+++ 吐 +++

王女話が読みたい読みたいと、うわごとの様にいい続けていたら、何と頂いてしまいましたv
ありがとうア…nego1さん!スパルタ万歳!!(←まてこら)
この静かな緊張感が好きです。(by十月)





じとりと背に浮かぶ嫌な汗と、冷えた体に予感があった。寝返りを打ってやり
過ごそうと無駄な努力を重ねていたが、案の定、ふと気を許した隙に嘔吐感が
胃からせり上がって来た。

うっ。

ビビはかけていた毛布を静かに引き降ろすと、口元に手を当て、急いで、しか
し慎重にハンモックを降りた。
この不安定な寝床に慣れるまで乗り降りの度にずり落ちては、強かに床でお尻
を打って何度もナミさんに笑われた。ここで落ちて、ばたんと物音を立てて、
こんな真夜中に彼女を起こす訳にはいかない。
音を立てないよう裸足で階段を駆け昇り、ぎいと小さな軋みだけを残して、彼
女は倉庫に出た。
ちらりと見張り台の上にいるであろう人物(今夜は誰が見張りだったかしら
?)の事が頭を掠めたが、別にトイレに駆け込むくらいの事を不審には思わな
いだろうし、角度からして自分の姿は見えないと判断し、口元を押さえたまま
小走りに甲板へと飛び出た。
が。
「あ」
「え!」
思いがけず倉庫前に人がいた。
慌てて急ブレーキをかけたからぶつかりはしなかったが、ビビの爪先は相手に
接触するぎりぎりの近さで止まった。俯いた鼻先に影の色合いに染まった服が
ある。その近過ぎる距離に相手の気配と匂いがふっと鼻の辺りを包んだ。
ヒトという生き物は思いの他、匂いにはかなり敏感である。ヒトの嗅覚は犬や
猫に劣るとされているが、実の所、ヒトは犬並の嗅覚細胞を備えているらし
い。
だからと言う訳ではないが、ビビはその匂いだけで相手が誰であるか分かっ
た。
これが料理人なら近付かなくても煙草の香りが漂うし、ナミさん(部屋で寝て
いたからその可能性はないけど)だったら女性らしい甘さを備えた柑橘系の気
配が感じられる。刀を携えた剣士ならばつんとした鉄錆の微粒子を身に纏って
いるし、ウソップさんは船の修繕の匂いで、タール塗りや材木を削る風景を連
想させる。トニー君はそもそも種族が違うから間違えようがない。
この匂いはその誰にも当てはまらないから。
「ルフィさん!」
ビビは一歩後退してから、顔を上げ、相手の名前を囁いた。
そのままの位置で驚きに任せて頭を上げていたら、きっと彼の顎に頭頂部でク
リーンヒットを喰らわせていただろう。
ゴムだから痛くないだろうけど。
一応、最低限の礼儀くらいは守らないと。
「…なんだ、ビビか。おどかすなよ、サンジかとビビったじゃねェか」
ビビった?
それはギャグのつもりなのかと、一瞬突っ込みを入れかけたが、相手がどんな
人物であるかを思い出して止めた。
彼は咄嗟に意図的な語呂合わせなどが言える人ではない。
回転の悪さをバカにしているワケではなく、ビビはルフィがそういう天然な個
性の持ち主であることを重々承知しているのだ。
否応なく承知させられた、とも言う。
ビビはふうと一呼吸置いて、改めてルフィと周囲の様子を確かめた。驚いたせ
いか、あふれる寸前だった嘔吐感が喉元から消えている。
夜の船上は思ったより明るく、普通に動く分には支障ない程度に視界が効いて
いた。
月が淡く青く辺りを照らし出し、波は赤ん坊の揺り籠を揺らすかのように優し
く船を抱いている。
静かで穏やかな、晴れの夜。
控え目にぴたぴたと船底を叩く波音が、遠く、近くに聞こえている。
見張り台から誰何の声がかからない所を見ると、今夜の当番は目の前の船長だ
ったようだ。
麦わら帽子の下の黒い髪が背景に溶けて、他の所はぼんやりと夜に輪郭を浮か
び上がらせている。
「何だ?ビビ、トイレか?」
急いでいたのを珍しく常識的に解釈したのだろう、この船の船長さんはそうの
んびり言ってトイレの方向を指差した。
間違ってはいなかったからそのまま頷いて肯定し、ビビは逆に聞き返した。
「そう言うルフィさんは?見張りじゃないの?」
指摘された途端、彼は露骨にぎくりとした表情を取った。それはもう、暗がり
でもはっきりと分かる程の狼狽ぶりであった。こんな様子を見て、彼の目的を
察しない人間などこの船には存在しない。
ああ、そういうコトね。
さっき、ビビったと言ったのはそういう理由からなの。
本当に隠し事の出来ない素直さに、彼女の悪戯心がちょっと疼いた。
ビビはにっこり微笑むと声を少し大きくした。
「つまみ食いは駄目ですよ、ルフィさん」
「わ、バカバカ、しーっ」
びたん
慌ててじたばたするのは予想していたが、ゴムの手で肩を掴まれ、口を塞がれ
るとは思わなかった。
「…!」
ルフィの匂いとちょっとした呼吸困難に、いったんは治まっていた吐き気がぶ
り返して来た。
ビビは口を塞いだ腕を掴んで無理矢理にその手を引き剥がすと、甲板を全速力
で横切り、船縁に手を当てて、海へ向けて頭を落とした。連れて解いた長い髪
がはらりと背中から下方へ流れた。
足が浮き、ちょうど胃の辺りが船縁の上に乗り上げる。
止めようもなく、せり上がってくるものをそのまま海へ吐き出した。
耳が不快な音を拾い、口内を酸っぱい流れが逆流していく。
流れは、体内から暗い海へと滑るように落ちていった。



はあと一つ息を付いて、浮いた足裏を爪先から甲板に下ろした。
胃はすっきりしたが、口の中に不快な内容物が残っている。振り返り、洗面台
で口をすすぎに行こうとしてして、目が合った。
「…」
ルフィが彼女を見ていた。
月の光に曖昧な筈の輪郭の中で、その瞳だけがやけにはっきりと夜とは異質な
黒さでこちらを捉えているように感じられた。
その目に射すくめられるように、足が止まり、呼吸が一瞬停止した。
「…」
船長さんは何も言わない。
ただ、こちらを見ているだけ。
快不快もなく、こちらの様子を探るでもなく。
何だろう。
底にたゆたう、色にするなら赤と形容出来る感情を抱えた視線で彼は彼女を見
ている。
何故、そんな風に私を見るのだろう。
何か言いたい事があるなら言えばいいのに。
彼は何も言わない。
何も言わないでじっと彼女を見ている。
常の朗らかさなど微塵も感じさせない様子で、ひたりと青い船長の中で、その
目だけが黒く、強い。
ビビはいたたまれなくなり、首を振って強引に交わる視線を引き剥がした。
そのままバス&トイレ室に歩いて向かい、ドアを開いて逃げ込むように中へと
滑り込む。
ぱたん
ドアを閉めた所で、ようやく吸引力の強い視線から解放された気がして、彼女
は少しの間、ドアに背を預けた。

危ない、危ない…。

あのままずっと視線を合わせていたら…。

きっと、引きずり出されたわ。

吐いてまで隠しているのに…。

小さな窓一つきりのこの部屋は、思った程暗くはなかった。白いバスタブが月
の光を反射して、ほんのりと室内を明るく見せている。影のようではあって
も、存在する一つ一つのものの輪郭が闇の中でぼんやりと保たれている。天井
にぶら下がっているランプをつけなくとも、用は足せそうだった。
何かにぶつかったりしないよう、一足ずつゆっくりと進んで、ビビは洗面台の
前に立った。暗い中、手探るように蛇口を捻り、細く流れ出た水を両手で受け
止めて口をすすいだ。口端にも酸っぱい感触があったので、口元も軽く水では
たいた。
それから、タオルを手に取って顔を拭っていると、ふいに鏡に映った自分の顔
が目に入った。
暗い背後に、暗い顔。
寝る前に下ろした髪が乱れてうねうねと周囲で渦を巻いている。目の周りにも
黒い翳りがあり、まるで、人生に疲れ、老いた女のようである。

みっともない。

これが一国の王女の姿だろうか…。

ビビは手ぐしで髪をざらりと整え、もう1度水で口をすすいだ。
すすいでから、体して不快でもなかったのに、勿体ない使い方をしたと罪悪感
が募った。
海の上でも水は貴重なのだ。

無意識にそういう行為をしてしまうのは、気が弛んでいる証拠だ。

この船に乗っていると、どうにも甘えが出ていけない。

明日からは気を付けようと、再びタオルで口元を拭きながら心に置き止めた。
それから外に出ようとドアノブに手をかけた所で、船長の目がどこからか彼女
を見た。ような気がした。

彼は外で待っているかもしれない。

ドアノブにかけた手が臆して動きを静止しようとしたが、彼女は堪えて、外に
出た。きいと入る時には気にならなかったドアの軋みが妙に耳についた。
甲板は青く、波の音以外は底を打ったように静かで…、船長の姿はなかった。
つまみ食いに行ったのかと、キッチンの方を見てみれば、明りはなくひっそり
としており。見張り台に戻ったのかと見上げてみても、距離と暗さに人がいる
かどうかの判別も付かない。耳を澄ましてみても、何の音も気配も感じられな
い。
声をかけての確認は時間的に不味い。
それに…、確かめてどうしようというのだろう。
月光に照らされた青い甲板の上で王女は暫し佇み、その視線を帆柱とその周囲
に彷徨わせていたが。
やがて、出て来た時と同じように足音を忍ばせて女部屋へと戻っていった。
下りた部屋ではナミが穏やかに寝息を立てていた。ビビはまた慎重にハンモッ
クに戻りながらも彼女の静かな眠りにほうっと安堵した。
毛布を肩まで引き上げ、吐瀉で体温の落ちた身体を暖めようと丸くなった。

さっきみたいな吐き気はこれで2度目。

理由は分かっている。

昼間のように賑やかで皆とばたばたしている時は問題ないのだけれど。

一人で落ち着いて考える時間が出来たりすると…。

ふうとため息をついて寝返りを打った視界に、丸窓がぴたりと中心に入ってき
た。青く、藍に満ちた夜空と、深く暗くより濃い藍に沈んだ海が丸い形に切り
取られて、鈍く光り、部屋の内部を浮き上がらせている。

あの暗い、変化のない風景を、見張り台の上からどんなことを考えながら見て
いるのだろう…。

結局、確かめずに戻って来てしまったが、彼は見張り台に上がったに違いない
のだ。

情けない所を見られてしまった。

彼は大丈夫か、とも、どうしたのか、とも聞かなかった。ただ、正体の不明
な、不可思議な赤い感情を漂わせた目でこちらを見ていた。
ただ、見ていた。

何もかもさらけ出して生きているようで、彼は稀に表情や思考を隠す。

計算づくの行動ではないと思う。

計算されてないからこそ、彼が表に出さない考えは探りにくい。

でも。

でも…。

さっきのルフィさんは…。

多分…。

もしかして、分かったのかしら?

涙を堪えて、吐いたことが。

涙は唇を噛み締めれば、我慢出来る。

でも、我慢し過ぎると吐く、ということは、最近知った。

皆といても泣きたくなる時がある。

皆といるから、泣きたくなる事がある。

悲しみ、怒り、悔しさ、嬉しさ…。

この身に渦巻く感情は今にも皮膚を突き破って飛び出しそうな程だけど。

中でも1番強い感情は。



「…何でこんなに弱いんだろう」



不甲斐無い自分自身への腹立ち。

人を巻き込む弱さが、許せない。






ルフィさんは、どうして怒っていたのかしら…。






ささやかな疑問と、大粒の涙を秘めたまま王女は海賊船の船底で眠りに落ち
た。彼女が眠る上では、夜の帳がさやさやと天を覆いくるみ、星々がその暗黒
のカーテンの狭間でちかちかと自らを燃やして煌めいている。見張り台で毛布
にくるまって座る船長が、くしゅんと小さくくしゃみをかまし、鼻を擦って空
を見上げた。
夜空に広がる満天の星。
船長はじいとその星の瞬きに見入った。
空は繋がり、海は続いている。


彼女の王国、アラバスタ。


「仕方ねェ、また、泣かすか」


ぽつりと呟かれた言葉を聞く者はなく。
船長は一人、見張り台で夜空を見上げ続けた。
風が緩く、船上を渡っていく。
今夜は月が綺麗だ。




明日も良い天気になるだろう。






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