安珍と清姫





4、 愛欲の泥沼




延喜22年(西暦922年)。

年が明けても相変わらず… 清音は、隣の集落まで
出かけては、安仁の面影を探す毎日だった。
数え17才、満16才というと、この時代では
もう婿の取れる齢である。
言いよってくる男も多かったが、かたくなに拒み続けた。

ある日、人相のよくない物盗り風の男たちが3人、後を
つけてくるのも気づかず、清音は山道を歩いていた。
無精ひげを生やし、下卑た笑いを浮かべた男たちの
風体は、物を盗るだけではすみそうもない、危険さを
匂わせている。

その時…
「おい」

清音はビクッとして、振りかえった。
今まで気がつかなかったが、たった今通り過ぎた
苔むした岩の上に、男が横たわっている。
乞食が、昼寝をしてるようにも見えた。

「女一人で」
乞食はめんどくさそうに、半身を起こす。
「こんなところウロウロしてると、あぶねえぞ」

髪もひげも伸び放題、ボロをまとっているが、
体は恐ろしいほどの筋肉に鎧われている。
「あいかわらず、男のことで頭いっぱい
の時は、他が見えねェンだな」

清音は、顔を赤くして
「だれですか、あなたは?」
「覚えてねえか。そりゃそうだろう」

どこかで会ったろうか…?
脳をふりしぼっても、まったく思い出せない。
「こ、こんなところで、何をしているんです?」
乞食は、ニヤリとして、
「ここらへんを、ウロウロしてるんだよ」

何かが、意識の中で引っかかった。
が、記憶の深い沼の底から、なかなか
浮かび上がってこない。
清音はあきらめて、ため息をついた。
今日はもう帰ろう。
こんな気味悪い男の相手は、してられない。

清音が、もと来た道を引き返していったのと入れ違いに、
3人の物盗りが、乞食を取り囲む。
「やい。余計なマネしてくれたな」
「この先の見通しの悪い坂で、襲う手はずだったのによ」
「かわりにこいつを… っても、金目の
物は何もなさそうだな」

1匹のハエが、さっきから乞食のまわりを
ブンブン飛んでおり、今、鼻のあたりに
とまろうとしているが…
「ふぁ… ふぁ…」
くしゃみが出そうになる。

「おゥ! なんとか言ったらどうなん…」
物取りたちが、詰めよってきた時。
「ファックショオオオオーンッ!!!」

一瞬。
人類がかつて経験したことのない、暴風と
気圧の変化が、局地的に発生した。
熊野の古い森が、ザワザワと揺れる。

「あーあ… また無駄に生き物の命を… お前のせいだぞ」
頬を這いずっているハエを、横目でにらみながら、
「ま、どうせ… どいつもこいつも、
いつかは死ぬんだけどな」
皮肉っぽい、悲しげにも見える、不思議な笑みを浮かべ…

「俺以外はな」
乞食は、森の中へと消えていく。
後には… 異様な形にねじれた3つ残骸が、赤いジャムの
ような中身を木の幹にブチまけて、転がっていた。



延長(えんちょう)元年(西暦923年)。

「安仁さま! 今まで、いったいどこに…」
3年ぶりだった。
清音の頬を、涙が伝う… が、
「とりあえず、お父様にお線香を…」
安仁の顔は険しかった。

安仁が仏壇を前に読経している間、となりの部屋では、
「どんなことをしても、あの人を
お婿さんにしてあげるからね」
「うん。お母さん、おねがい…」
母子が、決意を固めていた。


沙織が婿取りの話を切り出すと、安仁は人気のない
富田川(とんだがわ)の川辺へ、沙織を誘った。
「私は、この家の敷居をまたぐ資格のない人間… 
2度と、この家に来てはいけなかったんです」
「まあ! 何をおっしゃるのです?」

安仁の表情は、苦悩に満ちていた。
「私は、殺生の戒を破りました。
ご子息を手にかけたのは… 私です」
沙織はハッとした。
この人は、なぜ、そこまでしてくれたのだろう?

「清音さんが私を慕ってくれるのは、うれしい。
けど、お嬢さんを人殺しの妻なんかにしてはいけません…
ここに来るべきではなかったが、お世話になった
ご主人さまの供養だけはと思い、つい…」

沙織には、由利彦を始末してくれたことへの感謝の
気持ちこそあれ、恨みなどサラサラなかった。
「安仁さま。それなら、なおのこと、この家に
来てくださらないと。私たちを救うために、
そこまでしてくださったのですから…」

「それだけではないのです!」
悲痛な叫びだった。
「私は、ずっと… 奥さまが好きだったのです!」
「え…」
「奥様にお会いしたくて、来てはならぬと思いながらも、
ついフラフラと熊野詣でを口実に、2度3度とこの家に…」

それで合点がいった。
なぜ、この人が、私たちのために殺しまでしてくれたのか…
「安仁さま…」

「この家に婿に入れだなんて… 残酷すぎます!
愛する女性と同じ屋根の下で暮らしながら、
他の女性と夫婦生活を続けるなんて… 
生きたまま焼かれる、地獄の責め苦ですよ!」
涙を流しながら、心情を吐き出す安仁。

沙織は、同情の気持ちが湧き上がって
くるのを、押さえられなかった。
と同時に、娘のために、どんなことを
しても、この人を婿にしなければ…
そう、どんな方法を使っても… 

恐ろしい決意も、浮かび上がってきた。
ごめんなさい、ご主人さま… 私は清音の
ために、たとえこの身を汚しても…
亡き夫に祈る沙織であった。

「安仁さま!」
ささやくような、しかし力強い声。
ハッして安仁がふり向くと、沙織の顔が迫ってきて…
二人の唇が重なった。

富田川のほとりで、焼けつくような情欲の
炎に身をまかす2人であった。
安仁は胸の奥に長年ためこんだ思いを、
すべて沙織の肉体に叩きつけた。

沙織は背徳感にさいなまれながらも、
久しぶりにたくましい男に刺し貫かれる
快感に、体が正直に反応した。

そして炎が燃え尽き、灰となるころ…
むせかえるような、お互いの体の匂いにまみれながら、
2人は恐ろしい契約を取り交わした。

安仁は庄司の家の婿になり、清音と夫婦になる。
そのかわり、月に1・2回は人目を忍んで、
こうして2人で逢い、契り合う…

そう… そんなふうに夫婦生活を送っていれば、いつか
この人も清音の良さがわかってくる、清音を心から愛して
くれるようになる。
それまでは私の肉体を餌に、この人を、
この家に縛りつけておく。
これで、みんな幸せになれるはず…


3日後、祝言がとりおこなわれた。
安仁は「庄司清次(しょうじ の きよつぐ)」と
名を改め、庄司の家を継ぐことになった。
清音は、それまで見せたこともないような、
幸せそうな笑顔を浮かべている。

輝くような美しさの、18才の花嫁。
しかし、夫と母の笑顔が仮面だったとは、
夢にも思っていなかった。



時の流れは、人の心に微妙な変化をもたらす。
清音の子供っぽいところや、甘えたような声しか
知らなかった安仁… いや、清次だったが、猫の
ようにまとわりついてくるその体が、いつのまにか、
すっかり大人になってるのに驚いた。

夜の交わりを重ねるうち、清音に対する
愛情は、少しずつ深まっていく…
考えてみれば、これほど美しい妻から一途に
思われて、悪い気のするはずはない。
まさに、沙織の狙いどおり… である。

一方、予想外の変化が、沙織の心に起きていた。
安仁=清次との逢瀬を重ねるうち、だんだん
本気でのめりこむようになったのだ。
亡き夫と娘に、すまないと思う気持ちはあったものの、
まだまだ沙織も、女を捨てるような年齢ではなかった。

いつしか娘の清音は、男を取り合う
ライバルのような存在に思えてきて… 
そんな自分に、愕然とする沙織であった。

そして… 破局の時が来る。



延長3年(西暦925年)、清音は未亡人になった。

この年の秋、庄司の家は、葬式を2つ同時に出すことに…
主の清次と、姑の沙織が、富田川の「庄司ヶ淵」という
深い淵に落ちて、2度と浮かび上がってこなかったのだ。

10年ほど前にも溺れ死にが出て、それ以来
人の近寄らなかった、危険な淵である。
2人が、そんなところで何をしていたの
だろうと、村人はしきりにうわさした。

愛する夫と母を、同時に失った清音の
錯乱ぶりといったら、なかった。
夢に何度も、母親の最期の姿が浮かんできた。

水中に沈みながら、沙織の唇は笑っていた。
「来世で会おう、清音…」
そう言っている、唇だった。
長い黒髪が、清次の首に巻きついていた。

髪だけでなく、沙織の手足が蛇のようにからみつき、
本来なら泳げるであろう清次を、地獄の道連れとして、
水の底深くへと連れて行ったのだ…


結婚から2年、バレないほうが不思議であった。
母の不倫の現場に出くわした時、
娘の瞳には、蔑みの色が浮かんだ。
娘の蔑みが、母を1人の女に戻した。
男を奪い合う、1人の女に。

激しくつかみ合う2人の女を、夫が止めに入った。
娘は泣き崩れ、激しい興奮状態の母を、
夫が必死に押さえる。
あの、ささやくような上品な声の義母が、これほどの
凶暴さをムキ出しにしている姿は初めてであり、
夫には恐ろしかった。
水辺でもみ合う夫と母、その一瞬のスキをついて、
清音が2人を突き飛ばした…


「夫は… 清次は… 私の、運命の人じゃなかった……
運命の人は、他にいる…」