その他みんなの言いたい放題 【その7】mai
船は俺の城。洗浄機が俺の恋人

テキーラ祭にちょいと顔出し、ほろ酔い気分。実家までの長い道のり、話し相手もないことだから「言いたい放題」やろう。

学生の頃、2年ほど船での皿洗いバイトをした。
ちょっとしたコンサートや結婚式もやれちゃうくらいの大きさのクルーズ船の底が私の仕事場だった。
朝、波止場に立って、船の到着を待つ時間はたまらない。毎回、旅人になったような気分に浸る。遠くに豆粒みたいに見える船が、みるみる大きくなって、ゴツイ男たちが綱をポーンと投げて船を港に繋ぎ止める。船の脇腹の小さな扉にいそいでハシゴをかけて乗船、コックさんやウェイトレスの女の子たちにペコペコしながら細い通路を通過し、まずは大ボスに挨拶に行く。

大ボスは大抵控え室の床にデンとすわり、半分ずり落ちた眼鏡にくわえ煙草、タオルをギュッと頭に巻いて作業表を睨んでいた。その姿は競馬場の爺さんにしかみえない。実際、本当に競馬新聞を読んでる時もあるし、医者から貰った処方箋をじっと見つめている時もある。
二言三言、言葉を交わす。ろれつが回ってなかったら、その日の仕事は用心して取りかからねばならない。そうじゃなかったら今日は「まだ大丈夫」という事。
みんなが大ボスをアル中と呼んでいた。といっても、私がヨーロッパに住んでた頃に見た本物のアル中と比べたら、大ボスはアル中の赤ちゃんみたいなものだ。

船が動き出すと大ボスは大きな洗浄機の前に立ち、私達がエレベーターで運んだ数え切れない数の皿を、洗浄機のベルトコンベアーにじゃんじゃん並べた。グラス類の下げ物がどっと来ると、飲み残しの酒を飲みながら仕事する。ホールの女の子が時々無邪気に酒を持ってくるもんだから、ニコニコして飲んでしまう。
で、瞬く間にぐでんぐでんになり、ちょっとした事で大声あげて怒るようになる。ホールの人と喧嘩する。洗い場の人間も理不尽に激怒される。
一度千鳥足になって船から落っこちた事があるという噂話も、すんなり納得してしまう、そんな泥酔っぷりだった。
「今度酒飲んで仕事したらクビ」と、船長から幾度となくレッドカードを出されていたにも関わらず、一向にクビにはならないし、酒を飲むのもやまなかった。私には知り得ない大人の事情か情かがあったのだと思う。

私には持病があって、今は症状を抑えるために定期的に声帯に注射を打ってもらっているのだけれど、当時は病名の何であるかがまだ判明しておらず治療法も分からなかったため、四六時中声が震えてしまう事に悩まされていた。
アル中で呂律がまわらない大ボスと私とは、発声のコンプレックスという共通点で結ばれて、出会った当初から何かしら暖かい情が通ったのだが、私が酒飲みだと言う事を知ってから、大ボスはますます私を可愛がってくれた。
泥酔してしまうと怒号の矢は私にも否応なく飛んできたけれど、朝会った時、「お。酔っ払いめ!昨日も飲んだか?」と声をかけてくれる感じには、同じ穴のムジナ的愛情が込められていた様に思う。

そんな大ボスと、一度だけ飲みに行ったことがあった。場所は忘れてしまったけど、東京の西の何処かに住んでいて、行きつけの旨い焼きトン屋でご馳走してやるというので、船が夕方までの暇な日に一緒に飲みにいった。
行きつけというのは正しいようで正しくなくて、正確にいうと、そこは出禁を免れている唯一の居酒屋だった。体を壊しているから、大ボスは酎ハイかハイボールしか飲まないけれど「どんどん飲め、好きな物を飲め」と言って嬉しそうな顔で私が焼酎ロックを飲むのを見ていた。自分は食べないのに、焼きトンをじゃんじゃん頼んだ。お店のお母さんは優しい人で「この人とは本当に長い付き合いなのよ」と微笑んだ。
二軒目は、人生初のフィリピンパブへ。お客は我々だけで、可愛い女の子がタバコに火を付けてくれるので私は照れくさかった。大ボスはだだっ広い店の一番奥に行って、暗がりの中、何故かみんなに背中を向けてカラオケを歌っていた。

今回のタイトルの「船は俺の城。洗浄機は俺の恋人。」というのは、その時大ボスが泥酔しつつ吐き出した言葉だ。仕事中どんなに酔っ払っても、大ボスは、あの膨大な量の皿を毎日きっちり所定の場所に戻した。いつも綺麗な仕事をしていた。

毎晩酔っ払って一人暮らしで危ないので、ガスコンロもガスストーブもない家に住んでいる、と言っていた。映画が好きで、ハリウッドのアクションものを見ながら途中で寝るのが幸せなのだと言っていた。
あれから10年以上たったから、大ボスも、もう70代か。きっと何十年後かに、あの世の何処かの赤提灯でばったり再会するのだろう。

大ボスの下に中ボスがいた。
40代後半くらいだったが、赤ん坊みたいに澄んだ目をしていて、それがかえって300年くらい生きてる様な不気味な印象を与えた。余計なお世話だけど、あれは、見てはいけない物を見てしまった人の顔だと思う。
雑念がないのか雑念しかないのか、とにかく驚くべきシンプルな思考回路の持ち主で「とにかくこの世は金ですよ、ははは。」と笑う時に覗く歯が、やたら白かった。その歯を褒めたら、木の枝で磨くんですよ、先端を噛んでブラシにして、と言って、口を「イー。」と開いて見せた。

長年アフリカに住んでた中ボスは、蛇に噛まれたり腹を下したりした時の対処法を教えてくれた。彼がいない間に、日本は随分便利になったという。街がコンビニだらけで驚いたよ。それにね、蛇口をひねれば水が出るなんて。彼はホースで洗浄機を洗いす度に喜びを噛みしめた。
アフリカで何をしていたのかを知る者は一人もいなかった。聞いても「金ですよ」とかいって笑うだけで、何となく禁断の匂いがしたので、それ以上は誰も追求しない。

そんな中ボスに、ある日恋人が出来た。どこで知り合ったか忘れたけれど、バツイチ子持ちの女だという。子供が寝た時間に外で会って、物陰でキスするんだと自慢した。なのにこの前子供に見つかっちゃって、ははは。結婚したいなんて言われてて、困っちゃうよね、ははは。
一緒に働いていた男の子には、うんざりするほど自分の性豪っぷりを語っていたそうだけど、私が聞かされていたのはやたらロマンチックな話ばかり。きっとどっちも本当なのだろう。
その浮かれっぱなしだった中ボスが、今日は塞ぎ込んで難しい顔をしている。聞くと、もうすぐ彼女の耳が聞こえなくなってしまうのだという。耳が聞こえなくなったら、まだ子供も小さいのに、どうすればいいんだろう。仕事はどうなってしまうのだろう。そして、分かりますか、耳の聞こえない世界というのは、目の見えない世界より、ずっと怖いですよ。私は暗闇は知ってますが、音のない世界は知らないですから。

その後二人がどうなったのか、私は知らない。幸せだったらいいなと思う。