山岳部体験記(2)
部員m

ここでしばし休憩。
疲れてうずくまる者、余裕の表情で口笛吹き鳴らす者など様々。そこから少し離れたところ、地図とコンパスを睨みつつ、ヒソヒソ密談している仲間2人の姿。私は、長旅にうちひしがれているふりしつつ、その会話に耳をそばだてた。
「あっちに行かなきゃいけないわけだから…」
そう言って彼らの見つめる先は、なんと広大な谷間の向こう、遠い山。え…あんなに遠くまで?
そして道なき道はどこまでも続く。よろよろ登ったと思ったら、すぐに今度は恐怖の下り坂、時折現れる断崖絶壁。上ったり下ったり滑ったりの繰り返しで、体幹が引きつけを起こしそうだ。腹の底でくすぶりつづける恨み節も、ここに来るともはや一つの調べと化して、私の歩みの拍を打つ。

「あはははは!tさん!靴!!ははは!」
押し静まった隊列から、突如笑い声が弾けた。みな何事かと覗き込むと、〈部員t〉の右の靴底の大半がベローンとはがれている。
「なんかパカパカ変な音するなぁと思ったら!!」照れ笑いする〈部員t〉。
笑っている場合ではない。とはいえ、このちょっとしたハプニングは、確かに面映く、そしてほのかに甘酸っぱく、それは私の緊張を一気にほぐしてくれた。
ところが、張り詰めた空気がゆるむ時、山崩れのように思いがけない事件が併発する。皆が笑ったその瞬間、私の視界から〈部員o〉の姿が忽然と消えた。
なんと笑って仰け反ったその勢いで…あ…〈部員o〉が崖側へ…落っこちる…!!!

「死ぬかも!」この先展開されるであろう一大事が瞬時に頭を駆け巡る。

それはつまり、突如桃色に染まる空。我々は天を見上げて目をまん丸にする。雲の上、たっぷりとした腹をなでながら、のんびりとした様子のお釈迦様が身をかがめ、おもしろさうに転落する〈部員o〉を覗き込み酒を呑んでいる。
我々一同おそれおののき、へなへなと崩れ落ちる。と、そこへ、さささと近寄るアシダカグモが、か細い声で「恐れながらお釈迦様。」
ほろ酔いですこぶるご機嫌なお釈迦様、愛らしいアシダカグモを大きな掌に招き、これにそっと耳を傾けた。
「あのお方は、いつぞや私が腹に子を蓄えて雨戸に身を隠していた折に、そこにいては危ないからと、この小さな命を救ってくださいました。どうか彼の善良なる心に免じて彼をお助けいただけませんか。」
これを聞いたお釈迦様は気持ちよさそうにゲップをしたのち「善きかな」と一言、戯れにアシダカグモをくすぐると、アシダカグモは「あははは、やめて、やめて、お釈迦様、くすぐったい」と、これに堪えきれず尻からツィーっと銀色の糸を無限に吐き出す。
それはみるみるうちに地上に届き、瞬く間に〈部員o〉の目の前へと、きらきらと輝いて揺れながら「はやく、私に捕まって!」
…なーんて事はあるわけなくて。

現実はこう。伊達に自顕流で身体を鍛えているわけじゃありません。〈部員o〉はとっさに木を掴み、そこを支柱にして、ぐるんっ!!!
落ちる重力を浮力に転化し、アクロバティックに一回転すると、澄ました顔で元いた場所に見事に着地。
見ているこちらは心臓が止まるほどびっくりしましたのよ。

靴は壊れるし、あわや奈落の底に落ちそうになるし。山岳部全部員に告ぐ。油断は禁物、笑いの暴発一つが命取り。
「帰りたい…」と思っていたあの頃が懐かしい。もう引き返せないのは分かっている。諦めて、心を無にしてゴールを目指す。諦めとは、明らかに極めるということ。
そうすると、重たい足取りに反比例して心は軽くなっていく(ような気がする)。掻きわける草木の音が前より大きく響いて感じる。足が地面を踏みしめる感覚の違いを(柔らかいだとか固いだとか)何となく面白く思い始める。虫になるのだ。どんな斜面もワシワシとよじ登る、虫の気持ちになるのだ。ふかふかとした土に全幅の信頼を置き、めちゃくちゃに生えている草や行く手を阻む石ころを物ともせずに、ただひたすら前進する虫に。なるのだ。

つづく