日本人民がブルジョア権力と正面から闘った二度目の闘争が「60年安保闘争」でした。
1960年にアメリカ政府と日本政府が「日米安全保障条約」を締結しました。この「安保条約」に反対する一大人民闘争が60年安保闘争です。
安保条約は日本がアメリカに従属して締結させられた軍事同盟です。
当時の国際情勢はソ連と中国の社会主義陣営が大きく力を伸ばしていました。アメリカは反共同盟の構築にやっきとなり、敗戦国日本を支配して極東最大の軍事基地、反共防波堤の不沈空母として利用しようとしました。
日本国内では労働組合の攻勢が強まり、労農党と社会党が合流して社会党の左派が中央を握ります。危機感を持つ財界は自民党を動かして日米安保条約によってアメリカの庇護を求めようとしました。日本の革命運動の高揚に対してアメリカ軍が鎮圧出動できる法的措置をとろうとしたのです。
これによって日本はアメリカに売り渡されました。
「日米両国が極東の平和と安全のために協力する」という安保条約によって、日本はアメリカの極東軍事政策に完全に組み込まれました。アメリカ軍は公然と日本に軍事基地をおく権利を獲得し、日本の上空は戦闘機の飛行空域に占拠されました。そして日本の軍隊も米軍と共同して行動することを義務づけられたのです。
この売国的軍事同盟「安保条約」の締結に人々は反対して立ち上がりました。
社会党、共産党、総評、全学連、さまざまな良心的大衆団体、143団体が集まって「安保改定阻止国民会議」が結成されます。
多くの著名な学者や文化人も名を連ねました。
岸首相が交渉で渡米するのを阻止するために、全学連の青年学生は羽田空港に突入し、国会審議がはじまると包囲デモを組織し国会内に突入。警官隊と激突しました。
「安保改定阻止国民会議」は10万人のデモを組織し、連日国会波状デモを行い、労働組合は抗議のストライキをうちぬきました。
国会への幻想もこのときくずれました。衆議院では500人の警官隊を導入して、座り込んでいる社会党議員をごぼう抜きにして排除し、本会議を自民党単独で開会。安保条約を強行採決したのです。
議会制民主主義を自ら放棄し、国会に警官隊を導入するという暴挙に対し、怒りに燃えた「国民会議」は6月15日、実力行動にでます。全国の労働者・人民に決起をよびかけ、呼応した労働組合の580万人がストライキに入ったのです。国会には10万人のデモがおしかけ、全学連は国会に突入しました。
警察は1万人を国会に配備し、右翼暴力団もトラックでデモ隊に襲いかかりました。学生と警察官の激闘があった国会通用門の路上で東大文学部の樺美智子(かんばみちこ)さんが殺されたのはこのときです。
青年学生は「同志は倒れぬ」を歌って樺美智子さんの追悼デモを行い、東大や早大、明大や教育大の総長や学長、教授たちは政府と警察に対する抗議声明を発表しました。
「虐殺の6月15日」は平和と正義を求める人々のなかに深く刻まれました。
連日、10万、20万、30万というデモ隊が国会を包囲して、首都は人民の蜂起による内乱状態となったのです。
警察権力はマヒしました。
警察庁長官は警官隊だけによるデモの抑制は不可能だと語り、自民党や財界の中からも岸内閣の総辞職以外に大衆の怒りをしずめることはできないだろうという意見がでます。
岸内閣はアイゼンハワー大統領の訪日予定をふまえて、自衛隊の治安出動を検討しはじめました。
しかし、高揚する人民闘争の大海に、自衛隊を差し向けることを防衛庁長官が拒否したのです。人民に銃を向ければ、自衛隊が「国民を守る」軍隊ではないことが露骨に暴露されてしまうからです。
敵の権力内部に対立が発生していたのです。
アイゼンハワーの訪日計画も中止においこまれました。
ストライキと街頭を制圧する人民闘争が敵を追いつめました。
この人民の怒りを収拾させるために財界と権力は、安保を成立させて役割を果たさせた岸内閣を総辞職させ、月給二倍論をぶらさげた池田勇人を首相につけて人民の目先をそらしていったのです。
敵の目論見どおり、池田内閣成立のための総選挙では、「保革」の勢力は以前と少しも変わりませんでした。
議会・国会とはこのようなものです。議会は飾り物でしかなく、実際の政治を動かす闘いは議会の外で行われるものなのです。
この「60年安保闘争」も日本人民に大きな教訓をのこしました。
・広範な人民が統一して闘い、一大政治デモをまきおこし、連日国会を包囲するという「蜂起」と「内乱状態」がブルジョア支配の内部に動揺と対立を生みだしたのです。議会内での質問や追及、抗議だけで敵に打撃をあたえることはできません。議会は敵の暴力に支配されているのです。
・しかしながら安保条約の発効を許したことは、人民の一大政治デモの中心であらねばならない労働者階級の政治ゼネストが組織されなかったことです。一大政治デモとゼネストの結合、これが真に敵に打撃を与える力です。
・ブルジョア支配をくつがえすために決定的に必要なものは、人民の闘う権力です。この人民権力を職場、地域、学園、いたるところにうち立てるということです。二・一ゼネストのときは革命的前衛党たる日本共産党がこの権力の中心にたって闘いを組織しました。人民の権力を一つにまとめあげる革命的前衛党が必要だということです。
60年にはすでに日本共産党は革命的前衛党の思想と路線をなげすて、宮本顕治が中央を支配する議会主義(議会にたよる)の党に変質していました。
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