安珍と清姫





6、 童子丸(どうじまる)




大滝での30日間の荒行を終え、
少年は熊野本宮へ戻ってきた。
名は安倍童子丸(あべ の どうじまる)、8才。
出身は「摂津(せっつ)の国」(大阪府・兵庫県の一部)、
安倍野(あべの)。

彼の母は2年前、
恋しくば 尋ねきてみよ 和泉(いずみ)なる 
信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉

という歌を書き残し、とつぜん姿を消してしまった。
それ以来、母と再会することが彼の夢だったが、
大滝に打たれているうち、決心が固まった。

陰陽師(おんみょうじ)になろう。
自分には、生まれつき不思議な力があるようだし。
陰陽道の修行を積み、占卜(せんぼく)の技術や、千里眼の
能力を身につければ、きっと母さまを見つけ出せる…

この時代、熊野坐神社=本宮の社殿は、
「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる、
熊野川の中州の島に建っている。
宇宙人のような面相の少年・童子丸は、
改めて本殿に参拝した。
往路に参拝した時にも感じたが、この地から
発する霊気は、ただごとではない。

根の国に通じる穴でも開いているのだろうか、彼の目には
無数の霊魂が遊飛するさまが見えた。
虫、蛍、蝶… 鳥のようでもあり、星のようでもあった。

ただ、今は人間がかなり入りこんでしまっている。
人間が住み着くと、「生活の匂い」というものが、こびりつく。
「生活の匂い」は、霊気をいちじるしく弱める。
ちょうど、工場から出る煙が、清浄な大気を
汚染するように…
その昔、人が恐れて入りこまないころの大斎原は、
まさしく「死者の世界」そのものであったろう…

そんなことを考えていると、とつぜん…
社殿も参拝人も消え、童子丸の眼に、
不思議なビジョンが映った。

ここには、ただ鬱蒼と茂る森と、白い玉石を
敷きつめた聖域だけがあった。
玉石の上に、1人の男が座っている。
(あの人は… 根の国の王?)
童子丸の体に、なぜか緊張が走る。

男は立ち上がった。
身長は1m90cmほどもあり、縄文杉のように恐ろしく
節くれだった筋肉が、全身をおおっている。
髪と髭は、地につかんばかりに伸び、その両眼は
怒りの炎に燃え上がっていた。

男が童子丸の方に歩みよってきた時…
(ひっ…)
かつて経験したことのない恐怖とともに、悟った。
今、目の前にいるこの男が人間ではなく、
神だということを…

ハッとして眼が覚めると、そこは元の社殿前だった。
「だいじょうぶかい、坊や?」
若いハンサムな坊さまが、心配そうに見ている。
童子丸は、ぺこりと頭を下げると、社殿から離れた。

やはり… 大滝に打たれてから、霊感が強くなっている…
恐らく、私は過去の… はるか古えの
大斎原の姿を、眼前に見ていたのだ…
そして、あの人は古代の熊野に祀られていた、荒ぶる神…

童子丸の後姿を見送りながら、安珍は考えていた。
子供を殺すこと自体に、抵抗はない。
女でも子供でも、たとえ親でも、指令を受ければ抹殺する。
それが根黒衆(ネグロス)の掟だ。
しかし… 

なぜ8才の子供1人に、我ら根黒衆が
動かねばならないか?
その辺のゴロツキに頼めば、すむことではないか…
皇室とか摂関家とか、特別に身分の高い
家の子供、というわけでもなさそうだしな。
さる貴人の落とし種… という話は、もちろん嘘だ。

だが、指令を与えた大僧正は、こう言っていた。
「いいか、安珍… 子供だと思い、ゆめゆめ油断する
でないぞ。相手は、ただの小僧ではない…」
なるほど、今見たかぎりでは、確かに面相は
ただ者ではない。
が、しかし…

とつぜん童子丸がふり向くと、安珍の方へ走ってきた。
(うっ…?)
さすがにギョッとする安珍、童子丸はただならぬ様子で、
「あの… もし! あなたさま! 
今、思いあたったんですが」
「な… なんだね?」

童子丸はエイリアンのような気味悪い眼で、
まじまじと安珍を見つめ、
「私は人相見ではありませんが、その、なんていうか…
あなたさまに、とてつもなく悪い相が出ている… 
気がします!」
「なに?」

「今すぐ予定を変えて、来た道は通らずに、別の道から、
どこか遠くへ逃げてください! さもないと…」
「さもないと?」
「いまだかつて、だれも見たことがないほど… 
恐ろしい死に方をなされます!」

空気が凍りついた。
童子丸の言葉には、恐ろしいほどの迫真性があったが、
それがよけいに、安珍の怒りに火をつけた。
「バカをいうな! オタマジャクシの
化物みたいなツラしやがって!」
背を向けて、行ってしまった。

童子丸は、しばらくションボリと立っていたが、
「まあ、いいか… 一応、警告はしたんだし」
気を取り直して、帰途につく。



通常、熊野詣では、行きと帰りでルートを
変えることが多い。
往路が、霧深い山中を抜ける中辺路(なかへち)なら、
帰りは雄大な太平洋を眺めながら、大辺路(おおへち)
を行く、とか。
しかし童子丸は、中辺路の真砂集落の、庄司の家の
奥方さまに、もう1度会いたかった。

猫の目をした、守ってあげたいような、でもどこか
悪女っぽいところがありそうで、実はとても優しく
してくれた奥さま…
もしかして、これが童子丸の初恋かもしれない。

そんなことを考えながら歩いてると、いつの間にか、
発心門王子(ほっしんもんおうじ)のあたりに来ていた。
王子というのはプリンスではなく、小さい神社のこと。
と…

何かがカランと、足元の石畳に落ちた。
拾ってみると、折れ曲がった五寸釘である。
「なんだ…?」

ヒョオオォッと空気を裂く音がして、またしても、
足元に釘が落ちた。
今度は、はっきりとわかった。
童子丸の背中で、「一文字」が、飛んできた
釘を叩き落としてくれたのだ。
「ぼーっとしてちゃァいけませんぜ。
あんた、狙われてますよ」

「一文字(いちもんじ)」は、一見なんの特徴
もない、ただの中年男のように見える。
だが、どうやら… 「人間」ではないらしい。
大滝で修行中、どこからともなく出てきたのだが、
「童子丸を守るために来た」と、自己紹介をした。

とりあえず、「守護霊」のようなものだろうか、
と童子丸は考えた。
ずっと後、陰陽師になってから、「式神(しきがみ)」
というのが正式名称だと知る。
式神とは、陰陽師に仕える使い魔である。

「名前は、なんというの?」
という問いに、この中年男は、地面に指で「一」と書いた。
後でわかったのだが、式神に名前はなく、
単に「式神一号」くらいの意味だったようだ。
それ以来、童子丸は「一文字」と呼んでいる。

「早く、木の陰へ! 相当な使い手ですぜ、こいつは!」
ライフル弾のように飛んでくる釘は、こんどは一文字の手を
すり抜け、木の幹に深々と突き立った。


ゆうに50メートルは離れて、しかも薄い霧を通して、
大木の枝の上から、吹き矢の狙撃手は狙っていた。
金剛杖から、すさまじい肺活量の爆発で、
釘を弾丸のごとく撃ち出す安珍の技…
しかし今、彼の顔は蒼白だった。

「なんだ、あいつは… どこから出てきた?」
確かに童子丸は、1人で歩いていた…
なのに、まるで童子丸の影から生えてきたように、突然…

安珍が動揺している間に、ターゲットは
スタスタと逃げていった。
子供の足ならすぐ追いつくが、何か方法を考えなければ…



「この辺で、少し休みますか」
野中という集落に着いて、一文字は
童子丸を背中から降ろした。
あまりに楽チンな旅だったので、童子丸は驚いていた。
自分で歩くより、10倍はスピードが速い。

「一文字は疲れないの?」
という問いに、彼のような存在は、主人(童子丸)の
霊力・精神力をエネルギー源にしているのだと、
ぶっきらぼうに答える。
童子丸は体力こそないが、そういう方面の
パワーは無尽蔵にあるらしい。

大きな岩があったので、そこに腰を下ろした。
「それならもっと早く、おぶってもらえば良かった… 
でも、修行にならないか」

「今は非常事態だから、修行は後。
それより、何か心当たりは?」
「ない」
いったい誰が、なんのために、自分の命を?
そんなことを考えていた時…

童子丸の座っている岩のすぐ後ろは、
切り立った崖がそびえているが、今…
轟音とともに、
「ん?」
「崖崩れだ!」
大きな丸い岩が他の岩を巻きこんで、
雪崩のように2人に向かって…

「童子丸さま!」
一文字が、童子丸の上におおいかぶさる。
さすがの彼も、崖崩れを止めることはできないらしい。
童子丸の、エイリアンのような眼が光った…

いつまでたっても岩が落ちてこないので、一文字が
体を起こし、不思議そうに崖を見上げると…
多少、砂が流れ落ちてくるだけで、何事もない。
転げ落ちてくるように見えた大岩も、
崖の斜面に埋まっている。

一文字が決まり悪そうに、
「岩が転げてくるのを見たんですが… 錯覚でしたかね?
それとも… 時を戻しなすったか?」
童子丸は首を振り、
「私もよくわからない」

崖の上、2人からは見えないところで、
安珍は腰を抜かしていた。
確かに、丸い岩を蹴落として、崖崩れを起こしたはずだ。
そして少年が下敷きになるのを、見たような気がする…
するんだが… なぜか、岩は元の場所に戻っている。
俺は、夢でも見ていたのか?
それとも… 俺は、とてつもない怪物を
相手にしているのか?


童子丸が腰かけていた大岩は、「安倍晴明の腰かけ岩」
(または、崖崩れを止めたので「とめ岩」)として、
現在も野中集落に残っている。
(民家の庭先にあるが、ひと声かければ見学可能らしい。)