記・国民B(2019.4.1)
■山崎豊子「二つの祖国」がドラマで放映。戦争の悲劇を描く文学作品が訴えるのは何か

 戦争の悲劇を描いたドラマが放映された。山崎豊子の「二つの祖国」。天皇の生前退位を受けて、平成が終わり新たな元号の代に移る。戦争があった昭和から次の次の代となる。戦争と天皇は密接に関係している。元号が変わるタイミングで作品は放送された。
 山崎豊子は時代を揺るがすテーマを題材として小説を書く社会派の人気作家。「二つの祖国」は「不毛地帯」「大地の子」とあわせて「戦争三部作」と呼ばれる。いずれも戦争が人民をこのうえない惨状に巻き込む。人民が自由な意思で選択ができない。
 人民の自由と平和を守るべき国家、人民の財産を守り繁栄に進むはずの国家。人民はその国民としてイザというときに、自分が属する国家によって、防衛されるはずの国家によって、逆に自由を奪われ、人殺しに動員され、有無をいわさぬ惨劇の主人公にされていく。
 戦争とは何か、ということよりも、戦争が人間の意志と無関係に、計り知れない力を持ち、人間世界そのものを翻弄していく。それを描写した文学作品は無数にある。山崎が描くのは人民がその戦争の力で引き裂かれ、殺しあう相手になり、どうしようもない人としての心情の流れを描く。
 読む人観る人の心を揺さぶる。計り知れない無力感を受ける。では、読む人観る人はどうしたらいいのか。そこには小説は触れない。読む人観る人が一人ひとり自分で考えろと。
 深い問題提起がされているだけに、多くの人に深い感銘を与える。それゆえに大作家とされる。

 もう一つ戦争が人民に襲いかかった残忍な例を紹介したい。知る人ぞ知る、満州を中心に大陸で戦中に暴れまわった憲兵の物語。2012年に神奈川で上演された。京浜協同劇団による「人のあかし~ある戦犯の記録」(和田庸子作、藤井康雄演出)。
 これは実在した憲兵、山形県出身の土屋芳雄のなした行為の記録。自ら望んで帝国軍に入り、憲兵になり、大陸で暗躍した。終戦で中国の捕虜になる。戦犯であり尋問される。自分が成したことに何の迷いも疑問もなかった土屋は、中国の担当者の粘り強い質問とも教育とも受けられる対応にあう。
 やがて自分が成してきた行為を見つめなおす。その後日本に帰省する。克明に反省した心情を記録する。地元の報道からのインタビューを受けたり、手記を発表したりする。高齢になりその記録を地元の作家にすべて預け、長期(長年)の聞き取りに応じる。それが「人間の良心-元憲兵土屋芳雄の悔悟」(花鳥賊康繁著、北の風出版)にまとめられた。
 京浜協同劇団による上演はその内容である。
 大陸に日本軍が進出して何をしたか。近年の安倍ファシズム下で日本軍の行為を美化することが広まっている。
 戦争は日本に必要だった。大陸で悪事はしていない。日本軍は他国の軍と違う。武士道にもとづく立派な態度を貫いた。現地に歓迎され感謝された。八紘一宇というアジアの民の解放、アジアの民の団結と繁栄が目的で、日本が侵略してそこで何か得るような目的はなかった。むしろ、日本は巨額を投じてインフラを整備し、教育制度や医療制度を実現した。だから現在でも、台湾やタイなどの国ぐにから感謝されている…といった美化である。
 だが、土屋の証言では安倍ら満州マフィアの美化とはまったく正反対の事実が証言される。
 戦争の先兵だった証人の話は演劇として生々しく舞台で訴えられる。先の山崎豊子の描いたものと同様に、視聴者はそこから何を学ぶべきなのか。
 一般的には「戦争の悲惨さ。二度と起こしてはならない戦争」という感想に落ち着く。テレビドラマも小説も、視聴者のほぼ全員がそう感想を話す。

 だが「追撃者」が主張したいのは、それでとどまってはならないという点だ。日刊ゲンダイが、安倍の行う悪事をイヤというほど暴露して攻撃する。だが「追撃者」の主張は、日刊ゲンダイレベルで、思考を停止するなということ。
 ここれ紹介した「二つの祖国」と「ある戦犯の記録」について、視聴者はどの点が、日刊ゲンダイのレベルを超えなければならないのかに触れてみたい。
 戦争の定義だとか、戦略戦術だとかは論じない。兵器産業や自衛隊にも触れない。それは別の項で幾度も書いている。
 戦争を規定する国際法があるとかの論議もしない。戦争は人間がイメージする一切の制限を無とする、火器による絶滅戦だ。つまり何でもありの行為にほかならない。勝者が使う言い訳に過ぎず、戦争の真実を隠すベールである。

◆「戦争反対」がどれほど多数になっても、戦争が止まない真実

 双方に共通しているテーマは「戦争」である。戦争が人民に対して引き起こす、結果としての悲劇。人民側からは絶対に望まない現実に次つぎと巻き込まれていく。圧倒的な流れの強さの前で人民はおののきながら、言われるがまま振り回される。
 家族や親しい人が戦場で死ぬ。戦闘とは無関係でも一発の巨大な爆弾で犠牲になる。生き残っても地獄のような現実がかぶさってくる。
 こうしたシーンの連続。この二つのドラマだけではない。新聞テレビでは「戦争」関連のテーマが毎日あふれる。だが、戦争の悲しみは繰り返し話されても、その真因と根絶について書かれない。
 何故なのか。まるで皆が思考停止しているようだ。「二つの祖国」は「国家」を扱っている。ずばり、その国家は誰の「国」なのかを暗示する。実際に幾度かドラマ化されたが、このタイトルがつけられなかったこともある。
 在米国の日系移民が異を唱えた。自分にとって国家は米国しかないと。日本だというなら何故日本に帰らないのかとなる。一つしかないのに、二つだと言えばバカかになる。だが、現実は素直に米国だけを自分の国家と認めがたい。そこを山崎は問いかけている。
 この矛盾の原因は明確だ。為政者の国家か、人民の国家かということだ。地球支配者が人民支配の道具として「国家」を牛耳っている。この側面は人民にとって受け入れられない。だが、人民の国家が現実になっていない状態では、人民が依存し頼るべきものがない。為政者のいう国家に従うしかない。
 ではその国家を人民が愛し、命をかけて守れるのか。つまり、戦争のような非常事態では二者択一になる。しかも即断が強要される。被支配者の人民は飲み込まれるしかない。
 まして、日本から遠い異国、他民族の中に移ってきたものからしたら、圧倒的な少数派の異分子の立場になる。日常的に差別され、強者にこびずには生きていけない。心情は一面祖国日本で生活できなかった恨みもある。
 見放されたさみしい側面も忘れられないが、日本人であるという民族的な心情も相反して強くなる。ここでは民族というキーワードも大きい。
 米国移民が米国にみきりをつけて祖国に帰る。帰った日本で「敵」とたたかうために兵士になる。殺しあう。米兵も死に日本兵も死ぬ。だが、これでいいのか、を明確に問わない。問われた視聴者に回答を示さない。
 戦争は歴者学者はその起こりと終戦をいろいろと説明する。だが、決して、双方に同じあるものがけしかけて人為的に起こしたものだということを示さない。
 民族についても同じ。米国人だから米国という国家のいうまま兵になり「敵」とたたかうのが務めだという。日本人なら日本国のいうまま「敵」とたたかうのが、当然だという。これを、そのままうなずいたら、米国と日本の決戦も「正しい」と受け入れなければならない。
 違う。戦争を仕掛ける地球支配者がいて、地球支配者が各国に配置したカイライを通じて、敵対する。人民が戦争に動員されて、人民同士が戦うという構図なのだ。このようなことを人民はみとめてはならない。
 素朴な民族愛はだれにでもある。だが、その心情を利用している。カイライが人民を支配する「国家」に人民を無条件に総動員するための口実になっているのだ。
 米国人民も日本人民も団結して、自国の支配者とそのカイライを操っている地球支配者とたたかう。戦争の挑発とたたかう。戦争のてさきになることとたたかう。この点に戦争の論議が及ばない限り、戦争の真因と根絶の話には近づかない。

 地球支配者がすべてのマスコミを支配している。そのマスコミは足並みそろえて、国家や民族についての思考を抑えている。それはマスコミが地球支配者の忠実な犬であるからだ。NHKや朝日のように中性性を装いながら、人民が真実に到達するのを止めている。
 民族が為政者の都合にあわせて動く層と、為政者の支配にあがなう二つ存在することを隠している。
 国家が為政者の支配の道具として使われ、敵に分けられ、本来あらそう意味のないのに戦争にかりたてる。為政者が国家単位で対立させる。その国家が人民の愛し守るべき国家だと人民をだます。人民がこころから愛し守るべき本来の信頼できる国家と同じに見せかけるところに、だましがある。
 それは人民自身の国家がまだ存在せず、あるいは弱いからだ。人民自身が気づかないでいるからだ。気づかないようにさせられているからだ。為政者の人民に対する思考操作によってである。
 民族と国家の真実に、人民が気づかない状態が為政者にとって理想の状態だからだ。この状態であるうちは、地球支配者の支配システムが絶対的に機能している。人民からの支配システムに対するたたかいが起こらない。起こっても本質的で、決定的なたたかいにはならない。

◆「戦争」をめぐる論議は、戦争を永久に終わらすこと

 戦争の悲劇をたとえどれほど多く認識したとしても、戦争が止むことはない。このことが理解できたであろうか。
 戦争を論議することは必要である。だが、いかにしたら「戦争を永久に終わらすことができるのか」について、皆が納得できる結論にまで到達しなければならない。戦争について話す理由はそこにあるからだ。
 論議が、戦争を起こしているヤツ、戦争に手を介しているヤツ、戦争でもっと儲けたいと考えているヤツらの目の前で、ヤツらが用意した論壇で、ヤツらが司会する場で話されているのが現実だ。
 だから、戦争論議は何度でも話されるし、戦争の悲惨さが極限までテーマに上がるが、一向にその真実に近づかない。何世代にわたって、無力が繰り返されている。
 戦争論議は、マスコミへの忖度が一切ない場で行われる必要がある。それは、人民の生活と労働の足元で成される必要があるということ。
 人民の足元には、身近で犠牲になった人だらけだ。軍に駆り出された人。市井で空爆にあったもの。総動員で背後支援ですべてを差し出したもの。踊らされて満州開拓団で苦難をうけた人。シベリア抑留を体験した人。特攻隊に散った人等々、皆周囲の人の近親者だ。
 語り継ぐという場は多数ある。新聞の投書欄にも定期的に掲載される。戦争で犠牲になった人は靖国に眠るといいうが、当時日本人が手を広げたすべての箇所に眠る。実にこころを痛める。尊い人のいのちが失われたのだ。ただただご冥福を祈るばかりだ。
 為政者側は現在の日本があるのはこのような多数の犠牲者の生命によるものだという。あげくは戦争を非難したりするのは、とんでもない非国民だという。大東亜戦争は正義の戦争だったとまでいう。公然というものもいれば、戦争を否定することはそうした尊い犠牲者を貶めるにつながるということで、一歩あえて引いたとろこにとどまる。
 マスコミが暗黙の規制をしているといえる。
 だからこそ、ここでははっきりさせなければならない。戦争に犠牲になった人たちの存念を晴らすのだ。それは、戦争を完全に廃絶するというところまで、論議を明確にすることであろう。それ以外にない。
 尊い犠牲者の思いに、現在生きている人民が心底答える必要がある。永遠に語り継ぐのは必要だが、それでは足りない。永遠ではなく、少しでも早く戦争をなくすことなのだ。地球支配者の支配にとどめを刺す以外に、この問題への回答はない。

 生活の5つの原理の第4で「戦争の禍根を解き放つこと。他国へのよけいなお節介をしないこと」と指摘した。
 戦争の禍根とは、まさに過去に戦争において、人民が受けたすべての犠牲と存念である。敵への憎悪と怒り、恨みつらみのすべてだ。幾千万の犠牲者の思いのすべてだ。この怒りのエネルギーのすべてを、戦争で人民を支配している地球支配者の放逐にあてることだ。
 ヤツらが人民に思えさせた「敵」ではない。ほんとうの敵である地球支配者の支配こそがが、人民にとって廃絶の対象である。
 だから「戦争の禍根を解き放つ」なのである。

 ちなみに、グローバリズムは民族や国境を越えて「手を広げる」のを、当然とする視点だ。これは他国、他民族への干渉をも当然視するが、ここに戦争犯罪の落とし穴がある。戦争は外見上、他国への干渉行為から始まる。だから、人民はすべての他国への干渉を許してはならないのだ。
 干渉する方の人民も、干渉される側の人民も「干渉」を許してはならない。
 日本がソビエト革命に7万人の兵を送って干渉した誤り。現在、CIAが送り込んで混乱させそれを鎮静するためと干渉軍を中東に送り込んでいる米国(の干渉)。ベネズエラに干渉している米国などの大国。これらは、どのような理由によっても正当性を得られない誤りだ。
 どの国、どの民族にも自決権がある。他国から干渉を受けない権利だ。地球支配者は地球全体が己のもの(所有)だという、身勝手な幻想をもっている。カイライ米国に世界の憲兵を気取らせて、干渉を正当化してきた。このような一方的な横暴は許されないことなのだ。
 トランプがシリアから撤兵すると、あたりまえのことを宣言したときに、地球支配者の手先は一斉に「無責任だ。撤収後の混乱と犠牲の責任は誰に押し付けるのか」と非難した。
 米軍が沖縄から出ていこうとしたときに、満州マフィアや安倍が「出ていかないでくれ」とすがった。地球支配者とそのカイライは、他国への干渉を否定することを絶対に認めない。だからこそ、他国への干渉をみとめてはならないことが、まぎれもない真実なのだ。

 「戦争はなぜ起こるのか」というテーマもよく出る。「カネもうけのため」「人口削減のため」「エネルギー原油を抑えるため」「テロリストを封じるため」「イスラム教を地中海に葬るため」「自由主義を広めるため」等々言われる。
 いずれももっともらしくみえる。戦争にはさまざまなレイヤがあり、それぞれの視点からみたら正しい面もある。しかし戦争が発生する真の原因ではない。
 そもそも戦争の主犯である地球支配者は、地球全体をおのれの所有物と思っている。ほとんどの資産を集中させている。人民を国という枠で囲い、それぞれをカイライを通じて支配している。それらの国ぐにを、カネと欲のとりこにして使っている。
 カネと利権はカイライを動かすエサ。エサの取り合いをカイライ同士でするように、釣って動かしている。だから欲得を求めて戦争をすると主張するのは、カイライ連中だ。ユダヤ・キリスト教が正しくイスラム教が悪いなどというのはウソだ。自由主義云々も同じくウソ。一方をテロリスト国家と決めつけるのもウソ。
 これらすべては戦争という悪事に正当性を持ち込もうとしているに過ぎない。つまり、欲得論はカイライ同士をそそのかすもの。イデオロギー論は人民に国家と民族の枠を勘違いさせるもの。
 何故戦争が勃発するのか。やはり、唯一納得できる回答は、地球支配者の永続支配の維持である。人民に戦争の悲惨を体験させて、思考をゆがめさせ、歯向かうことがないようにすること。
 だから、人民は戦争の永遠の停止を明確に理解する。そして地球支配者の根絶することだけか、人民に平和な未来を約束できる。

◆よきパパママがいったん職場の門をくぐると、なぜ企業戦士に変身するのか

 戦争のテーマに関して、ここまで「追撃者」以外では絶対に突っ込まれていないことを記してきた。だが、もうひとつ、どうしても触れなければならないことがある。
 それは、戦争の真実を、人民が理解し自らのものにするのに、これまでの戦争論議で触れられてこなかったこと。現代は、ヤツらの作り上げた巧妙な支配システムにおいて、人民が深く支配システムに歯車として組み込まれているという重要な問題だ。
 人民がヤツらに支配されながら、同時に支配の道具の一端にしっかりと動員され、加害者にもなっているという点である。被支配者でありながら、支配する側の先兵を演じ、人民の首を絞める手伝いをしている。何とも認めがたく、おぞましいことだ。
 大企業が下請けにコスト減を求める。安倍を忖度して公文書を自在に改ざんする。正社員が非正規社員を差別しいじめたおす。これらは全部現実におこっていること。だが、実際にそうした犯罪に手をそめているのは、善良な家庭でのよきパパママだ。
 職場の門をくぐると戦士に自動変身して、自分と会社・職場の生き残りと、手を広げて利益をあげるために、よかれと思っておこなう。仕事を割り切って、考課を得るために、工夫とアイデアを凝らしておこなうのだ。
 コストが下げられれば成果となる。戦果でもある。嬉々とする。奮闘した成果でほめあう。いくつもの下請けが倒産する。パワハラで嫌な目に合う。不正労働者は身を粉にしても追いつけない。だがよきパパママは気づかない。
 この例を示してくれているのは、演劇のほうだ。
 支配者が戦争で得たいのは、被支配者である人民の思考のゆがみと思考の停止という状態。生きているうちに一度は戦争にまきこみ、体験させる。理不尽の究極を肌で感じさせる。親族や知人が命を失い、空前の飢餓に直面する。戦時下の総動員法により戦場にかり出す。敵国への憎悪を聞かされる。敵国の国民や兵士を徹底的に悪として抹殺の対象とする。
 憎しみ恨む。ちょうど元憲兵の当時の心情だ。これが為政者の目的なのである。国民が敵を憎悪して、命令したことを疑念なく遂行する。職場では企業戦士として、生き生きと業務の遂行にあたる。為政者から見たらすばらしい姿だ。為政者の意図を自分のものとして、ロボットが自ら創意工夫を加えて業務を遂行してくれる。機械で作ったロボットではそうはいかない。
 公演された舞台劇では、元憲兵はやがて気づく。現場でなした行為で当時気づかなかったことを知る。人としての基本的な感情と視点だ。社会的な結合のなかで生活する人として、自分の行為の対象、行為の及ぼす人への影響についての思慮、視点である。これを顧みないのは偽善である。
 元憲兵はこの偽善に気づかされ、そこからの脱却をした。

 現代の企業戦士を含む人民のみんなが、自分の足元からそれを見直し、為政者によって自動的に組み込まれてなしている、人民の首絞めのような行為の実態を認識することである。人民が戦争で委縮し、思考が停止していれば、あるいは歪んでいれば、絶対に支配の真実に気づかない。
 戦争は、一握りの地球支配者が起こしている。この地球支配者を放逐したときにだけ戦争をやめることができる。戦争をいくら反対だと叫んでも、戦争をとめる力にはならない。戦争をとめられるのは、人民をいつまでもロボットとして奴隷支配する為政者を放逐する力だけだ。

※先の戦争をここでは第二次世界大戦と記している。だが、それでは日本のかかわりが広く漠然となるとかで「太平洋戦争」という。日米戦争にやや狭くなる。日本帝国軍や満州マフィアはいずれも否定する。「大東亜戦争」とよび、目指したのが大東亜共栄圏だったとする。敗戦も終戦と負けを認めないとかの論議もある。だが、そのような論議は一切無用だろう。戦争は誰が意図して起こしたのか。人民にとっては、先の戦争をどう合理化しようが、はっきりしている。人民支配の維持のために実行されたのだ。

※戦争文学というのがある。戦争中でもそれぞれ置かれた立場からの任務に立ち、日本人である精神を忘れず、気丈に、立派に勤めたと。その場では部下の兵士を思い、郷里の家族に深く思いを寄せ、臨機応変に作戦と戦闘でいかに優れた能力を発揮したかが描かれる。読む人に感銘をあたえる。そこでの姿勢やことへの対応の高さは学ぶところが多く、高く評価する。だが、戦争を永遠になくさねばという、階級的な視点から見た場合には、その作品が戦争に対してどの方向を訴えているかだ。

※子供は戦争ごっこが大好きだ。武器にも興味がある。武闘で鍛えたいとうのも多い。近年のゲームでも戦うのが目に付く。映画などのエンターテインメントでもつきないほどある。身の回りにあふれている。だが、それはなぜ存在するのか。どういう姿勢で接するべきものなのかを問うものは少ない。軍は自らゲーム産業にカネを投資し、大会を主催し、強い若者を軍に誘っている。こうした世相をどうみるべきか。周囲に戦争論議を深める機会は多い。ぜひとも「追撃者」の視点を話してみてほしい。

※【新元号=令和】
 2016年7月に平成天皇が生前退位を表明した。これは勢いづく安倍政権が戦争が普通にできる国に日本をするという流れに、天皇が反発したものだった。戦争法、秘密保護法、共謀罪を強行採決し、北の核ミサイルで危機をあおった。昭和天皇が先の戦争で悪事をなし、平成天皇はずっとそのお詫びに現地を回った。その平成天皇が、安倍の戦争惹起に反対し、あげく象徴天皇としてきたるべき戦争の鼻先に持ち上げられるのを嫌うのは当然のなりゆきだった。
 仮に引き継ぐ天皇が存在し続ければ、戦争勃発時には戦争屋によって、また利用されるのは必定。天皇は天皇制を止めるまで決意したのは、人間として当然の行為。だが、この直後から為政者側は猛烈な善後策に走り、生前退位というレベルに落ち着いた段階。もしも実際に戦争が勃発したなら、これで落ち着くわけがない。
 このような流れから政治性を薄めるために、安倍政権が主導して大キャンペーンが展開された。それが「新元号制定騒ぎ」だ。「安久」などすでに安倍の一文字を入れた方向で準備していたが、さすがに安倍のもちあげが露骨でそれを採用するにいたらず「令和」に。安倍が直接皇室に承認をうかがったが、当然拒否された。
 天皇制というか天皇の存在を残すことは、人民支配において為政者はどうしても必要。少なくとも日本では思考上のフィルターとして絶大な役割をはたしてきた。