夢のお告げ

日露戦争

@日清戦争の後
 1894年〜1895年(明治28年)の日清戦争で清国から旅順を含む遼東半島を租借しましたが、ロシア、ドイツ、フランスによる3国干渉により、清国へ返却させられ、すぐにロシアが居座り旅順、大連に要塞を構築しはじめたばかりでなく、満州の鉄道敷設権を獲得し満州の支配を拡大させていました。

A亜細亜の植民地
 イギリスは、清国とのアヘン戦争に勝利し1842年の南京条約、1858年の第二次アヘン戦争後の天津条約、1860年の北京条約によって香港、九龍半島を割譲させ、1877年にインドの植民地支配を完成させ、ビルマも支配していました。
 ポルトガルはマカオを領有していました。
 フランスはベトナム、カンボジアを植民地として更に清国南部(広東、広西、雲南)に勢力範囲を拡大していました。
 ロシアは1689年のネルチンスク条約、1727年のキャフタ条約で確定されていた国境を1858年の愛琿条約、1860年の北京条約で大幅に南下させアムール川を越えて日本海に達し、軍港都市としてウラジオストク(ロシア語:東方を支配せよ)を建設していました。

B日露戦争開戦
 ロシアは日本に返還させた遼東半島を占拠し旅順に要塞を建設し、満州を手中に納めたほか、日本が独立させた朝鮮に対し鴨緑江を超えて進出をしてきました、そのためロシアの暴挙を抑えるために、何度も妥協案をもとに交渉していましたが、ロシア側が無視をして日本を踏みつぶす方針であることが明確になったため、やむなくロシアに開戦したようです。 

C仁川沖海戦
 仁川沖では、陸軍の先遣隊を上陸させた瓜生艦隊がロシアの巡洋艦ワリャーグとコレーツに挑戦状を送って交戦し、ワリャーグが自沈、コレーツが爆沈したようです。

D旅順攻撃
鎮南浦(ちんなんぽ)に上陸した黒木大将が率いる第一軍が鴨緑江を渡河し九連城を落として遼陽会戦にのぞみました。奥大将が率いる第二軍が遼東半島の金州・南山を占領して旅順の孤立化を図りました。乃木大将が率いる第三軍が旅順要塞の攻略に苦戦し、児玉参謀が駆けつけ二百三高地攻略を成功させ旅順港に停泊する旅順艦隊を砲撃しました。

E奉天会戦
 遼陽会戦で23万の兵力を有するクロパトキンは、日本の第一軍、第二軍、第四軍の14万の兵力にもかかわらず、秋山支隊が遼陽の停車場を砲撃したためクロパトキンが日本軍を過大に錯覚して撤退しました。奉天では第三軍を加えた日本軍と会戦したクロパトキンは奉天からも撤退したようです。

F日本海海戦
 1905年5月27日午前4時45分に信濃丸からの「敵艦見ゆ」の電信から始まった日本海海戦で戦った装甲巡洋艦「日進」と「春日」は、もともとアルゼンチン海軍がイタリアの造船所に発注していたようですが、アルゼンチンとチリとの紛争が収まったため、日本に譲渡されたようです。日本海海戦では、イタリアで日進と春日の出航を妨害していたロシアの戦艦オスラービアが最初に撃沈されたようです。その他戦艦スワロフ、戦艦ボロジノ、戦艦アレクサンドル三世、戦艦ナワリン、戦艦シソイ・ウェリーキー、プレスチャーシチー、アドミラルナヒモフ、ウラジミール・モノマフ、ウラル、ルーシ、カムチャッカ、モノマーフ、イルツイシ、ナヒーモフ、グロームキー、ブイヌイ、ウシャーコフ、ドミトリー・ドンスコイ、ベドーウィ、スウェトラーナ、ブィストルイなどが沈没、アリオール、ニコライ一世、アフラクシン、セニャーウィンなどが降伏したようです。ちなみに日本海海戦で旗艦を努めた「戦艦みかさ」は復元されています。

Gポーツマス条約
 日本は米国の仲裁に従って講和を進めようとしていましたが、ロシアは満州の兵力を増強し一向に講和を求める日本を相手にしなかったため、やむを得ず樺太に進出せざるを得ず、何とか講和に持ち込んだようです。

H亜細亜諸国の希望
 インドの独立運動家で後に首相となったジャワ・ハルラル・ネルーは日本の勝利に感激したようです。日本が欧米からの独立を保ったため、亜細亜の開放を求めて清国からの留学生は10000名を超え魯迅、蒋介石、孫文などもおり、ベトナムからは200名を超えファン・ボイ・チャウなどが支配者フランスと戦うためにやってきたようです。その他、アメリカに支配されていたフィリピンや、トルコ、エジプトにも影響を与えたようです。

I東欧諸国の希望
 むりやりロシア兵としてシベリアを経て満州につれてこられた末に捕虜になり松山にいたポーランド人は、日本海海戦で日本が勝利したことを大変に喜んだとのことです。第一次世界大戦後に独立が認められたポーランドは日露戦争で戦った日本軍の幹部21名に勲章を与えたようです。