記・国民B(2019.5.1)
■「パワハラ」に現代支配の謎がある

 江波戸哲夫著「集団左遷」が現在TBSの日曜ドラマで放映されている。人気歌手福山雅治主演で舞台は銀行。これは1993年の著作で翌年に東映から同名で映画化された。不動産業が舞台で柴田恭兵が主演した。
 会社はリストラする。何人ものサラリーマンが解雇の危機にあう。そのときに、上司は中間管理者に首切りを合法的に実現するための作戦の指示をする。ストーリィでは、その上意が納得できずに逆らう。中間管理職とその部下が、尋常でないノルマを自分たち自身に課し、それを実現して、自分たちのパワーを経営者に訴え認めてもらうことで、リストラを逃れようというもの。
 経営者の意図は先にリストラすると決めている。担当役員は手段を選ばず実行の作戦を練る。中間管理職に命じる。影像では上意を伝えるセリフが露骨だ。そのストレートさが、視聴者を巻き込む要素になっている。

 池井戸潤著「七つの会議」2011年~。今年に映画化された。2013年にNHKでドラマ化。舞台は中堅電機メーカー。下請け企業への部品価格の引き下げを求める親会社の担当社員の、セリフと行動がリアルだ。生産に関与する企業には、例外なくどこにでもある姿。
 ストーリィでは背後に経営者役員がからんだ不正があり、それが法的にも犯罪であるのだが、問題はそこで働くサラリーマンの日常に深く絡んだパワハラだ。その実態があばかれている。

 相場英雄著「ガラパゴス」2016年。舞台は自動車メーカーが抱える深刻なエコ化、コスト削減の問題。身元不明の死者の背後を暴き出す刑事。犯人を特定するに至るのだが、それまでの調査中に浮かび上がる現代社会の深刻な不正規労働者の実態。相場の著作では311と原発事故の復旧にからむ大掛かりな詐欺が追及される。
 ここでは「会社は守ってくれんでね」というセリフが出てくる。これは現代の「蟹工船だ」と評論家は指摘する。確かに小林多喜二の著作では「お上は俺たちの見方ではなかったのか」と、国家の無情な本質が指摘されている。「ガラパゴス」を改めて評価したいのは、そこに「私は知らず知らずのうちに犯罪に加担していました」というセリフが登場することだ。
 現代において、働くものが置かれている状態について、このセリフが決定的に深刻な事実を示している。

 ここに3つの著作をあげた。
 共通しているのは、サラリーマンの労働現場だ。日本の企業が自らを「同業他社に負けてはならない」との脅迫観念で縛り、収益を確保するために、ありとあらゆるすべてのものを犠牲にしていく様だ。下請けと不正規労働の制度が正社員をも貧困化させていく。
 グローバリズムは古くからあったものだが、ここ数十年で前面に登場し、あらゆる労働運動、革命運動をけちらし、壊滅に追い込んだ。「企業が生き残るために」という言葉が、従来の運動理論を押しつぶした。人民は企業側のこの詐欺に巻き込まれ、挙句は加担したという、悔やみきれない深刻な問題が孕む。
 人民は救いがたいほどの貧困に対面した。経済的ばかりではない。こころの在り方までどん底に陥れる。企業の上意は「パワハラ」により下達される。現代は企業が国家を買収して、企業が利益と存在を守るために国に指図して動かしている。企業が下請けをいじめ、企業が労働者をいじめ、死に追いやるような行為を、買収した政治屋を使って法を作り「合法化」している。
 実は、これら企業は現在においてすべてがグローバリズムの巨大な津波のようなものに乗って動かされている。NWOの完成を目指した世界金融業者が動かすグローバリズム企業群の配下にある。各企業はこうしたグローバリズムの推進の一端をになわされている。
 個々の企業は一見NWOとは無関係のように見える。だが、トータルでしっかりとNWOが推進されていることを見逃してはならない。
 上意の貫徹はすなわちパワハラという行為で行われる。
 「パワハラ」は権力を利用した押し付け。
 しかしどこにでもありふれて存在するパワハラを、単に職場にあるもの、法的に違反かどうかというものに、矮小化したものにされている。似たものに「モラハラ」や「セクハラ」がある。いずれも本質は同じで、権限を持つものが部下に「上意を実行させる」こと。
 一般的に部下である個人の意思に反する行為を強いられる場合が問題視される。だが、意に納得しないまでも、部下が上意を忖度したり、業務だからと上意を当然視して、むしろ積極的な創意工夫を凝らして、能動的に実行することもある。
 部下が自ら能動化するばあいは、パワハラの範疇に入れないことが多い。同意しているものとみなされる。法的なセクハラにもならない。このように極めて大きなあいまいさを持つテーマだ。それだけに、このテーマは注意深さを求められる。
 あるアンケート調査によれば、職場でパワハラを経験したというものは82パーセントに及ぶという。また「自分が加害者に及ぶ危惧」を感じているものも70余パーセントある。パワハラに自分と相容れないものを感じ、退職するというケースも多い。いうまでもなく、近年急激な増加を見ているのはパワハラによる死だ。自殺はお上の発表でも多いのだが、隠れ死(不審死)を含めれば、10余万人に及ぶというから深刻だ。
 3つの著作は、言うまでもなく革命の書ではない。だが、意識あるものは、そこの背後にある真実、人民による革命でだけ解決できる真実をみつめる必要がある。

◆パワハラは「他人への迷惑行為、犯罪」

 パワハラについては、近年深刻さが増しているのは事実だ。だが、圧制の世にあって、公的な表現にパワハラについての正確な真実があるわけがない。企業におけるコンプライアンス部署のマニュアルにおいても、教育でもマスコミでもない。それは、権力機関が真実を語るわけがないから当然だ。
 権力機関は権力犯罪を覆い隠すことはあっても、決して真実を表に出さない。パワハラについては「職場に限定する」「法に反している」に矮小化される。
 だが、パワハラはあくまでも、職場を超えたすべての人間生活の場での行為が対象だ。「上司と部下」「先輩と後輩」「教師と生徒」「親と子供」「コーチと選手」「尊師と使徒」等々あやゆる場が対象になる。上は背後に権限、権威をもち、それをカサにして下を動かそうとする。
 職場ではこうすれば「利益」になるから、というのが決まり文句だ。金権主義が支配する資本主義においては「利益」のために行う行為は、基本的にすべて合法だ。内実は詐欺、強奪はもっともらしい理由があればOKで、あからさまな殺人や暴行は「犯罪」とされる。だが、これもしょせん、人民に覆い隠せば「犯罪」にならない。うまくやったら、何でも無制限なのだ。
 だが、人民の側の規定は明確だ。
 他人に迷惑をかけるすべての行為が犯罪である。もちろん表に露呈しないケースもあるだろうが、お天道様に恥じる行為は例外なく犯罪である。
 パワハラとしては部下の意に反するような、納得できないようなことの指示は駄目である。それが自分の意のみならず、人民の利益を害するような指示であれば、犯罪として分類されて当然である。
 リストラで首切るための計画の具体化。部品の原価を不当に下げるための下請けへの命令。入札価格を原価以下でも決める窓口行為。常識的に不可能なことを命じて部下をテストするような理不尽行為。「仲間は守る」と同僚の犯罪を握りつぶす。クライシスアクターのみならず、町で役者にインタビューして「町の声」を偽造する。等々、毎日見る、体験する、ありふれた出来事だ。
 これを異様なこと、自分の感覚に耐えきれないことと感じたら、退職しかない。実際に辞めて自営業、農業等の自分だけである程度判断してやっていける仕事についたものは多い。
 職場に残っているのは、感覚麻痺であきらめたか、機会をみて自分がパワハラをやる側になる気か、すべてを「仕事だから」と気を切り替える術を身に着けたかである。生活がかかっているので、多くはこのようにしている。決して、理不尽な上意を「仕事として」こなすことが、正当化され、必要で正しいことと認めたわけではない。
 コマーシャルで表される企業のイメージは、その企業実態をはかる基準にはならない。表に出て切る優れた製品が、その企業の実態を表しているわけではない。壮絶な職場があって、死と向き合うような不合理とのたたかいがあって、世に出るのだが、現場では黙々とした労働者の叫びがある。

 戦後最初のベビーブーム世代の労働者はおおかた退社した。その次の代あたりも定年を迎えようとしている。その人たちが職場の主役だった時代、ところによっては、今で言うパワハラは日常だったという。拳固での部下教育は珍しくなかったとも。部下はそうした軍隊のような職場を特に問題視もせず、むしろそれで仕事を覚え、鉄拳先輩を尊敬までしているというのも聞く。
 これは時代もあろうが一概にあつかっても「喫煙問題」と同じになる。あくまでも、上意の内容の正否、遂行手段の妥当性として厳格に判断する必要がある。
 意に逆らったものに対する上の対応も大きい。ねちねち根に持つ。左遷やクビにする。労働者の人間としての否定にまで及ぶなどというのは論外である。
 公文書を廃棄、改ざんする行為。逮捕者に虚偽の証言をさせる。首相の友人なら逮捕しない。ワイロで業者とつるみ利益誘導する。設計とことなる許容範囲外の部材を使っての建築。老人や病人、弱者からだまして利益をえるような行為…のような課題。人民に知られてはまずいような秘密をともなうものは認められない。大きなテーマは比較的わかりやすいが、むしろ掘り下げるべきは、日常に潜む小さなテーマが要注意だ。

◆家庭での良きパパ・ママが職場で企業戦士に変身する

 資本主義の欺瞞は、地球支配者が永遠に支配を続けるためにあることだ。現代、地球支配者はグローバリズム企業群だ。世界金融産軍複合体と一体だ。地球支配はグローバリズム企業群が全世界の企業を傘下に収め、カネで各国政府をカイライとして雇い動かしている。
 企業や産業に人民を労働者として置き、上意を下達させることで、人民を動かし、活動に加担させ、配下に人民の生活を嵌めている。
 この意図が機能しているのは、パワハラが機能していることでもある。地球支配者の意志がパワハラで人民につながっている。
 上意下達は、それがダイレクトになされる場がある。そこは軍隊であり、警察であり、それに準じる組織だ。官民を問わない。そこでは命令は絶対で、違反は死に近い。
 一般の企業でも基本は同じで、軍や警察の命令は民間ではパワハラ。その官の自衛隊では先に話題になったことがある。入隊したばかりの新人に対する先輩のセクハラ行為。影像も流れている。見るに堪えない。普遍化はしないもののあり得そうなこと。
 警察に関しては「腐敗しきった日本」で与国(幸福の科学・ユーチューバ)がまとめたのがある。何年か前にテレビドラマで「クロコーチ」というのがあった。公的な機関には多いようだが、警察では巨額の裏金を蓄積するシステムがある。その一環で配属するや否や不正領収書を命令で書かされる。この時点から犯罪に加担させられる。
 このくだりをそれに耐えられれないと感じた人が実名で何人もが証言した映像だ。絶対に権力も警察も人民の眼に触れさせたくない事柄であるだけに、その空恐ろしい攻防がすごい。
 元検事は警察だけではないことを証言する。判事、裁判所そのものも同じなのだと証言する。もちろん、ここでは暴いていることは「法的に許されない」として発言されているのだが、ここでの視点は法的犯罪かどうかではない。
 理不尽であるか否かにかかわらず、上からの上意下達の「パワハラ」構造を受け入れなければ、職場に存在できないこと。その人たち、つまり家庭での良きパパ・ママが職場でパワハラによって命令され、犯罪に手を科しているという事実である。
 取調室での警官の容疑者を追及する生の声というのも出ている。その声は決してすべてでないことは言うまでもない。だが、その追及の声、言い回し、セリフは、皆が想像する極悪ヤクザの弱者いじめの声と同じだということ。冤罪が頻繁に起こるのもうなずける。
 以前世間を賑わした豊田真由子議員の「このハゲー…」(現在はどのサイトも音声はすべて消されている)も似ている。議員がいくら雇っているものに対してであっても、それは許されるのか。というよりも、ここにもパワハラがあり、それが恒常化しているということ。
 米軍の空からの偵察と爆撃、しかも無人ということで欠かせない現代の武器であるドローン。これを取材したテレビ報道で、米国の基地から目の前の何台もある巨大なスクリーンを見ながら、オペレータがさもテレビゲームでも楽しむように、中東の町で「これがテロリスト」だと決めつけた人たちを殺害する。彼は言う。「昼はいつものように町の店で食べる。定時になれば家に帰る」というセリフが忘れられない。
 家庭での良きパパが、普通に職場に行き、モニターと向き合い、ガムを噛みながら引き金を引く。戦闘の現場からはるか離れた身の安全な場で、勝手に「敵」とみなした人間を惨殺するのだ。皆がそうではないものの、殺人をしている罪の意識などさらさらない。
 当然、中東で誤射による民間人の死亡が莫大だ。先ほど逮捕されたウィキリークスのアサジンは、誤射する映像を暴露して世界を驚かせた。
 書籍「ガラパゴス」で、著者は「私は知らず知らずのうちに犯罪に加担していました」と言わしめたと述べた。
 人民は働かなければ生活していけない。さまざまな事情で働きたくても働けない人もおろう。だが、五体健康で働いていないとしたら問題だ。不労所得があるから困らない、という人もいよう。だがそうなら、その所得は困っている人民に与え、自分は働けといいたい。
 政府や地方の自治体の援助にたかっているとか、天下りで職にはついていても働いていないというのもいる。税金にたかる構造は廃絶する必要がある。「かつて政府から…で被害を受けた。そのための慰労金だ」というのもあるが、すべて見直しが必要だ。不労所得のために税金は悪用されてはならない。天下りはすべて廃絶だ。五体満足な人間を働かなくてもいい状態に置くような「補助や支援」金は無用そのもの。本来の制度の目的でもない。
 「金持ちをうらやむ」「働かないで生活できるのをうらやむ」ような感情を民に保持させることは、支配者にとって欠かせない政策であることを知るべきだ。人間として放棄してはならない尊厳や矜持を破壊する手であるからだ。
 これらは話の本筋とはちょっと異なる。だが、人民内にこうした不労所得により生活しているものの存在があることが、人民内部の対立、諍いの大きな要因になっている。この諍いが、パワハラの真相に迫る大きなさまたげになっていることもある。
 一般の労働者は、家庭では家族を愛し、将来の生活も守りたい。近所や友人も大切にする良きパパ・ママである。社会に貢献したいと願っている。毎日仕事に出て励むことは、生活を守り、平和と安全をまもるためには必須と思っている。まことに真摯で、素朴な、幸せなこころがけである。
 だが、この家庭での良きパパ・ママが、朝に玄関をでると(人によっては職場の門をくぐると)これまた立派な企業戦士に変身する。
 上意に沿うように仕事を考え、さまざまな工夫を加えて、成果に向けて努力する。なりふり構わず頑張るのだ。
 問題はその仕事の内容なのだが、それが人民の幸福と繁栄のためならまだしも、理不尽なハラスメントによる「利益優先」の内容、犯罪的な内容もあることだ。やってよいことか、よくないことか。納得できることかできないことか。明確なことばかりではない。紙一重が多い。
 それでも、業務時間内、いやそれを大きく無視してでも、頑張ってしまう。
 時に犯罪に手を科している。多くは無意識のうちに。
 先に取り上げた3つの小説などが指摘しているは、さりげない、なにげない、ありふれた日常の業務に、パワハラに潜む巨大な問題だということ。

◆圧制からの解放は、人民自らの欺瞞に気づかずにはありえない

 世の圧制をさまざまな角度から、鋭く指摘する論評や著作物は多い。だが、圧制のシステムは人民生活と密着していて、そこに人民自身が歯車として組み込まれ、地球支配者の支配の存続に加担しているということまでは、誰も指摘しない。
 それは、支配のシステムをわかっていないこともあろうが、同時に「人民自身が己の欺瞞をみつめよ」という話にまでなれば、思考が中止してしまうのが普通だからだろう。
 仮にそこまでわかっても、自身の欺瞞を知るということは、激しい苦痛を引き寄せることになる。だが、本当に圧制からの解放を願いのであれば、そこまで踏み込まなければならない。これは過去のあらゆる革命に関する論議を振り返ってみたときの、大きな教訓である。

 先日テレビでかつての人気ドラマ「金八先生」というのを話題にしていた。荒廃が続く学校でめげずに金八先生は叫ぶ。荒廃の原因と解決策を考えれば考えるほど矛盾に陥る。生徒や父兄や先生たちは「じゃ、どうすりゃいいんだ」と詰め寄る。
 金八先生役だった武田鉄也は「悪は自分自身の中にある。だからこそ、しっかり見つめなければならない」という。
 この話はここでのテーマと重なる。
 パワハラ、モラハラ、セクハラ等の現実を、企業のコンプライアンス部ではマニュアルを作り、研修をして、対処あるいは防止するのだという。だが、それは必要かもしれないが、できない。
 安倍政権が、たとえどれほど多くの法律を作っても、何の解決にも至らないのと同じだ。権力そのものでもある企業が、自らの支配体制である根幹のパワハラの防止など、できようはずはない。
 自分の職場である企業の役割、企業としての事業のテーマ、すなわち人民の生活と安全と繁栄に貢献する。しかも、他に迷惑をかけない。人民をたぶらかす金権主義におちいっていないか。利益最優先になっていないか。利益の不当な配分を認めていないか。日々の仕事内容という根本的なことに立ち返ってみなければ、絶対に解決の道は得られない。

 このように話を展開すると、今の社会では夢の夢みたいな話で、現実に「自分の仕事の中に潜む支配や犯罪の側面を発見、見つめなおす」ことなど無理だ。見つめたとしたら、そこでやっていけない。つまり、生活していけない状態に自分を追い込むことになる、という。
 そのような意見もわかる。だが、注意しておくべきことは、短絡的に考えてはならないことだ。気づく、見つめる、ということと、現在の職場で何かトラブルを起こすということではない。
 「問題がある」「犯罪かも知れない」「利益最優先のロクでもない」目の前の業務は、依然と同じように、何でもないような顔をして遂行するのだ。だが、同じ環境の、職場に本心を明かせる仲間を見つけるのだ。その心許せる仲間と同じ考えで話し合うのである。
 これは将来人民が主体で業務をするときの、仕事はどうあるべきか、どう進めるべきかを考える上で欠かせないことなのである。そのときにいたっても、上からの指示をあてにに、上からの指示なしでは何もできないような労働者であってはならないからだ。
 また、ここでできる仲間が生活と労働の末端にできる人民権力であることだ。人民権力は上意下達ではない。末端の揺るぎない確固とした人民の意志の上に存在するものだ。