放してあげます…
地獄でも極楽でも、1人でお好きなところへ行きなさい」

鐘の中で、安珍は生きたまま蒸し焼きにされていた。
温度は100度を超え、全身の水分が蒸発する中、
外に逃れようと、むなしく鐘を押し、叩く。
「やんッ… 出れッ…」

隠れて全てを見ていた寺男は、暗い夜空を背景に
燃え上がる鐘の美しさに、しばし見とれていたが…
「アッ…」
と叫んだのは、清音が鐘に抱きついた時である。

両手両足を広げ、鐘に巻きつくように、全身を密着させた。
真っ赤に焼けた金属によって、清音の顔、胸、下腹部は
一瞬にして焼け爛れる。

そして、最後に…
清音が、こちらを向いた。
その皮も肉も焼け落ちた顔を見た瞬間、寺男は失神した。



その夜。
熊野古道、中辺路を清音は1人で歩いていた。
血も泥も消え、もとの美しい顔に戻り、着物も着ている。
まっすぐに前を見て、夜の山道をひたすら歩く。

真砂の集落を通り抜ける時、村人が
その姿を見て、屋敷に知らせた。
女主人の行方がわからず、心配していた使用人たちは、
急いでかけつけ大声で呼ばわったが、清音は
聞こえない様子で、振り向きもしなかった。

後を追いかけても誰も追いつけず、
スタスタと本宮の方へ去っていく。
「もしや…」
使用人たちは、悟った。
女主人が、どこへ行こうとしてるのかを…


清音は、「大斎原(おおゆのはら)」に着いた。
そこには社殿はなく、うっそうと茂る森と、
玉石を敷き詰めた聖域だけがあった。
鳥のような、蛍のような、無数の魂が飛び交っている。

玉石の上に座っている男が1人…
髪も髭も伸び放題の、乞食である。
「スセリ! 生者の国は、もう懲りたか?」

清音は、乞食を見た。
「お父さま…」
キッパリと、首を横に振る。
「あの男は、私の運命の人ではなかった。もう1度… 
もう1度、必ず帰ってこなければ」

川原で着物を脱ぎ、浅い川を渡りながら禊(みそぎ)を
すると、清音は、玉石を敷き詰めた聖域に上がった。
「私は必ず、あの人を… ナムチさまを見つけ出す」
生まれたままの姿で、天空に輝く月をあおぐ。
「私は必ず、あの人と同じ地上に立つ」

月の光に包まれ、清音の魂は旅立っていった。
『月の都』へと…




ここから先は、後日談である。

唯一の生存者である寺男の証言により、
恐るべき惨劇の全貌が伝わると、地元の
住人の心に、大変な衝撃をもたらした。

まず、焼けた銅が完全に冷え切った後、鐘をどけてみると、
変わり果てた安珍のミイラのような死体が見つかり、
鐘とともに境内に埋められた。
現在、三重塔の前にある「安珍塚」が、その場所である。

一方、清音の遺体だが、髪の毛を道成寺横の敷地に埋め、
化けて出ないよう、ねんごろに供養した。
これが現在、「蛇塚(じゃづか)」と呼ばれる塚である。
遺骨は、故郷の真砂の集落に戻し、
そこに墓が建てられた。
現在も残る清音の墓には、次のような歌が刻まれている。

煩悩の 焔も消えて 今ここに 
眠りまします 清姫の魂


また、清音が最後に蛇のように鐘に巻きついたことから、
道成寺周辺の地名が、「鐘巻(かねまき)」となった。
現在も、地図に残っている。


寺を襲った突然の悲劇に、道成寺は長い間
立ち直れないでいたが、やがて時が過ぎると、
この事件を宣伝に利用するようになった。
「蛇道に落ちた安珍と清姫が、法華経の
功徳によって成仏する」
というストーリーである。

これによって、安珍清姫物語は全国的に知られるように
なり、室町時代には、絵巻も作られる。(重要文化財)
その後、ご存知のように、能や歌舞伎の代表的作品となり、
昭和に入ると市川雷蔵主演で映画化されたり、今でいう
「メディアミックス」が、1000年にわたって展開されている。

この「清姫」と、ほぼ同時代の「宇治の橋姫」あたりが、
日本文化独特の、女の情念ドロドロ世界の元祖では
ないかと思うのですが。
ヤンデレの始まりでもあります。


ところで、道成寺が主張するように、果たして
清姫は成仏できたのだろうか?
それはない、と断言できる。
これほどの無念を残して、あっさり成仏など
できるわけがない。
法華経だろうがなんだろうが、清姫には通用しない
のである。

その証拠に400年後、輪廻転生した清姫が再び、
道成寺を襲撃するのだから…
白拍子の姿をして、「鐘に恨みは数々あれど…」と、
唄い踊りながら。


道成寺 公式サイト http://www.dojoji.com/



安珍と清姫 完