記・国民B(2015.11.4)
■安倍らによる犯罪的な政治をめぐる本質的課題について。国家の権力とは何なのかを解明しなければヤツらを放逐はできない

 身の回りで起こっている日々のニュースを新聞で読むと、安倍のやっているさまざまな人民いじめというか、犯罪行為は目立つ。だが、それがなぜおこるのか、安倍を政権の座から叩き落とすことはできないのか、どうにかできないのかという悲鳴が続く。
 安倍の横暴を嘆く声が多い。同時にマスコミがにくにくしげに話題にするのは、中国が南シナ海で埋め立てをしていてそこを中国の領海といっていることが覇権主義的で怖い。これに手をこまねいているだけでいいのか。というような論議だ。
 しかもそれは9月に成立した安保法(戦争法)との関連もあり、軍備は必要だという意見もある。
 あらためてここで取り上げている問題を解明してみたい。提起されている問題は以下の3点。
 「日本の国権を強く主張せよ。そのためにも自衛隊の配備は必要だ。軍は必要だ」
「安倍が許しがたいことをやっているのに、ジャーナリズムはなぜそれを暴かないのか。日本のジャーナリズムは死んでいる」
「選挙で自民党を多数派から落とすしかない」。
 いずれも、現在の世界と日本をとりまく情勢の核心にせまるテーマだといえる。何が政治か、何をおさえれば理解できるか、そして安倍を倒すにはどうするか、倒した後はどうすればいいのか、がわかってくるはずだ。

◆「日本の国権を強く主張せよ。そのためにも自衛隊の配備は必要だ。軍は必要だ」とは正しいのか
 「他国からの侵略にそなえて軍隊を持つことは当然で、自衛隊は国軍として認めるべきだ」という考えがある。そして「かつてなく中国や北朝鮮からの脅威にさらされている。一国で国を守れる時代ではないので、同盟国と共同で行動できるように安保法制を整備した」というのが安倍らカイライ政権は主張する。
 太平洋沖での数百艘におよぶサンゴ取り、尖閣諸島周辺での中国船の出没、東アジア海域での諸島の相次ぐ埋立工事などをセンセーショナルに報道する。中東ではISがアラブ諸国の国境を無視して無謀をはたらき、数百万人といわれる難民が周囲の国々に押し寄せる。
 こうした激しい情勢を報道で知れば、ホントに間違いであっても攻め入られるようなことがありそうな気がし、怖い。守らねば、軍事を強化せねばという雰囲気を生む。安倍らによれば、国民がそのような意識を持ってくれるのを望んでいる。そうした意識が背景にあれば、安倍らが「安保法」と呼ぶ戦争法を行使し易いからだ。
 戦争法に反対する人も多い。戦争はいけない、二度と戦争の悲惨を経験したくない、米国の戦争に巻き込まれたくない、軍備の強化、米軍と一体になって自衛隊が戦うのは反対だ。そもそも憲法に反している、という。
 安倍らはそうした反対意見にたいして、では中国や北朝鮮にあなどられ、日本をほしいままにさせてもいいのか、という。反対派はこの安倍らの主張に対してしどろもどろだ。つまり、戦争はいやだが相手が攻めてきたときに戦う軍はいらないと言えば、戦争に負け蹂躙されるのを認めることになるからだ。安倍らは、いやだという感情論だけでは現実の政治は無意味なのだと、せせら笑うのである。
 こうして実際に戦争法は強行で成立させた。

●国家と権力、国民と主権
 世界を牛耳る一握りの悪魔のような人民支配者と闘おうという立場からは、こうした論議をどうみるのか。
 徹底的な階級的視点を持たないかぎりこの問題は理解できない。前提として、現在の人民が置かれている状態につてい錯覚をしてはいけない。99パーセントの人民は1パーセントの悪魔のような連中から奴隷として支配されてる。人民は被支配者だ。
 支配され隷従させられヤツらに、労働を提供させられ、人生を管理され、生存権を全面的に握られた状態にあるのだ。民族や宗教や国家と歴史記段階で隷従の形態は異なるが、ヤツらに奉仕するロボットのような存在は変わらない。
 近代になって、人民が「国民」などと呼ばれておだてられ、「国民主権、民主主義」の制度になったといわれ、「立憲主義、法による秩序」ができたといわれ、「議会主義」だから選挙で政治に参加できる、とだまされているに過ぎない。「自由経済」で、知恵と能力さえあれば、誰でも「夢は実現できる」とあおる。完全に「自由で平等」なのだとうそぶく。
 市民はCitizen。城壁の中に住まい王主を守り城壁内外の人民大衆Mass of People(数えもしない多くの)を支配して貢がせるの立場の連中(ブルジョアジー)。そのクニの市民を国民と称したが、人民大衆は実は市民でも国民でもない単なる貢ぐことが終生の奴隷。この露骨な政治状態では近代の支配体制は維持できないために、これからは平等だとごまかして、住民票で管理するようにし市民だ、国民だに格上げしたように錯覚(もちろんブルジョアジーになどなってない)させている。
 このときにヤツらは強引に国境まで作った。ヤツらは米国というクニを通じて思いのまま地球全体をも牛耳っている(と願望)。だから日本などでいう外務省は米国にはない。国務省が我が物顔で地球上どこでも席巻する。
 民主主義、自由などヤツらの支配の都合で奴隷制をそう呼んでいるだけだ。
 現実を冷静にみてみればいい。それらはただのヤツらがふりまいている幻想だ。言霊、マインドコントロールによって目くらましにされているに過ぎない。
 自由経済は完全なギャンブル経済で世界中の人民を日々振り回している。政治は安倍のような悪質なカイライや詐欺師まがいの政治屋が日々人民をいじめ倒している。社会はといえば、ブラック国家をまねて底なしの不安が支配している。ヤツらは核をもてあそび、どれほどの危険を人民にあたえていることか。最近は自然現象まで利用して人民を振り回している。
 被支配者の人民に対して、主権者だ、民主主義だ、自由だといってありもしないホラをいってメクラにしながら、現実にはこれでもかと収奪を強いている。どこに主権がある。どこに自由がある。ひどい格差はめだっても、どこに平等がある。何が民主主義だ。すべては、ヤツらにたいして打撃を与えない範囲での「勝手」を許しているだけなのだ。
 すると「戦争で攻めてきたら」などというセリフは、ヤツらの完璧なでたらめのウソであることがわかる。戦争は非常時の形態の支配。日常的にはギャンブル、詐欺、法での支配。ヤツらの支配下での「文化」はアメ。

●人民を盲目支配する手段としての戦争
 戦争は被支配者たる人民を究極の理不尽な環境にさらすことで、人間性を破壊させ、人間としてのまっとうな考え、視点をゆがめることが目的なのだ。まっとうに現実をみたら、一握りの悪魔のようなヤツらが99パーセントの人民を奴隷として支配していることが丸見えだから、それを見えないようにする手段なのだ。
 戦争は歴史的に、常に、例外なく、一握りのヤツらが、双方の対立を激化させ戦いをつくりだし、理不尽の現実に人民を定期的に巻き込むことだ。そして双方が激しい消耗にあい、ヤツらに刃向う力をそぐのが目的なのだ。人民の平和で安全な生活、安寧を壊すことこそが、ヤツらが戦争で実現したいことだ。
 ヤツらのこの意図にもとづいた働きかけさえなければ、起こらない事象が戦争なのだ。戦争はヤツらが一元支配継続という明確な目的で作り出している事象、支配管理政策の一形態なのだ。
 戦争を論じるときにこの戦争の本質から離れて、いくら論議しても人民側には無意味である。ヤツらを喜ばせるだけである。まして勝った、負けた、軍備がどうだった、戦術が、兵隊の意識が、慰安婦が、虐殺がなどという論議はすべて不毛といっていい。
 野坂昭如の「火垂るの墓」、五味川純平「人間の条件」、大岡昇平「野火」等々無数の戦争の悲劇を見ればわかる。描かれていることのすべては、理不尽のきわみ、ヤツらの仕組んだ通りの人民同士の内部の対立の悲劇だ。これらはヤツらが人民の正常な感覚と思考を破壊するために、意図的に仕組んでおこしたものだ。戦争に人民をまきこみ、地獄を体験させることで、ゆがんだ視点、ヤツらへの従属をからだに覚えこますためのものだ。
 戦争はヤツらが双方にゆがんだ見解を信じ込ませて対立させ、双方に武器や資金を与えて激化させ、どちらが勝とうが目的を達するのだ。近代の日本でも、明治維新を演出(政府軍にも薩長にも資金と武器提供)し、日清日露の帝国主義的な対外侵略戦争をしかけてちょっとした勝ちを経験させ、第一次世界大戦に深入りさせ、第二次世界大戦で日本を世界支配のための不沈空母を実現した。一連の戦争で犠牲になった関係国の人民はヤツらにただの、ロボット以下の犠牲を強いられただけである。
 勝とうが、負けようが、人民側に何かひとつでもいいことなどもたらしたか。限りない犠牲と悲しみ、永代末代までのうらみつらみというゆがんだ気持ちを増幅しただけではないか。ヤツらの人民奴隷支配の維持に貢献しただけである。

●「戦争を内乱に転嫁する」ということ
 もう一度ここで「中国や北朝鮮が日本に攻めてきたら」という安倍らの脅迫をみてみよう。
 日本を中国や北朝鮮と対立させ、人民を消耗品として対立させて、生命も貯えもすべて消失させ、戦後70年経過し戦争を直接知らない人民をここで巻き込もう(体に覚えさせる)という、意図がすけてみえる。
 「中国が」「北朝鮮が」攻めてくるのが危ないのではない。米国を牛耳るヤツらが、米国の戦争屋一派を通じて、カイライの安倍に命令して、これから戦争を起こそうということこそが危険なのだ。ヤツらは安倍に命令しているように、中国や北朝鮮の国内に育て上げたカイライと手先に同じ指令をだしている。一握りのヤツらが、双方をけしかけているのだ。
 もしも戦争になれば、中国の人民も、北朝鮮の人民も、日本人民と同じように、まったく無意味にいがみ合わされ、禍根にまきこまれる。いうまでもないことだが、中国人、朝鮮人、日本人の間には民族の相違はあっても、人民同士の利害の対立などない。まして、戦争をしてまで争う理由などない。あるというやつは相当のガキかバカかだ。安倍のまやかしに心底だまされきったヤツだ。気の毒だがその考えは人民の考えではない。
 本当に攻めてくるという悲劇が現実になったときはどうなのか。これは一度は「人民の権力」を実現した先人レーニンが指摘している。あらんかぎりの方法と力でほんとうの敵と闘うだけだ。「戦争を内乱に転嫁する」という考えだ。自衛隊に入っておクニのために力をささげる、などということではない。戦争の本質を内外に可能な方法で広め伝え、内外の人民の力量を強めて、主敵への打撃を与えることだ。主敵に対しては容赦ないすべての武器と知恵を働かせて闘うことだ。
 近年ではベトナム戦争がありパレスチナの戦いがある。最初は武器をもたない人民があらゆる知恵と工夫で自らを守るために、世界最強の軍隊と闘った。ヤツらの一方的な卑劣な行為に同調しない世界中の人民が現地で闘う人民を支援した。物資も送った。最後はベトナムでは勝った。パレスチナでは今でも闘っている。
 日本では安倍の近親者の岸が米国とアンポを結ぶが、国会周辺は激しいデモで人民は立ち上がった。米アイゼンハワー大統領は訪日したが、用も足さずに追い返され、岸は退陣した。ことときに人民はヤツらのカイライ政権に対して真っ向から力を行使した。この力こそが人民側の権力である。
 この人民側の権力に対して、カイライ権力はまさに権力の本性である暴力装置として立ち向かってきた。国内用の警察権力だ。カイライ権力は危ういと感じ対外用の自衛隊を出撃させようとまでした。カイライ権力としては当然の動きである。
 このときに、カイライ権力側の権力機構のすべての組織内でおおきく見解の論議が起きた。単純に権力の言うがまま命令に従っていいのかと。公然とはカイライ政権の命令にはノーといえないとしながらも、行動上では従わないということが、さまざまなシーンで発生した。
 出動を命じられた自衛隊は「出動すれば内乱だ。日本人を守るべき自衛隊が日本人に銃をむけることになる。いったん行動すれば、常に引き金を引く訓練にあけくれている隊員は必ず撃つ。そうなれば取り返しのつかない状態に陥る」という内部の意見をとって、岸の要請には従わなかった。
 つまり、実際のカイライ政権とそれと連携する外国の軍隊が、日本人民を相手に攻めてきたら、それはヤツらの権力と人民の権力の衝突となるのであって、攻めてきた他国の軍とおクニの自衛隊との戦いという単純な戦闘ではないということである。
 人民はヤツらが人民支配のために作った「国」というもの同士の紛争や戦争は、分断支配という目的で計画して演じささせているものだ。これに目をうばわれては、まさにヤツらの思うつぼである。ヤツらの人民支配の目的を理解して、そこをとことん暴くことである。人民内部の無用な対立や争いをやめて、ヤツらへの打撃力に転嫁することが人民の立場だ。
 戦争を内乱へというと、言葉尻をとらえて、内乱賛美で内乱が目的、内乱を起こそうとするテロリストだと攻撃する。けしかけて無用な対立をしかけて撹乱し内乱を起こすのはヤツらなのだ。それに対しては当然だが全力で戦うぞということだ。押し入る、あるいは内部の泥棒犯罪人のくせに、人民に動機と行為をなすりつけるやり口だ。
 同様に暴力革命を励賛していると攻撃する。これも同じ卑劣な攻撃だ。権力という暴力装置を背景に有無を言わさずに支配を貫こうとするのは、ヤツらの方なのだ。それに抗するものを暴力励賛としておとしめるすりかえを認めるなら、最初から抵抗など起こりえない。昔からヤツらは人民から力を奪い、抵抗の術をすべてしばってきた。暴力を日常的に行使している。ヤツらだけが暴力を行使するなどという「権利」を認めるのが奴隷根性なのだ。
 暴力革命がどうだこうだというのには価値がない。いまヤツらがもつ圧倒的な暴力装置がやがて逆転したときに、黙って放棄し消えさえすればいいだけのことである。
 勝負は時点の力関係だから、闘い方の方法を論じても意味がない。だが、主敵が明確で人民が存在する限り、闘いがおこる。なぜならヤツらは奴隷としての人民をゼロにはできないからだ。寄生虫は宿主を失えばすべてを失う。そろそろ地球で、人民に寄生して生き延びるような文明を変えるべき時期にきているということを知るべきである。

●人民が自ら支配する最強の支配システム
 では、人民側がなぜに悪魔のようなヤツらに敗北し、社会主義・共産主義の自滅に至ったのか。それは残念ながらヤツらのほうが、支配の技術という点ではるかに優れていて、それを突き崩せなかったということにつきる。何千年にもおよぶヤツらによる支配のシステムは、ほころびつつも強固であったということだ。
 制度しても多重の支配システムは、まず被支配者のマインドコントロールにある。思考を操る手法を完成させ、巧みに使っている点がある。北朝鮮の謀略機関とアメリカの謀略機関ほどの差をもつ。一方は007なみに華麗であざやかに、いっぽうは予算もたらず、訓練も半端でもたつきダサい。
 被支配者を完璧に被支配のための社会システムの歯車の一員にはめてしまったことである。ここから、被支配者自身が被支配者である人民をみずから管理し、支配システムの維持、強化をしていくという、実に巧妙になシステムである。自立型ロボット、自らの欠点を自らが自動的に補っていくような、完成したみごとなシステムを実現した。
 社会システムは、家族と会社と社会団体。そのいずれかに人民は属し、それぞれの末端にいたるまで支配者の意図がめぐらされる。その意図でそれぞれが動き、監視しあい、カバーしあい、競い合い、システムを強固にしていくのだ。その歯車の一員に人民が組み込まれているのだ。
 マインドコントロールで大事なことは、非日常の戦争というときの地獄世界ということだけではない。平和時でもつぎつぎと間断なくこまねずみのように動かせて、考える余裕を与えないことである。奴隷状態にしておきながらも、3S(スクリーン、スポーツ、セックス)作戦でたぶらかす。
 ヤツらはそれを毎度コントロールとして操っている。スクリーン、つまり映像の世界では徹底的に悪を仕立ててはそれと闘うのがヤツらの理想とする自由主義の戦士だ。幼児の段階から武器を持って戦うことをカッコイイものとして育成することが、現在社会的にどれほどの深刻な問題を起こしているかを知ればわかる。
 ハロウィンの狂気、気色悪い変装願望はどうだ。悪魔とかゾンビとかこのようなものをあがめる発想も変身も、それはヤツらの思う理想像そのものだ。
 スポーツではカイライ政権の日常の圧政から夢中にすることで忘れさせるドラッグだ。さらにオリンピックなどでは異様な民族主義を深く浸透させる。
 しかし一番徹底しているのは職場・仕事である。職をもつものが家庭では良きパパ・ママだが、いったん玄関をでると、人間性が企業戦士に一瞬で変身する。「一円でも安くつくり一円でも高く売る」ことが世の絶対原則で、その追求ことに最大の価値があり、その実現への貢献こそがやりがいとされる。その目的のためなら、すべての障害を除こうとする。何でもありだ。
 社員一人一人も、企業もグローバル化を唯一の原則とし、生き延びるためなら、パワハラ、追い落とし、だまし、殺し何でもする。
 人民はそうした仕組みの歯車とされている。人民はそうしなければ日々生きていけない。生活のかてはそこで得ているからだ。多少の矛盾を感じても、がんじがらめの状態なので、脱出はむずかしい。
 教育も家庭も社会活動もすべてがそれで成り立っている。
 労働組合やサークルはかつては人民の自由な論議が可能であったが、いまは会社と労働に沿うもの以外は存在しえなくなった。勝手に、内部から、外部からはじかれていくのだ。
 安倍カイライ政権下では、最近話題は「政権与党を批判するようなことを公的な機関や場や報道やペーパーに載せることは許さない」ということ。次々に周囲で例が出てきている。些細なことまで安倍らは平気で口をだし、取り締まろうというのだ。「もの言えぬ空気」がはびこり社会の閉塞感は増す一方だ。
 露骨な安倍はどうどうと圧力をかけ、それを隠さない。911以降のカイライ政権の動きだ。
 ヤツらの恐れを知らぬヒトラーばりの行動を止められないのは、それほど人民側の反撃力が衰えているからだ。人民側の思考がマインドコントロールにはまっているからだ。ヤツらの論理に真正面から対応できないのだ。ヤツらの思考と行動に対して、ヤツらが与えた思考枠で対応しようとしても、絶対に勝てるわけがない。
 こうしたすべての方面からの支配のシステムを敷いた上に、ヤツらの自信は911時点までに地球上のあらゆる国家、民族、場所、反対派のグループや組織の中核的なところにスパイ、同調者、カイライ分子の配置をしたことからくる。
 しかもエシュロンで知られるように全世界の通信のすべてての盗聴システムをもったこと。個人には携帯を持たせ、家庭をはじめあらゆる場所にデジタルテレビを置き、電源OFF時であってもカメラとマイクでの盗聴をしている。街には警備のためといって、街頭カメラがくまなく設置した。いずれも治安を先に悪化させ、人々や組織が自ら求めるという形で導入が徹底されたのである。
 ヤツらにたいして反対をとなえ、組織で論議などしようものなら、たちまちヤツらが知ってしまう。韓国のLGが、米国のアップルが電源OFF時でも情報を集め、それをEliza、Siriなどと呼ばれる人口頭脳が解析をしていることが暴露されている。
 これらのデータはマイナンバーや生体埋め込みチップと連動している。
 皮肉なことに、それを準備し、解析し、日夜処理にあたっているのは、歯車として組み込まれた人民の個々である。仕事として、好んで、割り切ってこなしている。そのときに自分も含めた人民を支配するための片割れを仕事としているのだなどという、罪悪の意識は持っていない。
 監獄の完璧な自己完成だ。人民は自分を閉じ込めている檻の鉄格子がまったく目に入らない。ヤツらの99パーセントを占める人民を支配するのに、自ら手を汚さない。みごとな完成形を実現した。
 このような支配システムを持ったヤツらに対する闘いは、おいそれとできるものではないことは明らかだろう。ヤツらの新秩序というは「圧倒的な質と量で相手を凌駕する」ものだ。
 一度ロシア革命で実現した人民の権力が自滅した背景をみたときに、ヤツらの世界と歴史から消滅する危機を感じて、猛烈な反撃を展開して革命陣営を封じることに至ったのだ。何千年もかけてあみだした支配の奥義は、やることすべて初めての革命陣営を封じるのにたやすかったのだ。革命陣営は一度勝って舞い上がった。
 ヤツらの老練な策をなめてスキをつくった。理論武装での成長を実現できなかったことだ。

●ヤツらの支配システムの弱みを狙え
 言うまでもないことだが、たとえいくらヤツらの支配システムが盤石であろうと、人民が歴史的にいつまでも悪魔のようなヤツらの奴隷であっていいわけはない。ヤツらには致命的な欠点がある。
 99パーセントの人民を奴隷化に置くことなど、いかなる理由をつけても許されない間違いだからだ。ヤツらは優れた支配システムという方法論はもっていても、目的が間違っているのだ。人間の心を欺瞞で永遠に閉じ込めておくことなどできないからだ。ヤツらには生きた人間の感情を知ることがあっても、人間の生命と意志と尊厳ということが全く理解できない。
 闘う人民はヤツらのこの致命的な欠点をつく必要がある。ここに人民側の勝利のキーがあるといってもいい。人民側がこの点を離さずに戦いにいどむかぎり、最後は必ず勝つ。
 毛沢東は「文化大革命」を提唱した。それは、人民の逆側のブルジョアジーの反革命の動きに対して手をゆるめずに、たとえ一時的に敗北することがあろうが、勝利を手にするまで繰り返す必要があるという指摘だ。文革はヤツらにひどい汚名をつけられて敗北した。だが、人民側はヤツらの隷属から解放するという決意は生きている。
 では、現在人民側はどうするべきなのか。ほとんどゼロからの力の構築、それはどうするべきなのか。過去の歴史を学び、ヤツらの支配システムを掌握し、ヤツらの弱点を利用した現時点の闘いはどうあるべきなのか。
 それは人民自身の現在おかれている状態を理解し、ヤツらからさりげなくそうさせられている欺瞞を少しずつでも改めていくということが求められる。
 敵に対して闘いながら自分自身の内からの改革がなければ進まない。とてもつらいことだが、これをやらないでは進まないのだ。では何が人民内部の強いられた欺瞞なのか。
 まず、状態を掌握し分析して理解するときに、問題の状態を生じさせている主因が主敵たるヤツらの企みと行為によること、主敵に対する理解をすすめることだ。
 主敵は「①国際金融資本とグローバリズム企業、②王政特権階級、③バチカン一神教と原理主義、④彼らが操る諜報機関、⑤帝国軍、⑥カイライ政権」。これが明確になれば、情勢は理解できる。6つのものを関連ずけてきちんと理解することである。
 日々ニュースになっている現象をこの点から見てみて、周囲に本質を語ることだ。それらが人民を奴隷にしていることが前提で起こっている事象として、自分が理解し、周囲に語れることである
 また、周囲の事象について、自分との関連で突っ込んで認識するときのポイントとして、①ひとを不愉快にさせたり、迷惑をかけないこと。②カネの盲者、欲の盲者にならないこと。③子孫に負荷をかけない、未来にツケをまわさないこと。④戦争の禍根を解き放つこと、他国へのよけいなお節介をしないこと。⑤人間の尊厳をもって生活できるようにすることへの貢献」がある。
 つまり、ひとりの人間としての信条として否定しえない当然のことだ。これは人民としてであれば、否定しえないだろう。ひとつでも違うというのであれば、まずスタートとしてそこから認識の統一が求められる。このことで統一できなければ、ともに闘い抜くことはできない。逆にこの5点できっちりと一致できれば、最後まで闘い抜くことができる。
 安倍のいうことをまともと思っているような思考の偽善者には、絶対にできないことである。
 ただ、問題はここまででは、入り口に過ぎないということだ。困難でつらいのは、それからだ。つまり自己の欺瞞との闘いだからだ。
 欺瞞とはいろいろあるが、仕事で、行動で、5つのポイントを貫くことだ。現在の仕事は本人の思いとは別に、実は世のため人のためと思わせながら、人民自らを支配する歯車として自分の働きが作用しているという事実だ。これを否定せずに、事実を認識することから始まる。
 歯車の役割はピンからキリまである。ヤツらに力を貸しているということを認めるのはつらいが、事実だ。それをすぐに止める必要はない。力関係である。それに応じて役割を徐々に少なくするとかはするかもしれないが、止めるのは人民権力ができる度合いとのタイミングになる。事態を認識するのがさきで、本人がどう歯車としてかんでいるかに気づくのが先である。この問題は気づくことがゴールだといってもいい。
 ヤツらの機構の歯車に人民のほとんどが噛んでいる、しかも実行部隊の奥深くまで。これは、逆に多くの人民がそのことに気づいて互いの実情を知るということであり、いざとなったときに決定的な力になるということだ。
 ヤツらの息の根を止めるのはそうした意味でも十分に可能なのである。もともと、ヤツらは寄生虫だ。ヤツらに育成された1パーセントの特殊な人間にたより、マインドコントロールでダマした人民を支配機構に組みいれて人民を支配している。幸いというか、人民自身がこの仕組みに気づいたならば、ヤツらの機構としても機能しなくなる。
 自分がいる場所で、自分が業務とするその内容で、5つのポイントを貫く立場から、そのときどきの条件と情勢の中でできることをしていくのだ。おそらくそうとう長くなるそうした矛盾のなかでの行動を、同じ志をもつ仲間とともに少しずつ変えていくことになる。これが職場で地域でまとまっていくことが量的な蓄積だ。量的な蓄積は何かきっかけを得ることで、得たときに劇的な質的変化、つまり力関係の逆転(革命)になる。いっきに矛盾を解決する。
 ヤツらの力(権力)と人民の力(権力)が入れ替わる。ところどころにそのような場が発生する。二重権力だ。ヤツらの歯車は狂い、回らなくなる。寄生の場を失う。
 多くの場所で、人民同士のいがみ合いや対立やおとしめあいが止む。どこでも同じ主敵を認識する。たとえば、原発は止まり積極的な廃炉をすすめる。米軍基地で働く現地の労働者がいなくなる。遠くへの食糧の送り出しをやめる。NISAなどギャンブルへの誘いに見向きをする人がいなくなる。いくらあおろうが悪魔やゾンビおどりに参加しなくなる。等々の減少が起こり得る。
 ロシア革命のときに多くの帝政の兵士が革命派についた。カイライ南ベトナムの兵士もベトコンとの衝突を部隊あげて回避するようになる。戦闘したふりだけをみせる。カイライ政権に昼は尾っぽを振ったふりしながら、夜は人民権力の側の行動に参加する。知恵あるものは知恵を。物を。資金を人民権力の構築に寄せた。このようなことが実際に起こった。
 それは、人民の主敵を許さないという思想がさまざまな人民自身ができうる策を生んだものであり、強い意志が求心力で実現したものだ。
 ヤツらが組み上げた巧妙な支配システムの裏をかくのは、人民自身の知恵しかない。徹底的な弾圧は幾度も襲うであろうし、局所的には多くの敗北をするだろう。だが、経験と敗北は知恵を生む。たとえいくら盤石でも、ヤツらには義がない。人民は被支配者としての立場は変わらないばかりか、邪悪なヤツらは数十億人を「無駄飯食い」として抹殺し、5億から20億程度までの地球人口にしようとしている。当然20億でもたかが知れた数のヤツらには奴隷として十分すぎる数で、管理もしやすいとのたまう。
 あまりにも人民の生命を軽視する悪魔のようなヤツらの支配下で、人民は闘ってこれ以上失うものは持たない。人民の意識次第で未来は開かれる。何千年かでしみついた隷属根性は捨ててしまって何の損もないのが、置かれている人民の地位だ。

●人民権力に課せられた課題と決意
 人民が再び権力を握ったときに、現在のブルジョア権力と同じようになってしまうと、中国やロシアや北朝鮮での社会主義の実例をあげて批判することがある。これは確かに要注意だ。つまり、国家権力が敵と闘う暴力機関としての道具であることを、人民自身が忘れ去ったときの結果である。
 仮に過去の経験から何も得ずして権力を握ればそれは新たなブルジョア権力だ。ゆえに、絶対にその権力は再び新たな人民による革命のしっぺ返しにあうのは自明の理だ。人民の権力は何をめざすのか。人民の権力はどうすることで廃絶するのか。原発を廃炉して地球上から永遠になくすことと似ている。
 人民自身が世の主人公であることを現実の政治や生産活動に反映させる政策・ビジョンを徹底的に明らかにしなければならない。これがともなわなった人民権力でなければ、権力の維持すらできない。TPPではあるまいし、人民自身の利益になる未来や政策をはなすのに、何の秘密もいらない。どうどうと人民に世界の仲間に話しかけるのだ。偽善を配した権力のあり方を、それこそ、すべての人民の間に論議を喚起し参加させて明らかにする必要がある。その決意と能力が試される。人民はばかではない。かならず解決を見るだろう。1984で描かれたことにそのままなるのであれば、それは未熟なのだ。出直しが必要。
 人民による革命が成功しても、人民は支配者がいなければ生きていけないんだとか、人民は支配者の行き過ぎを指摘はしてもしょせん自らの管理能力は持っていないのだ、だからただの愚痴に過ぎない。やっぱり悪魔のような側面をもつかもしれないが、ヤツらの支配を受け入れるべき、という主張に飲まれてはならない。これこそ奴隷根性そのもである。
 人民の権力とはいえ、それ自身の絶対的な矛盾をはらんでいるという問題を、正しく見れないという弱点を軽視してはならない。権力は言うまでもなく暴力装置だ。暴力や武器はそれ自身が危険なものだ。刀や銃と同じで、それを道具として使うものの目的によってすべてが分かれる。
 人民の権利と自由と利益を侵害するものと戦うという目的で使うためのあるのが、人民の権力だ。敵に対して使用する。これが本末転倒で人民の方向に向かったなら、人民はそれと闘うしかない。
 人民の権力は人民を奴隷として支配しようとするヤツらが生存している限り続けられる。ヤツらが地球上から消滅したら必要がないので、消滅させる。このことを人民の総意として、人民同士の強固な信頼を持ち、確固として守り実行する意思があってはじめて実現できる話である。
 権力=国家を否定する理想をかかげるものが、人民の権力の樹立を目指すのは根本的な矛盾ではないのか、と反論してくる。権力嫌い、権力拒否、権力絶対反対という意見がある。人民権力といえどもいったん権力ができれば、ひとりあるきで再び人民支配機構になるのは必至ではないのか。等々、人民の権力思想を認めたくないという考えは、以前に権力闘争に参加したひとの中でも根強くある。
 繰り返しになるが、オーエルの1984がまさにそれなのだ。実際にロシアをはじめとする社会主義革命の経験は自壊し実証はない。しかし、実際に存在するヤツらの強力な権力支配に対して、それを打ち破るという意思が残されているのであれば、他に政策があるのかといいたい。
 ないのである。過去に論じられたように、選挙で多数を取ることなのか。それこそ惨劇に終わった経験だけなのだ。
 ヤツらの暴力的な支配に対しては、それを容認せず闘うしかないであろう。そのときに、①人民権力を人民支配の道具にしない。②道具にしたときは人民から敵として放逐されるのを認める。③人民支配の圧政からの解放のためならその成就まで繰り返す、という当然のことを宣言し行動する勇気が必要である。これを持たないものに闘う資格はないといえる。
 また人民の権力といえども、未熟で至らず失敗や過ちもある。生き物であり運動体であることに当然存在する性質ものだ。そのときに、素直に軌道を修正していく。そのようなことを根底にすえたものでなければならない。過去の運動の歴史では、多くが自己の虚栄、欺瞞で自滅してきた。

●インターナショナリストでなければ闘えない
 権力は国家権力ともいうように、国家という概念と切っても話せない。世にあふれる政治の話題記事には「国家」ということば、「日本」ということばがあふれる。日本人であることの誇りとか日本人の生命と財産を守るのが政治とか、憲法論議でもベースに日本国家がある。
 結論からいえば、国家という枠、日本人という民族のくくりは、もともとは地球支配勢力が世界人民の分断支配の道具として固定化したものだ、ということ。その本質を知るならば、固定化して論理の前提にするのはヤツらの思考の罠に陥っていることがわかる。
 米国国務省が地球中どこでも自分の庭だとして憲兵面している。またTPPでは国家の上にグローバル企業があるのを隠していない。主敵のヤツらが国家や民族の壁をはるかに超えてうごめいている。それに対して人民は分断支配に甘んじて、反米、反安倍を論じているのは、これ自身がすでに問題なのだ。
 米国が育成して中東に放ったISは、国々の国境を無視している。米国を乗っ取っている同じ主敵が安倍を動かしているのだ。安倍のやることなすことが国際的な戦略の一環なのである。だから安倍への反対が当然国際的な視点からなされなければ無意味だ。
 敵が超国家超民族としてすべての支配の手を打ってきているのに、被支配者の抵抗が「国益をまもるべき」「日本人として許せない」と闘っている。まったく焦点があわない構図だ。
 つまり、人民として敵と闘うというときに、国や民族で分断された状態のままでの闘いは、最初から負けが決まっているようなものだ。ヤツらによって分断されている世界中の人民は、さまざまな違いをもってるのは当たり前のことだが、同じひとつの支配者連中の圧政にあっているという点では同じだ。
 現実としての民族のさまざまな違いを認めながらも、人民の利益としての一致、主敵が同じという事実は重大である。ゆえに、主敵と闘うのであれば、まず国際主義者であるこという立場をはっきりさせなければならない。
 国際主義者、インターナショナリストであることをいうと、人民の国際的な利益、世界共通の被支配者として闘うという性質を、民族主義者は全く理解できない。人民のために考え闘うものを「日本の国益を考えないヤツら」「結局は外国の大資本家に貢ごうとしている」という妙な言いがかかりをつけてくる。
 ヤツらのマインドコントロールで「日本国家第一」「日本人第一」と国家や民族の壁という収監衣を脱ぎ捨てられない人間の言である。
 自衛隊や国防の問題を全面的に論じるなら、上記でとりあげたことを視点としなければ、半端な論議になってしまう。

◆「安倍が許しがたいことをやっているのに、ジャーナリズムはなぜそれを暴かないのか。日本のジャーナリズムは死んでいる」のではとはそうなのか
 NHKは最近政権与党に批判的な意見を出さなくなった。朝日などは反対派の意見も併せて掲載するが、読売や産経は一方的な意見をだけ出すようになった。インターネットで見ると外国では普通に報道していることが日本では報道されないことが多くなった。安倍政権を支持する要因がないのに、アンケートなどで支持率が異様に多いのは不自然だ。等々マスコミが政権与党の一方的な広報機関に成り下がっていることへの、人々からの不平を最近多く聞くようになった。
 「安倍が許しがたいことをやっているのに、ジャーナリズムはなぜそれを暴かないのか。日本のジャーナリズムは死んでいる」という。
 これらの指摘は最近の傾向をよく示している。日本のジャーナリズムの真実度の低下は「報道の自由は世界で大きく低下、日本は61位に後退」という国際ニュースのタイトルに表現されているといっていい。
 結論として先に言えば、報道機関の主要な役割は時の政権の広報誘導機関なのだ。ヤツらが支配する国家権力下での「報道」はヤツらの人民支配を強化維持することに奉仕するのが主要な目的であって、それをジャーナリスムとしているのだ。
 ジャーナリズムとは1984を書いたジョージ・オーエルの言にあるように「為政者が突いてもらっては困ることを報じる」ことだ。つまり、人民にとっての真実を語ることだ。
 ジャーナリズムに関与して働いている人は、このことを常に忘れず実行することが仕事と考えて間違いない。権力におべっかをつかすとか、権力を擁護するのもときには必要なのでは、と考えるようなものは即刻その世界から去るべきだ。
 日本や米国のマスコミは真実をさも報道しているように勘違いしている傾向がある。報道の自由をときどき叫ぶ。だが、それは間違いだ。日本や米国のマスコミにジャーナリズムはない。報道の自由などただの幻想に過ぎない。
 ヤツらの人民支配にとって、むしろマスコミは欠かせない重要な機関だ。被支配者たる人民が奴隷である現実を少しでも知ってしまうようなことは、絶対に報道してなならない。逆に人民が奴隷に甘んじる考え方、奴隷根性をてんこ盛りして、それを報道とよぶ。
 読者・視聴者がさまざまなニュースを利用して、人民が隷属を当然視し、ときに若干の欠点だあっても、ヤツらの支配を受け入れる以外にないという「考え方」が定着するようにしむける。徹底的に思想教育、マインドコントロールの道具として利用している。
 報じられたことを真に受けるように仕向け、それを聞いた人民が周囲でそれを話題にし、周囲がそうした観点で知識をひとつにするよう誘導する。
 米国がイラクに混乱を起こし、国主フセインを抹殺し、政権をオレンジ革命・アラブの春とか美化して転覆し、邪悪な地球支配を広げようとしたときの動きで、マスコミをどう使ったかをみてみるとそれがあざやかに浮かび上がる。
 イラク内部に対抗勢力があるように報じる。それはCAIなどが内部に入れ込んで謀略をして混乱を起こしたのだ。フセインを悪の枢軸とあらぬことをなすりつけて悪人イメージを広げる。
 911を自作自演する。テロリストはアラブのイスラム原理主義過激派と報道する。それを育成しかくまったのはアフガンだとして、正式に侵略する。テロリストを支援している国家としてイラクをあげ、大量破壊兵器を持っているということにする。
 クライシス・アクターに演じさせてイスラムの非道をマスコミで流す。クエートの娘に演じさせて敵の卑劣さを強調する。別のところの古い石油まみれの鳥の映像を流して、敵が海洋を汚染していると非難する。
 イラクにまで米軍を侵略させる。その正当性をマスコミが報じる。こうしてイラクはヤツらに無茶苦茶にされ、国主まで殺害された。
 それらが全部でたらめて、嘘であったことが後でばれた。だが、嘘を報じたマスコミはおろか、表のブッシュらはもちろん、ヤツらの陣営でだれひとりとして罰せられなかった。何万もの人を殺傷し、クニを無茶苦茶にして、それを実行した主犯は誰の眼にも明確なのに、だれひとり犯罪の責任がとわれないのだ。
 ヤツらの横暴がなぜ問われないのだ。それは地球支配者たる人民の主敵が犯行をくわだて、行動し、報じ、まだ目的は達していない現在進行形として扱い、事実上うやむやな状態で終えようとし、それを目くらましされた世界の99パーセントの人民が許しているからだ。
 ヤツらに都合がいいように、常に誘導記事を書いて99パーセントを信じさせて、ヤツらの悪辣なもくろみを現実化している。中東は今現在もヤツらが描いたように混乱が深まっている。
 ここで果たしたマスコミの役割はあまりにも罪深い。だが、マスコミやヤツらのジャーナリズムの果たす役割をみるなら、当然の任務を自然にはたしているだけなのだ。ブッシュらの極悪非道を横で弁護し、あれほどの犯罪をこぞってうやむやにしたのだ。
 日本のマスコミもヤツらの手下だけに、同罪だ。安倍が政権について犯している人類に対する大犯罪を、横から多くの人々の目の前で擁護し続けた。秘密保護法、戦争法、マイナンバー、原発再稼働とすべて権力犯罪の一部をになった。
 再度結論を明確にする。マスコミは権力の重要な一角だ。つまりヤツらの権力。ヤツらの権力に期待したり、幻想を持つようなことは、人民側の見解ではない。
 マスコミのシステムは資本主義の当然のルールのように感じているだろうが、広告が常に伴うようになっている。広告の収入源をコントロールしているのは世界最大の電通だ。会社、編集部、記者の首根っこを押さえている。そのヤツらの大事な機関に幻想をもつ必要はない。
 真実の報道などは人民側の権力が責任もっとなすべきことである。それはいうまでもなく、人民自身側に向けておこなうことだ。ヤツらが日々行う蛮行、犯罪をくまなく、人民の眼で、真実を人民に知らせることだ。ヤツらの犯罪を徹底的にあばくのだ。
 現在の安倍らカイライ政権の一角をになうマスコミに対して、真実を報道しろとゆさぶり、追求するのはいい。しかし、絶対に幻想や期待を持ってはならない。
 ヤツらが少ないが十分な数の奴隷を完全管理下において安定的に支配した世(千年王国、新世界秩序)を築くという悪魔の邪悪な夢を抱き、そのために行動を計画する。一つ一つの作戦目標を作っていく。先の例ではイラクのフセイン(リビアのカダフィでもいい)を亡き者にする、という場合に、ターゲットを「悪のかたまり」のような悪人にしたてなければならない。同時に悪は正義によって叩かれ、殺されても当然、場合によっては犠牲があっても仕方ないという雰囲気を作らねばならない。
 このシナリオが先にあってマスコミを使ってキャンペーンが展開され、実際に実行して殺害するのだ。ニュースの形をととのえるために、ヤツらがアルカイダ(ISも同じ)を育成訓練して資金と武器を与えて現地に向かわせ、暴れまわさせる。戦闘機やドローンや爆撃機をとばして空から、戦闘部隊は地上から攻めている風景をニュースにする。時には別途撮影した架空の戦闘を報じる。
 月着陸と月面探査のとき、現在の火星探査のときの映像と同じだ。現時点のマスコミがやっていることは、ヤツらのシナリオで描き作られたものだ。真実はニュースの中身ではない。ヤツらの重要な人民誘導機関としての役割のことだ。映画「マトリックス」のようなものが作られた背景にあるものが、決してただの仮想なのではなく、ヤツらが人民にたいして現在行っていることなのだ。
 最近のマスコミは大政翼賛会の報道機関として口をそろえている。現政権である安倍カイライ暗黒政権の痛いところを突くことはしない。だが、日刊ゲンダイとかネット上では「痛いところ」を躊躇なく暴いているのも存在する。
 地球を支配するヤツらの横暴、それに金魚のフンのように周囲で人民いじめを実行する安倍らのカイライ政権。その様子を暴露している。マスコミ・ジャーナリズムに活を入れている。
 これはすばらしいことである。だが、彼らですら理解に苦しみ置き足を変えられれないのが、権力問題だ。権力の現象は追っても権力の本質を明らかにできない。ここに大きな限界がある。もちろん仮に書く人の意識があったとして、実際に書いたらたちまち葬られつぶされるであろう。
 ヤツらの権力はそれを許さないからだ。幸いというか不幸というか、背後には目くらましさせられている人民大衆の眼のまえに、そうした論調が表れたとしても、それを正面から受け止める人はほとんどいない。むしろ、危険思想としてそこから目をそらすのが普通だ。
 また、そうした論調を警戒の眼でチェックしようとして配置された末端の担当は、幸いにもヤツらの歯車として日常の仕事として割り切って処理するレベルの理解度でやっている。彼らもロシア革命の危険思想程度の知識と理解しかないことだ。
 だが、真剣に圧政に抗しようとしている人には伝わりわかる。面と向かって話をすれば理解できる。そのような話題まできっちりとつっこんで周囲に話すことが現段階における重要な闘いだ。分かるものは必ずいる。
 ジャーナズムや報道の自由などを論ずるときに、それがどういう現実なのかを断じた記者がいる。ニューヨーク・タイムズのJ.スゥィントンという記者が1980年に話したという名言(労働者の秘話:1955-1979で採用)がある。
 これほど率直に簡潔に公言されたことはない。
【世界史上、今日のアメリカに報道の自由などというものはありません。
それはあなたがたも私も知っていることです。
あえて率直な意見を書こうとする記者はひとりもいないし、たとえ書いたとしても、絶対に印刷されることがないことは初めからわかっています。
私が勤め先の新聞社から給料をもらえるのは、正直な意見を書かないからこそであります。
ここにいるみなさんも、同じことをして同じように給料をもらっているのです。
よしんば私の率直な意見が新聞に掲載を許されることがあったとしたら、私はその日のうちに職を失うでしょう。
記者の仕事とは、真実を壊し、公然と嘘をつき、真実を歪曲し、人を中傷し、富の邪神にへつらい、国と同胞を売って、日々の糧を得るものであります。
あなたがたも私も、それを承知している。とすれば、報道の自由に乾杯するとは、なんとばかげたことでありましょうか。
われわれは、舞台の陰にひそむ金持ち連中の道具であり召使いなのです。
われわれは操り人形であり、彼らが糸を引けば、それに合わせて踊るだけです。
才能も可能性も人生も、すべては他人の手の内にあります。
われわれは、知性をひさぐ娼婦なのです。】

◆「選挙で自民党を多数派から落とすしかない」のはそうなのか
 安倍らが戦争法案を混乱の中で強行に「成立」させたのは2015年9月。野党は違憲だと主張したが政権与党の多数にあえなく押し切られた。長期延長された国会で予想通り論議など深まらなかった。
 追及する方も的がしぼれず、安倍らの回答はころころ変わったり、同じことの繰り返しばかり。
 通った後は、安倍はもう済んだとばかりに、野党から逃げ回り続けている。宗主国で日本への命令をした米国(の戦争アルマゲドン一派)は、これで自衛隊が肩代わりして世界の憲兵をやってくれる、中国との消耗戦争に近づけたと満足している。
 そうしたなかで、日本国内での安倍反対派である人びとのなかに出てきた意見は「選挙で自民党を多数派から落とすしかない」ということ。さらに共産党は「反安倍、戦争法廃止で野党の選挙協力を、戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府の樹立を」と呼びかけた。強調する野党があるのなら、一時的に、自衛隊をみとめるとか、安保の存在をみとめるとかの立場をとってもいいという。
 確かに、単に安倍に選挙でかつというだけでなく、共産党の主張は具体的に野党の選挙協力を呼び掛けたところに特徴がある。候補者の具体的な制限と統一の数字をみれば、反安倍で勝利できる。
 だが、安倍を倒すと意気込んでいた他の野党は「共産党とだけは組めない」「ほかのことでの政策がかけ離れすぎている」などといって成立する可能性は低い。共産党は暴力革命の正当だ。民主主義を否定するもの。ネコの皮をかぶって、つまり口先で偽っている。言っていることが依然と違う、つまり今一定居る主張がいつ別に変るか知れたものではない。権力奪取に利用する気だ。政権ができてもまとまらず、すぐに自民党に奪い返されるだけだ。だから混乱をさらに拡大するだけの迷惑論だ。だから一緒にはできない、と散々である。
 ただ正論であることには違いない共産党の主張は、議会主義からの戦術としては世論の支持をえかねず、野党も気持ち悪いといいつつ懸念した感情をいだいている。
 安倍が議会で多数をもっているから、というのなら、議会で多数を反対派がとればいい。そうであるなら、共産党の主張に行き着かざるを得ない。だが、野党は屁理屈、言いがかり、中傷をして、この論議から逃げる。この構図では安倍には笑われるだけで、選挙で勝てるなどあり得ない。ガキやバカの世界だ。
 繰り返すが、ヤツらははるか前から大衆操作としてのマインドコントロールを完成させてるのだ。「力のない正論よりも力ある安倍に頼るべき」という流れだ。だから、安倍と野党を比べれば安倍が勝つ。野党と共産党を比べれば共産党が少ない。この構成は不動だ。
 不動なのは、この割合が実は先にあって、そのうえで世論や選挙が操作されているからだ。世論調査や選挙の結果をみて大衆はそれが「まっとうな状態」と安心を増幅するのだ。
 安倍の違憲、横暴なでたらめ政策、それを日々見ていても、世論調査や選挙結果はかわらない。911を自作しイラクに公然と侵略していく当時のブッシュの狂気の振る舞いを目の当たりにしながらも、世論も議会もこぞって許し認めた。たった一人の女性議員だけが反対しただけだ。後日「大量破壊兵器をイラクが持って…」というのはヤツら自身のでっち上げだったこと、「イラクへの侵攻は間違いだった」ことをヤツら自身が議会で発言しても、過去の遠い出来事とされ無視されていく。
 こうしたことに、矛盾を感じない。欺瞞を平気で許す。普段大声で怒りを飛ばす同じ人間がだ。それほど目くらにされているのだ。すでに人間としての政治感覚がそぎ落とされ、マヒ状態に慣らされているのである。深刻な病人状態。
 ちなみに、文化の日の勲章。旭日大綬章を911の主犯のひとりラムズフェルド元国防長官に、そしてジャパンハンドラーとして日本を現在直接牛耳っている手先の代表格のアーミテージ元国務副長官にさしあげた。
 安倍政権のあまりに露骨な行為。こいつらに人民は現在進行形でいじめられているのに。もうひとつ。ロシアがシリア政権を支持し、政権に敵対するとするISを一気に空爆した。欺瞞の米国は同じくアサドに敵対する反政府はを支援している。ロシアの空爆はISを叩いたらそれが反アサド派勢力だった(つまり、アメリカは反アサド派とISの双方をシリア混乱目的で送り込んだ)ことがバレた。ロシアに怒り狂ったアルマゲドン戦争一派はエジプト上空でまたまたロシア機を落としてしまった。安倍はこんな連中とつるんでいるのを隠しもしない。
 これがヤツらが敷いた民主主義であり議会主義だ。
 真実はヤツらの完全独裁だ。言葉通りの「民主主義」「議会主義」など片鱗もないのが実態だ。そのはかない幻想のまぼろしを夢遊病者のように夢見て信じ、選挙での勝利とか議会での多数をいうことなど、話にならない。夢の中で見ている夢にも劣る。筋斗雲で飛び回る孫悟空が手のひらの上かぎりで、手のひらが目に入らない状態以下だ。
 主権在民は思想であるが、ヤツらは真逆の独裁の道具としてその言葉を利用しているのだ。
 人民の怒りを人民自身が自己解決する方法を完成させ、その手法にぴったりとはまった状態で、どのようにそこにエネルギーを集中しようと、絶対に解決に至らないのだ。
 ロシアで一時的なりとも人民の政権が成立したときに、打倒されたヤツらは全世界の反動派連合をしいてつぶしにかかった。何千年も築き上げてきた地球支配の一角が崩され、下手したらヤツら寄生虫が消滅するかもしれないという歴史的な危機に瀕して、編み出したのだ。
 シベリア出兵をはじめ力での侵攻をして何万人もの犠牲を出したが成功はしなかった。だが、反共宣伝によってソ連=共産主義=悪の根源=人類の敵=独裁者=人権侵害=虐殺者=貧乏=ダサい等々あらんかぎりの誹謗中傷を加えた。特に民主主義・自由がない=議会制の否定という思想攻撃とあいまって、それへのはんぱくの準備がない人民権力側は負けた。自滅した。
 フルシチョフが屈服し鄧小平が裏切り宮本顕治が議会主義に転向した。つまり人民の権力思想を放棄した。この時点で人民革命派は総崩れして自滅消滅に至ったのだ。あとは現在の体たらくである。
 多少意見が異なる政党がいくつあってもいい。むしろ多ければいろいろな考え方や意見を幅広く反映させている民主主義的な政治であると宣伝できる。議会主義政党として共産党がいることはむしろ好ましい。議会主義運営に余裕と自信があるように見せられる。
 多数の野党がいるのはいいが、好ましいのは二大政党に集約し、定期的に政権を交代させることだ。大衆に蓄積する政治への不満を湯気抜きできるからだ。米国の民主党と共和党のようなものであれば、より安心できる。しょせん双子の兄弟であることを大衆には気づかせない。
 ところがあまり長く続くと、反対の力をおもんばかって停滞する、場合によっては空回りが続くことが起こる。安倍のようにときどき、多数にことよせてたまった案件を独裁的にまとめて裁かないとたまってしまう。安倍がやらなくても、時には都合のいい時だけ利用されっぱなしになることにたまる不満を爆発させるように軍部が政権に就く。クーデターのようなもので、国内反対派を軍事力で黙らせて、たまった案件を通していく。
 同じような作用で、反対派でも議会主義政党を信奉する共産党が中心の政権が選挙で多数になる可能性がある。この可能性は後述する理由でほぼないのだが、仮にあったらどうなるのか。
 まずあり得るのは、軍部によるクーデターである。力関係と掲げる政策による。急激な変革でなければしばらく様子みはゼロではないだろうが、緩やかな政策は他の野党の政策との違いが少ないということなので、容易に共産党以外の野党が多数になりやすい。大きな変化を急ぐようなら、即クーデターが起こる。
 一時的に日本でなら宗主国米国CIAらの謀略機関が主導した軍事クーデターになる。大量に共産党派は虐殺され、少なくとも政治生命を奪われ投獄になる。ヤツらは民主主義だ議会主義だというなかで共産党が多数になるようなことは、支配の失敗としてそれを選んだ大衆には厳しくお灸をすえる。見せしめのために、それを理由にいじめる。
 もちろん、議会主義なのだから共産党が政権を担当して困ることなど何もない。だが、政権について「豹変」して「資本主義は廃止する」などといいヤツらを裏切るようなことになれば話は別だ。これをほんとのクーデターと呼ぶ。
 だが、残念なことにそれは革命政権にはなりえない。真っ先にその政権に軍隊の主力がつかないで、逆クーデターとなる。基本的に新政権は「人民権力機構」を身近にも全国的にも背景としていないことだ。これが致命的でたやすくヤツらに逆転される。
 実際の例はチリでのアジェンダ大統領の当選後の悲劇だ。そしてインドネシアのスカルノ政権への大弾圧だ。いずれも計り知れない悲惨な打撃をうけた。米CIAの直撃謀略である。米CIAなどの主要な通常業務だ。躊躇のない惨劇、一瞬のできごとだ。
 共産党は暴力革命主義をやめて議会主義者になりきったのだと自己を宣伝する。それは間違いないのをヤツらは何十年の実績から知っている。だが「牙を隠している」というレッテル貼りははずさないばかりか、上記のような歴史的シーンでの役割のためにのみ泳がせられている。思想的に権力問題で転向した末路で、この宿命は永遠に変えられない。
 共産党が多数派になれない、選挙で勝てないというのは、もう一つ理由がある。
 選挙そのものが出来高管理選挙だからだ。選挙の結果は選挙前にあらかじめ決めている。だから仰天するような結果は起こらないのだ。911を境にしたその前ならまだしも、現在は新たなシステムも連動させていて、その運用にヤツらは十分な自信をもっている。
 ヤツらのマインドコントロールである「日本の民主主義と議会主義はすばらしく、公正で1票単位で正確だ」ということを信じきっている一般大衆には、にわかに信じられないことだろう。
 だが、おもてにでていることだけでもいくつも根拠がある。違憲が明白でも一票の差を改善しない政権、0票裁判、偽票書きを手伝ったとの証言、開票所での監視映像での偽票のリーク、不正選挙裁判、開票集計機疑惑報道、投票所から集計所への移送時投票箱すり替え事件等々。
 米国では大統領選挙が完全に出来高管理選挙であることがすでに議会でも証言によって暴露されている。選挙前からとうにだれが次の大統領かは決められていて、詳細な米国民だましのシナリオが作られる。それにそって、ニュースが演出されて流される。長期のムード作りをキャンペーンでする。かならずどこかの投票所でインチキ事件を起こす。開票が刻一刻と数字で報じられる。拮抗しているように報じる。フロリダ州などをそこの結果で決まるように盛り上げていく。際どいところで、一方の優先を報じる。劣勢が集計を待たずに敗北宣言を出す。それを見てやはり集計終了を待たずに勝利宣言をする。トラぶった集計所の集計をいくつか残し、その結果を待たない。あるいは開票のし直しを裁判等で争うことにする。だが、勝負はヒートアップした状態でつく。熱狂させられた大衆は、すでに実際の投票結果などに関心を持たない。集計も最後までしない。
 みごとに、シナリオに沿って大統領選挙というイベントは終わる。
 これを現在日本で安倍らはまねて実行しているのだ。投票率集計、選挙前投票の処理、マーキング方式の投票、各マスコミによる大勢調査、出口調査と結果への誘導は多数ある。多少の疑惑では「結果に影響がでるほどの差にはなりえない」などとして再集計や票の不正のやりなおしなど絶対にしない。偽票書きは外国人に日本語の学習とかいってだまして書かせたり、利権をちらつかせたり信仰を利用したりたくみにばれない逃げ口を利用しているという。
 安倍らの犯罪者一派が、理由もなく多数を得たのは、そのような管理選挙によるものだといってよい。インチキのすきを与えない方法はいくらでもあるだろう。だが、しょせんヤツら極悪支配者が人民支配のための手段として行う、だましのイベントである選挙に、期待などできるわけがない。
 少数派の意見をも尊重するなどということは、民主主義のたてまえとしてよく言われる。だがそのようなことが実例としてどこにある。辺野古基地問題をみてみるがいい。共産党は戦後だけでも何十年も少数派でガンバるが無視されてきただけではないか。ガンバる山本太郎はどうだ。
 俳優業でありながら政治に口をだすという一人の人間として当然すぎる行為を、しかも原発が人々を危険にさらしているという問題を口にしただけ。それを犯罪人のようにあつかわれ、仕事を干され、なら政治に正面から口出せばいいのだろうと議員になった。これ以上の少数派はない。かれが発言しても、安倍らの政治に1ミリも反映しないし、むしろ無視だ。
 「政治に口を挟みたいなら議員になれ」というふざけた言い分がまかりとおる。「だれでも参加できる」などといいながら、どんな選挙でも立つだけの資格を得るのに高額のカネをふいにする。ハードルは高い。
 そして当選したところで山本くんの例になるのだ。ヤツらはあくまでも、明治維新以来に特別に育て上げた安倍らのような1パーセントの、特別な集団による自民党に投票する以外に、意思を尊重しない。それをいやでもかとみせつけているのだ。
 議会でもタブーはある。そこで質疑で発言する内容なすべて事前に文書で提出したものしかできない。ヤツらにとって不都合な内容のものは発言してはならないし、文字にすることもまかりならない。何人かの議員が歴史的見て失脚させられ、場合によっては抹殺までされている。これが圧制下の議会主義の実態だ。
 おしゃべりの機関である議会でことは決まらない。独裁なのだ。安倍は一方的な宗主国の命令で動くだけ。それを、憲法や法律を無視して閣議決定で決めるだけだ。