記・国民B(2019.6.23)
■戦争を子供にどう教えるか。戦争が持ついくつかの顔。戦争の廃絶はできるのか

◆はじめに

 毎年夏になると「戦争」のことが話題になる。8月15日が「終戦」。6.23は沖縄慰霊の日。8月6日には広島に原爆が、9日には長崎に水爆が投下され、言葉では言いつくせない被害を体験したからだ。戦争の悲劇を二度と繰り返さないという決意で、戦争にまつわる話が各所でなされる。
 例えば新聞の投書欄に「戦争 子どもにどう教えれば」という女子大生からの一文が出た。この前日には同欄に「武器見本市への抗議当然だ」というテーマで、81歳の男性の方からの一文が掲載された。
 沖縄慰霊の日では、幼い少女から、人の生命の尊さ、それをなぜに奪ったのかと、心底からの悲痛な訴えがなされた。(文尾に参照掲載*1,*2,*3)
 「戦争 子どもにどう教えれば」は強く胸を打った。「平和な時代に生まれた私は戦争をどう教えてよいかわからない。…今度は私たちが戦争を体験することになるかもしれない」と率直に訴えているからだ。
 いかに敵を効率よく殺せるかという、開発した武器を誇らしげに展示し競い合う武器見本市が、投書した方の地元で開催されるのに抗議する内容も、読んで胸が痛む。戦争を促進することが許されていいのか。怒りが伝わってくる。
 戦争廃絶は人間にとって大きな課題だ。だが、その戦争について、難しい解説を見聞きすることはあるが、多くの人にとってわかりやすく説明を聞いたためしがない。だから、大学生の率直な「どう教えれば」という問いに答えられない。
 アンケートを取れば、戦争は廃絶すべきという回答は百パーセントに近いのではなかろうか。圧倒的多くの答えが戦争廃絶であるはずなのに、それを明確に教えられないというもどかしさを、誰もが感じているに違いない。沖縄の少女の訴えは、この心境を表している。多くの人の胸にささった。
 明確な回答は必ずあるはずだ。それが、なぜにこうも長く、誰にも回答を見出せないのかということも含めて、話を深めてみたい。少しでも関心をいだいた方は、ここで紹介している事実を自分で調査して確認してほしい。

◆戦争で多くの人は得るものはなく、ただただ悲惨な犠牲だけ

 圧倒的に多数の人びとが戦争の根絶に賛成であるのには、はっきりした理由がある。それは戦争で何一つ得たものはないばかりか、多大な犠牲が強いられただけだからだ。
 直接自分の家族が兵にとられて、戦地で亡くなったという方はいくられでもいる。そればかりか友が死に、あるいは負傷したというのは、ほとんどの人の体験だ。
 戦争孤児も街にあふれた。満州だ、ブラジルだと開拓団に参加し苦難の体験をした人や家族も多い。ベトナム戦争では、原爆被害者と同様に、枯葉剤によって奇形出産をしたり、DNA損傷から後世まで影響を引きづった。
 朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争に出兵した兵の後遺症もすさまじい。
 これらは話の一端に過ぎない。実はこれらの話は、日本人とか米国人とか、戦争をやった一方の側だけのの話だ。戦争の話で、とかく欠落するのは戦争の相手方の人びとの犠牲について触れないことだ。
 例えば、先の第二次世界大戦では、日本が進出した中国や東南アジアの民の側の感情や犠牲を、念頭から離して発言することが多い。先の戦争の呼称についてもいえる。日中戦争、大東亜戦争、日米戦争、太平洋戦争とさまざまだ。敗戦ということばを嫌い終戦というのも同じだ。
 戦争は多くの場合、どちらかが相手の国に武力で押し入る。どのような理由があろうが、どうこじつけようが侵略する。侵略は主にする方の側の立場から発言される。例えば先の戦争では「日本はアジアの盟主だ。日本人、朝鮮人、中国人、モンゴル人が力を合わせた大東亜共栄圏を作る」。「ソ連コミンテルンによる共産化を防止するために」「日本はエネルギー資源が弱いので、それを確保する」等々を主張した。
 それぞれの主張にまったく正当性が見つからない。主張をしたのは日本の政治を当時支配していた政治家と軍部だ。
 常に触れない点である相手の民の視点から見たらどうだろう。理由はすべて嘘で、言いがかりをつけているに過ぎない。自国に他の国の兵が侵入してきたら、単純にそれは「侵略してきた」というもの。依頼していない。望んでもいない。迷惑も甚だしい。
 実際に進駐した外国軍は、食料をはじめとする多くのものを現地から強奪した。土地、建物、工場を軍事力で接収した。不満な民を殺害し、奴隷にし、強姦した。やられた方は侵略した側には分からない、筆舌しがたい犠牲と苦難が強いられた。
 出撃した側である日本の民は、支配者である政治と軍にたてついたら逮捕投獄された。一億総動員が叫ばれ、反対は言えず、命令に一方的に従属させられた。徴兵にも応じ、訓練に参加し、異国まで行かされた。命令で引き金を引き、相手国の民の殺害に手をかした。政治家と軍部が支配する社会では、戦争に手をかす「自由」しかなかったからだ。
 日本の民も相手国の民も、まったく同じように、戦争に反対する自由などなかった。政治と軍部に一方的に従わされて、双方の民が血で血を洗うたたかいが強要された。
 戦争の相手国の民の身になって考えて見るだけで、戦争の隠れた一面が見えてくるのではないか。
 詳しくはまた触れたいが、次のような声がある。
 「朝鮮戦争では朝鮮特需でだいぶ儲かったではないか」
 「積極的に戦争に参加した民がいたから戦争ができたのではないか」

◆戦争の話で隠したいこと、その1「犠牲者数と戦費」

 戦争を振り返って、取り返しがつかないことの結果に犠牲者数がある。人として生まれ、人間らしい生涯をまっとうできず、人殺しに参加させられて死んだ。生き残った人たちは、尊い犠牲者だと言ってくれる。だが、それで本当に戦争で犠牲になった人たちの魂は救われるのだろうか。
 否であろう。尊い犠牲者というのであれば、戦争の絶滅が実現したときだけだ。戦争を肯定するような現在の政治家や軍部に、それをいう資格はないばかりか、欺瞞である。「こんどこそ、うまくやって、戦争に勝つ」ための尊い犠牲者だという欺瞞に他ならない。
 実は戦争での犠牲者数というのはそれほど明確になっていない。好戦的な当事者は真実を明らかにしないからだ。軍と民間があり、派遣者数と死者数と負傷者数がある。自国と相手国とがある。
 自国の犠牲を少しでの少なく見せたい上に、相手国の犠牲を大きく言いたい。先の戦争での大本営発表がその典型だ。
 また、語られない話題は戦費。戦争は生産とまったく逆で浪費だけ。財産をドブに捨てるようなもの。しかも巨額で、国のGDPの幾倍になることすらある。国家予算の72倍(第二次世界大戦で使った日本の一データ)というあきれた数字もある。
 民から金目のものを全部出させた程度で賄えない。戦争国債をだしたり、誰かから借金するのだ。そしてその借金を返済するのに途方もない利子を払い、長期の年月をかけて返却する。
 また戦争は勝敗があり、負けた場合は法外な賠償金が課せられる。国家予算であろうと借金返済であろうと、賠償金の支払いであろうと、すべては民に負担が回される。すぐには払えない。子供、孫の代まで負担がついて回る。
 原発に見るように復興の費用はとほうもないものだ。シリアのホムスの町の破壊された映像は東京大空襲で完全に焼失した町並、311の津波の痕と重なる。復興のどれほどの費用とエネルギーが必要だろうか。
 費用という点では、軍人の慰労金もバカにならない。遺族年金もつきまとう。こうした費用のすべてが、戦争をしなければ必要のないものだ。それゆえに、好戦的な政治家と軍は「犠牲者数と戦費」を話題から遠ざけようとする。
 先の戦争の犠牲者数についての概略は、次のように言われる。
  日本軍人軍属:戦死230万人 民間人:30万人 空襲での死者:50万人 計:310万人
  中国:1000~2000万人 ベトナム:200万人 インドネシア:400万人 
  フィリピン:111万人 インド:150万人… 日本含むアジア全計:3000万人
  全世界的には、6000万人が犠牲になったといわれる。
 戦費は、当時の日本円で7600億円で、国家予算の280倍にあたる。現在との価値換算では4400兆円とされる。
 中国はどうだったか、米国はどうだったか。第二次世界大戦の主戦場であった西欧ではどうだった、ソ連ではどうだったか、とここでは紹介しきれない。これらを累計したら、いったい戦争で費やした経費はいくらだったのか。すべて、民にその犠牲が振られたのだ。それだけは明確である。
 そして、触れたように、戦争国債で賄えない部分を、借金した。それを貸したものがいるということだ。先の戦争が終了してから70年以上経過しているので、すでに完済したのか、それともいまだに返済を続けているのか。利子も含めて、この戦争で途方もないカネを手にしたのは誰なのか。

◆戦争の話で隠したいこと、その2「政治家と軍部は好戦家か」

 「戦争を廃絶するのに賛成か否か」のアンケート結果は、圧倒的な多数が賛同するのは間違いない。つまり、民に皆が望むのに、なぜいまだに戦争は廃絶されないのか。そればかりか「武器見本市」が開催され、戦争が「開始される」ような危機が続くのか。
 先の戦争が終了しても、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争が起こり、その後も中近東やアフリカで紛争が絶えず、今も朝鮮周辺とかイラン周辺、イスラエル周辺で危機が増している。
 しかも、2001年には米国で911が発生し、それを境に戦争が国家間ばかりでなく、テロリストとの国境なきたたかいに変化してきた。当時の米ブッシュ大統領は「テロリストをかくまっているのではないか」と疑念を持っただけで、その国とか地域に戦闘をしかけると宣言し、実際にアフガニスタンあイラクに侵攻した。
 日本では安倍首相が「北朝鮮からミサイルが飛んでくる危機が増している」として、軍事予算を増額した。そればかりか、集団安保法、機密保護法、騒乱罪等々まるで、かつて戦争に突入していったときのような社会の変化を作ってきている。戦争を二度としないと放棄した憲法を、戦争できる国の憲法に変えたいと、本来国政を担う政治家が手を付けてはならないとする憲法に反してまで、改憲の提唱をしてきている。
 はたして、日本の政治家や軍部は、戦争廃絶反対派なのだろうか。それとも好戦家なのだろうか。口先では「決して戦争はやってはならない」といいながら、行動ではちゃくちゃくと戦争のために動いている。本当は好戦家なのではないか。
 つまり、先の戦争が終わって、日本は二度と戦争しないように、勝者から憲法で制限をかけられたのは事実。だが、勝者から日本の政治支配者に配置された政治家たちは、長く「非戦者のよそおい」をしていたけど、70余年経過して好戦家の顔に戻ったのではないかと疑われる。勝者だった当時の日本管理委員会も米軍単独占領になり、その後も日本支配の形態を「独立」にして支配は変わらないまま続けられた。その支配者の事情も、日本に自衛隊を作らせて、米軍の一部隊として役に担うように方針を変えてきた実態がある。
 朝鮮戦争時は海上保安隊が実際に動員されている。ベトナム戦争時は要請があっても憲法の条項を盾にことわった。湾岸戦争においては表立って非参加をなじられカネで収めた。だがその後日本の政権は自衛隊の海外派兵の既成事実をつくっていく。
 日本を支配するものは、今日に至っても何も変わらず、日本の政治と軍部の配置も支持も「独立」をよそおって継続されている実態が民衆の眼から隠されている。
 つまり、日本の政治と軍の実態は、日本を支配している戦争での勝者が握ったままであるということになる。実際に、このような視点で現在の日本の政治と自衛隊の動きをみてみればよく理解できる。安倍政権による改憲が実現されれば、派兵を押しとどめるものがなくなる。
 もっと正確に事態を見るなら、今日の日本の姿を実現するために、先の戦争が仕組まれ、敗戦国となり、日本の極東における不沈空母が実現された。独立国「日本」は、戦争を仕掛けたもの(戦争の勝者)が用意した演出に過ぎないのではないかということ。日本の政治家と軍部は勝者が自分の手先として配置しているというのが、本当の姿ということ。
 よく見れば、現在の日本の政治家と軍部は、戦前からの政治家と軍部の子孫たち。さらに過去を追えば、何と明治維新を実現して、独立国日本を担った薩長の政治家と軍部であることがわかる。
 明治維新そのものは、黒船に象徴される欧米の強力な圧力のもと、彼らが幕府派と薩長派双方に戦費を融通してたたかわせた実現した勝者の政変だった。このときの日本の薩長藩の勝者で政府と軍部についたのは、西欧に留学や視察に呼ばれた人たちであることだ。
 このときに「以後の政治と軍事と経済をまかせる」として、指示を受けるようになったと言われている。別の表現をすれば、以後の日本を西欧の彼らと一体でになっていくカイライになったのである。
 このカイライが、西欧の彼らと一体で、表の政治を演出してきた。いろいろな台本を見せられて、筋書き通りに演じてきた。日清戦争を起こして勝者を経験し、続けて日露戦争を起こして、世界に勝者デビューした。勢いで第一次世界大戦に参加する。そして「アジアの盟主」とそそのかされ、日中戦争の泥沼を演じた。
 最後は日米の戦争になるのだが、それは表の話であって、実際に裏では一貫して明治以来の西欧の覇者と一体で舞台を演じてきたということだ。第二次世界大戦では、大敗北をきした敗者を演じた。だが、それは表のよそおいだけで、実際は、明治以来の政治家と軍部がそのまま続いていたに過ぎない。
 この表の壮大な劇に、すっかり騙されているのは民だ。日本の民ばかりではない。世界中の民が表の政治の舞台劇に騙され続けている。
 表題の「現在の日本の政治家と軍部は好戦家か」というテーマ以前の話が実態である。表の政治家は、第二次世界大戦の勝者である西欧の彼らと一体であり、元来からの好戦家で、世界の政治支配のための道具として「戦争」を利用してきたにすぎなかったのだ。
 ここまで見てくれば、前段のテーマで指摘した謎もわかってしまう。戦争の巨額の費用を賄ったものがいるという件だ。それは第二次世界大戦の勝者でもある、西欧の支配者たちだ。しかも彼らは、西欧の国の政治家や軍部ではない。西欧の国ぐにをまとめて支配している者たちであることがわかる。
 つまり、国際金融資本を一手に握ってる者たちである。彼らは企業の資金を支配している。企業が生み出す利益を支配している。企業の利益を得るために、各国の政治家と軍部を配置している。各国は企業が利益を上げるのを邪魔しないように、法を作って政治をする。国際金融資本のカイライだからだ。
 かれら国際金融資本があくなき欲望を追求するために、その支配を拡大してきた。西洋から西の米大陸へ。さらに太平洋を越えて極東へ。また、西欧から東へ。ロシアと中東とアフリカへと、いいなりになる国と地域を拡大してきた。
 現在世界中で紛争が起こっている地域は、国際金融資本が欲望を現実化するための接点である。旧共産国であったり、イスラム教国であったりする地域だ。それが中東であり極東だ。いくつかの世界的な戦争を起こすことで、現在日本を極東における不沈空母にまで実現してきたところだ。
 表の政治と軍事の舞台からだけみたら、それがまるで見えないようになっている。

◆戦争の話で隠したいこと、その3「民に戦争の悲惨は語らしても、戦争の真実は語らせない」

 戦争を廃絶することに向けて、民はどんなことをしているだろうか。一番広くなされているのは、全国各地で「戦争の悲惨さを忘れない」ことだとして、体験者の話を聞くこと。広島や長崎にある原爆記念館、平和資料館などを訪問して遺物等をみて知ること。沖縄を訪れ民衆が無残な犠牲になったことを学習すること。さらには普天間米軍基地を「変換する」との言葉裏腹に、強行的に進められる辺野古基地の拡大工事の実態を知り、その反対運動に参加すること。
 戦争の悲惨さ、理不尽さを描いた民衆劇や映画が続々と作られる。外国の作品もある。これらを観劇して語り合うこともなされている。
 多くの市町村が戦争を二度としないという不戦宣言をしている。そして毎年広島や長崎や沖縄に小中学生が研修に訪れるのを支援している。戦争と平和をテーマにして作文コンクールもなされている。圧巻なのは沼津市がインターネットにその作文を毎年公開していることだ。幼い子供が見たまま、感じたままを素直に表現しているのが、何とも読んでて感動を呼ぶ。
 このように、圧倒的に多くの人びとは平和を願い、戦争の廃絶を心から望んでいる。だが、日本の政治では、廃絶する方向に向いていない。現実はまるで逆だ。沖縄では辺野古の基地建設をさせないとする知事が選ばれた。だが任期中に病で倒れた。後任の知事も選挙で多数を得たのは基地反対派だ。それでも日本の中央政治は、まったく耳をかさない。ついに県民投票をする。そこでも圧倒的勝利を得る。だが、中央政治は、勝利を示したその日でも、声を聞くことなく工事をすすめたのだ。
 民の声をまったく聴こうとしない。聴く態度をカケラも示さない。これが現在の中央政治だ。いったい、なぜに、そこまでかたくなに中央政治は耳をかさないのか。民は「沖縄の独立だ」「武力で対決するしかないのか」「本土の民は沖縄にだけ負担を負わせておきながら、なぜ動かないのか」と本土の民にまで疑いを向ける。「本土が基地の一部を引き受けて沖縄の負担を減らすと、一つの声もない」と嘆く人もいる。
 中央政治の沖縄民衆の声無視は、本土の民との軋轢まで産もうとしている。
 民主主義を誇る中央政治は、辺野古問題ではファッショ(独裁)そのものだ。この言行不一致はなぜなのか。それは、辺野古問題は戦争問題であるからだ。戦争問題で、特に行動を伴う問題では、中央政治家と軍部は絶対に民には譲らないからである。
 中央政治家にすべての行動を支持しているのは、世界金融資本であることは、前項で論じた。世界金融資本は基本的に産軍複合体と呼ばれる戦争屋である。彼らの日本の基地問題についての姿勢は、明治維新以来不動だ。つまり、日本をようやく極東の不沈空母として実現した。これを強化することはあっても弱体化することなど、まったく念頭にない。
 支配国である日本の一部の民が反対するのは、彼らは最初から分かっている。だが、世界金融資本の世界制覇のための、ただの属国に過ぎないところの民の声など、端から聞く気はないし、それでも歯向かうのであれば、テロリストだとか内乱者だとか「民衆の敵」として排除していく、ということ。実際に、過去の戦争においてはそのようにしてきた。
 この度の辺野古問題でもかわならない。国際金融資本とその属国の政治家は、その立場から民をみているということだ。
 戦争は理不尽でこのうえない悲惨を民に強制する。基地の建設には反対だ。外国の基地はいらない。このように民が自分の意志を表明することは、大事で必要なことだが、中央政治家と軍部は無視する。「自由と民主主義をうたう国」では、ここまでは許される。
 だが、ここまでの民の行為は中央政治を動かす力にはならないということを意味している。ここまでは許されるし、民がこの意識に留まっていてくれることは、中央政治にとって望ましいことであるともいえる。いわゆる「湯気抜き」である。
 だが、教育の現場ではどうだろうか。例えば、小学生、中学生に対して、先生が黙って研修旅行に連れていくことは何のとがめもない。だが、先生が子供たちに「戦争反対。辺野古基地中止」を正しいこととして話したとしたら、おそらくただでは済まない。どこかからか厳しい追及がなされるだろう。
 そのために現場の教師は、これを超えないということで自主規制をしているのが現実だ。「子どもにどう教えれば」という声になる。真実は語れないという社会の実態がある。

◆戦争の原因についての公式な話と本当の理由(勝利者が作る表の理由とほんとの理由)

 ・日本はアジアの盟主だ。日本人、朝鮮人、中国人、モンゴル人が力を合わせた大東亜共栄圏を作る。
 ・ソ連のコミンテルンによる共産化を防止するために必要な防御戦だった。
 ・日本はエネルギー資源が弱いので、それを確保するための生存権にかかわる正義の戦争だった。
 このような主張で、先の戦争を見ている人たちがいる。多くは現在の日本の中央政治家と軍部である。政権の支持者たちの声だ。
 民衆の声ではない。世界全体を支配したい覇権主義や帝国主義者の発想であることがわかる。自分はエリートで世界中の民は自分にかしずいて当然という優越主義を隠さない。敵がいて攻めてくる危険があると言えば、それから守るた必要がある。この理屈を民衆に語ればいかなる侵略行為も認められるという騙しの常とう手段が使われている。資源を強奪するのが生存権で正義という。
 一貫しているのは、相手をまったく見ていないことだ。
 相手は、自分のために殺されて当然。侵略されて当然。強奪されて当然。その上さらに、自国の民も、彼らの無法な戦争に協力して当然というもの。
 だが、どこからみても弁護しようもない確信犯の強奪者が「歴史」を作っている。つまり、世界全体を支配したいという強奪者が、戦争をしかけて、その都度「勝利者」になって、彼らがいいように「歴史」を書いてきたのである。それが、政治の表で戦争を表現してきた。つまり、勝利者に都合のよい理由を、そのつどつけてきたと言える。
 先の戦争についていえば、西欧の支配者が西回りで米国、太平洋を遠征し、ついに日本を極東の足場として押さえ、今日の状態に到達したということ。日本の中央政治家と軍部は、西欧の支配者と一体で台本に沿った役回りを演じてきたということ。「日本の敗戦」を成し遂げ、民を騙し、実は戦前からの支配集団がそのまま中央政治をやっているということ。
 現在リアルタイムで進行中の、米国とイランの戦争危機を、この立場から見てみれば真実が一層わかってくる。
 まず、安倍首相が6月「無意味にイランを訪問する」。日本のタンカーが襲撃を受ける。米国はすぐに「イランがやった」と写真を示していう。イランは否定する。領海で米国のドローン偵察機がイランから撃墜される。米国は「領海侵犯はしていない」と主張する。さらに先のタンカー襲撃について、そのときのカラー写真まで添えて「犯行はイラン以外にない」という。トランプは米軍にイラン攻撃をいったん認める。だが、10分前に中止を指示。だが新たに制裁を強化するする…、といった流れが報じられ、あわや「また戦争か」と世界中の民をパニックに落とした。
 だが、冷静に事態を見てほしい。広大な海域で日本籍のタンカーが何者かに襲撃される一瞬を、どうして米国が撮影しているのか。そのタイミングをあらかじめ知っていて、スパイ衛星をその上空に移動させ、ドローン偵察機を何機も飛ばしていたからできた技だ。
 このようなことをできるのは恐らく米国だけだろう。ということは、自分で犯行を自供しているようなものだ。
 写真にあるイランのものと思えるボートについては、あらかじめ元イランの反政府組織で、殲滅寸前に現米国政府高官らが国外に逃し、そこで資金を与えて訓練した組織が入手したものであることがわかっていた。
 つまり慎重に事態を追うならこの度の「騒ぎ」が、世界金融資本と一体で米国を支配しているものたちが、イランと一戦をまじえ中東での支配拡大をしようともくろんだ行為であることがわかる。
 ちょうど米国の政府高官らがイスラム国を作って暴れさせたのと同じ構図だ。米大統領選挙のときに、ヒラリー・クリントンが私的サーバーからイスラム国という組織を操っていたことが、世界中にばらされたので知った事実だ。
 つまり、戦争についての本当の理由は、表の発言からは見えてくることがない。どのような理由が語られようとも、本当の理由は最初から一つしかないのだ。
 世界を征服する意図を持つ世界金融資本が、すでに支配するいくつかの国々に配置した政治家と軍部を使って、紛争を演出する。そのとき、犠牲になって死んでもいい民を騙して、たたかわせて盛り上げる。ときには一方が負け、ときには勝つが、それが繰り返され、最終的に、支配の拡大という目的を実現していく。
 現在は、そのような野蛮で非人間的な行為が展開されている時代。
 国家の利害、イデオロギーの対立、民族間の紛争、文化文明の軋轢、宗教戦争などは、全部真実ではない。少なくとも、世界の民がそのようなことで争う理由はない。これらは全部、勝利者が民にそのように考えてほしいという、戦争の理由に過ぎない。民が騙されて、そう思っているうちは、勝利者の支配は安泰なのである。
 民は真実に気づかないまま、世界金融資本による世界制覇が完成する。
 民はそれでいいのか。

◆戦争について民自身がタブーを持っていること

 すべて、戦争は世界金融資本が起こしているものと指摘すると、必ず次のような反論がある。
 先の戦争をしたのは確かに日本の政治家や軍部のやったことではあるが、その国の国民として戦争に、兵としても、バックアップとしても必死に関与したのは事実で、責任もある、と。
 特攻隊にしても、竹槍隊にしても、鬼畜米英を信じて、自分の意志として戦争に立ち向かった、と。
 政治家と軍部の一部は積極的な戦争推進派だったが、必ずしも全部がそうだったわけではない。日中戦争でも深みに入るのに反対するものはいたし、早期終結に奔走した人たちもいる、と。
 まして、自分の親族や親しい人が、戦争を進めた政治家や軍部の人たちであれば、一概に責任を押し付けるのには抵抗があるだろう。戦後まで生き残った民は、皆この気持ちを抱いている。公然と反対したものは、拷問で殺されたか、監獄にいたからだ。拘束期間が過ぎても「予防拘禁法」があり獄中から出られなかった。
 戦争を批判できるのは、当時に公然と反対したものだけなどというのは、まったく違う。ファシズムという政治体制になったなら、誰でも獄には入りたくない。自由はなくても、言いなりであっても、自分意志をを殺して、ときの政治に命令に従っていく道を選ぶ。
 これは民の生存のための、恥知らずではあっても、他にない選択だからだ。相対的に民自身の力がない状態での、否定できない状態である。
 生きる道が命令に従うしかないと腹を決めれば、特攻隊に進んで応募し、迷わずにあらゆる知恵をしぼり、敵に効果的な攻撃をかけることに専念するようになる。
 遠く大陸に出兵した兵士も同じだ。何の個人的な恨みもないのに目の前の銃を構えた相手に引き金を引かざるを得ない。
 これを殺人だ、犯罪だといっても何にもならない。こうして勇敢にたたかった行為を、いまさら責めても何も生まれない。まして犠牲になった方を侮るなどしてはならない。
 民がするべきことは、この苦しみからの根源的な解放いがいにない。つまり、主題である戦争の廃絶の実現以外にない。つまり、自らの国の民も、相手だった国の民も一体で戦争の廃絶を成し遂げること以外にない。それが、戦争を乗り越える民の決意であり姿勢だ。
 戦争を引きずるのではなく、乗り越える必要がある。
 戦争が起こした結果のすべては、どこをどう追及しても矛盾に突き当たる。
 民が理解するべきことは、戦争の廃絶に向かおうという方向である。
 だが、現実のことになると、いたるところで戦争への引き戻しにあう。それは、職場で、地域で、直接的間接的に戦争への加担と思える行為に加わってしまうことだ。
 直接的なのは、内外の軍部が大学に資金をだして、軍事に結び付く研究をさせる。その教室やプロジェクトの一員であるというケース。人工知能とか医学とかゲームとかの最先端の場所では、必ず関係しているといっていい。
 米軍や自衛隊の基地があるところは、そこに職場がある場合には生計が戦争への加担で成立している。簡単に職は変えられるわけではない。まして、清掃や食事といった業種の場合はたとえいくらそこが軍の場所でも迷いはつきない。
 間接的な関与ということになると、もはや線引きは不可能だ。学業で職場で、こうした問題にあふれている。
 だが、大事なことは、戦争への加担があるからといって安易に離れるというようなことではなく、意識をもつことである。それを仲間で話題にしていくことである。仕事から離れるというのは、将来的にそのような情勢が来たときに限らなければならない。
 民のなかで自らの仕事や生活でどう関与があるのか、ないのかを意識し、仲間と話し、やがて到来してほしい情勢に備えること。
 これは、主題である子供の教育にも結び付いている。
 子供たちは一般にゲームは好きだ。いまどきチャンバラごっこは少ないのかもしれないが、男の子は遊びに武器やたたかいがつきものだ。なぜか戦争のテーマにかぶさるところへの無意識の興味を持っている。
 親や周囲は子供との接点で、重要な教育の生きた教材をもっていることになる。将来の夢や、やりたい仕事や、研究したい対象、誰と何のためにたたかうのか、それぞれの成長の段階に応じた話題は尽きないほどある。このときに、親として、大人として、民としての自分の考えと姿勢が問われる。
 ここで、戦争にたいする自分の確信ある主張をちゃんと話せるのか、ということではないだろうか。民が戦争についてタブーをもち、避けるならば、せっかくのチャンスを逃すことになる。

◆戦争についての支配者が絶対に民に知ってほしくない秘密の本質

 戦争が世界金融資本によって起こされている。
 世界金融資本はグローバル思想を世界の民に、誰も否定できない歴史の流れだと思わせている。世界進出を当然とし、世界的な競争に負けてはならないとし、このような流れの世界をエリートが治めるのは当然だとする。世界的な秩序を実現するために、世界的な憲兵が必要だとし、それを自分たちが支配する米国にさせる。
 米国一国が全世界の軍事費をしのぐ圧倒的な戦力を持つ。世界を圧倒的な戦力でひれ伏させようとする。自分が持つ核兵器は捨てないが、他国に持つのを許さない。いうことに従わないのなら制裁をするという。
 世界金融資本の邪悪な目標と思い上がり、そのもとで一体で戦争政策をすすめる政治家と軍部のエリート意識が鼻につく。漫画にでるジャイアンの行動そものもだ。
 民はだれもそのようなことを認めないだろう。だが、戦時中と同じように、民であるものの一部は、勝者にあこがれ、エリートにせりより、支配者側になろうと積極的に行動するのを見受ける。民の側にあるあまりにも長い被支配者の感情の裏返しなのか、哀れな奴隷根性がそうさせるのか。
 支配者は、無自覚に民を支配の機構の一角に組み入れていく。
 こうしたことを横目て見ながら、民自身が敢然と否定できないのは、民の弱さである。弱さは自覚しながらも、戦争の完全な廃絶を実現する目標はあきらめてはならない。
 戦争の廃絶は民の長期の絶対的な願いであるのに、それが実現しない現実は民に絶望に近い叫びに陥いるのは、まさに民の中の裏切りのような行為があふれているからだろう。
 世界金融資本の側から見てみたら、まさしく民の絶望は称賛すべき事態。民は、支配者が持つ途方もない、圧倒的な力のもとに、ひれ伏すことが理想の状態だ。さらには、民自らが、抵抗することをあきらめて、積極的に自分の能力を発揮して、支配の強化に奉仕してくれるのを望んでいる。
 現在の世界で起こっている事態そのもものように見える。
 いうまでもなく、それはよくない。圧倒的な力を持っているからといって、戦争を武器に支配を拡大するなどということは、永遠に許されてならないことなのだ。だが、民はどうしてここまで卑屈な気持ちや考えに陥れられているのだろうか。
 ひとりの人間として冷静に支配の実態をみたときに、考え方として歪んでいる。実は、世界金融資本は長期の世界支配の経験から、戦争についての極限の真実を教訓として得てしまっているのである。戦争が実現する目まぐるしいほどの効果である。支配者側にとっては、絶対的に手放せない素晴らしい効果をもたらす。
 戦争の秘密である最大の真実とは、戦争が支配に欠かせないということ。なぜなのか。それは民に戦争を体験させるだけで、民の思考が歪むということ。民の感性が狂い、まっとうな考えができなくなる。
 戦争がおりなす究極の理不尽という現実を目の前にすると、民は緊張とストレスからある線以上にに踏み込むことをしなくなるという、単純な生理現象の発見だ。
 戦争を経験するとそれについて忌々しさが沸き上がり、興奮し触れたくもないと拒否してしまう。これは生物としてのありふれて現象なのだが、これこそが戦争について、民が支配者のいうままを受け入れてしまう理由だったのだ。
 だから、世界金融資本はいつも支配下の双方の国の政治家と軍人を使って、民にありもしない理由をつけて、互いに相手国を「鬼畜」とののしらし、民同士を争わせる。存在しない理由でも、彼らがこじつければ「チャンコロ」とか「露助」「鬼畜米英」などといって不倶戴天の敵であったかのように思わせる。
 民がまっとうに思考して判断するなら、そのようなことを絶対に受け入れるわけがないのに、戦争の危機で委縮させれば、自在に感覚と感情をコントロールできる。
 世界金融資本は戦争をすることで実現できる絶大な効果を実際に利用してきた。つまり、民が生きている間に少なくとも一度は、戦争の体験をさせるということだ。戦後になってすでに一世代分の時代が経過しようとしている。世界金融資本と彼らが支配する日本において、生きている間に一度戦争の危機を体験させるという期限がきているのである。
 ここで成立したのが安倍政権である。安倍政権が現在戦争準備をかつてない意気込みですすめている背景である。

◆まとめ

 「私の息子たちが望まなければ、戦争が起きることはありません」と世界金融資本の中枢の家族の母なる人の残した発言だ。「世界的な事件は偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと…私は、あなたに賭けてもよい」と言ったのは米国大統領ルーズベルト。
 世界金融資本とその支持と命令で動く人たち、つまり戦争の当事者が語っていることは真実だろう。
 冷静に判断すれば、あからさまな戦争の主犯者の前で、世界の民は戦争廃絶の道は完全に閉ざされているのだろうか。
 そのようなことはない。力は認めるが民が一方的に不利なわけではない。
 そもそも世界征服など邪悪な夢だ。民に犠牲をもたらすだけの悪事だ。世界を制覇するのも問題だが、その手段に戦争という究極の手を使おうとする。世界制覇が世の正義でまっとうなものなら、民にその意義と道理をどうどうと説いたらどうだ。邪悪だからそれができない。
 エリートだというが、その中枢は極めて少数だ。それに比較して民は無限に近い圧倒的な数で勝る。
 戦争をすることが最大で唯一の武器ならば、その真実を圧倒的多数の民が知ってしまったら、武器が無力になる。
 グローバリズムの波は歴史の絶対的真実というのが、思想的な根拠になっているが、戦争を進めるために民衆をあおるこじつけだと、民衆が知ってしまったら使えなくなる。
 世界金融資本はグローバリズムと両輪で利益第一主義、金権主義を使っている。利益を上げるためならすべての制限はない。カネがすべてという思想。各国の政治家や軍部はカネと利権で縛っている。民にもカネこそ第一、利益第一主義を当然として信奉させている。民が金権へのこだわりを持っているかぎり、道理を捨てる。だが、民が金権と利益についてのとらわれから解放されたなら、金権で支配者から動かされなくなる。
 民が生きるか死ぬかの線上に置かれ、常に貧困と余裕のない汲々とした状態にされて、学び知る時間が奪われている。しかし、思考の歪みから解放されて、支配のために戦争を続けるというこのの真実を民が知ったなら、もう支配者いらない。戦争は廃絶できる。
 支配者は民に寄生し、支配を継続したい。だが、民が支配者の寄生を捨てる決心をしたらどうだろう。寄生虫は宿主を失えば存在できない。
 このように、現代の政治支配と戦争をみてみたら、戦争の廃絶は夢でも不可能でもないと考えられるだろう。それには、決定的に必要なことがある。それは、民側の力をもつことだ。あまりにも長期に民は被支配者だった。支配され慣れしてしまっている。他力本願の依存症だ。自分以外の誰かが、何かしてくれるだろうと。
 支配者が提供する生活環境、支配者が提示する労働環境などなくても、民自身の力で民の平和で安全で繁栄できるシステムを用意し、取り換えるだけの力だ。しかも、自国の民だけではなしえない。世界金融資本の支配は世界を股にかけている。だから、世界の民が連携して、力をつける必要がある。
 有り余る時間はある。民はじっくりと、慎重に自らの力を内部に蓄えていくことができる。

注1:朝日新聞(2019/6/18)
「戦争 子どもにどう教えれば」大学生 坂本里奈(神奈川県 20)
 中学生の頃、夏休みの課題で祖母に太平洋戦争時代の話を聞いた。田舎の小学生だった祖母は空襲があると、近くの森に走って隠れたことや都会から疎開してきた子と仲良くなったことなどを教えてくれた。
 そんな祖母は82歳。同じ話を繰り返したり私の名前を間違えたり。戦時中の話をもっと聞いておけばよかったと後悔している。聞こうとしても、そんな昔のことは覚えていないと言われてしまう。
 私は大学に通いながら、放課後は学習塾で小学生に歴史を教えている。彼らは戦争の知識が少ない。広島に原爆が落ちた日を知らない子も多い。平和な時代に生まれた私は戦争をどう教えてよいかわからない。
 戦争体験世代が減る中、どう語り継げばいいのか。この解決策を見いださないと、今度は私たちが戦争を体験することになるかもしれない。

注2:朝日新聞(2019/6/17)
「武器見本市への抗議当然だ」無職 江坂顕二郎(千葉県 81)
 千葉市の幕張メッセで武器見本市が17日に始まる。
 開催に抗議する人たちが、千葉県に会場の貸し出し中止を求めたと報じられた。武器の見本市と言えば、敵を倒すのにいかに威力があるか性能をPRするものと想像できる。県が関わる施設の使用反対は、当然のことと思う。
 このような展示が許可される一方、市民文化活動では表現に政治的内容が強く含まれるとして公共施設での掲示や発表を断られるケースもある。
 政府、地方自治体ともに、戦争の悲惨さを語り継ぐ使命を忘れ、平和を作り出すよりも、戦争をしやすい状況へと世の中を変えようとしていると思えて仕方がない。
 第2次世界大戦時、私は小学生だった。毎日空襲警報が鳴り、世界で5千万人以上もの人が死んだ。国家間の問題に殺し合いで決着をつけようとする戦争は二度と起こしてはいけないことを肝に銘ずるべきではないか。人と命を大切にする社会を目指して。

注3:沖縄慰霊の日 2019年6月23日
「平和の詩」 相良論子(中学3年生)
 73年前、私の愛する島が死の島と化したあの日。小鳥のさえずりは恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
 青く広がる大空は鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は、戦艦で埋め尽くされた。
 火炎放射器から噴き出す炎、幼子の泣き声、燃え尽くされた民家、火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。魑魅魍魎のごとく、姿を変えた人々。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 みんな生きていたのだ。
 私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。彼らの人生を、それぞれの未来を。疑うことなく思い描いていたんだ。家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。仕事があった。生きがいがあった。
 あなたも感じるだろう。この島の美しさを。あなたも知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。
 だから、きっと分かるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。戦力という愚かな力を持つことで得られる平和など、本当はないことを。平和とは当たり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。
 なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。大好きな、私の島。誇り高き、みんなの島。そして、この島に生きる、全ての命。私とともに今を生きる私の友、私の家族。
 これからも、共に生きてゆこう。
 この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発信しよう。一人一人が立ち上がってみんなで未来を歩んでいこう。摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。
 過去と現在。未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
 命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。

注4:世界金融資本の世界制覇と支配の手段としての戦争の真実に迫った人は幾人もいるが、J.オーエルの小説[1984」はその一冊。

注5:新世界秩序(New World Order)を実現するのだと元ブッシュ(父)大統領らが公言している。エリートが全世界を支配して、圧倒的な力を常時示すことで、平和な社会にするのだという。テロとか戦争の危機とかで全世界を震え上がらせている現在、それを抑えるのにはやはり世界瀬府が必要だと民に思わせるのが目的のようだ。だが、エリートに全世界の民がかしずくような社会が即奴隷制といってもよく、認められるわけがない。

注6:2001年の911をきっかけに、世界は一気にカオス状態になった。世界金融資本はこれをきっかけにして、野望の実現に向けたむき出しの行動を展開してきた。つまり、支配者が待ったなしの本気で民に向かってきている。
 格差は以前からあったが、一気に広がったのは911以降だ。男女の差などは相違に過ぎないが、富の格差は人口によるもの。意図的であるのはこれで民同士がねたみ、いがみ合うことだ。人民同士の争いが続いていることが支配に欠かせない。
 戦争、核、格差は民の全員が反対なのに、増加はあってもなくならないのは、起こしているのは世界金融資本だからだ。

注7:徴兵に応じてイラクに派兵された兵士と家族が、実際の戦場を体験してどのように戦争についての感情が変わっていったか。おそらく先の戦争に出ていった日本の兵士と家族の心境も同じだろう。これを克明に映像で追った優れたドキュメンタリーがある。2004年M.ムーア監督の「華氏911」がある。華氏911はブラッドリーの小説「華氏451」にちなんだもの。支配者は不都合なことを民に知らせないために焚書をする。そのときの書が焼ける温度が華氏451。