記・国民B(2019.2.12)
■人民権力への理解を助ける好番組テレビ朝日「想画と綴り方~戦争が奪った子どもたちの“心"~」

 2月9日放映された。全国33局ネット民間放送教育協会加盟のYBCテレビが制作したものだ。
 【1934(S9)年、東北地方は大凶作に見舞われた。山形県内各地で、娘の身売りが急増した。どうして「くやしい」のか「悲しい」のかを考えようと国分先生は指導をした。国分一太郎が赴任した昭和五年、想画と呼ばれる教育が花開こうとしていた。山形県東根市の長瀞(ながとろ)小学校に、昭和初期の子どもたちが生活のありのままを描いた「想画」と呼ばれる絵が、大切に守られている。父母らの稲刈りや夜仕事、雪遊び。農村は窮乏していたが、生き生きとした表現があふれる。同小では、生活を題材に詩や作文を書く「生活綴(つづ)り方」教育も盛んだったが、戦中に国の弾圧を受けた…】と紹介されている番組だ。
 戦争の禍根でもある。戦争という悪事がいかに深刻に長期に及ぶこころの傷を人民の心に残すものか。この番組が「なぜ今なのか」という声もある。その真意こそ視聴者に読み取ってほしいと制作側が投げかけているのだが、ただ見ただけでは見過ごしてしまう。
 主役は長瀞出身の教育者である国分一太郎。彼の果たした歴史的な価値を多くの資料が散逸される前に整理し、長く参照できるように保管しておきたいという、地元の意志もある。戦争がひきおこした理不尽な事実を絶対に忘れないために事実を残す必要もある。教育を直接受けた当時の生徒も90歳を超える高齢者になっていることもある。同時に教育の現場では指導の指針が多角化しすぎてあいまいになっていて、現場が確信を見出せるものを真剣に探していることもある。
 そうした面からのニーズに答えたものとして作られてのであろう。だが同時に、正義を求める人びとへの大きなヒントを与えている番組でもあった。
 周囲ではここでの主張に初めて接する人におおいのだが「人民権力って理解しにくい」という声をよく聴く。そこでいい例としてこの番組を取り上げてみたい。

◆生活に密着した絵を描く授業や綴り方教室は当時なぜに弾圧されたのか

 生活綴方運動というのがあった。古くは大正から昭和初期に開始された生活指導、教科指導のこととし、指導方法論として話題になった。だが、戦争がはじまると反権力の思想的な側面があるとされ弾圧された。支配者側はこの活動を勝手な民間の教育思想と手法と見下したものと位置づけて弾圧した。現在では教育の現場でわずかに自主的にひとつの手法として「作文」「絵画」に埋没させている。
 国分が弾圧されたのは戦中。戦後労働運動の高揚と結びついて、再びその運動が復興する。特に国分と同じ山形県の現上山市の中学校で展開された無着成恭の山びこ学校は有名だ。木村功主演で1952年に映画にもなった。
 国家による戦争犠牲は常に人民だ。特に地方、山村の貧困はすさまじい。干ばつや水害への対応にお上が動かないために飢餓が増える。この番組でも遠慮なく語られている。わずか数百円で子供が売られるのが、決してまれではない日常だった。東京の調査で身売りされてきた娘たちの9%が山形からだったと。
 お上=国家は支配者。被支配者である人民が、目先の困窮で常にうろたえていることを望む。だから人民が生きるか死ぬかのスレスレにいる状態にいることを理想とする。そのような状態の民の生活改善には手をつけず、さらに戦争を推し進める。もちろん、地球支配者の命令だ。日本の為政者=カイライへの「戦争当事者にしろ」との指令だ。
 徳川政府が全国大名に対して参勤交代を課した。中央政権以外の地方が財を蓄えたり、政権にあがなう力を準備させず、常に余裕なくきゅうきゅうとしている状態にした。地球支配者はこれと同じだ。日本に「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」と参戦させていく。「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」「中東戦争」の不沈空母として日本が組み込まれていく。
 卑劣なお上=カイライは、自分が地球支配者の下っ端であることを、人民には隠す。逆に人民の利益を体現する為政者であると位置づける。戦前は人民主権をうたっていない天皇の国だ。だから神である天皇の意志で正当に為政しているとつくろった。
 天皇の意志は神の意志。日本人民の利益をこよなく望む天皇の意志は、すべて民のためとされた。為政者は実際は民がいくら飢えていても、地球支配者から戦争への介入を命じられれば、実行するしかない。人民をだますしかない。人民は素朴に生活の安寧を求めているだけなので、お上の戦争には反対だ。まして、戦争のために資金、物資を提出し、徴兵されてよその国に出向いて、その国の人民を殺しに行くなど反対だ。
 お上は民をだまさなければ戦争ができない。だから大陸への進出を正当化するために、嘘とデタラメをでっち上げた。日本は小さな島国でエネルギーがない。だからアジアの盟主、五族協和、大東亜共栄圏、王道楽土、八紘一宇等々の言葉を発案した。「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と言ったのは現在の安倍を表に出した日本会議の核にいる成長の家創始者。地球支配者の命令が天皇の意志であるかのように偽装させて、民をだます。
 国家総動員法、治安維持法が作られる。お上は天皇の意志、戦争を進めるためとして、それに反対することを許さない。反対の行動はおろか、頭で考えることも許さない。国家に歯向かう罪として、逮捕し投獄し拷問し死刑までする。これがファシズムだ。結果、農村の貧困はいっそう厳しくなる。まともな男性はすべて徴兵されて、村に残っているのは女、ジジ、ババ、子供、病人だけになる。
 公的な機関はすべて戦争に動員する側になる。オイコラ巡査、サーベルをちらつかす憲兵がくまなく目を光らせる。徴兵にもれたのは何らかの病もち。教育の現場はそれでもインテリが多く、思考的にまともなのは当然反戦となる。多くの民は親族が徴兵という人質がとられていることもあり、お上に従う。お上に従う側と反戦側の対立が生まれる。
 いやがうえにも、人民同士のいがみあいが起こり、ぎすぎすした、ゆがんだ社会になる。
 戦争する側は、敵国と敵の民への憎しみをあおる。鬼畜米英とかチャンコロ、露助とかという呼称は、権力側が人民に吹聴したものだ。相手をバカにし、さげすむ。何度も唱えていると、自分に優越主義が生まれる。さげすむ言葉を発し方こそ本当は卑しいのだが、優越主義はここちよく、自分が偉く、優れてしまったように勘違いする。
 だが、実態は「人民内部のいがみ合い」という被支配者の奴隷思想が増幅しただけにすぎない。相手をいくら誹謗しても、すべて具体性のない中傷的な為政者の言葉でしかない。冷静に見たら全部嘘だ。敵国あるいは敵国に民をこちらが誹謗しているが、全く同じことが敵国内で、こちらをターゲットにしてなされている。敵国の為政者がその国の民に向かって行っていることと、そっくり同じなのだ。
 つまり、戦争の敵国というのは、戦争をする双方の為政者というカイライにたいして、共通のボスが命じているに過ぎないのだ。双方を同じセリフで煽り立てているのだ。
 「日本人として」それがいかに崇高で比較できない素晴らしい伝統と歴史をもっているか。などとくすぐられてきた優越思想が、単なる侵略思想に過ぎなかったのだ。
 侵略思想、戦争思想は、絶対に相手の立場を考えない。相手があること、相手も同じ人民であること、相手も同じ家庭があり、友がおり、仕事をしているということを考えさせない思想である。もともと民は平和な安寧を願っているだけで、この様な異常な侵略思想は通常考えてもいない。だがお上にそのように考えることを、連日強いられていく。いつの間にか戦意高揚意識にまきこまれていく。

 戦争に向かう社会の状況では、普通に生きようとすることができなくなる。それは国家総動員法や治安維持法、不敬罪などが強制的にそうさせる。村の学校の先生であるインテリはどこまで理性化して掌握しているかは別にして、直観的に事態を掌握している。ただお上の言われるままに、子供たちを戦争に駆り立ててはならないことを。戦争という奴隷制度を維持する道具の理不尽さを、やすやすと受け入れるべきではないことを。
 そうした背景から発生したのが、番組での「想画」であり「綴方」の行動だった。戦争を肯定する優越主義や、抽象だけの敵へのさげすみではなく、具体的な目の前の現実にこそ隠された真実があると。日々の生活の貧困と助け合い、家庭を支える労働と協力、家族や友や郷土への愛情。それをはぐくみまもることこそが、大事である。それなのに、戦争への道はそれを「守る」「民の繁栄のため」と偽って実際は破壊に導いている。
 為政者は、民が日々の生活の貧困と助け合い、家庭を支える労働と協力、家族や友や郷土への愛情を公然と否定できない。だが、壊そうとしている。これに対して、国分や無著らの行動は、黙って、そのまま子供の教育で実践することだったのだ。圧制者への人民の無言の行動がここに示されている。
 為政者は、国分や無著の主張に対して、それが理論として間違いとは絶対に言えない。言うとしたら屁理屈のこじつけを言うしかない。実際はそれでも為政者はデタラメをでっちあげて弾圧した。つまりファシズムを行った。
 生活に密着した絵を描く授業や綴り方教室が弾圧された理由は、彼らの活動こそ、彼らの考え方こそ、国家として無条件に許されないことだったからだ。人民支配の核心に触れる重大なことが、彼らの活動にあったからだ。

◆人民権力の思想と行動の核心

 人民権力を論じるときのヒントがあると先に述べたのは、このことだ。主権在民などというのは、当たり前。人民主権が問題になること自身、この世は人民が奴隷状態ある証だ。人民には生きる権利がある。これも当たり前。人民は野人として生きていく権利がある。
 野人、つまり、お上だろうが国家だろうが、誰からもいかなる拘束や干渉を受けることなく、生まれ、住む場所をみつけ、自由に考え、自由な生活していく権利だ。これを完全拒否するお上は、出生届を出せ、ワクチンを打て、税を払えなど、何やかにやと干渉し、拘束する。徴兵し、どこそこの国へ行って人殺しをしろ、とまで強制する。
 国家なら「当たり前」というが、こんなことは認めない。それが人民の生きる権利というものだ。お上、つまり国家が人民の基本的な権利を保障し、そのために目に見える行動をするのであれば、それが人民の主権ある国家である。そのときに、人民の有益な意思としての社会的な約束事であれば、人民は当然に従うであろう。このときのお上、国家は人民の国家権力であるからだ。
 民が周囲の仲間と寄り合い、助け合い、自分たちの平和と繁栄のために話し合う。といっても高尚なことが先にあるのではない。生活と労働に密接な卑近のことについて、素朴な当たり前のことがテーマなのだ。普通の生活と労働を拒むもの、邪魔するもの、改善すべきことを語り合うのだ。仲間内部の協力や工夫、改善でなるべく他に頼らずに解決することに努める。
 ここに人民権力の思想と行動がある。ここは限りなく協同組合的である。そしてテーマによっては、末端の場だけでは解決できない、あるいは他の同様の集まりやサークルと力を合わせることでより効果的な結果を実現できるということがある。同様な組織や団体には共通の課題が必ずあり、互いに情報を交換して連携することが必要になってくる。
 そのような声を「お上、国家」が、現地と一体で考え解決に向かって動くのか。よりそい、信頼し、一体で解決しようとする方向で一致しているのか。「お上、国家」が民の声を代表するものか、それとも民の声を聞いたふりしてごまかそうとするのか、頭から拒否するのか。最初の者ならその国は人民の国家、二番目は「民主主義」を装った偽装国家、三番目はファシズム国家だ。二番目と三番目は基本的に同じだが、三番目は窮地に陥って本性がむき出しになった国家だ。
 現在の日本のような「国家」では、二番目を表にしている。建前では主権在民、民主主義的なつまり選挙、議会制の顔をした国家だ。単に民の支配者が為政をしているだけなのだが、主権在民とか民主主義を建前にしているだけのものだ。あからさまなファシズムではないが、安倍政権以降の実態はファシズムになっている。ゆえに、お上、政権の行動では大半が反人民的でありながら、口先では主権在民・民主主義をとなえているために、その矛盾が覆い隠せなくなってきている。文科省、財務省、防衛省、厚生労働省の近年の公文書の偽造、隠蔽は、Jオーエルの描いた心理省と同じだ。すべての歴史的な公文書を都合にあるように一斉に書き換えるのだ。
 現在のロシアの「プーチン・ホットライン」というテレビ番組がある。一般の民の声が出される。それに対して、プーチンがその場で訴えの問題点を明らかにし、行政の不備や官僚の怠慢や不正を一刀両断に正す。どんどんとその場で指示をする。最下層の民の声、要望、問題点について、この場合はお上、国家のトップが分かりやすく応えるのだ。
 現在のロシアやプーチンがこのようの側面を持つことにさまざまな見方もあろうが、ここにお上、国家の民から見て賞賛すべき形がある。民に寄り添う姿勢が偽りならば、それはできまい。実際にこの姿勢は民に絶賛されていて、圧倒的な支持率を維持している。欧米日の為政者仲間では、にっくきプーチンであり日本でも報道はされない。2月に行われた米トランプ大統領の一般教書演説に好感を持った度合いが76パーセントだったが、この事実を報じないのと同じだ。
 国家権力のテーマに話題を戻す。つまり、民が奴隷として支配されている状態からの解放を求める人民の立場で、国家権力というものを見たときに、日本は明らかに第二の「主権在民、民主主義」をうたった偽装国家だ。民主主義を被支配者に納得させるために用意したのが選挙による議会制度だ。民が意思を代表する議員を投票で選ぶ。一人一票を行使する。ならば多数決で公明ではないか、というシステムを優れた制度として提唱されている。

◆民主主義を具現する選挙制度は人民支配の道具

 実は選挙制度は欺瞞なのだ。当選した議員の数が民が自由意思で選んだもの。多数を得た政党が民の代表として為政を担当するのは正当だ。そのように言われている。それに対して、軍事独裁政権、一党独裁政権は、とんでもない反人民の政権で、打倒転覆しても仕方ないものだ、と言う。
 だが、冷静に選挙制=民主主義を見てみれば、思わぬ実態が明らかになる。選挙制=民主主義は、時の為政者が人民の声に追いつめられて、やむやむ採用した側面はあるのだが、それでも上から作成して実現したものだ。日本の場合は敗戦で日本を支配した連合軍、つまり地球支配者側が用意したシステムだ。
 実際に用意するにあたって、必ず為政者側が多数になるように仕組んでいることだ。それは為政者側が多数になる根拠について、民に納得させる理由をあらかじめ用意し、マスコミを使って民に思考を導くことである。膨大な数のニュースと解説者が活躍する。
 意識と認識と誘導は併せて制度の施行でもバックアップされる。「結果は開票するものが決める」と古くから指摘されているように、総務省の「最終」集計数が先に計算で出され、開票はそのように結果がまとめられていくのだ。出来高レースなのだ。
 近年はそれが様々な局面で暴露されている。日本の戦後の為政者は地球支配者が命じて決めた。明治維新から特別に育成してきたカイライ族、A級戦犯を開放して政治の表につけた。岸、佐藤、安倍などである。米国のブッシュもおなじだが、例えその家系の人物が突出して優れていたとしても、複数がトップになるなどありえないし、すでにそれ自身が民主主義などではない。
 マスコミは同じく戦犯が解放されて民間放送、民間報道機関を立ち上げる。岸も正力も米公文書で明らかになったCIAのスパイだ。スポーツ界、ギャンブル界も同じく戦犯・スパイだ。
 では行政はどうだろうか。同じである。表の政治とは別に、実態は日米合同委員会がいまだに政治の実態だ。地球支配者の支配の意図はここで決まり、表の舞台で採決されて実行されているに過ぎない。選挙はかつては手動であったシステムが現在はコンピュータによる集計になっている。投票から集計までの時間差と、期日前投票の扱いにトリックがある。
 選挙は米国の大統領選挙に限らず、キャンペーンと呼ばれる一大イベントだ。イベントは必ず企画されて行われる。宣伝から始まり当落が決まるまで、詳細なシナリオが組まれる。その大半の業務が外注される。役所がやる、選挙管理委員会がやると思われているが、大半は外注なのだ。しかも、外注先が問題だ。政党の政策を決める。選挙活動をどうするかを決める。運動員をどう動員する。投票所を管理する。投票所の備品は膨大なものを用意する。集計所まで投票箱を運ぶ。期日前投票箱を補完する。集計機を扱う。集計「結果」をマスコミが流す。マスコミは出口調査をする。政党支持率というアンケートを取る。
 キャンペーンのすべてを担当して実行するのは、なんとその9割以上の下請けをしているのが一つのところ(ムサシ)に集中しているのだ。政策を請け負うシンクタンクも個々の組織は一見違っていても、どれもその親玉はひとつなのである。
 近年マスコミは開票日に、実際の開票を待たずに、当落を発表する。民主主義=選挙のシステムが本性をあからさまにしている。投票所から開票所への投票箱の移動の間の闇。時期前投票された票の保管の闇。集計機というブラックボックスの集計の闇。マスコミの開票報道の闇。いくつかの選挙にまつわる闇=ブラックボックスが、民主主義=選挙制度の背骨なのだ。つまりは、この民に知られてはならない隙間があり、ここの真実があからさまになれば、成立しえない制度なのだ。
 つまり、民主主義=選挙制度は巧妙に不正を覆い隠した支配システムである。民を支配する奴隷制度は、表の顔をやさしそうに変えただけなのだ。だから、歴史的に選挙で社会が変わった例は一つもないのである。最近に「自衛隊の別班」が出版された。その中で、もしも共産党が選挙で多数になったらどうするかという記者の質問に、自衛隊幹部は即座に「クーデターでつぶす」ことを発言している。これは為政者の常識と言える。
 かつてチリでアジェンデ政権が選挙で成立した。インドネシアでスカルノが大統領に当選した。だが、直後からCIA(地球支配者の私兵)が公然と介入して殺害、多数の人民が犠牲にされて、転覆された。「選挙で民の意思が実現する」ことは基本的にない。為政者の支配の道具としての民主主義=議会制の結果を、為政者がそのまま認めることはありえないのだ。
 米国は地球支配者がカイライ政権のボス的存在として利用している。その米国で2016年末にトランプが大統領に当選した。この選挙開票時はトランプ派の軍が多くの開票所を抑えて、不正な開票作業を防衛した。いくつかの箇所では銃撃戦まで発生した。だが今だトランプ勝利を認めていない旧為政者は、トランプを弾劾あるいは暗殺することに躍起になっている。

◆二重権力という国家権力の重要な視点

 日本が安倍政権下にあるのは現状だ。つまり日本人民は安倍政権が為政する国家の圧政下にある。民は安倍がいう「日本国」の国民になっている。これは誰にでも理解できる「常識」だろう。だが、圧政からの解放を目指す人民の視点から、国家を論じるときに欠かせないことがある。
 それは人民の利益を守り、人民の平和と繁栄を実現する、人民に寄り添う民の国家というものの存在である。その「人民の国」は「安倍の国」と人民がたたかうなかで、人民側が勝利して実現するものであるという視点だ。別の表現をすると、二重権力という概念である。安倍の国の内部にありながら、安倍の国と相反する人民の国を持つということ。人民の国を存在させること。
 人民の国を生み、存在させ、強大にしていくこと。人民の国がやがて安倍の国を凌駕し、安倍の国を崩壊させ、人民の国が主人公になること。主権在民の人民の国を唯一の己の国とし、安倍の国を廃絶すること。つまり、これが政治のパラダイムシフトであり、革命である。
 人民の国家は天から降って来ない。神に頼んでも与えてくれない。人民が「安倍の国」と競いたたかうなかで生まれ、育ち、成長して取り替えるのだ。二重権力は真新しい概念でも何でもない。ロシア革命を見たらわかるように、ニコライ皇帝政権でもケレンスキー政権でもソビエトという人民権力があった。中国でも同じだ。毛沢東の共産党が支配する人民組織と民兵組織が自給自足の人民権力であった。これが強大になり、最終的に中央政権を宣言してとってかわったものだ。
 二重権力という国家権力の概念と構造は、圧政からの解放を求める人民思想の核心であるとこはこれで明らかだろう。ソ連や中国に限らず、これは普遍的なものである。日本における権力闘争でも同じである。これが、地球支配者によるカイライ国では、民に知ってほしくない最大の内容だ。だから、あらゆる機会を利用して、この革命思想を封じてきたのだ。
 主題の「想図と綴り方」が為政者に不都合で、国分や無著をむりやり国賊として弾圧した理由だ。
 「世界中に偽りの蔓延するこの時代、真実を話すというのは革命的な行いだ」といったのは、先にも引用した「1983」の著者Jオーエル。
 安倍が選挙で多数を得ることで正当な為政者を装い、多数で強行採決した戦争法、秘密保護法、共謀罪等により、事実上の国家総動員法、治安維持法を再現した。連日安倍の国はウソとデタラメをしゃべりまくり、反人民的な国家の存続に勤めている。安倍の国は、口先で国民の平和と安全、財産を守るという理由で、事実上の圧政を強いている。
 辺野古基地、原発被害、地震、豪雨からの復興、年金、育児、医療等々、人民の生活に密着したすべての方面で悪事を働いている。その組織的悪事に、膨大な数の人員と組織を動員している。つまり、民をかかいこんで実行している。核になる部署には「欲得」に目をくらみ人民としての心を売り渡した人が担当し、多数の民は各自の生活が人質にされている。つまり、現在の安倍の国においては、多数の民が政権の犯罪に関与した当事者に組み込まれていることが、安倍の国とたたかう運動をやりにくくしている。
 表題の「想画と綴り方」に国分を弾圧した特高砂田周蔵がでてくる。彼は戦前は農民運動の反権力のリーダーだった。これが転向して人民弾圧側の手先になる。民への徹底した信頼が持てない人や、欲得で動く人は常に為政者に利用される。人民権力という生活点と生産点での民の信頼と結びつきの弱さが、為政者側から付け込まれる大きな穴になる。それだけに、人民は現場で真実を語り、揺るぎえない真実の力で仲間の結びつきを強める必要がある。
 安倍の国のような卑劣な支配下で、それとたたかうべき民が、ヤツらの巧妙な手口で加害者に組み込まれているという事態は、たたかう側に極めて不利である。ヤツらの支配システムは、民がたたかう思考と余裕と場を与えないようにしている。これは過去の革命にない現代の特徴だ。民が反権力の意識を持つ余裕を与えない。そのきっかけになりそうな事態については、あらゆる方面からの情報で正しく認識できないようにする。誤誘導する。たたかわねばならないことに気づいても、どうたたかうかという手段と場を与えない。反権力の行動は実際に許さない。出たら徹底的にたたかれ、いじめられ、放逐される。そしてあろうことか自主的に自粛してしまう。これが日本の現実だ。
 だが、人民権力の思想を持つならば、少しも恐れる必要がない。すべては権力の問題であり、人民の力を生活点と生産点の足元から作り上げるという以外に、どのような選択もない。そしてそれは、単に現場で友に真実を語ることだからだ。「想画と綴り方」にあるような、具体的な悩みや要望について掘り下げる作業だからだ。権力が口をはさむ余地がない。権力側も否定することができない、正真正銘の実態を語ることだからだ。オーエルの言では、そのことこそが、革命的な行動だという。その通りである。
 もうひとつは、二重権力下での人民の行動は面従腹背だ。だれだれを次の選挙で推せと上から支持されてもハイハイと答えるが、こころはノーだ。職場で上から理不尽な政策の遂行を命じられても、ハイハイという。だが、その代わりに、徹底的に仲間とは話する。仲間内での討議でコトの反人民性を暴露していく。生活点や職場では仲間で話す真実が多数の人を納得させるだけの力を実現できれば、理不尽な上司の指示を変えられる。力関係に応じて民への犠牲は改善できる。

◆新たな情勢下での人民の活動指針

 二重権力がバランスを変化させて人民の権力が勝つのは、最終的に全世界的な規模でのパラダイムシフトの実現のときだ。地球支配者は各国各民族を分断支配している。世界的な規模で動かしている。たたかう側が目先の自国だけに目を向けていては、最終的な勝利は得られない。地球支配者の各国カイライは危機が訪れたら連合して人民に対応してくる。戦争だ。そのときは、人民権力和側も連合して対応する。
 だが、現在の安倍の国では、多くの民は魂が抜かれている。つまり支配者側の流す情報の洪水に溺れ、正しい情報が捻じ曲げられ、正しい思考が歪められている状態にある。ここから少しでも脱しなければならない。自分の仕事や生活の個々の悩みや問題について、お上の口上に疑念を持って改善策を考えることだ。足元の仲間と話すことだ。お上の口上に逆らうことがはばかられ、それを避け、人に語らないことが、さも生活の知恵であるかのようにさせられている。それに従っていては、突破口は開けない。
 お上の口上にたいしての遠慮する理由に、もう一つの側面があるのが現代の新たな特徴だ。それはお上の口上の、現場での運用や実現のための詳細作成に、何らかの形で己が関与しているケースが多いことである。お上の指示の具体化の検討を任せられたとする。お上の主張の趣旨の立場に身を置き、いろいろと具体化をする。その内容が民や同僚や自分自身をだまし、犠牲にしていくことになるケースだ。担当であり業務だからその作業を拒否はできない。だから、自分をここでは殺して、指示の旨になりきって作業を進めることになる。
 一般に民は暮しをしていてお上への疑念は持っている。その解消はお上が暗に進めるスポーツなど政治以外への没頭だ。映画やお笑いやゲームへの没頭だ。ギャンブルや性への没頭もある。家庭では良きパパ・ママが職場で戦士に児童変身しても「大きく社会的に迷惑をかけない程度なら」このままでもいいじゃないかというあきらめが出て来る。同時に、社会の変革などというたいそうなことは、選挙で選出した議員や「誰か」がやる仕事で、自分は関与する必要がないものという「依存症」が支配する。あきらめと依存症、すなわち他力本願である。
 自分で自分の意思を閉ざすために、いつの間にか職場で意思を封じることに抵抗がなくなっていく。自然に職場では「仕事の戦士」にマインドを変えることができるようになる。為政者や経営者側には理想的な変身だが、民にとってはよろしくない。民が自覚し意識的な職場での力を作っていく活動のさまたげでしかない。しかし、この現代の新たな労働環境においても、人民権力を作っていく必要があり、その方法はあくまでその場で仲間に真実をかたることである。いかに時間を要してでも、根気強く現実のなかにある真実を語ることを追求することだ。突破口は必ず開く。
 以前に「三だけ主義」に触れた。現在社会に蔓延している「今だけ、カネだけ、自分だけ」。それにあきらめと依存症が加わっているのだが、庶民の正義や勇気はこのように圧殺されてしまっている。魂が抜かれてしまっている。だからこそ、意識あるものが「真実を足元で仲間に語る」という革命をしていかなければならない。
 この世は人民の世である。決して地球支配者やカネ持ちや詐欺師の世界ではない。地球支配者は世界の人民を奴隷として所有し続けたいだけのエイリアン(人類と意思を交換しえない)だ。世界金融軍産複合体や為政者はただの欲たかりだ。欲得願望者が地球支配者によってエサを与えられ手先になっている。経営者や投資家や為政者はみなこの欲得のとりこで、民からの強奪者、詐欺者だ。人間として唾棄すべき連中だ。本来人民のものである資産を奪ってそれを誇っている(死んでも回心することがない)のだ。生産で生み出した価値は、生産者と利用者と地域の富だ。それを強奪して自慢しているのだ。
 こうした連中に人民はなびいてはならない。手下になってはならない。ヤツらは民にたかる寄生虫と同じだ。ヤツらが維持しようとしている現在の奴隷制社会、民主主義をよそおった欺瞞的な社会を、人民主権の社会に変えるのだ。ヤツらはカネと資産と武器とを己に集中させて、被支配者である人民を脅かしている。絶対的な力があるように見せている。だが、ヤツらのカネや資産や武器というものが、もともと人民から強奪したもので、下劣で卑しい邪悪な人間所有思想であることを考えれば、張子の虎のようなものであることが分かる。民はヤツらの逆を考え実行するのである。
 民にたかる寄生虫が支配する社会は、歴史的に必ず廃絶される。
 現代に生まれた民は世を自ら選択できなかったが、それは民がその社会を容認するということではない。寄生虫による支配は改めて、民が人間としてまっとうに生きられる社会の実現をするために努力するのは当然のことである。寄生虫は宿主である人民が拒否したら終わりだ。人民が寄生を許さなければ、死滅するしかないのである。だからヤツらの支配者会というのは、強大に思えても、実は実体のない張子の虎のようなものなのだ。強大に見せているのは人民の思考が実現している幻想と虚構で、ヤツらが民に植え付けたイメージだ。
 人民が自覚してその夢から脱しさえすれば、ヤツらはたわいもないものである。先日報道されたが、わずか数人が全世界の富の大半を手中にしていると。寄生虫の実態で、ヤツらの自慢話なのかもしれない。強欲に取りつかれた連中はきっとうらやましい、自分もその世界へと思うのだろう。だが人民の目はごまかせない。ヤツらが犯罪を自供しているとみるだけだ。ヤツらによる幻覚攻撃、奴隷根性をくすぐる策動を、人民の眼から暴き出すときに、決め手となる視点を再確認しよう。難しいことではない。日常的に現場で物事を分析し真実を暴き出していく視点は、人間としての生活信条のようなものである。これに照らせばすべての真実が明らかになる。

 第一、ひとを不愉快にさせたり、迷惑をかけないこと。
 第二、カネの盲者、欲の盲者にならないこと。
 第三、子孫に負荷をかけない、未来にツケをまわさないこと。
 第四、戦争の禍根を解き放つこと。他国へのよけいなお節介をしないこと。
 第五、人間の尊厳をもって生活できるようにすることへの貢献

 「想画と綴り方」という番組が、人民権力ということの理解にたいへん役立つヒントになった。良心的な番組として、民の中で話題にして欲しいものである。