安珍と清姫





プロローグ 天国(あまくに)




いつのことかも定かでない、遥かなる神代(かみよ)の昔。
1人の若者が命からがら、和歌山県に逃げこんできた。
このころの和歌山県は、木が多いからだろう、
「木の国」と呼ばれている。
(後に「紀の国」「紀伊国」「紀州」となる。)

この若者、「出雲(いずも)の国」(島根県東部)
の王子で、名をナムチという。
後に王になった時、「大」がついて、
オオナムチとなる。

しかし、この時点では、王になれる
可能性は少なそうに見えた。
兄弟、つまりライバルが多いうえに、
彼らから憎まれていたから。

ナムチの兄弟は、ひとまとめに
「八十神(やそがみ)」と呼ばれる。
八十(やそ)とか、八百(やお)、八千(やち)、八百万
(やおよろず)など、単に「たくさん」という意味で、
本当に80人も兄弟がいたわけではない。
八百屋さんも、800種類の品物を
売ってるわけではないように。

ナムチは優しく男前だが、人が良すぎて、
ヘタレなところがあった。
そういうところが女性の心をつかむのか、
彼は生涯にわたってモテた。
妻も子も、たくさんいる。

八十神たちのアイドル的存在だった、「因幡(いなば)の国」
(鳥取県東部)の王女ヤガミ姫も、ナムチに惚れて、
八十神たちの求愛を蹴ってしまう。

これがきっかけで兄弟たちの恨みを買うこと
になったナムチは、2回も殺されかけた。
(1回目は焼けた大石の下敷きに、
2回目は大木に挟まれて)
2回とも心臓が停止したが、奇跡的に蘇生した。

ナムチの母は、このままでは3度目の正直で、
今度こそ殺されると思い、つてをたよって、
「木の国」へとナムチを亡命させたのだ。


現在の和歌山市秋月、ここに、腹違いの兄で
「木の国」の王、イソタケルの王宮がある。
「よう来たな、ナムチさん。話は聞いたぞ…
モテる男は大変やな! まあ、ゆっくりしていけ」

ちなみに、このイソタケルは後に林業の神として祀られ、
王宮のあった地には、社殿が建てられる。
が、ヤマト勢力の進出にともない、奥地へと追い
やられ、伊太祈曽(いたきそ)の地に鎮座。
現在の「伊太祈曽神社」となる。
公式サイト http://itakiso-jinja.net/

イソタケルの社を立ち退かせた跡地には、
ヤマト朝廷と関わりの深い「鏡」を祀る社、
「日前(ひのくま)神宮」が創建される。
公式サイト http://www10.ocn.ne.jp/~hinokuma/index.html

話を戻し…
ナムチを歓待していたイソタケルだが、
物見から報告が入ると、顔を強張らせ、
「ナムチさん。追っ手の軍勢が、すぐそこまで
来とるようだ… ここも危ない」

「あうう… ここもダメとなると、一体どこへ…」
「クマノへ逃げなさい。我々が追っ手を食い止めとくから」
ナムチはひるんだ。
「クマノというと、まさか…」

「そう… 『黄泉比良坂(よもつひらさか)』を
通って、『根の国』へ行くのだ。
そこまでは、あなたの兄弟も追ってこれんやろ」

クマノ… そこは、死者の世界と言われている。
イソタケルの2人の妹に案内され、ナムチは
びくびくしながら、山道を進む。
巨木がそびえ、空も見えず、霧の中に果てしなく続くこの道は、
まさしく冥界の入り口、『黄泉比良坂』そのものだ。

(この道の果てにたどり着くのは、やはり…
『根の国』(冥界)なのだろうか…)
2度も死の世界から帰還したナムチだが、
今回のように生きながら冥界へと降るのは
初めてであり、なんとも薄気味が悪かった。


『根の国』へと、到着した。
そこは現在、「大斎原(おおゆのはら)」と
呼ばれる、熊野川の中州の島で、後世、
熊野本宮の社殿が建てられる場所である。
(さらに後の明治時代、洪水で社殿が流され、
現在鎮座する社殿地に遷った。)

熊野本宮(熊野坐神社) 公式サイト
http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/hongu/

この古代世界の大斎原は、こんもり繁る森と、
白い小石を敷き詰めた聖域があるのみだが、
恐ろしいほどの霊気が立ちこめている。
ここは、この世の場所にして、この世ではない…

「霊が飛び交っている…」
ナムチは初めて、霊魂というものを見た。
それも、おびただしい数の。
虫、蛍、蝶… いや、鳥というべきか。星のようでもあった。

白い小石の聖域に、1人の男が座っている。
ヤマタノオロチを滅ぼし、出雲の国を平定した英雄…
ナムチは、対岸から呼びかけた。
「お久しぶりです、父上… 逃げてきました」

ナムチとイソタケルの父、スサノオは目を開け、
無数の魂の舞い踊る様を見つめた。
「あれから、どれだけの月日がたったかな…
小舟に、わずかな水と食料を積み、
大海原に流されたあの日から…」

セグロウミヘビとともに黒潮に乗って漂流した日々…
出雲の国に流れ着き、邪悪なヤマタノオロチと戦った日々…
そして出会った妻たち、授かった子供たち。
回想は、バシャバシャと跳ねる水音に破られた。

「父上、ここが本当に『根の国』なんですか?」
ビクビクしながら川を渡ってくる息子に、ようやく目を向け、
「正確には、ちがう」
「え?」

「簡単に言うと、この場所は『根の国』とつながっている。
火山から蒸気が噴き出すように、『根の国』の霊気が漏れて
おり、この場所を何者も近づけない聖域にしているのだ」

息子をしげしげと見て、
「お前、よくここに入りこめたな… たいていの
人間は、恐怖で近寄れないものだが」
ナムチは大斎原に上陸し、白い小石の上に立った。
「私も恐ろしかったですよ… けど、追っ手が」

そういえば、道案内をしてくれたイソタケルの
2人の妹も、いつの間にかいなくなっている。
「お前の兄弟たちは、ここまで入ってこれん。
あいつらにそんな度胸はない…
イソタケルだって、川を渡る勇気はなかった」

ということは… 俺のせがれたちの中で、
こいつが一番度胸があるということか。
出雲の国を継がせるのは、こいつか。
しかし、どうにも頼りなさそうな感じだが…
鍛えれば、モノになるか?

ナムチは、ほっとした様子で、
「そうですか。じゃ、ここにいれば、私は安全…」
その時。
スサノオの背後の森から、美しい娘が現れた。

ナムチの目は、娘に釘付けになった。
「おう、娘のスセリだ。お前の妹… って、ことになるか」
もちろん、腹違いの。
スセリはナムチを見ると、顔を赤らめ、横を向いてしまった。

森に花を摘みに行っていたらしく、ひとつかみの花束を
手に、もう一方の手で、長い髪をいじっている。
照れ隠しなのか、手にした淡いピンクの花を、なめてみる。

雫の浮いた花弁を、チロチロと赤い舌で
なめる仕草は、少女とは思えないほどの
エロティシズムが漂っている。

ナムチはスセリに近づき、野の花を摘むように、
スセリの手から花束を、そっと奪い取る。
「私の体の余っているところで、あなたの体の
足りないところをふさいで…
2人でひとつになり、国を作ってみませんか?」

スセリの顔がさらに紅潮したが、その瞳は、恋と好奇心と
目覚めたばかりの情欲で輝いていた…





延長(えんちょう)5年(西暦927年)、
第60代・醍醐(だいご)天皇の御世。

「ふうぅ…」
真砂(まなご)の集落の、庄司の屋敷で、
清音(きよね)はため息をついた。
後家になって、2年になる。
オオナムチとスセリ姫の神話は、彼女の好きな話で、
亡き夫が寝物語に、よく語ってくれたものだった。

この後、父のスサノオは、ナムチに
さまざまな試練を課す。
毎回ピンチになるナムチを、一途な
スセリが手をつくして助ける。
(私だって好きな人のためなら、どんなことをしても…)
力になってあげる、と清音は思う。

やがてナムチはスセリと夫婦になり、根の国を脱出。
スサノオから武器を授かり、憎い兄弟の
「八十神(やそがみ)」たちを倒す。
そして「大国主(オオクニヌシ)」の
称号を得て、出雲の王となる。
メデタシ、メデタシ…

この神話の舞台が地元だという点も、
気に入ってる理由の1つだろう。
屋敷の前の道を、八十神に追われるナムチが通り、
帰りはスセリと手を取り合い、出雲へと帰還するのだ。

「いいなあ…」
と、清音はつぶやく。
ナムチとスセリは、前世からの因縁で結ばれていた、
運命のカップルだったにちがいない。
「私にもきっと、そんな運命の人がいるはず…」

夫は、私を裏切った。
部屋を整理していたら出てきた、熊野に伝わる
神話をまとめた夫の書き物を細く引き裂いて、
熱く疼くような22才の体を、敷物の上に横たえる。

くっきりした二重瞼の、猫のような瞳。
柳のような、ほっそりとした体つきも、
猫っぽいしなやかさがある。
いつも何か困ってるような眉をした、かよわい、
守ってあげたくなるようなタイプの女だった。

「あの人じゃない。私の運命の人は…」
あんな裏切り者の夫が、運命の人であるはずがない。
「きっと、だれか他にいる… きっと…」

その時、屋敷の門の方で、騒いでいる声が聞こえた。
下女の話だと、熊野坐神社(くまのにます
じんじゃ=熊野本宮)に参拝する旅人が、
一夜の宿を乞うているらしい。

「馬小屋でもいいから」と言うのだが、なにぶん
不気味な奴で、門番が追い払おうとして、
先ほどからモメてるとのこと。

「僧ですか、修験者(しゅげんじゃ)ですか?」
「いえ、刀鍛冶(かたなかじ)らしいです。
大和(やまと)の天国(あまくに)と、名乗っております」
「泊めてあげなさい。馬小屋と言わず、土間にでも」

田舎で退屈な毎日を送る身にとって、
旅人は貴重な情報源である。
どれほど不気味な奴なのか、興味もわいた。
下賎な職人風情に、女主人がわざわざあいさつに
行くことは通常ないが、暇だったのと好奇心から、
清音は土間に向かった。

なるほど、職人らしき男が土間に
うずくまって、何かを研いでいる。
清音に気づくと、あわてて向きを変え、平伏した。
「奥方さま、ご親切にどうも… せめてものお礼に」
土間にかけてあった、鎌やナタを研いでいるのだという。

清音は、男が向きを変える時の動きが、
不自然なのに気がついた。
「そんなことは、しなくていいから。
後で、湯づけでも運ばせましょう。
それより、お前… 足にケガでもしているの?」

男が、顔を上げた。
清音は、ハッとした。
片目がない。
左目が、暗い空洞になっている。

男は、すうーっと立ち上がった。
清音は、またしても、息を飲んだ。
左足が、もものつけ根から、なかった。

片目片足の刀鍛冶、天国(あまくに)。
そのおぞましき姿に戦慄が走った清音だが、
なぜか目をそらすことができない。
一本足で、揺らぎもせずに立っている男を
見ているうち、涙がひとすじ、頬を伝う。
「お前… その体で、この熊野の山道を……」

天国は、暗い笑みを浮かべ、
「慣れております」
大和での住まい兼仕事場も、唐傘山(からかさやま)
という山の中腹にあり、杖をついて山道を登るのは、
日常的なことだと。
「むしろ、それが修行なのです」


清音は飯と漬物と白湯を、下女に用意させた。
天国はそれをいただきながら、身の上話… といっても、
ここ数年のことに限った内容だが、清音に話してきかせた。

刀の売りこみで、京の都に出た時のこと。
左大臣忠平(ただひら)に仕える、相馬小次郎
(そうま の こじろう)という、若い坂東武者
(ばんどうむしゃ)と出会った。
小次郎は、天国の打つ刀をたいそう気に入り、その腕を
高く評価したうえで、こんなリクエストをしてきたという。

「なあ、天国。こんな刀は作れないだろうか。
切れ味は鉄兜をも真っ二つにするほど、なおかつ、
容易なことで折れない曲がらない頑丈さをもつ…
そんな夢の刀を」

折れないためには、衝撃を吸収するよう、
刃を柔らかくする必要がある。
曲がらないためには、刃を厚く、硬くしなければならない。
「折れず、曲がらず、よく切れる」
小次郎の要望は矛盾を含んでおり、そんな刀が
現実にあったら、まさしく「神剣」と言えよう。

しかし、天国は答えた。
やってみましょう、と。

こうして「夢の刀」の研究を始めたが、あれこれやっても
失敗ばかりで、アイデアに煮詰まってしまった。
そこで熊野本宮に参拝し、霊感を授けて
くれるよう、祈願するつもりだったのだ。

清音は、刀の話なんかに興味はなかったが、天国がその
おぞましい姿にもかかわらず、都の人々とつき合いがある
ことに驚き、また、刀の話をする天国の独眼が、きらきらと
輝いて、意外に美しいことに、心を打たれた。

「…お前の、その訛り。生まれは
大和ではなく、出雲ではないの?」
天国は、じっと清音を見つめた。
「…そのとおりでございます。よく、おわかりで」

このころには、日本各地から熊野に巡礼が通うように
なっており、旅人を家に泊めてやる機会も多く、それで
清音は出雲訛りを覚えていたのだが…

余計なことを聞いてしまったようだ、と清音は気づいた。
天国は出雲の出であることを、隠しておきたいようだ。
生まれ故郷に、いやな思い出でもあるのかもしれない。
あのような姿になったことと、何か関係があるのか…

「ごめんね、変なこと聞いて。許しておくれ」
「いえ…」
天国は、目を伏せた。
「奥方さまは、美しい方です… 
何より、心のお美しい方です」

清音は、顔を赤らめて、立ち上がった。
「もう夜も更けました。明日は朝食を
とってから、おたちなさい」



その夜。
土間で、天国が藁にくるまって眠っていると…
ふいに、良い匂いが漂ってきた。
顔を上げると、そこには

薄物だけをまとった、全裸の清音が立っていた。
射しこむ月光に、汗でしっとり濡れた肌が、光っている。
清音は泣いていた。
上気した頬を、涙が伝っている。
「眠れないの… こんなことをしては、いけないのに…
でも、もう… 一人で寝るのはイヤなの!」

天国が反応する間もなく、清音は覆いかぶさってきた。
ワラにまみれ、天国の引き締まった
体に、蛇のように巻きつく。
太ももに挟まれた、天国のただ1本の
足が、ひんやりと湿るのを感じた。
清音の秘められた部分からも、涙が流れていたのだ。

天国も、もはや進むしかなかった。
固くなった清音の胸の先に顔を押しつけ、
両手は、ぬめる肌をまさぐった。
顔を上げると、涙に濡れた、酔った
ような切ない瞳があった。

喘ぐ口から、うごめく赤い舌と、
糸を引くものがのぞいていた。
熱い息を浴びているうちに、天国も酔った
ようになり、かつて経験したことのない
感覚が、湧き上がってきた。

(俺は、この女と… はるか昔に会ったことがある…
こうして、まぐわったことがある……)

いつの間にか、土間も屋敷も消え… 
互いの体をむさぼり合う2人の周りを、無数の
光る虫… 蛍か蝶、あるいは鳥か、星のよう
にも見えるものが飛び回っていた。

それは、決して起こるはずのない奇跡。
一瞬の数千分の一より短い時間、蘇ってきた前世の記憶。



翌朝。
清音は、天国を見送らなかった。
寝床で身を固くして、己を恥じていた。
私は、なんということを… よりによって、あんな卑しい、
あんなおぞましい男と… あさましいにも程がある。

体を洗い清めたはずだが、乱れた
髪の間から、ワラくずが出てきた。
夕べの記憶がよみがえり、恥ずかしさに体が熱くなる。
が、恥ずかしさだけではない… 
清音の体は、またしても涙を流していた。

(私には、運命の人が待っているはず… 前世から
結ばれる因縁の、私だけを待っていてくれる人が…)

「運命の人」。
そういうのは、もしかしたら、あるのかもしれない。
しかし「運命の人」に出会っても、気づかない
のでは意味がないだろう。


山道を2本の杖をついて、天国は
ひょいひょいと歩いていく。
帰りはもう、この道を通ることはできない…

熊野本宮からまっすぐ吉野に北上する、
「奥駆け」を通って帰ろう。
このルートは修験者の使う険しい山道で、山歩きに
慣れた天国でも命をかける必要があった。

あの人と夫婦になって、一生をともに暮らせたら…
そんな、かなうはずのない夢が一瞬、頭をよぎった。
それは許されない。
「俺には、やらねばならないことがある…」

相馬小次郎のオーダーに答えて、
「夢の刀」を完成させること。
それもある。
しかし、もっと大きな野望、やり遂げ
ねばならない使命があった。

この国に、「逢魔ヶ時(おうまがどき)」をもたらす。
そのために、俺は生まれてきたのだから…