記・国民B(20240109)
■労働組合運動の抱える課題と展望

  《中見出し》
◆労働組合運動をめぐる地球支配者の締め上げ戦術と労働者の対応

◆労働運動の衰退に追い打ちをかけたグローバリズムへの自覚

◆労働組合と労働運動の階級的、革命的な位置づけを自覚せよ

◆労働組合運動をめぐる地球支配者の締め上げ戦術と労働者の対応

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 労働組合運動は現在重大な局面に立っている。一言で言えば存亡が問われている。日本は深刻だが、基本的に世界中が同じ状況に陥っている。
 低迷の原因は運動の意義が、主体である労働者側が自覚できなくなったことだ。自然な衰退の道を歩んでいる。社会的な存在感が薄くなり、労働運動への社会的な共感は消えつつある。社会を動かす強大な総評と言われた時代は遠い過去のものとなった。日本の働き手は6500万人だが、連合傘下の組合員は700万人。ストライキはほぼ死語、1974年時の157分の一の年間33件だけだ。例年組合員の数は低下している。
 米国では昨年自動車産業でストライキが実施され、賃上げを獲得したことがニュースで出たのがちょっと目を引いたぐらいだ。だが、そこではあの耄碌バイデン大統領が会場で訴えるという異様な姿があった。しかし、この現象はすでに日本でも定着している。政府が「賃上げ」を発言し、メーデーには首相が登壇するのは好例にまでなりつつある。
 かつての労働組合は、労働者が団結して経営者と交渉して賃上げ、職場改善、労働環境の整備をするもので、政権の政治的、経済的意図としての労働者締め付け政策が土台に合った。だから、国家権力は労働運動の、いわば敵側にあった。それが、今では「味方側」であるかのような様相だ。
 このように、敵味方逆転現象が起こるようになったのは、総評が連合に変わった1989年に関係する。1980年代、政府が旧来の公共インフラである、国鉄、優生、通信など国営だった事業を民営化すすめた。公共インフラは本来、国民社会の土台であり、利益よりもだた同然で行ってもいい必須の産業土台である。だが、そこには「いくら赤字でも、税金が補填するなら」と曲解て、思考を捻じ曲げ、改善、改革、充実の労働をサボる傾向が経営側に発生し、労働者にも影響が及んでいた。
 この改善策として政権側は公共インフラを停止し完全民営化に梶を切った。当時労働組合として最強を誇り、総評の中心にいた労働組合「国労」は、猛烈に反対運動を起こした。郵便局の郵政、電信電話の通信は、総評傘下の労働組が一丸で民営化には反対の声をあげた。だが、最終的にはすべて民営化が実現してしまった。つまり、権力サイドが押し切った。
 労働組合が主力で国家権力と対峙した例は国内外で多数ある。日本では1947年の2・1ゼネストだ。敗戦した日本は戦勝国の管理下に置かれ、米軍が占領軍として全国に配置された。GHQがすべての政治のトップとなった。当時の労働組合は産別会議が主導していた。カイライ吉田内閣を打倒し、民主的な人民政権を作りと言うことで、米占領軍のGHQに要求をのませるためにゼネストで対峙した。だが、日本支配のGHQはそれを容認するはずがない。前日にマッカーサーは産別トップの井伊弥四郎を呼び出し中止することを命じた。当時の共産党徳田書記長は、受け入れて中止した。革命を宣言するには、米軍が全国に駐留して支配している状態で、かつ主体的な力量が及ばなかったのだ。だが、日本人民の革命闘争の貴重で重大な経験をした。
 少し話は横に飛ぶが、日本の労働組合は戦後日本の民主化政策のなかで、戦中は途絶えていた人民闘争の一分野として爆発的に再生した。民主化政策というのは、日本を米国流の、建前である民主主義の国家にしようというもので、人民の権利をいたい、推奨したものだ。だから、支配者である国家を、民主主義国、自由主義国とたたえる見本として飾りたいのであって、人民が国家に歯向かうことを推奨するものではない。階級的、革命的な産別会議は、人民の当然の権利として、人民の最大の課題である「現支配体制の放棄、人民国家の樹立」を権力にぶっつけたのだ。
 総評に象徴されるように、多くの組合は企業別組合だあ。事業体、企業内の労働組合の連合である。組合は業種で上部組織を持っているが、基本は企業内での労使の交渉をする。もっと言えば、企業内のお抱え組合である。それに対して、産業別組合は、組合員は最初から企業の枠を超えた産業全体を対象にした組合の一員となる。全国の産業の水準を念頭に置いて労使の交渉をする。当然支部は企業内の組織し、現場での改良や改善を交渉するが、賃上げなどは業界全体のこととして捉える。業界での水準を上げること、業界の水準を基本的な妥結店とすること。そのように、運動方針は企業内組合と異なる。資本主義支配体制が望むのは、当然企業内組合だ。
 当時は権力との力関係で産別会議は長く続かなかった。それは指導していた共産党に対して、コミンテルンの指示でテロをする集団だと決めつけ、朝鮮戦争を遂行する事情もあって、共産党の活動を非合法にして、党員や支持者を全国的に職場からパージ(追放)したためだ。
 民営化にあたり経営=政府は人員削減の実施として大量の首切りをした。対象の中には戦う労働組合員、活動家が入っていた。組合側は労働運動そのものへの攻撃だとして、ストライキを含む行動に出た。政府権力側は「公共に多大な影響を及ぼすストライキは認められない。ストライキは無効だ」とした。つまり、ストライキ権まで否定されたことへの反発として「スト権スト」を大規模に展開した。首切り撤回、民営化廃絶、スト権を認めろ、と訴えた。
 世論は権力が誘導する。マスメディアが本来の役割である経営=権力側の主張をばらまき、社会的な声として「ストライキは迷惑だ」「民営化しないと公共企業の赤字に無制限の税金が補填される」「過激な運動は一種の暴力で社会的に認められない」などが、取り上げられた。これを背景にして、労働組合は分裂する。多数の企業組合は会社側、経営側、政府側の主張に沿う。過激はダメだ、ストライキはもういいという腰を引いた中間派がでてくる。
 当時民社党派、社会党派、共産党派の組合と共に、過激派と言われた新左翼の派も力を持っていた。学生運動での内ゲバが労働運動にも及んでいたことから、それに対する批判もあった。そうした中で分裂はすすみ、動労がスト権スト、首切り撤回を含む最も戦闘的な戦いを展開していた。
 だが、それも民営化を権力が強行するにいたり、区切りを迎える。総評を政党側から押していた社会党が社会的な支持の激減をして、総評は改変を求められて、現在の連合に落ち着いた。もちろん、各派の全国労働組合組織が離散したわけではない。
 急激な労働運動の衰退が進んだ。鉄道、郵政、通信はすべて民営化された。企業的に分化もされた。背後で政権からの多額の補填金がながれることで、政権が目指す民間企業の体をたもち、利益を上げる企業になっていっている。

 ここまで概観すると、日本の労働運動は、社会党と総評と密接な関係があることが分かる。表では民営化とスト権ストがあった時期、社会党、総評が消えたことと重なっている。
 日本社会党は、1945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする、戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが結集し結成されたとWikipediaでは述べている。つまり、人民闘争、社会運動、革命闘争との関係で結党された。総評はその労働運動の分野での顔だ。
 人民闘争、社会運動、革命闘争の中心は共産党だった。だが、共産党は主張を権力に隠すことをしなかったがゆえに、第二次世界大戦(大東亜戦争とか太平洋戦争とかいろいろな呼称があるが、世界的歴史的に第二次世界大戦とここでは呼ぶ)が開始されると、日本では共産主義は表から絶滅させられる。はっきりと共産主義を主張せずに、社会主義とか社会運動家を名乗った人は、運動は禁止されながらも生命は保たれた。
 この人たちはそれであっても、その運動の元祖がロシア革命であり、ソ連での運動であり、思想が社会変革の革命思想だという点は違いない。細かい点で無数の意見の相違はあっても、大きなくくりとしてソ連の見本が支えで運動してきた。共産党と異なり、正面からマルクス・レーニン主義、プロレタリア独裁を主張しない。つまり、社会民主主義という、社会主義と資本主義の折衷、動揺、曖昧な思想に寄っている。
 社会党が社会的支持を失った(議員数の激減)のは、さましくソ連の自壊だ。思想的な柱がくずれて、いっきに、活動の指針を失ったことだ。一般論として、資本主義社会の生産の担い手である労働者の主張の自由と戦う権利は、ソ連の有無とは別にある。だから、資本主義の圧政との闘いは捨てないが、戦う指針を失いと、運動への情熱は否が応でもしぼむ。ソ連の自壊が日本労働運動の衰退を決定的にしたのだ。実際は日本だけではない。世界の人民闘争と労働運動が衰退の道を歩んだ。
 ソ連の自壊の引き金は「スターリン批判」である。スターリン批判は、ソ連の第20回党大会で、党のトップであるフルシチョフ第一書記が、党の存在、党の理論と実践を象徴するスターリンを批判したことに始まる。スターリンはレーニン後のソ連をすべて背負ってきた。地球支配者による戦争に次ぐ戦争のソ連壊滅の策動に反撃し、勝利させ、米国と頭を揃える先進国家まで繁栄を進めてきた。スターリンはソ連の象徴であり、ソ連の存在はスターリンに依存してきたといってよい。スターリンはそれだけに、地球支配者から、悪魔、独裁者として最大の悪者にされ、殺害の対象にされてきた。それを、党の中枢が「その通りだ」と認めたのだ。
 つまり、党、ソ連、スターリンは間違っていた。今後これを否定し、地球支配者の側に立つと宣言したのだ。人民の圧政に対しての解放闘争は間違いとして、今後止めると言った。当然の成り行きで、ソ連は自壊した。人民は計り知れない敗北をきした。
 全世界の労働運動、人民解放闘争、社会運動は歴史的な敗北を経験した。階級闘争、革命運動の再建は、次世代の人民に託された。


◆労働運動の衰退に追い打ちをかけたグローバリズムへの自覚

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 「賃金をあげろ」と政府が経団連に求める。メーデーの演壇に自民党総裁が上る。米自動車労組の集会でバイデンが愛さるする。このねじ曲がった事態を生んだ背景に目を向けなければならない。本来の敵側が味方のそぶりをするのは、直接的には労働者の組織を己の票田に取り込みたいからだ。
 労働者が階級的視点に動揺している今なら、労働者が公然と体制支持するのもありだ、と踏んだのだ。公共インフラの事業体のひとつである電機業界。そこの労働組合が原発廃絶を反対している現状がある。電力労働者の多くが原発の労働者を組合で抱えている。廃絶となれば、職を離れざるを得ないのは直接的な理由でもあるが、原発の発展と利用について権力サイドが主張している理論への賛同もある。その組合は国民民主党を支持している。
 原発の開発、利用ということは、現在停止中の多くの原発の再開をも求めている。
 原発については、ここでの記事の主張ははっきりしている。即廃止、廃止後の廃絶に至る道の開発という大事な仕事に集中するべきということだ。
 ここでは、人民生活の五大原則を表明している。
 ●人民生活と思考の5原則
   ①人に迷惑をかけない
   ②カネとモノ、利権のとりこにならない
   ③地球と未来に負荷をかけない
   ④戦争の根絶、安寧な生活
   ⑤人間としての誇りと尊厳
 人民の思考からして、原発が許せないのは、③地球と未来に負荷をかけないという原則による。過程で発生する膨大な放射能物質の無害化の目途が確立されていない。始まった時は「人間はバカではない。実際に運用される時までには必ず、無害化の手法を開発するから」と騙した。運用時に点検する事項があり、すべてOKでなければ動かさないというルールがある。しかし、点検時効は数万に及び、自動であるいは主導で点検をクリアするには、多すぎて、何日もかかる。点検終了期間内には絶対に不可能なルールゆえに、点検を半端で稼働させている。
 必然的に事故が起きる。津波での災害というより、人災だ。大規模プラントの宿命である。エネルギーと食料は地産地消というのも繰り返し語ってきたことだが、点検が普通の業務で容易に可能な規模ということを無視する犯罪行為だ。
 この度の能登地震でも原発で大きな水害がおこり、チェックシステムが作動できない事故に送風している。311の際は、爆発を起こした。関東、東海まで放射能物質が覆った。当然海外にまで迷惑をかけた。さらに、格納庫の内部ではない日常の作動から発生する大量の汚染水は、補完することも不可能まで膨れ上がり、揚句は海に流している。海外からの不評を買い、農水産物の輸入禁止が相次いだ。海洋に流す際に「十分に薄めたから安全」と当局はいったが、内実は流す前に海水で薄めたのだ。騙されてはならない。①の人に迷惑をかけない、という第一の犯罪に背いている。
 この原発を容認する姿勢は、労働者の者ではない。カネと利権の側の一方的な、後先見ない犯罪者の言だ。電力関係の労働組合は、真っ先に原発維持を止めなければならない。
 権力側から票田と見られたことを恥とせよ。
 2001年の911以来、急激にトレンドの言葉になったことに「グローバル化」がある。これは地球支配者が地球を一元的に支配するという、何千年来の邪悪な願望を言い表した象徴的な言葉だ。新世界秩序(NWO)の課題実現に沿って、世界はひとつであるべきだ、ひとつの政府を作る、各国の壁にこだわる時代は捨てり、英語を学べ、世界に飛び出せ、世界に学べというスローガンを放った。
 確かに飛行機で世界を容易に行き来できるようになった。インターネットが普及し、情報は瞬時に世界を回るようになった。労働力も内外問わずに雇用されるようになった。地球支配者とその宣伝機関であるマスメディアが吹聴した。社会はグローバリズム一色に染まった。
 スターリン批判で自信を失いかけた労働運動にこれが、最終的なパンチを放った。労働者が企業側に賃上げや労働条件の改善を要求すると、経営側は「要求を認めてもいいよ。だけど、そうすれば、同業他社との競争に負けかねない。国内で生き残っても、海外との競争に負ける。負ければ、あなたばかりか一家路頭に迷うことになる。だから、要求は認められない」と回答した。
 この回答を受けて、組合側は反論ができないかったのだ。日本の労働者の賃上げは止まり、労働環境の改善は停止した。物価は上がり、実質賃金はどんどん下がり、今や世界でも恥ずかしいほどの順位に甘んじている。
 スターリン批判で、人民闘争、労度運動、社会運動の思想的柱を失ってから、闘争の理論構築ができずに、戦えないのである。
 グローバリズム犯罪に目を向けてみよう。結論はグローバリズムは間違いだということである。地球一元支配者、その一角の世界金融資本、グローバル企業群の利益追求から生まれたもので、利益も一方的にヤツらのある。世界人民にはない。グローバリズムのプロパガンダに揺さぶられて、オレもオレもと国外に目を向け、飛び出したものもいる。ウチの向上で作ってものを外国に販路を広げよう。ウチのの農産物、海産物を海外に売ろう。これは、安易に引っかかった例だ。
 前提がすでに間違っている。打って利益を上げて誰が得をするのだ。労働者や人民ではない。海外でそれを手にして、本当に彼らは喜ぶことなのか。仕事をとられ、物価が上がり、迷惑する。決して、WinWinにはならない。グローバリズムは地球支配者の命令で各国政府が推奨し、多額の補助金がぶち込まれる。そのカネが回っているうちは、一見いい思いをする。だが、その後行き詰って、撤退し多額の損失を被った例は多数だ。基本的に海外進出などは、他国のスキに付け込む行為で、現地の人民から搾取することを本質とする。される側のことを考慮しない、かたわの思考だ。
 日本に海外からさまざまな業種が進出してきて、えらい目に合ったことを忘却している。グローバリズムは、決して現代の当たり前などではない。かつて帝国主義は植民地をもとめて、国家と大企業が進出していった。それをグローバリズムなどという名のもとに、一般人や小企業にやらせようとしているだけだ。
 地産地消の産業は、経営者と投資家に利益が薄い。だから、1円でも安く仕入れ、1円でも高く売るという利益第一主義のもと、資本主義は突き進む。日本の、地元の人民の生活を向上させる産業を追及できない。労働者と人民は積極的のそれを求めていくべきである。資本主義の社会では、絶対に合致し得ない対立がここにある。労働組合は、どちらの立場に立つのか。活動どっちの方向を目指すのが、労働者の利益なのか。今こそ考えなければならない。


◆労働組合と労働運動の階級的、革命的な位置づけを自覚せよ

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 女性に下卑た言葉をなげ、上から目線で蔑視し、殴り、締め上げ、胸をわしづかみする。これがテレビで普通に流される。
 被害を受けた女性タレントは、こんなことをされてでもテレビでの露出がふえるなら受け入れる、かのごとく、抗議しない。お笑いに酔った視聴者は、バカ笑いか、アホ笑いかをして嬉々とする。松本の周囲やよしもと、テレビ局やスポンサーは、そうした松本の行為を、卓越したお笑いの高度な芸の表現だという。
 これは、狂っている。価値観が、ド変態息子ハンターと優るとも劣らない。疑問も感じず、容認しているテレビ信者、もはや救いようがない。自分の身の回りの家族、職場の仲間、社会の周囲に多数存在しているのが、現在の日本だ。
 つまり、人民の中にある「狂った状態」である。ヤツらがすでに実現した、被支配者のロボット奴隷の姿だ。ヤツらにとって、理想的な被支配者の姿だ。
 自覚した少数の人びとの、身近な家族や仲間がそういう状態に落とされているのだ。
 自覚した人は、こうした日本の現状をみて放置してはならない。人民としての本来の感覚と姿を思い起させる必要があるのだ。自覚した人の努力にかかわらず、ヤツらの思考攻撃はいっそう進められるかもしれないが、自覚した人側の戦いも強めていくことだ。
 家庭で、職場で、社会で、問題について話し合いをすること。
 そのときの、こちらの思考の土台は、人民生活の五原則だ。
●人民生活と思考の5原則
   ①人に迷惑をかけない
   ②カネとモノ、利権のとりこにならない
   ③地球と未来に負荷をかけない
   ④戦争の根絶、安寧な生活
   ⑤人間としての誇りと尊厳
 今回取り上げた、エプスタイン問題、ジャニーズ問題、松本問題は、①②⑤に直接触れる問題だ。
 幼児性愛、人身売買、セクハラは、人に迷惑をかけるという犯罪行為だ。そして、カネと利権のとりこになればヤツらの手先にどうぞと言うスキを見せることになる。そしてなにより、そこには、人間としての誇りと尊厳の放棄がある。
 女性を蔑視するというのは、自分を上に置くことである。選民思想とエリート主義に通じる。日本では天皇を別格と普通に考える人が多い。実は、天皇を別格に考えるのは、人間の絶対的な不平等を認める思考と立場だ。天皇を別格視する思考は女性蔑視と裏表の関係だ。つまり、それはそのまま人間としての相手に対する尊厳の否定でもある。天皇を崇めることで、自分を蔑視ししているのと同じことである。
 自分を見下す思考は、松本に胸をつかまれても、自分の露出が増えるなら認めるというのに通じる。テレビ露出の多さがあれば、視聴者に見られる機会が増え、人気にもなり、カネにもなると考えるのであれば、それは松本同じゲスだ。本当の人気は、本当の芸で勝負すべきだ。人間の誇りと尊厳を刺激する、品のある芸で感心させて得るものだ。芸を下卑と勘違いさせているのは、ヤツらの意図であって、それを感心している姿に、人間としての矜持はない。