どす黒い空間に、佇んでいた。 一瞬、そこは闇の世界への入り口かと思う程に、空気は冷徹に彼の肌を流れていく。過去何度も夢見た光景だと、理解するのに思いがけず時間がかかった。 迷い込んだその空間から、脱出する方法は知らない。 理由は一つ一一脱出する気がないからだ。 だが、今は……。 ふと、ヒイロは心臓を射抜くような視線を感じて振り返った。視線の先には闇のみが存在する。 しかし、よく目を凝らすとその奥に、微かに気配が感じられた。 懐かしい、気配だ。 そして、彼がもっともよく知っている気配だった。 「……リリーナ?」 呟きと同時に、気配が形を成す。 そこに一一彼の見知った姿があった。 だが、彼の知っている彼女とは、明らかに纏う空気が、違う。それはすぐに感じられた。 まだ彼女の表情が確認できる程近い距離ではないために、ヒイロにはその原因を探ることが容易ではなかった。往々にして、彼女がこんな空気を放っていること事態、初めてだったのだ。 どう対処していいのか迷っていると、彼女はゆっくりと彼の方へと近付いてくる。そして、優雅に、その両手を伸ばして来た。 「リリーナ、どうした?」 声を、かけた。 その、刹那。 彼女の、細くしなやかな両手が彼の方に伸びたかと思うと、その手が彼の首を力を込めて掴み掛かったのだ! 「っ!?」 驚愕に、声もでなかった。 顔を上げてこちらを見つめるリリーナの瞳は、哀憎の色をたたえている。 衝撃と混乱に身動きができない。 ヒイロは殴られたような衝動に、身動き一つ取れずに、朦朧とする意識の中彼女を見つめ返していた。 リリーナの瞳には、怒りの色。 その中には哀しみの色。 ……リリーナ? 首にかかる華奢な手に、力がこもる。その度に、何かに急かされるように、暗闇が近くなる。 ……何が…? 解らない。何が彼女をそうさせるのか。 解らない。オレは彼女の事を。 解らない…? 一一意識が薄れる中、息をとめるように目を伏せようとした彼に、リリーナは口を開いた。 ア・ナ・タ・ガ・ニ・ク・イ…………! 一一目が…覚めた。 辺りは暗く、静寂だけが漂っている。今だ夢の続きかと疑ってしまう程に。 群青の瞳に写るのはそれほど高くない天井。ここは、自分のマンションだった。 ヒイロは汗だくになっている自分にも気付かずに、ただ呆然と慣れて来た眼を凝らした。 こんな日に、こんな夢を見ていいはずがなかった。 今日は、一ヶ月ぶりにリリーナとプライベートで会っていたと言うのに。 そして、彼の隣には、彼女が………。 そこでヒイロの視線が凍った。 隣で眠っていたはずのリリーナの姿が、なかったからだ。 その時、部屋のドアがゆっくりと開く。そこに、探した少女の姿があった。 「起きていたの? ヒイロ。大丈夫? すごくうなされて汗をかいていたから、今タオルを取りに行っていたの」 可憐な仕種でそう言うと、リリーナは彼の方に手を伸ばした。 だが、ヒイロは反射的に強ばった。 一瞬息を飲む程に、彼はその行為に恐怖を覚えた。 それに、リリーナは気付いた。不信に思う程彼の表情は硬く、声をかけていいものか躊躇すら覚える。そうして二人が滞った空間に、声が響いた。 「………オレを……憎いと思ったことが……あるか?」 打つような悲痛な声に、リリーナは目を見張った。 「何…ですって?」 何を言われたのかすぐに理解ができない程に驚愕して、次の瞬間には首を振っていた。 「ヒイロ、あなた、昨日お酒を飲み過ぎていたから…」 「オレは正気だ……答えろ」 深く俯いたヒイロの表情は、伺えない。 リリーナは困惑したように首をかしげた。 「ヒイロ…あり得ないことよ」 「……憎むとしたら、どんな時だ」 戸惑いだけが、リリーナを襲う。ヒイロがなぜ、急にそんなことを言い出すのか見当もつかなかった。 ただ、彼がひどく傷付いているのだけが、痛い程に伝わって来る。 それでも、答えなければならない。そうしなければ、何かが切れるような気がしてならなかった。 「そうね……」 微動だにしない彼の隣に、腰を降ろす。 「そう、ね」 もう一度呟いて、彼を見つめる。彼は変わらずに下を見ていた。本当は何を見ているのか、解らなかったけれど。 「……あなたが、先に死んでしまった時」 ヒイロは弾かれるように顔をあげた。その瞬間、こちらを見つめる彼女の優しい笑顔が視界を埋めた。 「後は……あなたが、わたくし以外の女性を……愛してしまった時、かしら?」 一瞬、息をとめる。 そして、ヒイロはリリーナの手を引き寄せ、首に当てるともう一度問い返した。 「それ以外は……?」 「思い付かないわ」 真摯な光が、彼女を見つめ続ける。彼女の瞳の中に、嘘を探したいと言わんばかりに。 彼女がこの手に力を込めるのを待つように。 だが、しばらくしてヒイロは、どこか諦めたように息を漏らした。 「……後半は、あり得ない」 リリーナは目を見張ると、少し眉を潜めた。微かに怒ったような気配とともに、彼の首に置かれた手を強引に後ろまでまわすと、可憐に、優雅に、ヒイロの唇に自らのそれで、触れた。 滅多に無いリリーナからの口づけに、ヒイロが驚いていると、リリーナは上目使いに睨んで来た。 「前半もあり得ないと、言って。ヒイロ」 その要請には、断言する気が起きなかった。 ヒイロは微かに首を振る。 「ヒイロ、お願い。約束、して」 リリーナの、懇願する声が悲痛な響きを宿していた。今、自分がどんな顔をしているのか、その時ようやく気付き、ヒイロは目を伏せて息を漏らした。 きっと、今にも命を断ちそうな、自虐的な顔をしているのだろう。 「……あり得ない……これでいいか?」 「約束、ですわよ?」 「ああ」 「……証は?」 矢継ぎ早の返しに、ヒイロは声を詰まらせた。 「どうすればいいと……」 リリーナはまわしていた腕を解くと、そっと小指を差し出す。 「指きり」 無邪気な微笑みに、何かが緩んでいくのを感じた。刺のささった心から、傷を癒すような彼女。 その彼女の、小指は彼を待っている。 約束を、待っている。 ヒイロはその指に自分の小指を絡ませた。すると、その瞬間安堵したようにリリーナは小首をかしげ、呟く。 「ねえ、なぜ小指で約束の証とするか、知っていて? ヒイロ」 「いや」 「小指と小指を結ぶことで、繋がるでしょう?」 確信の疑問符に、彼は答えられない。 だから、リリーナは付け足した。 「ほら、見えませんか? 赤い糸」 視界が歪んだ。彼の目の前に写る彼女の姿が、あまりに眩しくて。 「初めから赤い糸が存在するなんて嘘ですわ。運命だと言うのなら、それは自分で作ることでしょう? わたくしとあなたの赤い糸は神様がくださったものではないわ。わたくしたち自身で結んだのだと、思いませんか? ねえ、ヒイロ。見えませんか? わたくしとあなたの、赤い糸」 返答しかねていると、リリーナはくすりと笑った。 「返事は、いいですわ。でも、お願いがあるの」 リリーナは右手の指で、彼と結んだ小指を指す。 「小指と言ったら、次は……何指?」 「? 薬指だろう」 「そう、次の指は薬指よ。だから」 瞬間。 リリーナの微笑みが焼き付くように、光を帯びた。 「次の約束は……薬指にしてね、ヒイロ」 ヒイロは息をつめた。 彼女はいつでも、変わらず優しく笑う。 そんな彼女を、縛る権利が自分にあるのかと問われたら、彼は断言する自分がいることを知っている。 ない、と。 そんな権利も価値も、自分には無いと。 だが、それでも、彼女は求めるのか。本当に? 相反する世界に足をつけている自分を。 「もし……」 どす黒い空間はいつでも背後に存在する。いたずらに彼女を傷つけると分かっていても、押さえられない衝動は、そこから生まれる。 「もし断ったら、オレを憎むか?」 予想外の言葉にはっとして、リリーナは強ばった。 一瞬傷付いたように瞳を歪ませ、苦々しく笑う。 「……憎むかも、しれません。こんなにわたくしを縛り付けたのに、捨てたって、言ってしまうかも」 口調が弱かった。リリーナは微かに俯いて、絞るように答えた。ヒイロにその気が無くても、彼女の心には重く響く台詞になる。気を緩めたら涙腺が緩みそうな程。 そんな彼女に気付き、ヒイロはリリーナの身体を抱き寄せた一一優しく、労るように。 「その時は、お前に殺されてやる」 耳元で囁かれた声は、謝罪を込めたにしては、刺があった。それでも、今の彼にはそれが精一杯で。 「ヒイロっ」 驚いたリリーナは慌てて顔をあげた。 「ごめんなさい。嘘ですわ。あなたが誰を選んでも、わたくしあなたを恨んだり憎んだりしませ……っ」 言いかけた声は、無情に封じられた。 彼の、指で。 言い切られることが、辛かった。 彼女以外を選んだ時まで、聖女のように笑顔を向けられたくなど無かった。それが、虚勢だとしても。 例えそれが無駄な思考でも、想像もしたく無かった。 やがて、ヒイロは戸惑うように視線を彷徨わせるリリーナの手を取ると、その指を引き寄せた。 彼なりの、彼女への、思いを込めて。 「安心しろ。あり得ないと、この指に約束する」 リリーナは、息を飲んだ。 彼がそう言い、口づけをくれた指は。 左手の薬指だった一一。 fin |