安珍と清姫





1、 熊野古道(くまのこどう)




その魂は今、『月の都』にいる。
『月の都』とは、人間が死んだ後に行くところである。
そして再び、地上へ降り立つ時が来たのだ。

それは、ただの凡庸な魂ではない。
「必ず、もう1度、あなたと出会う… きっと出会うから…」
強い目的、探し求める何かがあった。
輝くような全裸に、長い髪をなびかせ、
魂は「河」へと入っていく。
地上に生まれ変わるために…

『月の都』はシュメール語で、「イトゥ・キ(itu ki)」という。
日本語に入って「イツキ」となった… かもしれない。
「斎場」の「斎」と書いて、「イツキ」と読む。



延喜(えんぎ)5年(西暦905年)。

現在の和歌山県中辺路町を、先ごろユネスコ
世界遺産に指定された「熊野古道」のひとつ、
「中辺路(なかへち)ルート」が通っている。
中辺路観光協会 公式サイト http://www.nakahechi.jp/

うっそうと茂る森の中を、ひとすじの
石段の道が、霧の中へと消えていく。
旅行会社のポスターの、そんな写真からも、
ただならぬ霊気が漂っていた。
どう見ても、ハネムーンやフルムーンで行くところではない。
この道を歩いていると、死んだ人に会うという。

さて、そんな不気味な古道にも、
途中ぽつぽつと集落がある。
そのひとつ、真砂(まなご)という集落に、
庄司(しょうじ=荘園の管理者)を務める、
藤原清重(ふじわら の きよしげ)という者がいた。
妻に先立たれ、一人息子と暮らしている。

その清重が、ある日…
小さな白い蛇が、大きな蛇にいじめ
られている場面に出くわした。
「これこれ、弱い者いじめはいけないよ」
大きいのを追っ払って、小さいのを助ける。

すると、その夜… 
1人の女が、訪ねてきた。
白い蛇は、その女のペットだという。
なるほど、女の着物の袖口から、
白い頭がチロチロ、のぞいている。

「白音ちゃんを助けていただいて、ありがとうございます…」
ささやくような声だった。
「私は、宇治の橋姫神社の巫女… 
沙織(さおり)と申します」
市女笠(いちめがさ)をとって、女は顔をさらした。
笑ったような優しい目をした、上品で美しい女。

それにしても、怪しい。
女が伴も連れず、1人で旅をしている。
しかも蛇に「白音(しらね)」なんて名前をつけ、
ペットにしてるいるとは…

家族や夫以外の男に平気で顔をさらすのも、
この時代の女性には珍しい。
もっとも、それは高貴な女性の話で、農村では
ふつうに顔を出して働いているわけだが。

しかし清重は、
「熊野坐神社に詣でる途中の巫女」
という説明に、納得した。
白い蛇は、神の使いと言うではないか。
巫女さんなら、そういうペットもありか。


その晩、沙織は清重の屋敷に泊めてもらうことに。
「宇治といえば、都も近い。何か目新しい
話でも、ご存知ないですか?」
清重が自ら、夕餉(ゆうげ)の膳を運んで接待をする。

「そういえば… 新しい歌集が編まれた
のは、聞いていらっしゃいますか?」
ささやくような優しい声が、都の最新ニュースを解説する。
「その編者の紀貫之(き の つらゆき)さまが、序文の中で、
6人の優れた詠み手を選んでらっしゃるんですけど…」

この年は「古今和歌集」が、成立した年でもある。
編者のひとり、紀貫之は、女性読者の
ために「ひらがな」で序文を書くという、
画期的な試みをしている。

ひらがなが世に広まってから、まだ間もないころであった。
この新しい、丸っこい文字をバカにする風潮も強く、
「男は漢文を書け。ひらがなは女文字」
という認識が一般的。

そんな風潮の中、あえてひらがなで書いた序文
(仮名序)の中で、貫之は9世紀中盤以降の時代
から、6人の優れた歌人を選び、論じている。
後の世に「六歌仙(ろっかせん)」と呼ばれるメンバーで、
小野小町が1番メジャーだろうか。

その「六歌仙」の中に、「喜撰(きせん)法師」という、
宇治山に隠棲していた世捨て人の元祖のような
人がいて、
「私の、おじいさまらしいのです… その方」

沙織は喜撰法師の孫だ、という。
「ほ〜」
清重は、すっかり感じいってしまった。

初めて見たときから、その美しさと、ささやくような
声に、すっかり魂を奪われていたが、そのような
名高い歌人の血統だったとは。
どうりで上品で、田舎臭さがまったくないわけだ。
沙織の方も、清重に好意を抱いているように見える。


その夜、それが運命であるかのように、
2人は床をともにした。
清重は、沙織にのめりこんでいく。
そのささやくような声… 寝床で愛撫する時も
決して大声にならない、遠い嵐のような、
切ないあえぎ声…



1週間後、沙織は清重の、正式な妻になっていた。

沙織は寝床の中で、清重の執拗な
愛撫を受けながら、告白した。
白蛇の白音がいじめられていたのは、仕組まれた演出。
清重と知りあう、きっかけが欲しかった…

5年前に1度、熊野に詣でたことがあり、その時に
清重を見かけ、恋に落ちたという。
当時はまだ、清重に前妻がおり、前妻が
死にますようにと、必死に祈願した…

祈願しながら、懸命に働いて旅の費用を蓄え、
5年たった今年、再び熊野を訪れてみたら、
祈願したとおり…
あなたは、男やもめになっていた。

異常な告白も、沙織の優しい声でささやかれると、
一途な愛ゆえの行動と感じられ…
清重は感動してしまった。



ある時、清重が仕事に出ると、古道の石段に、
1組の男女が立っていた。
鳥肌が立つ。
一見して、この世の者たちではない、とわかった。

女は、白い寝巻きのままで、顔に濡れた髪が垂れている。
男は、ドザエモンのようにずぶ濡れで、顔色が紫。
首に濡れた長い髪が、死刑台の
ロープのようにからみついている。

「あの女に、深入りするでない… あれは、魔性の者」
「すぐに、離縁なさるがよい」
2人は背を向けて、霧の中へと歩き去った。


「死者に会った」
と、清重は悟った。
しかし、沙織の肉体にますますはまりこんでいく
清重は、その忠告に従うことはできなかった。

そのほっそりとした体、その匂い、そしてあの声…
「沙織… お前を手放すなんて、私には… 
私には、できないよ…」
「ああ… 旦那さま… 私、幸せ…」
からみ合う男女の肉体曼荼羅を、白い蛇の
ルビーのような目が見つめていた。

しばらくして、白蛇の白音が、裏庭で
死んでいるのが発見された。
死因ははっきりしない。
それと重なって、沙織の妊娠が発覚。
清重と出会って、ひと月が過ぎたころであった。

この年、奇怪な彗星が空に出現したと、記録にある。



翌年、延喜6年(西暦906年)。

沙織は、女の子を産んだ。
夫の名から「清」の字を、死んだ白蛇から「音」の
字を取り、「清音(きよね)」と名づける。

後世の伝説にいう、「清姫」である。