【第4夜】 日本の人民が闘った権力闘争/二・一ゼネスト(1947年)


日本の人民大衆は、権力と直接に対決した大きな革命闘争の経験を持っています。
それは、二・一ゼネスト、60年安保闘争、70年闘争です。
この三つの闘争には、革命を遂行し権力を奪取するためには何が必要かという、戦略問題が明らかにされています。
まず、戦後すぐに闘われた二・一ゼネスト(1947年)についてです。

第二次世界大戦は1945年8月に、日本の降伏によって終わり、日本人民は軍国主義ファシズムから解放されました。
徴兵・出征による650万人の死傷者、勤労動員、食料不足、空襲による大虐殺、と辛苦をなめてきた人民を待っていたものは、ブルジョアジーによるさらなる収奪と圧政でした。
首切り失業、工場閉鎖、インフレ、職場追放の嵐がふきあれ、1400万人という失業者があふれました。
飢餓と首切りにさいなまれた労働者は労働組合を組織して闘いに立ち上がりました。
18年間の獄中闘争を非転向で闘った徳田球一をはじめとする日本共産党の前衛たちは、出獄してただちに労働運動の構築にとりかかります。
1946年8月、日本共産党の指導下に「全日本産業別労働組合会議」(産別会議)が結成され、21単産・160万人の労働者が組織されました。
右派の労働組合「日本労働組合総連合」も85万人で結成されましたが、左派・産別会議が戦後労働運動の主流でした。

産別会議の全国的な統一闘争は1946年の秋の「十月闘争」でした。結成後、息つく間もない闘争が取り組まれたのです。
「十月闘争」は政府が通告した国鉄労働者75000人の首切り、海員組合43000人の首切り通告が発端でした。
この反対闘争の火ぶたがきられると、ぞくぞくとこれに呼応する首切り反対、賃金引き上げ、権利獲得の闘いがまきおこりました。
工場閉鎖、ロックアウトと首切りに反対する闘争は労働者による「生産管理闘争」という手段をあみだし、読売新聞や三井美唄炭鉱、京成電車の闘いで勝利し、「十月闘争」の主要な戦術となっていきました。
これは労働者階級の下からの職場権力が敵ねじふせる闘いの原型となりました。
「十月闘争」は首切り撤回、賃上げの実現、賃金体系の確立、権利としての団体交渉権の獲得など、かずかずの勝利をおさめました。

「十月闘争」を闘いぬいた産別会議の次の大きな闘いが「二・一ゼネスト」でした。(にーいちゼネストと通称します)
民間労働組合の賃上げの半分にも満たない賃上げに、官公労の労働者が決起しました。
時の内閣を組織していた吉田茂は、労働者の要求を全面的に拒否し、闘いに参加した労働者に減給という攻撃をしかけ、官公庁労働者の政治活動を禁止するという声明をだします。
そして1947年年頭のラジオ放送で、要求を掲げて闘う労働者を「不逞のやから」とこきおろしたのです。
ここにいたって産別会議は「歴史的なゼネストに突入し共同の全要求を貫徹する日まで断固として闘いぬく」という声明を発します。
それでも吉田内閣は態度をくずしません。産別会議はゼネスト突入の準備を開始しました。
ゼネストとはゼネラル・ストライキのことで、一企業のストライキではなく、産業全体や地域全体、全国的に連帯した統一ストライキのことです。労働者階級のもつ最大の武器です。
産別会議と連携する日本共産党は徳田球一書記長のもと、全面的な指導体制を確立します。全官公庁共闘会議の議長に伊井弥四郎(国鉄・共産党)をすえ、社会党左派に共闘をよびかけます。
「全国労働組合共同闘争委員会」(全闘)を結成し、産別会議、中立をふくめて600万人を結集させたのです。
そして「倒閣実行委員会」が設置され、吉田内閣打倒の声明が発せられました。

吉田首相は社会党右派を抱き込んだ連立内閣を模索しますが、共産党と全闘の厳しい批判、吉田内閣打倒を支持する人民の各分野からの抗議にさらされて失敗します。
ゼネストの決行日は2月1日です。
もはや吉田内閣に存命の道はありませんでした。
ここでついに吉田首相は占領軍にすがります。
1月31日、占領軍総司令部はマッカーサーの名によるゼネスト中止命令を発します。共闘会議議長の伊井弥四郎は占領軍総司令部に出頭を命じられ、米兵に包囲されてラジオで「ゼネスト中止」を放送するように命じられます。

苦しみ悩む伊井弥四郎に、徳田球一は「すべてはこれからだ」と言って、ゼネスト中止を承服させます。
占領軍との全面的な対決をするには、人民の側にはまだ準備が足りなかったからです。銃砲を構え武装した占領軍の前に、起ち上がったばかりの労働者をさらすことはできなかったからです。
「すべてはこれからだ」というのは人民の側の主体をさらに強化して再起しようということです。
伊井はラジオ放送で「一歩後退、二歩前進」というレーニンの言葉をさけび、怒りと涙の中止放送を終えます。

階級的労働運動を築き上げた産別会議も、徳田球一に指導された日本共産党もいまや消滅してしまいました。
かつての産別会議と、いまの「連合」がやっている労働運動とのへだたりに思いをはせずにはいられません。

この「二・一ゼネスト」は、日本人民がブルジョア権力と正面から対峙した闘いであり、どのように日本革命を達成するのかという戦略問題を解明した闘いでした。
・ブルジョア権力を打倒する最大の武器こそ、労働者階級のゼネストであるということ。
・ゼネストを守る結束した人民の統一戦線が敵の分裂策動を封殺するということ。
・ブルジョア支配が最後に持ち出すものは、剥き出しの暴力、軍事力であること。
・これに対抗する人民の実力部隊と権力、革命的武装を準備しなければならないこと。
・そして、人民の側に確固として立ち、指導し、結束させることのできる革命的な前衛党=核をもたねばならないということ。

「二・一ゼネスト」は偉大な教訓をのこしました。巨大な勝利です。この経験を継承することが未来への闘いにつながります。

2015.11.12 岸本隆