安珍と清姫





9、 道成寺(どうじょうじ)




「げに恐ろしきは、女の執念…」
ただ1人の生存者となった道成寺の寺男は、後に語ったという。


清音は、これもやはり深くない印南川を
越えると、小さな漁村に入った。
ここは和歌山県印南町。
室町時代、この地で最初の「かつお節」が作られる。

清音はここでようやく、昨日今日と何も口に
していないことに気づき、空腹を覚えた。
見れば浜辺では、漁師たちが鍋に雑魚や
貝や海草をつっこんで、何やら煮ている。

清音がじっと見ていると、漁師たちは
悲鳴を上げ、散り散りに逃げていった。
清音は鍋のところまで行くと、素手のまま、むさぼり食う。
熱さも、もはや感じなかい。

心ゆくまで食うと、かなり力が戻ってくるのを感じた。
と同時に、汚れきった自分の体に、無数の
蝿や蚊が群がってるのに気づく。
「蝿、蝿、蚊、蚊、蚊……」
どうしようもない惨めさに、ぼんやりとつぶやいてみる。

なんという偶然か、この印南町は明治時代に日本で初めて
除虫菊が栽培される、「蚊取り線香」発祥の地でもあった。
今も、「日本の夏、金鳥の夏」と大きく書かれた工場がある。


さんさんと輝く太陽の下、清音は歩く。
現在の御坊市名田町に入り、上野王子まであと少し
というところで、腰かけるのにちょうどよい、
くぼんだ石を見つけ、少し休むことにした。
(現在も残る、「清姫の腰かけ石」である)

背後には木立があって、日陰を作ってくれている。
太陽も中天を越え、さすがに疲れきっていた。
もし… 今日追いつけなかったら… 
もう無理かもしれない…

その時。
「ん?」
ポタッと、何かがしたたり落ちる音がした。
見ると、何もない空中から、血がしたたり落ちている。
木立の中、陽炎のようにゆらめくもの
があり、そこから1筋の血が…

霞法師が標的に接近する時、
気配も物音も、体臭すら消し去る。
しかし今は負傷しており、しかも晩夏の
太陽の下、顔料が溶けるのも早い。
夜を待たなかったのは、焦りから出た判断ミスであろう。
しかも致命的な…



安珍は「お首地蔵尊」を通りすぎ、しばらく行ったところで、
(霞の奴を、このまま見捨てていって、いいものだろうか?)
そろそろ日も傾いてきたし、休憩も兼ね、
少し待つとするか…
根黒衆ともあろうものが、狂人とはいえ女1人に怯えて、
仲間を置き去りにしたとあっては、笑いものだ…

この地には「祓い井戸」と呼ばれる井戸があり、そこから
水をくみあげ、頭からかぶり、たらふく飲んだ。
まわりに人気がないので、すっかり気を許してしまったが、
顔を上げると、そこに霞法師がいた…

いや、井戸の縁に、霞法師の生首がのっていた。
「ーーーーーーッッ!!!!」

全身、返り血で真っ赤に染まった清音も立っていた。
「安珍さま… そんなに、私がお嫌いでしたか…」

清音の表情は、正気に戻っていた。
それが返って、狂気を超えた狂気の世界をもたらす。
清音の首には、太い指の痕が残っていた。
霞法師が死力をふりしぼって、首をへし折ろうと
したのだろう。
しかし清音は、腹の傷口から手をつっこみ、
心臓を握りつぶした…

「嫌いなら、どうして… 初めから、そう言って
くれなかったの?」
清音の頬を、涙が伝う。
これだけの死闘の後、全身血まみれで血濡られた鎌を
手に、まるで恋愛ドラマのようなセリフを吐く清音は、
狂女モードの時より数倍恐ろしい。

安珍は、生まれてこのかた味わったこと
のない恐怖に、押しつぶされた。
涙を流す清音の純粋な瞳と、霞法師の
生首が、あまりにシュールすぎた。

「バ… バッ…」
「え?」
「バケモノォーッッ!!!」
子供のように泣きじゃくり、安珍は逃げ去った。

「…化け物?」
清音は立ちつくしていた。
「化け物… バケモノ……」
安珍の最後の叫びが、清音に残された純情を打ち砕いた。
「バケモノ、なんだ… わたし……」
もはや最後に残ったものは、殺意だけだった。

ギリ… 
唇がかみ切れるほど強くかみ締め、血がしたたり落ちる。
ボロボロになった草履を、足をふって投げ捨てる。
高く舞い上がった草履は、そばにあった松の
枝に引っかかる。
(この松のあった場所が、現在の「清姫草履塚」)

裸足になり、異様な叫びを上げ、清音の最後の
疾走が始まった。



安珍は、御坊市の岩内という集落まで、
がむしゃらに逃げてきた。
ここに、日高川を渡る渡し場がある。
日高川は、これまでの川とちがい
川幅があり、舟がないと渡れない。

対岸までたどり着いた時、安珍は
船頭に有り金をすべて渡し、頼んだ。
対岸の岩内には戻らず、こちら側に残ってくれ。
後から追ってくる女を、絶対に渡してほしくないんだ。
「ようございます」

上陸した安珍は、まっすぐ北上した。
この先に、道成寺(どうじょうじ)という天台宗の
大きな寺がある。
このころの天台の寺は、腕っ節の強い荒法師が
たくさんいた。
そこで事情を話し、安全な場所にかくまってもらおう…



日がすっかり傾いたころ、清音は日高川の川岸に立った。
対岸に行ったきりの渡し舟に、
「渡してくださいなー」
と呼びかけても、船頭は聞こえないふりをしている。

清音は怒りに震え、決意を固めた。
ボロボロの着物を脱ぎ捨て、全裸の姿をさらす。
対岸から見ていた船頭は、目玉が飛び出さん
ばかりに驚いた。

清音は鎌を口にくわえ、川に飛びこむ。
もちろん、泳ぎ方など知らない。
ただ野生の本能のままに、白い裸身をくねらせる。
これが後に、「清姫は蛇に変化して日高川を渡った」
という伝説を生むことになる。

対岸に上がった清音は、鎌を落として、激しく息をついた。
鎌をくわえていたおかげで水を飲まなかったが、
泳いでいる間、まったく呼吸をしていなかったのだ。

船頭は腰を抜かしアワアワいっていたが、
清音の凶悪な眼光ににらまれると、
「坊さんは、道成寺に行きました!」

船頭の指さす方へ、走りだした時、
「!!」
清音は、大量の血を吐いた。

世界がぐるぐる回りだし、よろめいて倒れた。
もはや清音の肉体は、限界を超えていたのである。
「……」
声も出なくなっている。

それでも全裸で、自ら吐いた血の中をのたうち回りながら、
芋虫のように、蛇のように、這いずって進む清音。
真っ赤な夕日が沈む中、白い体を血に染めた蛇が、
少しずつ少しずつ、やがてだんだんと速度を上げ、
道成寺へと這っていく。

そして運命の終着点、道成寺が見えてきた…



一方、道成寺に逃げこんだ安珍は。
まず話を聞いて、下っ端の僧たちは笑いころげた。
女に追われて難儀しておるとは、御坊も災難よのう。
次に中級クラスの僧たちが出てきて、怒りだした。
何ごとだ、騒々しい。放っておけ。けしからん。
その後ようやく、位の高い僧が出てきて、
安珍を気の毒に思い、
「この人を、鐘の中に隠してあげなさい」

力自慢の僧たちが、鐘楼から鐘を下ろし、
安珍を中に入れた。
(空気が通るよう、薄い板を下にあてがって、
少しだけ隙間を空けている。)
真っ暗な空間の中で、安珍は母の胎内に
いるような安心感に包まれた。
(ここなら… あの女も絶対に入ってこれない)
重量一千貫(約4トン)の大鐘である。


その、しばらく後。
寺男が、門前で倒れている血まみれの、
全裸の女を発見した。
僧たちが、わいわいと集まってきた。

「……死んでおる」

清音の亡骸は、境内に運びこまれた。
若い女の全裸を前に、僧たちは動揺したが、
同情の涙を流し、手を合わせる。
死んでも清音の手は、鎌を握りしめたまま放さなかった。

鐘の下のわずかな隙間から、
「例の女人は、仏になっておったぞ」
という報告を受け、安珍は全身の力が
抜けていくようだった。

ようやく、悪夢が終わった…
そうとなったら、早くここから出してもらいたい安珍だが、
僧たちの関心は女の死体に集まってるようで、
わいわい言う声や読経の声が、遠く聞こえる。

「……」
何か今、悲鳴のような叫びが聞こえなかったか?
安珍は隙間に耳をあてがい、神経を集中した。

うおーっ ぎゃー 逃げろー
まちがいない。
外の世界は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。

どれくらい時間がたったろうか…
沈黙が訪れた。
安珍の心臓は、いまや恐怖に爆発しそうだった。

隙間にあてがっていた耳が、不意に、
生暖かいものを感じた。
触れると、ねっとりとしている。
暗くて見えないが、匂いでわかった… 血だ。
鐘の下の隙間から、血が流れこんでいるのだ。

「安珍さま…」

安珍の血が、凍りついた。