とある飲み屋でこんな話しになりました。
「日本だって、軍隊を持つことは必要だろ。外国に攻撃されたらどうするんだよ。やられっぱなしでいいのか?」
これはよくでてくる意見、主張です。
「どこの誰が、何のために日本を攻撃するの?」
「そんなことはわからないけど、中国だって、北朝鮮だって何をやるかわからないよ。中東からのテロだってあるかもしれないしな」
「そうだったとして、もしあなたが若かったら自衛隊に入って戦うの」
「若かったらそれもありうる。きみは戦わないのか」
「それは、どういう戦いなのかがあいまいだね。感情論だし抽象論でしょ。アメリカが晴海を接収して巨大な軍事基地を作ろうとしたら戦うよ。侵略でしょ。そのときもあなたは自衛隊に入って戦うの?」
「そんな話しじゃない。国を守る戦いのことを言ってるんだ」
「国を守る」という言葉がでてきました。国=国家とは何かについて、この「夜話」ではくりかえし触れてきました。
国家とその支配機構というものは、支配する者と支配される者が出現した階級社会で、支配者がつくりあげた支配するための“道具”です。ブルジョアジーが人民を収奪するための“道具”です。
官僚制度も議会も警察も軍もそうです。
ブルジョアジーは自らの国家をみごとに作り上げます。専門分野での多くの官僚を育成して抱え、人民を支配するための政党と政治家を育成し、さも民主主義が実現されているかのように「議会」をもうけ、自分たちに打撃を与えるような人民勢力を監視し摘発するための警察をおくのです。警察の主要な任務はこれです。警察予算の大半は人民の政治・思想活動を監視する公安部が握っているのです。
強盗・殺人・交通事故処理などいうものはいわば雑用です。ブルジョアジーが自らつくりあげた社会が生み出すゴミを自らが必死で掃除しているようなもので、おおいにやってもらいたいものです。しかし最近では防犯カメラの設置、ネット通信の情報収集、個人情報の一元管理など、人民管理の手はあらゆる所にのばされています。
TVでは刑事物が人気ですが、「正義の警察」イメージ作りにTV局は大役を担っているわけです。
マスコミもブルジョアジーの片割れですから、ブルジョアジーの権力に打撃を与えるような報道はすすんで「自粛」するのです。
そしてこの支配のための最大の武装部隊が「軍」です。警察とともに国家権力の武装部隊なのです。
軍と警察の最大の任務は治安維持と治安出動です。支配者にたいして人民が蜂起し、内乱が発生したとき、警察では鎮圧できないとき、軍が出動するのです。世界各地でおきている人民の怒りの行動や蜂起にたいして、軍が鎮圧出動する映像をみれば、軍が何のために存在するのかが明らかでしょう。
ブルジョアジーが利権をもとめて海外に侵略行動をはじめるときにも「軍」は出番です。
なんらいがみあうことのない人民同士が、ブルジョアジーの利権・収奪・支配のために戦わされるのです。
こんなばかばかしい戦争と軍のために、人民が命を捧げる必要はありません。
「自衛隊に入る」ということは、人民を支配するための軍隊に入るということなのです。
「国を守る」とはブルジョアジーが作ったブルジョアジーのための「国」を守るということです。
これが階級的視点からものを見るということです。
誰のための軍なのかということを見誤ってはいけません。
ブルジョアジーの言う「国を守る」と言うことと、われわれ人民が言う「国を守る」ということは、まったく別のことです。
われわれは真の意味で、民族と同胞、家族、生きてきた祖国、日本民族の文化を守ります。
かつて第二次大戦中にフランスのレジスタンスが、ナチス・ドイツの侵略に対して戦ったのはまったくこの精神でした。
偉大な戦いでした。このような戦いのためには人民は死をおそれません。
労働者と人民の国家として誕生したソ連、中国。
ソビエト赤軍、中国人民解放軍は人民のための軍隊でした。この軍に入ることは青年たちの最高の栄誉でした。労働者階級と人民の国家を守るための軍隊だったからです。
しかし、ソ連も中国も、いまや人民の国家であることをなげすて、資本主義の軍門にくだってしまいました。
この裏切り者たちが、社会主義失敗という害毒を世界に流布させたのです。
マルクスとレーニンがきずいた社会主義は敗北なのでしょうか?
「資本主義でも、社会主義でも権力は必ず腐敗する」と言う人がいます。
これも、マルクスとレーニンの原則をなげすたて者達によって、人民権力が変質させられたことによる腐敗であり、人民を革命から遠ざけるためのデマです。
うち立てた人民の権力を変質させず、変質しない社会主義の人民国家をつくるという課題が残されているだけです。
「人類はいつも自分で解決できる課題だけを提起するのである。なぜなら、よくしらべてみれば、課題を解決するための物質的条件がすでに存在しているか、すくなくとも成立の過程にある場合にだけ、課題そのものがうまれくるということが、いつでもわかるからである」(マルクス「経済学批判・序論」)
これが歴史の弁証法の発展法則です。一時的な失敗や未解決の問題にうちひしがれる必要はありません。これが闘う者の決意でなければなりません。
何もかもわかったように、みずから何もやろうとせず、酒飲み話しをしてうそぶく人の話に翻弄されてはなりません。
未来は必ず人民のものです。
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