安珍と清姫





8、 穏形力士(おんぎょうりきし)




朝の光が差し始めたころ、出立王子の社殿の
床下から、ゴソゴソと出てきた男があった。
備中(岡山県西部)から流れてきた炭の行商人で、泊まる
ところがなく、こんなところで夜露をしのいでいたのだ。

それにしても「木の国」というだけあって、
どこもかしこも木だらけだ…
こんな土地なら、いい炭が作れるだろうなあ。
よし… ここに腰をすえてみるか。
この男の子孫が「備長炭」を作り出すのは、
まだ770年ほど未来のこと。

男は顔を洗おうと、井戸の方へ歩いていく。
そういえば明け方に何やら、話し声が聞こえたな…
「………ん……」
「ん?」
「…ちん… さま…… あん…」
「なんだ?」
井戸の中から、不気味な声が聞こえる。

清音は生きていた。
鎌をピッケルように内壁に突きたて、深い井戸の
底から、這い上がってきたのだ。
「あん…ちん…」
井戸の縁から、変わり果てた清音が姿を現す。
「安珍ッッ……!!!」

行商人は腰を抜かした。
男か女か、いや人間かどうかすらわからないが
(着物の残片からして女のようだが)、これほど
凶悪な人相の生き物は見たことがない。

「たとえ雲の涯(はて)… 霞の際(きわ)までも… 
玉の緒の絶えざらむ限りは、たづねむものをッ!!」
(たとえ雲の果て、霞の際まででも、命の
絶えない限り、必ず探し出してみせる!!)
街道へ飛び出していく清音を、行商人は
ただ呆然と見送った。



鹿島神社のあたりで、安珍を後ろから呼ぶ声があった。
「む? あいつは…」
ここは、現在の和歌山県みなべ町。
「紀州梅」の大産地となるのは、江戸時代のことだ。
このころ梅干というと、まだ薬の一種であった。

「おーい、安珍。やっと追いついたわい」
「霞法師(かすみほうし)ではないか… 
こんなところで何を?」
笑いながら走ってくるのは、身長2メートル近い
大男の修験者。
もちろんそれは偽装で、正体は安珍の同僚、
根黒衆である。

頭巾をかぶっていて見えないが、この男には
頭髪が1本もない。
頭髪だけでなく、髭・まつ毛・鼻毛・体毛・陰毛に
いたるまで、全身のあらゆる毛を、毛根から
抜き取っていた。
「お前の手助けをするよう、お頭に言われてな」
いかつい顔を、やけにニヤニヤさせている。

安珍は露骨に、不快そうな顔をした。
「俺が手間取ってるのが、楽しいのか」
「ちがうちがう。実は昨日のうちに田辺に着いたんだが、
お前を探し回っているうちに、ちょいと、いい目をみてな」

霞法師は、まず「田辺宮」という大きな神社に行った。
するとちょうど、熊野別当が願をかけているのを目撃。
なんでも、別当は子種が薄いらしく、
子宝に恵まれず悩んでいるようだった。

「仏に仕える者として、衆生の悩みは解消して
やらねばなるまい」
好色そうに、鼻の穴をふくらまして言う。
「別当の屋敷に、ちょいと忍んでな… 
奥方に、俺の子種を仕込んできた。
これでまちがいなく、奥方の腹は大きくなる」
彼の「特殊能力」を使い別当屋敷に侵入、
夫人を犯した、と言うのだ。

安珍はあきれ果てた。
「お前、俺を探しもせず、そんなことを… 
それじゃあ、熊野別当の子孫に、お前のような、
いかつい化け物が生まれるってことか」
まさしくそれが、JR紀伊田辺駅前に
銅像が立っている、あの人物である。

「まあ仕事の合間の、ちょっとした息抜きよ… 
それより、肝心の」
「待て、霞… だれか来る」
目を細めて、はるか後方からやってくる人影に目をこらす。
フラフラしてるが、かなりスピードが速い。

「まさか… ウソだろ… そんな……」
安珍の顔が、心なし青ざめている。
「なぜ生きている!?」
「どうした?」
「霞ッ たのみがある! あの女を食い止めてくれ。
犯そうが殺そうが、好きにして構わんッ」

「女? 女か、あれ… うむ、確かに…」
ビリビリに裂けた着物、振り乱した長い髪、
フラフラだが、やけに歩みの速い足取り。
狂女にしか見えなかった。
「わけありなのか?」

「しつこい女につきまとわれて、参ってるんだ… 
仕事の妨げになる」
安珍の顔に、神経質そうな苛立ちと、かすかながら
恐怖の色が浮かんでいるのを、霞法師は見逃さなかった。

「色男も大変だな! 俺も1度でいいから、
そんな苦労をしてみたいよ」
安珍が女に怖気づいてるのが可笑しいらしく、大笑いする。
「そんな生易しいものではない… では、まかせたぞ!」

飛び去るように、安珍は走っていく。
「アァンチンさまアアァーッ」
正気の人間からは決して出ない、血の凍る
ような叫びが、ここまで響いてくる。

(これは… 相当なものだな…)
いよいよ目の前に迫ってきた清音の姿に、
霞法師でさえ息を飲んだ。
まさに「鬼気迫る」とは、こういうことを言うのであろう。
(さて、どうしたものか… 相手は狂人、何をしでかすか…)

その時、清音がつまづいて倒れた。
起き上がろうとするが、力つきようとしている
蜻蛉(かげろう)のように、もがくばかり。
「安珍さま……」
清音は突っ伏したまま、さめざめと泣き出した。

霞法師が近づいて見下ろすと、清音の表情から
狂気が抜け、本来の美しい顔に戻っている。
(これは… 泥まみれになってるが、
かなりの美形ではないか)

なんとなく、清音が不憫(ふびん)になってきた。
「これ、奥方… しっかりなさい」
手を貸して起こそうとするが、清音の体は
ぐったりして、力が入らない。

(これほどの女に、これほどまで思われるとは… 
安珍の奴、果報者よ…)
その時、腹部に焼けつくような痛みが走った。
霞法師の腹がパックリと開き、血と臓物を
路上にブチまけている。

「オオオオオォォーーーーッ」
清音の手には、血塗られた鎌が握られていた。
ボロ切れとなって引きずっている着物の中に
隠していたのか、鎌をもっていたとは、まったく
気がつかなかった。
それにしても、なんという切れ味!

腹部を押さえ、前のめりに倒れる大男と入れ替わりに、
ヨロヨロと立ち上がる清音。
霞法師には、ただの一瞥(いちべつ)も目をくれない。
「安珍さま… 今、参りますから…」
フラフラと、しかし飛ぶように、清音は歩き出す。
左手に広がる海が、あまりにも青かった。



日もとっぷり暮れたころ、安珍は榎木峠を越えた。
あれっきり、清音の姿は見ない。
霞も追いついてこないところを見ると、清音をおもちゃに、
のんびり楽しんでいるのだろう…

緊張の糸が緩んでくると、一気に疲れが出てきた。
思えばここ数日、ろくに眠っていない。
JRの切目駅近くに、光明寺という寺がある。
安珍は、そこに一夜の宿を求めた。


翌朝。
たっぷり静養を取った… とはいいがたい安珍であった。
イヤな夢を見て、何度も目が覚めた。
大蛇に変化した清音が、自分をどこまでも
追い回し、絞め殺そうとする。
「眠るべきではなかった…」

明け方早々に寺を出た安珍は、切目川の
ほとりで、霞法師を待つことにした。
もういいかげん、追いついてくるだろう。
川原に腰かけ、袋から糒(ほしいい)をポリポリ
つまんでいると…
そばに、人の立つ気配があった。

「…どこかで、お会いしましたね?」
冷ややかな女の声だった。
見上げると、乱れきって顔にふりかかった髪の間から、
この世のものとは思えぬ、すさまじい眼がにらんでいた。

「うわあああああッッ」
思わず飛びのいて、
「知らぬッ お前など知らんッッ!」

とっさに金剛杖をつかむと、その先端で、すさまじい突きを
清音のみぞおちに叩きこむ。
「グァッ」
血を吐き、うずくまる清音。

(とどめを…)
清音の首を叩き折ろうと、杖を振り上げるが…
周辺の住民たちが、なんだなんだと集まってきた。
(ちっ…)

安珍は身をひるがえすと、さして深くない
切目川を、一気に走り渡った。
得意の釘飛ばしで、清音を仕留めておいた方がいいか…
とも思ったが、実はすでに釘が1本しかない。
これは、童子丸のために取っておかねば…

いずれにしろ、あの突きを急所に食らえば、
大の男でも3日は動けない。
それにしても、霞の奴、どうしたというのだ…



霞法師は生きていた。
殺されても死なないような生命力の持ち主だったので、
こぼれ落ちた内臓を拾い、腹に詰めこむと、
きつくサラシを巻いて、止血した。
「あの女…」

歯ぎしりをする。
いかにタフガイでも、この重傷ではスピードは出せない。
それでも一歩一歩、清音を追って前に進む。
(まったく油断した… しかし次は、俺の秘術を使って…)

霞法師は、この時代にはまだ貴重な顔料や
岩絵の具を、大量に持ち歩いていた。
体毛がまったくない肉体をキャンバスに、彼は瞬時にして、
背景と同じ色を全身に塗りこむ。
いわば手動式光学迷彩で、彼は「透明人間」に
変身するのだ。
そこからついたあだ名が、「穏形力士(おんぎょうりきし)」
という。



一方、清音はしばらくの間、川原でのたうち回っていたが、
「あ、あん… ちん…」
すさまじい執念の炎に突き動かされ、体を起こす。
口からあふれる血が、止まらない。
ボロきれと化した着物を引きずって、歩き出す。

なんとか川を渡りきって、しばらく行くと、
「切目五体王子」が見えてくる。
ここで清音は体を休めながら、
「安珍に追いつきますよう」祈願をした。
そうしていると、内臓が破裂するような痛みが、
少し和らいだ。

その後、ボロボロの体にも関わらず、松の木に登り始める。
安珍の姿が見えるかと思ったのだが…
いた。
遥かな先、豆粒のように… それだけで、力が湧いてきた。

ちなみに清音が登った松は、根元の部分だけ、
現在も鳥居の横に残っているそうだ。


一歩一歩、血を吐きながら歩き続ける清音は、
印南川にたどり着いた。
ここで川辺に倒れこむようにして、水を飲む。
と、水面に映る自分の顔を見て… 清音は愕然とする。
そこには、かつて見たことのないような化け物がいた。

まぶたは晴れ上がり、前歯は2本折れている。
肌は黒光りしており、鼻や口から血と汁が流れている。
「………」
清音は川原に突っ伏して、大声を上げて泣いた。

もう、自分の命は長くないだろう… と悟った。
骨折も数箇所あるし、内臓も損傷していた。
もし… 安珍がここに来て、優しい言葉を
かけてくれたなら…
たぶん清音は、心安らかに昇天しただろう。
だが…

「まだ… まだ、死ねない… 1人では、死ねない……」
清音の手が、川原の草をつかんだ。