安珍と清姫





7、 追跡




日暮れ時。
童子丸は、真砂の集落に通りかかった。
庄司の奥さまに会いたかった…
にぎり飯を高菜で巻いた、熊野名物「めはりずし」を
用意して待ってるから… 
なんて、言ってくれたっけ。

しかし今、彼は謎の刺客に狙われている。
奥さまを巻きこむわけにはいかない… 
唇をかみしめ、足を早める。
(日中はずっと、一文字におぶってもらったので、
夕方からは自分で歩くことに。
一文字の姿はいつのまにか、見えなくなっていた。)


夜… 月は、雲に隠れている。
熊野の道は、黄泉比良坂(よもつひらさか)と化した。
死者のささやき、死者の息遣いが濃厚になる。
往路では見えなかった、さまざまな物が、
今の童子丸には見える。

足を止めた。
少し先の大木の根元に、何かが横たわっている。
暗闇になれた目には、乞食が
ゴロ寝をしているように見える。
髪も髭も、ぼうぼうだった。

童子丸の脳によみがえる、ある記憶。
大斎原の、敷きつめた白い玉石の上に座っている男… 
「荒ぶる神…!!」
激しい恐怖が、湧き上がってくる。
(一文字…)
心の中で呼んだが、一文字は現れない。

乞食の口元が、ニヤリとした。
「お前の天命は… よほど強いらしいな」
その時、童子丸は悟った…
この荒ぶる神こそ、刺客を雇った黒幕なのだ!
「な、なぜ… 私の命を狙うのです!」
「お前に天命があるからだ」

「私の… 天命…」
乞食は寝転がったまま、ぬうーっと、
右腕を童子丸の方へ伸ばす。
「俺が自分でやれば、簡単なんだが…」

思わず、童子丸は後ずさる… 
いつのまにか、失禁していた。
乞食の言葉に嘘はない、と直感した。
この男が相手では、いかなる霊力も超能力も通用しない。

「なにもしねーよ」
乞食は笑い声を立てた。
「な…」
「なぜかって? それはだな…」
乞食は、ごろん… と、仰向けになった。

「人間に直接手を下すのは、神として下衆(げす)な
やり方だからよ。神っていうのはな、人間を駒にして
遊ぶのが本筋… なんだそうだ」
前髪に隠れた乞食の両眼に、ちろ…と、炎が灯る。
「お前、『月』の持ち駒だろう」

「えっ?」
「月と星は、つるんでるからな」
童子丸はハッとした。
生れ落ちた時から胸にある、星型の… 
五芒星のアザを… 知っているのか?

突如、乞食はガバッと身を起こし、
「下衆でもいい。やはり、ここで片づけておくか」
童子丸は腰を抜かし、意味不明な叫びを上げた。

立ち上がった乞食は、身長1m90cmを超え、
縄文杉のようなコブコブした筋肉。
髪と髭は地につかんばかり、その両眼は
赤々と燃えている。

「ひ、ひ…」
涙を流しながら、失神寸前の童子丸… 
と、その時。

雲が晴れ、月の光が、あざやかに古道に差しこむ。
月光を浴び、乞食は一瞬、凍りついた。

「飛んだか……」
童子丸の姿は、なかった… 
月光に溶けこむように、消えていた。
乞食は苦笑するしかない。
「…やるな」



真夜中。
安珍はようやくショックから立ち直り、追跡を再開していた。
「8才のガキだ… 必ずスキを見せる時がある!」
真砂の集落を通過する時、ちらっと、
庄司の屋敷の方を見る。
(奥方、待っておれ… 数日中に仕事を片づけ、必ず戻る)

この困難な任務が終わったら、おいしい
ごほうびが待っている…
色っぽい若後家を抱く瞬間を想像し、
安珍の心は少しなごんだ。
「運命の人、か…」
安珍は清音の、細身のくせに妙に
艶かしい体を思い出していた。
「バカな女だ… 男女の仲は、色の道以外あるまいに」


そのころ、庄司の屋敷では… 
清音が夜具の中で、眠れずにいた。
「熱いな…」
今は8月… 旧暦なので、現在の暦では、
だいたい9月である。
そろそろ、涼しくなってくる頃だが…
安珍に触れられたところが、変に熱かった。

今日あたり、帰ってくると思っていたのに…
料理に酒、新しい着物とか、いろいろ
用意して待っていたのに…
清音は寝返りをうった。

もう待ちきれない。
明日、1番足の速い下男を本宮方面に
向かわせ、聞きこみをさせよう。



翌日の午後、下男は早々と戻って報告した。
本宮から下ってくる旅の修験者と行き会い、尋ねて
みたところ、安珍らしき若い美僧に昨日の夕暮れ、
近露(ちかつゆ)の集落で追い抜かされたという。
かなり急いでいた様子だった、と。

「夜道は危険ですぞ。この近露で1泊した方がいい」
と声をかけても、無視してサッサと行ってしまった… 
「と、修験者は語っておりましたよ、奥さま」

「私に会いたくて、夜道を急いだのでは… 
それなのに、まだお見えにならないなんて!」
道の途中で、行き倒れているのかもしれない…
今度はもっと多くの下男を、探索に送り出した。

「夜の古道には、死者の霊が出ます。もしや、
死者の世界に連れて行かれたのでは…」
そんなふうに怯える下男もいた。
「もしそうなら、私が冥界まで下って、
安珍さまを助け出します!」
清音は唇をかんだ。


しかし、その夜。
いつものように、本宮へと向かう旅人が宿を求めてきた。
もしや… と思い、たずねてみると、
「ああ、その人でしたら…」

今朝がた、中辺路のスタート地点にあたる「出立(でたち)
王子」付近で、安珍らしき人物を見たという。
何かを、必死に探し回っている様子だった、と。

安珍が屋敷に立ち寄りもせず、行き過ぎて
しまったことに清音はショックを受けたが、
同時に思い当たることもあった。

(あの子を探してるんだ…)
もしそうなら、自分が手助けできるかも…
なんといっても、地元の有力者である。

そう思うと、いても立ってもいられなくなった。
あの人を、助けてあげなくては…!
オオナムチを助けた、スセリ姫のように…

下男たちを呼び集め、夜が明けたら皆で手分けして、
必要なら農民たちにも手伝わせて、
童子丸の行方を探すよう、指示した。
そして自分は、着の身着のままの姿で土間に
下り立ち、草履を足に引っかける。

「奥さま! こんな時間から、どちらへ?」
使用人たちが制止するのも聞かず、
飛び出そうとしたその時…
ふと、一抹の不安が脳裏をよぎった。

(もし… もし万が一… 安珍さまが、
私との約束を忘れていたとしたら… 
私を裏切ったのだとしたら…)

戸口のわきに、草刈鎌がひとつ吊るしてあった。
昨年、刀鍛冶の天国が研いでいった鎌である。
無意識のうちに、清音はそれをつかんでいた。
そして、すっかり暗くなった夜の熊野古道へ飛び出す。

「もし、深き蓬(よもぎ)がもとまでも、
尋ねいかむずるものを!」
(たとえ深い蓬の茂みの、草の根元に隠れて
いても、きっと見つけ出してみせるから!)
そんな清音の叫び声を聞いた使用人たちの胸には、
不吉な恐ろしさがこみ上げてくるのだった。


真砂の集落から稲葉根王子までは、
富田川にそって古道は続く。
そこから先は川から離れ、険しい山道となる。
昼間でも大変なルートを、月と星の
光だけを頼りに、清音は踏破した。

こんなに歩いたのは生まれて初めてだったし、
何度も転んで衣服もボロボロの泥だらけ、
手足も血だらけになった。

明けの明星が輝くころ、清音は「出立王子」に着いた。
現在の和歌山県田辺市であり、紀伊水道に面している。
海上を右に行けば淡路島、左に行けば
広大無辺の太平洋。
ここから、熊野参詣のメインルート中辺路が始まるのだ。
清音にとって、10年ぶりくらいに見る海だった。

さすがに疲れ果て、石段に腰を下ろし
ていると、朝もやの中から…
清音は、目を見開いた。
まさか、こんなに早く追いつくとは…

「安珍さま……!!」
確かにそれは、憔悴しきって険しい顔をした安珍だった。



安珍が昨日、徹夜で出立王子に着いた時。
「こんなバカなことがあるか!」
神や仏を殴りつけたい気分だった。
童子丸は消えてしまった… 
地上から消滅したかのように、影さえも見えなかった。

子供の足で、ここまで速く移動できるわけがない。
突然現れた、あの不思議な男が背負ったとしても、
子供連れで俺より速く走れようとは、考えにくい…
出立王子で一瞬、道を右にとるか左にとるか迷った。
奴の家は摂津だから、ふつうに考えれば右(北)…

飲まず食わずで道を北上(このルートは紀伊路と
呼ばれる)、みなべ町の岩代王子まで一気に来た
が、童子丸の気配すらなく、住民たちに尋ねても、
少年を見た者は誰もいないし、さすがに疲れ果てて
座りこんでしまった。

とりあえず水を飲んで、餅を購って食い、仮眠を少しとった。
スッキリした頭で冷静に考えてみる。
途中どこかに隠れて安珍をやりすごしたか、
あるいはウラをかいて、出立王子から
南下するルートを取ったかもしれない。

「あのガキ… てこずらせやがって! 楽には死なせんぞ」
決意も新たに、海岸沿いの道を南に下る。
出立王子までは来た道を戻り、そこから
さらに白浜まで足を伸ばす。
(出立王子から南のルートは、「大辺路」(おおへち)
と呼ばれる。)

「木の国」もこのあたりになると、真っ青な海に白い雲が
浮かび、南国のパラダイスのような趣きがある。
とくに白浜は名前のとおり、ホワイトサンドの浜が広がり、
ニューカレドニアのビーチにも負けてはいない。
(ちなみに現在の白浜の白い砂は、オーストラリアから
輸入したものなんだそうだ…
元々あった白砂は、流れてしまったらしい。)

しかし、安珍はパラダイスどころではなかった。
ここで漁民に聞きこみをしても、やはり
童子丸が通った形跡はない。

結局、彼は田辺市まで戻り、周辺をくまなく探し回った
あげく疲れ果て、仮眠を取ろうと、明け方近くに
出立王子の境内に入ってきたのだった。



「奥さま……?」
いぶかしい顔で、彼は清音を見た。
「こんなところで何をしてるんです? お1人…」
言い終わる間もなく、清音が飛びついてきた。
「安珍さま! お会いしたかった…」

「す、すみません… 私が本宮に参拝してる間に、
例の少年と行き違いになってしまったようで… 
探し回っていたところなのです」
「まあ、やはり。そんなことだろうと思っていました」

「すぐ、見つかると思います… 無事さえ確認したら、
まっすぐ奥さまのところへ向かおうと… 
ほんの2・3日ですから、待っててくれませんか。
私も奥さまと愛を交わす日を、楽しみにして
いるのですから」

その言葉は、半ば真実のはずだった… 
しかし、今…
抱きしめた清音から、ぷ〜んと漂ってくる、
すえた汗の匂い…
乱れきった髪、ボロボロの着物、黒く汚れた顔と手。

安珍自身も汗と埃で汚れていたが、旅慣れている分、
まだいくらかスマートだった。
今の清音のありさまは、あまりにひどい。
それに、自分を追ってここまでやってくるという、
このしつこさ。

もしここで…
「自分を、これほどまで思っていてくれたのか」
と、安珍が感動することができたのなら… 
この後の悲劇は、起こらなかったろう。
しかし今の安珍にとって、清音の一途さは、ウザかった。
むしろ、「暑苦しい」「気持ち悪い」と感じられた。

「まあ、ほんとですか…」
相手の気も知らないで、清音は目をトロンとさせている。
「気持ち悪い」といえば、清音の手にした鎌もそうだ。
「奥さま、なんでそんなものを…」
清音はハッとして、鎌を後ろに隠した。
「これは… 夜道を女1人で歩くので… 念のため…」

「ともかく。馬でも雇って、早く家に帰ったほうがいい」
「いえ! 私は、あなたをお助けしたいのです」
実は、清音は10年以上前、亡き父に連れられ、
この田辺まで来たことがある。

その時、「熊野別当」の屋敷を訪問し、挨拶をした。
「別当」とは、大きな寺社で管理運営を
任されている役職の人。
つまり熊野本宮の管理をしている人が、
ここ田辺に住んでいる。

「その方と顔見知りですから。事情を話して、
童子丸さんを探す人手を借りしましょう」
これは、ありがたい提案だった。
1人で探していても、らちが明かない。
しかし…

「いや、それはマズい… あまり大ごとにするわけには」
何しろ、童子丸を殺すために探しているのだ。
人知れず、こっそりと… 片づけなければならない。
「前に言ったように、さる貴人の隠し子なのですから…
人の噂に立つようなことになれば、その方に迷惑が」

「そうですか… 何かお力に、と思ったのですが…」
清音はガッカリして、うつむいた。
「お気持ちだけ、いただいておきます。
さあ、早くお屋敷へお帰りなさい。
あと3日… いえ、2日で戻りますから」
ほんとうに戻る気があるのかどうか、
自分でも怪しくなってきていた。

「なら、私もいっしょに探します!」
「え」
「もう、あなたと離れたくありません! 
1回、素通りされてるし…」
「だから、それはやむをえず…」

「ここで別れたら、2度と会えない気が
するんです… もう絶対、離れない!
もう、1人で待っているのはイヤ…」
またしても、汗の匂いをプンプンさせながら、
抱きついてきた。

なんなんだ、この女は……

安珍の眼に、冷酷な光が宿った。
「わかりました。では、いっしょに行きましょう、奥さま」
「えっ ほんとうに?」
黒く汚れた顔を、輝かせる清音。

「その前に、顔を洗ったほうがいい… 
ほら、あそこに井戸がありますよ」
「そ… そうですね…」

あわてて、清音は井戸のところまで走った。
鏡がないので、自分がどんな顔を
しているか、まったくわからない。

どっぽーん

水をくんでいるところを、いきなり、後ろから押された。
「ちと、もったいなかったかな…」
冷たく笑うと、安珍は歩き出した。

方策は決まった… これ以上、この辺を
ウロウロしても、見つかるまい。
童子丸の居住地はわかっている。
摂津の安倍野まで行って、奴を探す、または待ち伏せする。

ほんとうなら、昼でも薄暗い熊野古道で
仕留めるのが、上策だったのだが…
こうなっては仕方がない… なんとかするしかない。

安珍は、プロの殺し屋の顔に戻っていた。