人民権力を語ると、聞いた方からいくつか質問が寄せられた。共産党や反政府の立場からたたかいをするものを非合法化する根拠として、ヤツらがあげていることについてどうなのか。具体的には「テロをどう考えるのか」「暴力革命主義者なのか」「共産党がやった虐殺についてはどう考えるのか」「民主主義を否定した一党独裁をどう考えるのか」「資本主義の次は社会主義・共産主義とする史的唯物論は正しいのか」「資本家が労働者を搾取しているとする余剰価値学説は正しいのか」「反政府主義者は憲法違反なのか」というもの。この機会なので、そのあたりをはっきりさせておきたい。
人民権力思想を提唱する主体であるとする党組織などにも言及するが、それもここで論じているテーマの理解に大変重要なことなので、触れておきたい。
◆テロをどう考えるのか
まず、現在世界で吹き荒れているテロについて触れておこう。
テロは形を変えた戦争である。戦争の変形であり、基本的には戦争に対する人民の態度とおなじである。
テロといえばテロリスト。テロリストは地球支配者が邪悪なNWOの世界を実現するためにやっている策動だ。私兵であるCIAやモサドなどがテロリスト。イスラム原理主義者がテロリストというのは完全な誤誘導で、その内実はCIAの傭兵。
911を自演自作した地球支配者は、中東へ踏み込む理由を「911の主犯であるビンラディンをかくまった」としてアフガニスタンへの空爆を始めた。
このときにテロリストは国の境を超えて存在し、米国に宣戦布告している。米国は自衛のために、そこが地球上のいかなる場所であろうと、テロリストが隠れているところであれば攻撃する。いままでの戦争は国と国であったが、これからは国境は関係ない、と宣言した。
アフガニスタンという国と米国がたたかうのではないというスタンスだ。これは単に、国という概念にとらわれないという宣言であり、局地戦争は終わることなく、永遠に地球上どこでも続けるという宣言。
これまでと地球支配の手法を大きく変更するという宣言をしたのが911。だから911が新しい世界情勢の重要なエポックになったとその意義を主張している。
人民にたいし、テロリストは世界中どこにでもいる。だから、世界中の反地球支配者のたたかいをしようとするなら、徹底的にたたくからな、と脅迫し始めたということだ。
ヤツらは地球一元支配のシステムの完成をさせるために、地球上の反勢力の一掃に力を入れてきた。旧共産主義国家とイスラム国家だ。特にこのいくつかは支配システムとして広げてきた中央銀行制度を採用していない国に対して、順番に国の転覆をはかってきた。
フセインやカダフィはこうして転覆された※が、その手口は狙った国の内部に混乱を起こすこと。米国やイスラエルなどで募集訓練して鍛え上げた傭兵を、資金として武器を与えて送り込み、テロを繰り返すのだ。反政府活動をよそって虐殺と破壊行動をする。
その政府を反人権の独裁国家と定義しテロリストを反政府民主運動にしたてあげて、その運動を支援するという形をとる。ISIS(ダーウィッシュ)や反アサド派をイメージすればいい。一方はカイライであり私兵である「米国」とか「有志軍」「国連部隊」だ。
絵に描いたように明確だ。実際にヤツらが牛耳る世界中のマスコミが大々的に連日報じる。皆、フセインやカダフィを悪玉として覚え、殺してしまえと、ヤツらと一体の感情になり、実施に実行した。
冷静にみつめたらわかるだろう。ヤツらがすべてを計画し、世界中の愚民をまきこみ、地球支配の拡大を実行していっているのだ。その裏では報道されない人民の虐殺と破壊の犠牲を生んでいるのだ。
ISISや反アサド派を育成し送り込んだのは地球支配者であり、そのカイライであるオバマとクリントンだった。それは米国の大統領選挙のときにクリントンの私用メールの暴露で世界中に知れた。「クリントンを監獄へ」という熱狂には確かな証拠まであった。
それを覆い隠すために、トランプのロシア疑惑※なるもののキャンペーンを展開した。しかしそれもつい先日に何の証拠もなかったと報告された。
このように世界中で発生しているテロのほとんどは、地球支配者側が、世を混乱に落とし人民を脅迫して、戦争常態化を維持するために行っている。これを明確に抑えておく必要がある。先日に話題になったニューランドで起こった単独犯のテロという事件も、ヤツらの策謀であったことがばれている。
地上のテロは、地球支配者のこのような策動がなければすべて消える。戦争と同じだ。
社会は安倍政権に見るように、収拾し難い混乱が連続する事態が発生する。すると連中はファシズムに走りたくなる。強力な何か、政党とかカリスマのリーダーとかの登場だ。ヒトラーが出てきた情勢と同じだ。
このような不穏な社会情勢では支配者が焦りから、テロを自演自作しだす。人民に狂暴に襲いかかる。人民は必死の抵抗を試みる。為政者が行うテロに対して「テロで対応」するのを容認する社会的な雰囲気が醸し出される。
あるケースはいるならゴルゴ13に依頼したくなり、あるケースは隠れてテロ行為に走るものが出てくる。トランプさえ消えてくれたら、と暗殺の計画が実際に起こる。安倍さえやっちまえば、もしかして日本はよくなると妄想するのが出てくる。
実際に混とんとした政治不信の社会では、為政者側のテロ(容赦ない人民活動への弾圧や拷問)や、人民サイドからのテロも発生した。
明治時代の新選組。帝国軍への若手の反乱。伊藤博文暗殺等々。社会党浅沼稲次郎暗殺事件、徳田共産党書記長暗殺未遂事件。ロシアでのレーニンの兄がかかわった襲撃事件。連合赤軍事件。オーム事件でのテロ事件。
つまり、テロは為政者側も民衆側も、つい最近まで存在し、今も続いている。為政者の弾圧が民衆を怒らせ、その高揚した怒りで「あいつさえやっつければ」という狭い思考に歪むからだ。そのテロ行為が、ターゲットだけでなく、多くの民衆を巻き込むことだ。その民衆の犠牲に目が向かないほど、視界は狭くなっている。犠牲はつきものだというような、誤った思考に陥っている。
人民権力思想からみたときに、テロが人民の力にならないのは明確だ。「敵の誰それをやっつければ、こちらの力が強くなる」ことなどありえない。人民の力は、人民の足元から構築された力と、その縦横の連携ということからしか生まれない。
テロはその意味で絶対に人民からの支持は得られない。ロシア革命時にSL(社会革命党)がテロをやった。混乱した社会のもとで、かつレーニンらの力が弱いところでは、人民側のソビエト(人民権力)の内部で一定の勢力もあった。彼らはレーニンにテロ(銃撃して生涯の打撃を受けた)をやった。勇ましいようでも、結局人民から本当の支持を得られなかった。
彼らは「もっと社会を混乱に陥れれば、為政者の無能を証明できる。敵に打撃を与えれば人民から支持される」という思想だ。人民を信頼できない。地道な人民の足元からの力の構築はいつまでたってもできないと、イライラして突っ走るだけの過激派思想である。難しい言葉だが左翼小児病と呼ぶ。
テロで革命の口火をきる、などという言葉もあるが、テロは武力での敵とのたたかいになる。武力や火力で敵に勝てないのに、勝てるような妄想にとりつかれているか、戻ることのできない玉砕かだ。しかし、それもヤツらからのそそのかしに乗せられたと考えるほうが分かりやすい。
テロで社会は変えられない。ただただ敵ではなく、人民内部の力の構築に依存する。それが貫くべき思想だ。
◆暴力革命主義者なのか
暴力革命という名をつけて人民の闘争を卑しめる手を使ったのはヤツらだ。
暴力という言葉で、階級性をあいまいにし、暴力が単に肉体への打撃という狭い概念に勘違いさせることで、人びとに恐怖を与えている。
ヤツらの攻撃的な言葉には、常に階級性をあいまいにする。人民の圧政とたたかいそれをくつがえすというたたかいは、政治のパラダイムシフトの実現だ。これが激しいたたかいでり、おだやかに笑談をしている状態とはまったく違う。暴力というのは誰が誰に向かって行う行為かということ。人民が自らの永遠の平和な生活を勝ち取るために、地球支配者を無能にするのだ。それが熾烈な激突、生死をかけた決戦になるのは当然。
その激しい衝突で「暴力」を受けるのはヤツらだ。それをさも、人民側もその「暴力」を受け大きな犠牲になるようにすり替える。それがヤツらの「暴力革命」論議である。「暴力」を受ける立場で心配しなければならないのはヤツらだけなのだ。そんなに「暴力」が怖いのであれば、遠慮することはない。黙って引き下がり、人民への暴力をする立場から消えればいいだけだ。ヤツら自身が持つ人民に対する暴力装置を、すべて黙って廃絶することである。人民に投降することである。
ヤツらの中枢は完全な寄生虫であって、自分は表にもです、すべてを欲たかりの子分を動かすことで成している。中枢は暴力以前に、言うことをきく欲たかりがいなくなるだけで、生存できない連中だ。
「暴力」というのは銃で打ち倒すとか、圧倒的な力の差で肉体に打撃を与えるようなイメージがある。だが、これはトリックである。武力と火力で肉体的に怪我し、死ぬ。耐えられないほどの痛みを受ける、という恐怖をもたせることが目的。
だが、暴力は肉体への打撃だけではない。言葉の暴力、差別の暴力等々さまざまな種類と形態がある。為政者の圧政がそもそも病力だ。人民の所有という支配が暴力だと言っていい。
このように常に人民に対して暴力をふるって、脅迫し脅かしているのはヤツらである。ヤツらは各国各層に配置したカイライを使って、いじめと暴力を続けている。安倍らはその取り巻きと子分を使ってコクミンをいじめている。
庶民にも横暴なワルが数多くいる。こいつらは安倍らのまねをして、弱者を暴力で脅かしたり、いじめたりする。安倍へごまをする元記者は、女性記者に睡眠薬をもったうえに強姦したが逮捕されない。アベノミクスの偽装をするため公文書の改竄・作文をした官僚は昇格する。これを観ている愚民や悪は、やらねば損とばかりに、弱者に暴力をふるいいじめを実行する。これが連日社会面を賑わしているが、カイライの横暴をまねているのだ。
人民に迷惑をかけてはならない。人民に奉仕するのだ。ヤツらが人民にさまざまな形で暴力といじめをしてくる。これには相応の抵抗をする。それをヤツらが暴力と表現するのは自由だが、絶対にその抵抗する行動が人民に対するようなものではない。
「暴力主義者か」という問いは、圧政の終焉を目指す人民のたたかいは、革命というパラダイムシフトを迎えるときに「暴力」でやるのか、という質問であるなら、そうだと答える。ヤツらがその拮抗した状態で、持っている暴力装置のすべてを使って、人民に襲いかかってくるだろう。それをこちらが、どうぞやってくださいと迎える気はない。
だが、人民は目標を実現するのに、激しい衝突を恐れない。同時にそこでの犠牲が最大限に発生しない状態を極限まで追求する。理想なのは決起の時点で、ヤツらの暴力装置であった軍隊や警察のすべてが、いっせいに人民側につき、銃口をヤツらに向けることだ。これが人民権力思想のビジョンである。
ヤツらが必死ならこちらも必死に決まっている。あらゆる方法で手向かう。当然だが犠牲をでることは好まない。だから、理想的なのは全世界的に人民がゼネストで立ち上がること。世界的にヤツらの機能を停止する行動をとろうとしている。
しかし、全世界同時革命は理想でも困難だ。そうならない可能性の方が多い。それは人民権力の構築には時間を要し、一律に発展し、団結と連携ができるのではなく、文化や地域、民族的な特性から必然的に差ができるからだ。人民権力の構築の段階にばらつきがあり、一致するとは限らない。
結果的に小さな単位でも勃発が発生する。地球支配者は、極致に対して世界的規模での全力を投下してくるという現象になる。つまり、理想とは逆に人民側には熾烈な戦闘が求められる。
それだけに、現在のようなグローバリズムの歴史的な段階における人民闘争構築のたたかいは、根気強く足元の権力を作っていく必要がある。極力超規模での決起は起こさない。徹底的な面従腹背のたたかいである。敵を引き付けて撃つという話があるが、まさにそれ。
足元の人民権力が、横に上下に、そして国際的に構築されてゆき、その力の発展度合いをみて、その力に比例した衝突をする。無用な犠牲は絶対に避ける。敵に叩かれて壊されてからの再構築は、空前の苦しさと根気が求められる。まさに、今がそうだ。
人民側から暴力や犠牲は、安易に引き起こしてはならない。それが現代における人民権力に対する思想だ。
戦前戦中はファシズムとのたたかいで、むき出しの弾圧、逮捕、投獄、拷問とのたたかいだった。どうしてもこのような場になると、抵抗も激しくなってしまう。地球支配者が双方をけしかけて戦争を起こす。そのとき、平和時から急激に戦時、緊急時に情勢は変わる。特にファシズム化になると、為政者は全コクミンの戦争への動員を強要してくる。改良主義者がそれに賛同するというなかで、人民権力派は完全非合法の地下活動になる。いうまでもなく、徹底的な面従腹背だ。
人民権力の力関係が問われる。ベトナム戦争終結時(サイゴン解放の直前)のように、くまなく人民権力が組織されていれば、もともとヤツらの権力の暴力装置である軍、警察等の組織内まで人民権力が張りめぐされる。昼は一見人民に銃を向けているが、夜はヤツら側に付いている機関の寝返りの活動をする。
この力関係が大きく人民に有利になったときに、ベトナムでは一斉に立ち上がった。そのときには、人民側に付いた軍隊や警察がベトコン(人民側の表の戦闘部隊で北ベトナム軍と一体で戦闘を展開していた)と合流した。
カイライとヤツらに最後までついた軍や警察は、大きな反撃する間もなく、投降して勝負がついた(まず米軍の撤退。カイライトップの海外逃亡があり、残った連中は解放軍依連行された)。
ベトナムの教訓というか悲劇はむしろ、その解放を実現するまでの長期な苦難だ。第二次世界大戦で使用した弾薬を超えるものが投下され、ナパーム弾、枯葉剤と筆舌しがたい犠牲を受けた。やったのは地球支配者だ。その犠牲を飲み込んで、ヤツらを追放する唯一の力である人民権力の構築を、方向を見失くことなく、営々と進めて実現したことだ。
ベトナムでは最終的に武力による熾烈な衝突を経ての革命だが、それでも蜂起時の犠牲は最小であったといってよい。逆を考えたらわかるだろうが、人民権力の構築が背景になかったなら、それは実現できなかっただろう。
さらに何年も続き、犠牲も増えただろう。
「暴力革命」か否か、という問いがいかに無意味であるか。暴力は人民が求めているのではない。何千年も悪事を働いてきたヤツらの滅亡直前のあがきの結果だ。
現在は、上記で明らかなように、地球支配者は「国家」を分断支配の道具としてしかみていない。地球支配者は「すべて」の国家を、己の支配下にあると考えている。だから、人民も足元に作り上げる人民権力という自分の国家を土台にしながら、全世界の人民のたたかいと連携しなければならない。
インターナショナルである。狭い民族主義の殻をかぶって地球支配者は打ち倒せない。
◆共産党がやった虐殺についてはどう考えるのか
「6600万人もの犠牲を生んだレーニンとスターリンのロシア革命」「4000万人以上を死亡させた毛沢東」「ポル・ポト政権が人口の三分の二を殺害した」などと吹聴するものがいる。大きな数字をあげれば、それだけ革命が人びとに大きな犠牲を強いるか、その指導者が極悪犯罪者であるを強調できると思っているようだ。
虐殺をしたのは共産党ではない。地球支配者だ。
その数字は、そっくり地球支配者の犯罪でもある。第二次世界大戦をやった張本人はヤツらだ。世界中がヤツらの地球かき回しの犠牲になった。それを逆利用して、レーニンがロシア革命を起こした。
日本の帝国軍は7万余の軍隊をだしてロシア革命に干渉した。そのように地球支配者側は猛烈な攻撃を仕掛けた。軍事ばかりでない。スパイを送り込んで転覆を策動した。初めてできた人民権力(ソビエト)の政権は、カネも食料も、武器も乏しい中で、いやがおうでも必死の戦闘に組み込まれた。決して時の帝政を打ち倒して、人民権力ができたというだけの話に終わらない。
世界的な規模での包囲網とのたたかいに組み入れられた。犠牲は増えたのはその結果であることを忘れてはならない。
中国の毛沢東のたたかいも同じだ。国民党蒋介石を台湾に逃亡させたにとどまらない。その後朝鮮戦争でも消耗する。まったく間を置かずに、つまり毛沢東には考える余裕もないうちに、世界中からスパイや懐柔の攻撃がなされる。毛沢東は文革を起こしていったん鎖国にして、国内の反動の活動を思想的、政治的、経済的に封じるたたかいを起こす。これは、実を結ばないまま反動派の勝利になった。
ロシアでも中国でも権力が成立するまでよりも、その後の体制維持のたたかいが激しかった。犠牲はここで発生した。ヤツらが犠牲は指導者のせいだ、共産主義のせいだ、一党独裁のせいだとして、その犠牲をてんこ盛りにして宣伝しているに過ぎない。むしろ、よくぞそこまでしてでも頑張りぬいたといいたい。初めての人民権力防衛のたたかいだっただけに、この教訓ははかりしれない。
地上にはじめて権力を打ち立てた彼らは何度も言っている。「打ち立てるよりも、権力の防衛と建設の方がはるかに困難を求められる」と。だから、ロシアや中国の経験は、世界中でたたかう人民側に受け継がれ、教訓を学ぶことを遺産として残した。
「スターリンや毛沢東は党内の権力闘争で、政敵を片っ端から粛正で殺した」とも言う。まともな裁判もしない。人数のノルマを出して殺した。国内中を疑心暗鬼にさせて親族までスパイに売った、等々。指導者を卑劣で残忍な独裁者と決めつけて、大々的に宣伝した。
だが、これもそっくり地球支配者の犯罪でもある。
スターリンの手法には結果的に行き過ぎもあっただろう。だが、そのようにでもしたからこそ、第二次世界大戦でヒトラードイツのファシズムに勝利できたのだ。ソ連がヒトラーによってつぶされたほうがよかっとでもいうのか。
結果的に20世紀までの人民の革命闘争と関連して大きな犠牲があったことは否定しない。それをソ連や中国で起こった革命闘争にくっつけるのが大間違いなのだ。犠牲の発生は、地球支配者がやった戦争だろう。ヤツらが革命にしつこく干渉し、スパイを送り込み、民衆の弱みや欲得に付け込んだ工作を、これでもかこれでもかと続けたことが起こした犠牲ではないか。
地球支配者を排する活動を否定するのが、ヤツらの宣伝だ。ヤツらの口上を真に受ける、人民活動家がいたとしたら、この上ないトンマである。もし人民活動家で、ヤツらの宣伝通りだと思うやつがいたら、とっとと屈服したらいい。何千年以来の人民の圧政からの解放を求めるたたかいは、残念なことに多くの犠牲を払ってきた。これは人民側が求めたことではない。ヤツらが活動を弾圧して起こったものだ。
逆に、たたかいを人民側がすっかりやめたら起きないとでもいうのか。起こると断言できる。NWOの邪悪なヤツらの計画に、何の根拠もなく、自分たちに従順な5億人まで人民を間引きするというのだ。これは計画された虐殺行為そのものではないのか。ヤツらは人間をアリンコやゴキブリと同じように観ているのだ。つまり、人民側に選択の余地など、最初からないのである。たたかうことでしか未来は得られない。ヤツらを封殺したときだけが、人類の未来は開ける。
◆民主主義を否定した一党独裁をどう考えるのか
ヤツらが支配する国家では「自由主義、民主主義」をうたっている。機会主義という制度をもっていて、選挙で選ばれた議員で自由に論議し、多数決で決めていくという憲法を持つ制度を誇る。
それに対して、社会主義(共産主義)を掲げる国家では、共産主義以外を掲げる政党の存在を認めない。議会はあるがそれを指導する共産党が上部ですべてを決める。そこには自由な論議はない。すべて共産主義の枠内でしか思考できない。違反すれば監獄と強制労働、粛正になる。窮屈な一党独裁の社会だ、という。
この口調の本質は、人民にたいして真逆の概念を宣伝する欺瞞でしかない。
ヤツらの支配体制を「良いもの」に装飾し、ヤツらの支配を認めない国家を「間違った悪い国家」とつくろう、だましの手口だ。
これまでさまざまな角度から指摘してきた通り、地球支配者の支配する国家、例えば安倍の国、安倍政権下の政治に、自由や民主主義などない。自由は為政者が人民を「合法的に」支配する自由だ。民主主義は、人民を支配(所有)するというふらちな犯罪行為を「合法的に」見せかける手段だ。
統計が作為的な作文であるように、選挙も不正まみれではないか。安倍への支持などゼロでいいのに、50%~80%もあると見せかけ、沖縄では多数を無視し、誰も必要としない原発を再開する。それが、ヤツらの自由と民主主義。
何のことはない、地球支配者の「独裁」なのだ。独裁を民主主義であるかのように、口先でむなしく話しているに過ぎない。
「法にもとづき、論議をつくして、多数決で決める」とはよく聞こえる。だが、その法をヤツらが「多数」で独裁的に決めている。ヤツらの悪行を合法化するために法がある。
論議を尽くしたことなど一度もない。国会での討論を一度でも聞いたことがあればわかる。例えば現在の国会ではずっと安倍政権のデータのインチキを話題にしている。だが忖度というない証拠を出せ、出さないというおバカな論議で数カ月を要していて、いまだ先は見えない。そうしている間に、ヤツらは次つぎと閣議決定とか、どさくさまぎれに重要な決定を決め、実行していっている。それにたいして、この民主主義国家では、何のなすべきことが見いだせないのだ。
コクミンをだましさえすれば、戦争法、秘密法、共謀罪…何でも作れてしまうというのが現実。これが民主主義・自由主義国家の現実。日本は明治維新以来、一貫して地球支配者があやつるカイライ政権の独裁下にある。戦後、スパイ岸信介らの満州マフィアの一党独裁化にある。人民が主権であったためしはない。ヤツらこそが一党独裁をやっている。民主主義の仮面で。
それに対して、避難の対象である一党独裁の社会主義国家はどうか。
そもそも、ヤツらの主張通りの国家ならヤツらの犯罪を合法化するための法を連日作り続ける。これをこれから永遠に続ける。すると作った法の紙の山は富士山を超え、エベレストを超え、月を越えかねがい、というバカバカしいものになる。無意味の繰り返し。
安倍を放逐したなら、安倍ら自民党政権が作った法をすべて廃棄する必要がある。ヤツらの犯罪を合法化する法は邪魔ではあっても必要ないからだ。
人民の国家はヤツらの国家と概念がまったく違う。
国家は、人民が足元につくる人民権力の中央機関に過ぎない。しかも、人民の生活と平和を覆して、ふたたび人民を奴隷支配しようとする危険が世界的になくなれば、その国家の基本的な機能が不要になる。世界的な人民の繁栄のためのニーズにもとずく、機能調整の機関に変化していくものである。
だから、そもそも一党独裁とかの概念が必要ない。ソ連や中国のように、人民権力の抹殺を狙って攻撃を仕掛けてくる、ヤツらの行動を封じる目的で国家が機能する。だが、攻撃のレベル、性質、場所によって、それに立ち向かう人民権力の内容と形は変化する。
その方針を決めるのは、人民権力の英知しかない。それは本質的には誰からも干渉、拘束を受けない、純粋に人民の意思だ。結束した人民の足元の権力が、ヤツらの攻撃にいかに対処するかにかかっている。
これが、かつてヤツらが人民支配に「民主主義・議会主義」を持ち込んだ時に、政党による政治体制と呼んだ。さまざまな政治主張をするときに、その背景となる理念をキーに党派が形成された。共産党宣言をマルクスがした時代だ。その理念はヤツらの支配形態の変化にともなって、党派の理論も次第に洗練されていく。ヤツらの支配を覆すのは人民権力思想だという党派は、共産党を名乗ってきた。
しかし、ヤツらとの闘争の形態が再編成されている現在は、単に共産党に結集すればいいというわけではない。人民権力の思想はひとりひとりの足元で、人民権力のゆるぎない芽を育てるというレベルだ。やがてこの芽は横に縦に連携をしていく。当然だが国内にとどまらない。それがどのような組織形態になるのは未知数だ。党と名乗るかも不明だ。
現在において明確なのは、生活上の5つの基準を実行することである。ここでの経験が自ずと、縦横の広がりを作っていく。
【第一、ひとを不愉快にさせたり、迷惑をかけないこと。
第二、カネの盲者、欲の盲者にならないこと。
第三、子孫に負荷をかけない、未来にツケをまわさないこと。
第四、戦争の禍根を解き放つこと。他国へのよけいなお節介をしないこと。
第五、人間の尊厳をもって生活できるようにすることへの貢献。】
党ではない現段階において、一党独裁は問題にならない。過去のソ連や中国をどう見るか。それはこれからの活動の中で明確になる。ヤツらのプロパガンダで、こちらの活動が左右される必要なないからだ。上記5つの視点のどこに独裁などという概念が関与するのか。
新たな時代の人民権力は、もしその「人民権力」が人民への独裁に変わろうものなら、人民は何度でも偽の権力に立ち向かうだけである。
◆「資本主義の次は社会主義・共産主義とする史的唯物論」「資本家が労働者を搾取しているとする余剰価値学説」は正しいのか
この質問は論理のための論理、空論になりかねないし、無用に論じてみ意味がない。
人類の歴史で古代の共産主義社会(名称に引きずられてはならない)があり、その後王政や封建制があり、産業革命を経て資本主義が成長し、現在に至っている。それは現時点から見ての生産形態や政治形態のおおまかなくくりである。それが将来どうなっていくのかというときに、それが分かればいいのだが、そう簡単ではない。
マルクスが資本論を書き、エンゲルスが補充し、レーニンがロシアで革命を起こし、スターリンが引き継いだ。だがそのロシアは変わった。支配とたたかう側が、資本主義が帝国主義に進みやがて、労働者階級のたたかいを推し進めるなかで自己崩壊し、社会主義になればいい。なるに違いない。そうなるようにたたかうんだ、というときに、史的唯物論は理論的な支えになった。
資本主義の欠陥をえぐるときに、余剰価値学説は労働者が生み出す「労働価値」に必然的に伴う余剰価値があり、それが資本家の搾取で、そのトリックは社会制度として矛盾が増大し崩壊する。この理論は、労働者側に正義あり、資本家側はどろぼうであっていつまでのその様式は許されないという強い確信を与えた。
マルクスやレーニンの研究が労働者階級のたたかいを正義の理論で鼓舞し、運動に巨大な力を与えたのは、どれほどたたえてもたたえきれない。だが、たたかう労働者自身には世界的にどれほどそれが理解されただろうか。それは為政者の容赦ない反論でつぶされていく。現在は、一つの提唱された理論だった、と過去形にされている。
つまり、ヤツらが言うように誤りだったと証明されたものではない。同時に、正しいものだという実証もされていない。はっきりしていることは、労働運動や革命運動の大きな理論的な背骨として力を果たしたという点だ。その理論と実践を人民が引き継ぎ、現在の闘争へ発展と適用ができなかったということである。ヤツらの反撃よりも、人民内部の力が弱かったことである。
人類史に立ち返って現在をとらまえ、現在と未来への希望を展開するという壮大な思想は哲学でもある。
では、地球支配者が一元管理を完成しようとしている現在においての、人民の哲学と理論は何なのか、ということだ。それは確立されていない。たたかいはそこまで打撃をうけ、しぼんでしまっている。そのような状態で、ぎりぎりまで絞っていったものが「人として生きる5つの基準」(仮名)である。
真実は単純なものである、という格言がある。難しくしか表現できない「真実」どこかに誤りがある。真実ではないことをあれこれ言ってごまかしているのかもしれない。
現在のたたかいの核は、原点にもどること。その原点とは難しいことをいったん、全部棚上げして、人民が誰でもがうなずくことができる基本的なことを、活動のベースにする必要があるのではないか。そういう観点から「人として生きる5つの基準」は出てきたものである。
だが、この基準を自ら守り実践することが、いかに困難なことであるかを知る。いや、こんな程度のことが実践できないほど、現在はヤツらによる奴隷化が徹底しているとも言える。
「資本家が労働者を搾取している」ことは大枠では正しいだろう。人民が生産で生み出す価値のほとんどを、まずヤツらが自動的に、合法的に、分からないように奪い取っている。カスのような残りが人民が得る富だ。
「資本家が労働者を搾取している」という単純な表現では、現代においてすまなう。複雑なのは、ヤツらが最上にいて、国を支配し、雇われ資本家・経営者を使い、労働の現場では人民自身がヤツらの強奪の手助けをするという構造になっている点だ。
何重ものやりかたで人民から搾取、収奪している。税金の種類を見よ。保険だ、視聴料だ、利用者負担だ、かんだ、といって、吸い上げるのだ。人民はいちいち抵抗していられないようにがんじがらめにしている。
「資本主義の次は社会主義へ」も単純ではない。歴史的にみれば、いつかは別にしても資本主義はなくなる。資本主義というより、世界金融軍産複合体による支配というものは、邪悪ゆえに絶対にいきづまる。崩壊するのは目に見えているのだが、それは支配されている人民のたたかいに依存する。
永遠に人民が奴隷化されていく。例えば5億人に間引きされ、生体チップを埋め込まれて、思考回路を奪われ、生きたロボットとして永遠に奴隷として生きる。ヤツらが理想とする、そんな世界を人民が許し続けることなどありえるのか。日本病やグーミン化の蔓延状態では、それもあるというものがいるかも知れないが、やはりないだろう。
人民は奴隷である限り、絶対に抵抗を辞めない。人民は奴隷を自ら好んでやっているのではない。日本病やグーミンは、ただかいたくない。衝突が耐えられないから避ける。主に抵抗の目を向けない限り、食い物を与えられ、生存はできる。与えられた仕事をこなしている限り、生きていける。この方が楽だし、なら、この状態が永遠であってもいいのではないか、という。
だが、このような日本病のグーミンも家族があり、家から出ればだれかとの社会的接点がある。そこがいつまでの自分と同じ考えのグーミンであることには何の保証もない。同時に、自分で楽だとか、言うことを抵抗しない限り生きていけるというのは間違いで、いつでもポイ捨て、あるいは抹殺の餌食になるからだ。気づいたときは遅いが、必ず目覚めるときがくる。
人民権力の思想はグーミンには面倒で理解したがらないだろう。自分だけカネだけ今だけの三だけ主義につまずいたときに、身近な家族や仲間の協力が得られなくなる。つまり、グーミンにもスキができる。
人民権力はグーミンが勝手に楽だ、面倒は嫌だ、といっている分には放置する。人民権力がたたかっているときに、足を引っ張る行動をしない限りは無視する。だが、彼らも老いいつまでの突っ張れるわけではない。大人に気づき、周囲の変化に迷うときには手を差し伸べる。その場が家庭であり、社会だからだ。近所付き合い、井戸端会議、職場、サークル、趣味の場、協同組合等々、生活点と生産点の接点があるかぎり、人民権力と接し、人民権力の芽が生まれ、横と縦のつながりが出てくる。
結局、身近なところでの家族や仲間との結合、意思の交流、協同が人として生きるすべてが存在するところだ。何かあれば全力を賭して守るべきものはそこにある。
現代は資本家が単に地球支配者の支配構造の一部に埋もれてしまっている。労働者階級は実質においてヤツらの体制の歯車に埋没した。ほんの一握りの世界金融産軍複合体が地球支配の中心にいる。新自由主義というグローバリズムを展開している。1%が99%の富を集中させている。資本家対労働者階級という階級的な対立は埋没した。資本主義は帝国主義に、そして1%が地球全体を牛耳るという段階に到達した。
この現状は資本主義の現在の段階ともいえる。資本主義は帝国主義になったといわれてきた。凶暴な資本主義の本質が、全世界を資本主義で埋め尽くそうとする軍事的な側面を表現した姿だ。
資本主義下で、生産手段の変化を生む。すべてからの干渉を受けない自由な経済は、そのどう猛さが自己規制(神の手)を認めなくなる。ケインズはついに国家の介入が必要だと説く。だが、国家は天下を掌握しつつある世界金融資本の手先でしかない。
国家の介入は、世界金融資本がさらに勢力を伸ばす道具としてのふるまいしかできない。寡占化がすすみ、貪欲なヤツらはついに、世界中の富のほとんどを手にしたのだ。
それを「新自由主義」「グローバリズムは世界標準の新しい資本主義思想」とその拡散をうたった。先陣部隊はネオコンである。経済面でも政治面でも軍事面でも一体で世界戦略の展開をすすめている。
資本主義の現在の段階をすすめてこの獰猛な勢力の思想は、古代から地球支配をもくろんできた、西欧王政貴族とビジョンが一致した。世界金融資本の核にいたユダヤ・キリスト教の千年王国をもくろんできた勢力の野望とも重なった。NWOとして一致して推進されている。
邪悪なNWOが世界金融、王政、産軍と一体となり、全世界的な規模で、しかも国を道具として使って、つきすすむ。被支配者である人民は、ヤツらのあらゆる手法の餌食にされ、奴隷、ロボット支配が強められている。
現在の人民のたたかいの目標は、地球支配者である。ヤツらの支配からの解放である。このような時代における、人民の解放理論はたたかいの中で必ず求められ、生まれる。
かつて共産党は労働者階級の前衛党、指導党といわれた。だが、前衛だ上から目線で指導だということは、権威の裏づけに現代ではなりえない。いくら自分で宣言しても、人民がうなずくだけの内容を提示してないからだ。前衛である根拠、一方的に指導する理由に説得力がない。
原点とはこのこと。「史的唯物論」「余剰価値学説」の復活はここから生まれるものであろう。人民の活動を導く党や指導者は、たたかいの中で、人民が本当に求めたときに、結果としてでてくる。
◆反政府主義者は憲法違反なのか
これは、地球支配者が打撃を受けているから出てきたあがきだ。人民のたたかいを封殺するファシズムの再来であり、時代の後退を許すかどうかのたたかいだ。
憲法に「共産党や反政府の立場からたたかいをするものを非合法化」を明記してしまいたい、という安倍一味のもくろみがあると指摘した。
憲法に「自衛隊の合法」を明記したいというのと同様に、それが書かれるか書かれないかは、人民のたたかいとの力関係である。書かれるかもしれないし、人民のたたかいが実際に非合法になるかもしれない。だが、目先にそれを恐れることは不要だ。
法はヤツらが自分の不法を合法化し、人民のあらゆるたたかいを「犯罪化」するもの。法に書かれる書かれないで、正義不正義は決まらないし、普遍的に存在する人民のたたかう権利と自由は、何者によっても止められない。
これを書いたら、時の為政者が民主主義を捨てたファシストである証明。国内外問わずにヤツらを追い詰めなければならない。
この考えがあったから日独伊のファシスト連合は、最後は総力戦で滅びた。米国が英国から独立した時に米国憲法に、人民が誤った権力の行使にたいしてたたかうことを明記した。この歴史は、地球支配者が被支配者たる人民に、大きな譲歩をすると同時に、支配を新たな装いでやらざるをえなくなったことでもある。
支配は続けるが、もう封建主義とか王政はとれない。これは所有者が無条件で被支配者を奴隷支配する制度。奴隷に人権はない。支配への口出しができない。それが表面だっては人権をみとめ、政治的決め事は選挙で選んだ被支配者の代表による論議と多数決で行うとなった。そのことを憲法に明記して、すべての法律決めて政治をするという立憲主義になった。
これが民主主義社会だ。為政者は依然として変わらないのだが、建前は憲法に明文化した点が、譲歩と発展だ。ファシズムはこれをかなぐり捨てて、独裁に退化すること。
こんな退化は許されないことなのだが、そもそも民主主義社会が為政者は変わらないままの譲歩であったことを考えれば、かぶった面を捨てて本性を出したまで。つまり、追い詰められた為政者はこの現代でも起こり得ること。
安倍暗黒政権ではつぎつぎに実態をファシズムに変えてきた。宗主国である米国も同じで、崇高な憲法の明文があるにもかかわらず、反人民活動を押さえる法を作っている。また、作れるようにスカスカなスキを最初から用意していたともいえる。
憲法ではよく話題になる銃の所有がある。これこそ人民が権力側の人権はく奪行為にたいして、銃をもってでも、つまりいかなる暴力的な手段を使ってでも、反人民的な権力に立ち向かうのが合法だという考えにもとづくものだ。
「銃所有の禁止」は憲法違反で、使う使わないと無関係に絶対になしてはいけないと確信する人民は多い。米国のリバタリアン勢力というのがある。これは共和党にも民主党にもまたがっている勢力だ。トランプの支持層でもある。
分派が多数あるのでややこしいが、その勢力には人民権力の思想とかぶさるのもある。銃を使ってでも守るべきものは、足元の共同体だとする。グローバリズムには徹底的に反する。自力で衣食住を守るのを土台にする。外国への軍の干渉などもってのほかだとする。無数の利権をもつ大きな政府、借金地獄のような国家財政を進めるのに猛烈に反対する。
たいへん勇ましく、心強いのは分かる。だが、つきつめたところでは彼らも人民権力の思想をどう徹底するのか、というところにいきつく。このたたかいが土台だということを認識してたたかわない限り、限界は突き破れない。つかり、米国をして人民の政府にはできない。
トランプの登場が世界的に大きな風を起こしている。しかも、地球一元支配への打撃を加えているという点では賞賛すべき流れだとも指摘してきた。しかし、同時に国際政治の最上層部での動きだという点は評価しながらも、そこでの動向で人民の被支配者からの解放がなされ、地球支配者の放逐がなされると幻想を持つものではないとも指摘してきたとおりだ。
見ればわかることだが、トランプの政治活動には大胆さと脆さが並行していて、その脆さがスキを作り、地球支配勢力からの猛烈な反撃を浴びている。トランプ自身を含め彼のブレーンが上層部、上しか見ていない。最下部に依存していない。最下部にトランプを動かすだけの人民権力が十分でないという表れだ。
トランプのブレはそこからきている。TTP脱出、世界の憲兵停止、海外常駐軍の撤収、極東和平への踏み出し※と、かつてない偉大な功績を作りながらも、それやっちゃだめということもよく考えずにやってしまう。シリアへのミサイル発射。エルサレムへの大使館移転。ゴラン高原はイスラエル領土。いまだ「制裁」を叫ぶ。いくら抵抗勢力が圧倒していても、ここは彼らに妥協せずにスジを通すべきところなのに、たやすく屈してしまっている。
しっかりした人民権力思想にもとづいた政治理論とブレーンがないことが、結果としてこうしたことになる。米国をカイライとして牛耳ってきた世界金融軍産複合体はしぶとい。私兵のCIA出のポンぺオ。NWO実現に向けて大きな戦略を展開するボルトンらは、本来的にトランプの政策とかみあわない。つまりかみ合う取り巻きを用意できない弱さがあるためだ。
米国の中央政治に出てきている連中たちの力関係で動く政治に戻った感がある。トランプの登場自身は、この中央政治にいる連中の「人民の利益無視」政治に、ほとほと失望したからだった。あらためて最下部で呻吟する人民の声を土台にすることである。同時に、世界中の人民を信頼することである。分かりにくい上層部の逮捕劇など、いくら混乱を回避したいとしても、真実をかたる必要がある。
世界人民に現在のコトを語り、これからやるコトへの支持をえて、誰がそれを拒んでいるのかを語らなければならない。圧倒的な人民の支持はフェイクニュースのマスコミでは出さないだろうが、その姿勢があれば自信をもって実行できる。
せっかくの地球支配者とのたたかいも人民の力を軽視して、政治の上層部の目をみているとすれば、当初のゴールまで及ばない。そればかりか、ヤツらに休息と反撃の余裕を与えてしまいかねない。極東の和平、財政崩壊の切り替え(中央銀行システムの国営化)、犯罪者一味の逮捕、海外駐留軍の撤退など、人民の熱望事項はきちんと手を付けてほしい。
外交の素人、軍事の素人のトランプが、自分も思わなかった当選にもかかわらず、今命を賭して目の前の困難とたたかっているのは事実だ。その一歩前進は、決して狭い米国第一主義ではなく、人民の底から力に依存するときに起こる。
日米関係の見直し、安倍や麻生の放逐もそれに含むはずだ。日本でもこうした上からの運動に呼応する人民活動をひろげていくだろう。
※ニュージーランドのテロ事件。犠牲者はクライシスアクター。狂信者はCIA、英MI6、モサドを私兵とする欧州騎士団とによる連携の偽旗作戦だったと知れた。
※ロシアゲート:ヒラリーの犯罪を覆い隠して、トランプを落とし入れるためにでっち上げたモノ。バー米司法長官にモラー特別検察官が最終報告書を受け取り、議会に知らせる。トランプは自分には何も疑われるスジはないとして、全部公にしろと言っている。隠すことでヤツらの反撃の材料を残すことになりかねない。
※トランプは3月23日、米財務省が北朝鮮への使い制裁を発表したのを強権を発行して不要だと止めた。トランプの意思に従わない政府組織がそうとうな力を持ち、あくまで世界金融軍産複合体の利益に向かわせようという勢力が根深いことを意味している。
※メキシコ国境壁予算:上記同様日米主要メディアは報じないのだが、議会でトランプの要求額を認めないのに対し、議会決議をトランプが大統領権限で拒否した。ところがCIAの隠し予算から補填されて目的の予算額に達したと。不法移民を国境の壁で閉ざすという、大陸ならではの、ほとんどおバカなと思える、未文明的なものを、本気で作る。確かに選挙の公約の実行なのだが、現実にはどこまで進むのか、これからを注視するしかない。だが、本来は不法者の移入を閉ざす、正規の入国手続き所と国境警備の充実をするべきなのかも。だがこれはほとんどが人件費で貧乏国の米国には負担できないかも知れない。
※ベネズエラの騒動についてのフェイクニュースも長注意だ。マスコミの報道の逆が真実だと考えてよい。フセインやカダフィが自由主義国にはあり得ない国民に原油で得た利益を還元した。それを憎んだ地球支配者は虐殺におよんだ。おなじことをベネズエラでやろうとしている。