【その33】 |
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書店に行ったら、店の婆ちゃんがピンク色の西洋ツツジの鉢植えをくれた。 ちょろっと仕事して、一時半に上がる。 またまた声帯注射だ。私は「痙攣性発声障害」という病気なので、半年に一回位、喉に注射してもらう。それから暫くは、蚊の鳴くような小さな声。それは大変欲求不満な期間だ。酒場で大人しくしてなきゃいけない。「ばかやろっ!」とか「だめかしらっ 」とか「いいと思うよ」とか「代行呼ぶよ」とか、言っても誰の耳にも届かない。 だから今回は、事前に欲求不満を解消すべく、注射前の一週間、夜を突き破る程に飲んで騒いでやった。肉も魚も何でも食べたし、飲める酒は何から何まで飲んでやった。終電が開始のゴングだ、くらいの気持ちで臨んだ。 そしたら、流石に満足した。腹の底から満ち足りた幸福感が立ち上ってくる。 病院の先生は、ちょっと色気のあるイイ男だ。声帯注射をしてくれる先生は数える程しかいないそうで、出会った先生がイイ男でラッキーと思う。 最初、もくもくと煙る麻酔薬を吸う。出来るだけ麻酔が効いて欲しいから、深々と吸い込む。その後、先生の所に行って、今度は鼻から管を通して、魅惑的なピンク色の液体を少しずつ注ぎこんでもらう。これも麻酔の役目を果たす。 注ぎ込んで貰いながら「いー」と言う。そうすると、流れ込む時に、うがいのように空気と混ざってブクブクいうので、液体の滞在時間が長くなる。麻酔が効いて欲しいから、これまた頑張って、「い〜、い〜」と言い続ける。 そしていよいよ注射。鼻から入れたカメラで中を見ながら、喉から刺す。ちゅっ、ちゅっと、あっという間。声帯は二個あるから、二箇所に。一瞬、喉がズンと重たくなる感じ。 初めてやってもらった時には、釣り上げられた魚のような気持ち、恐ろしくて体液漏れそうだったけど、今はへっちゃら。左右の耳から気化した脂汗シュッと放出する程度。 注射された日は喋ってはいけない。喋ってはいけないと言いながら、もうすぐ病院引っ越すから〜と説明する先生に、心の中で毒づく。注射の前に言ってくれ。 病院を出て、繁華な道を歩く時は、いつも不思議な感覚に包まれる。ザワザワとした音が遠くに聞こえる。持っていた紙袋をふと覗き込む。婆ちゃんに貰った西洋ツツジ。なーんだ、こいつも喋らない。 喋ってはいけないというのは面白くて、そうなった途端に体内に言葉がアドレナリンの如く迸る。すっごい悪巧みとかするなら今だな、と思う。うっかり口を滑らす事もない。無邪気で不穏な、何らかの企みを。 そんな訳で、暫く無音で、皆様ご迷惑おかけしますが、おでんのご注文はいつも通りお申し付け下さいませ。21日までには回復するといいなぁ。 |