安珍と清姫





5、 夜這い(よばい)




延長6年(西暦928年)となった。
ようやく長い前置きが終わって、ここからが
「安珍と清姫」スタートである。

「清姫事件」の起きた年代は「延長6年」と、
妙に具体的に伝わっている。
単なる伝説なら、「むかしむかし」でよさそうなものだが。
これはきっと、伝説のモデルとなった実際の
事件が、この年あったにちがいない。


さて、清音と天国の一夜の契りから、1年が過ぎた。
あの日の記憶はすでに風化し、清音の心と体は再び、
言いしれぬ乾きに苛まれている… そんなある日。

「一夜の宿を、お願いできないでしょうか」
庄司の屋敷の門前に立ったのは、
甘いマスクの美僧であった。
奥州白川の出身で、今は都の大寺で修行中の
「安珍(あんちん)」と名乗った。

清音は、一目見て直感する。
(来た… 私の運命の人…!!)

話を聞くと、やはりあの「安仁」こと、
亡き主人「清次」の弟であった。
名前と風貌から、「もしや…?」と思っていたのだが。
安珍は兄の仏前で読経した後、修行中の身ゆえ、
これまであいさつにも来れなかった非礼を詫びた。

清音のまぶたには、母とからみ合う清次の体、
水中に沈んでいく清次の顔が浮かび上がり、
涙があふれてきた。
「3年たった今でも、兄のことが忘れられないのですね…」
安珍の優しい言葉に、清音は潤んだ瞳を向けた。
「帰ってきてほしい…」

「お気持ちはわかります。わからないのは、兄のほう…」
心中だという噂を聞いた。
まさか、あの屈強で野生的な兄が…?
だが案外、そういう男だったのかもしれない。
でなければ、泳法が得意で、水中で5分間は息を止めて
いられる兄が、溺死などするはずもないだろう。


清音は気を取り直し、屋敷の女主人として、
安珍を接待した。
安珍は都の最新ニュース、特に書の名人として
最近評判の高い小野道風(おの の みちかぜ)の
話などをして、清音を喜ばせる。
「さぞ、お美しい筆跡なのでしょうねえ」
事情通の安珍を、うっとり見つめる清音。

じゅうぶんに、とろけてきたな。
安珍はそう判断し、本題を切り出すことにした。
そのルックスと巧みな話術をもって女をたらしこみ、情報を
引き出したり、利用したりするのは、彼の特技である。

「奥さま。実は、ある少年を探しているのですが…」
その少年は、ふた月ほど前、都を発ったらしい。
熊野に向かって…

「熊野にたった1人で巡礼する、8才の男の子? 
はいはい、覚えてますよ。忘れられるはずもありません」
あれは、どれくらい前のことであったか…
「確かに、この家に泊めてあげましたよ」

目の大きい、といえばかわいいイメージがあるが、
目の異様に大きい、UFOでやって来た異星人の
ような、不気味な子供だった。

しかし2年前に母親と生き別れ、再会できるよう熊野に
願をかけにいくのだ、なんて話を聞くと、そのけなげさに、
つい抱きしめてあげたくなったのを覚えている。

「実はその子供… 都のさるお方の、
落とし種でございまして」
要するに、えらい人の隠し子。
「まだ8才の身で、1人で巡礼に出るというので、
その方がいたく心配しておられまして… 
こっそり様子を見てくるよう、ことづかった次第で」
「まあ。そうでございましたか」

清音は、できるだけ協力しようと、記憶をたぐりよせた。
「確か…」
熊野坐神社に詣でた後は、那智神社に足を伸ばして、
那智の大滝に30日間打たれる荒行をするつもりだと、
言っていましたっけ…

「8才の子供が? 那智の大滝に打たれる?」
安珍は愕然とした。
いったい、どんな子供だ…

清音は、少年を見送った日からの日数を計算した。
「そろそろ… 荒行も終わって、こちらに
戻ってくると思いますけど」

「こちらに戻る? そう言っていたのですか? 
伊勢に抜けたり、海沿いの道で帰ったりせずに、
この道をまた通ると?」
安珍は、やけに真剣だった。

「ええ…」
少年は、「奥さまに、またお会いしたいから」
とか、言っていたらしい。
(なんてマセたガキだ…)
安珍は、心中あきれていた。

清音はニッコリして、
「ですから安珍さまも、この家でゆっくりと、
お待ちになってらっしゃいな」
「いえ、そういうわけには… 無事にいるかどうか、
那智まで様子を見にいかないことには心配です。
その途中、ついでといっては罰当たりですが、
私も熊野に参拝したいと思いますし」

「そうですか…」
清音は、ほとんど泣きベソをかかんばかりだったが、
「その帰り、もしよろしければ、こちらで
またお世話になりたいのですが」
という安珍の言葉に、パッと顔が明るくなる。



その夜。
安珍は、何者かが忍んでくる気配に目を覚ました。
殺意はない… つまり刺客ではない。
(まさか…)
几帳(きちょう)の陰に立ち止まった
人影からは、女の匂いが漂ってくる。

ふぁさ…と、着物が床板に落ちる音がした。
「眠れないの… こんなことをしては、いけないのに… 
でも、もう… 1人で寝るのはイヤなんです… 安珍さま!」

薄物だけをまとった、全裸の清音が立っていた。
射しこむ月光に、汗でしっとり濡れた肌が、
蛇のようにヌラヌラと光っている。

「通い婚」のこの時代、男が夜這いをかけるのは
日常のひとコマだが、女の方から夜這うとは、
かなり衝撃的である。

女性経験の多い安珍にとっても、レアな体験で、
(ふうむ… 魅力をふりまきすぎたかな?)
おおいかぶさってくる清音の体を受け止めつつ、
そんな風に、うぬぼれていた。

確かに、これほどの妖しい美貌の女は、
都にもそうはいない。
ぜひ、頂戴したいところだが…
「お、お待ちください、奥さま! 拙僧は仏に仕える身、
まして熊野に詣でる前の体ですぞ! なりませぬ」
からみついてくる清音の湿った体を、必死に引き離す。
「精進潔斎(しょうじんけっさい)している身ですから…」

神社仏閣に詣でる時は、肉食やセックスを
断って、身を清める。
それによって、祈願のパワーがアップする。
詣でた後は、今まで我慢した分、
思いきり食べて飲んで、女を抱く。
これを「精進落とし」というが、大きな寺社の近くに
色町が発達してるのは、そういう理由による。

清音は泣き出しそうな顔に、不満をあらわにして、
「私の体が汚らわしいとおっしゃるのですか? 
それはちがいます! この胸には、あなたへの
純粋な思いが、いっぱいに詰まってるんです!
やっと出会えた運命の人… 
お慕いしております、安珍さま」
潤んだ瞳で訴える清音の顔を見下ろし、
安珍はグッと欲望を抑えた。

小さな白い顔にふりかかる乱れ髪、純愛と愛欲が
入り混じって燃え上がる瞳、なかば開いた濡れた唇、
興奮してやや開いた小さな鼻腔…
これほどの女に、これほど一途に思われてるというのに、
何もできないとは、なんという皮肉な運命…
安珍は自分の任務が、いとわしく思えてならなかった。

そう、彼には、精進潔斎しなければならない理由があった。
この後、だいじな「仕事」が控えている。
彼の「秘術」を使うためには、精力を蓄えて
おく必要があるのだ。

古来、武術の達人が、試合の前に精進潔斎して
身を清めるのは、ひとつに
「精を出しきってしまうと、神通力も抜けてしまう」
という信仰からである。

「なりませぬ!」
ぐいっと突き放しても、めげずに清音はからみついてくる。
「放しません! 殺されたって、離れないんだから!」

安珍は困り果て、
「奥さま… 帰りに、またよりますから… 
その時では、いけませぬか?」
「ダメ」

「私だって、奥さまを抱いてさしあげたい… 
いや、抱きたいのです」
これは偽りではない、安珍の本音である。
「しかし、熊野詣は私が白河にいたころからの夢… 
せめて詣でるまでは、清らかな身でいたいのです」

清音は、安珍の顔を、じっと見つめた。
「ほんとうに、帰りの時は、私と契ってくださる?」
「はい」
「私の夫になってくれますか?」
「私のような者で、よろしければ」

「はぁ…」
清音は、幸福そうなため息をついた。
「わかりました… でも今夜は、このままじゃ
眠れません… 体が熱くって…」
「では… せめて、これだけでも…」

安珍は、右手で清音を抱きよせると、
唇を重ね、舌を入れた。
同時に、左手を茂みに伸ばす。
茂みに差し入れた指から、くちゃくちゃっと
音がして、安珍を驚かせた。
(これはまた、なんという淫らな女…)

安珍の愛撫にとりあえず満足して、清音は
ホーッとした顔で、自室に引き上げる。
「私って、いやらしい…」
しかし清音はそんな、いやらしい自分が嫌いではなかった。

よし、それでは、あの方が帰ってくる日まで、
私も身をつつしんで待つことにしよう。
「精進落とし」の日を楽しみにしながら…


翌朝、安珍は熊野本宮に向け、出発した。
やれやれ、夕べはどうやら精を漏らさずにすんだわい…
どれ、神通力が抜けてないか、ひとつ試してみるか…

手にした金剛杖を見る。
長さ1.3メートルの木製で、般若心経が書かれている。
杖の頭に菩薩像が彫られており、それを
グイッと引き抜くと… 小さな穴が現れる。
杖の芯を、直径5ミリほどの空洞が、
先端まで通っているのだ。

五寸釘を1本取り出し、穴から入れる。
そして金剛杖を空中に向かって構え、穴に口をつける。
胸が大きく、風船のように膨らんだかと思うと… 

ブゥーッッッ!!
一気に空気を吹き出す。
20mほど上空の烏が、釘に撃ち抜かれ、
すさまじい声をあげた。

うむ、いい調子だ…
烏が森に落下するのを見届け、菩薩像を
杖の頭に取り付けた。
水平方向なら100mは飛ぶであろう、
すさまじい吹き矢、いや吹き釘である。

それにしても、なぜ?
たかだか8才の子供を、殺さねばならないのか…
まあ、いい。
さっさと任務を終えて、あのいやらしい後家を道連れに、
愛欲地獄をたっぷり味わおうではないか…
安珍の冷酷な顔に、好色な笑みが浮かんだ。