1937年ソ連、モノクロ105分(1:44:56)
制作:モスフィルム
原題:Ленин в Октябре
脚本:「蜂起」アレクセイ・カプレル
舞台監督:ミハイル・ロンム
共同監督:ドミトリー・ヴァシリエフ
撮影:ボリス・ヴォルチェック
美術:ボリス・ドゥブロフスキー=エシュケ、ニコライ・ソロヴィエフ
音楽:アナトリー・アレクサンドロフ
録音:V.ボグダンケビッチ、A.スヴェルドロフ
助監督:I.シムコフ
カメラアシスタント:I. elein、E.Savelyeva
メイク:A.エルモロフ
編集:T.Likhacheva、E.Tobak
管理者:I.Vakar、N.Pri Vezentsev
1937年11月7日にソ連の劇場で公開
1937年12月13日からモスクワの映画館で公開
1941年第1回スターリン賞受賞
1939年に続編「1918年のレーニン」が作成された。
日本での公開:スターリン批判をうけてモンム監督自身で1956年にスターリン登場シーンをカット編集された。「1918年のレーニン」とともに、1963年に日ソ協会を通じて自主公開された。
◆「十月のレーニン」作製の背景と現在までのいきさつ
ロシア革命は1917年10月(旧暦)に成就した。この映画は革命20周年記念として、初めての音声入りとして作られた。1937年当時、レーニンの跡を継いでソ連を指導していたのはスターリン。「レーニンと革命」をテーマにシナリオを募集した。レンフィルムでは「銃を持った人」、モスフィルムでは「蜂起」が候補になった。
監督、役者は忙しく、契約に縛られていた。また、レーニンという雲上の偉人を扱うということで、恐れ多さを感じていた。だが、最終的にモスフィルムでロンム監督に依頼された。レーニン役はすでに舞台でレーニンをやっていたボリス・シチューキンを指名した。
シチューキンは映画の重要さから多忙な中、徹底的にレーニンを研究した。著作、生前にレーニンの間近にいた人たち、残されていた記録映像や写真を調べて、レーニンの役作りをした。
撮影は8月に開始した。革命記念日までに完成させるということで、87日間という短期間で完成させた。モスクワのボリショイ劇場で、スターリンを始めとする関係者に公開された。
すばらしいシチューキンの演技に目をみはった。映画の出来は絶賛された。スターリンは完成度を上げるためにといって、冬宮占領と臨時政府閣僚逮捕の場面の追加を希望した。ロンムは直ちに追加シーンを撮影した。
12月5日の憲法記念日に、モスクワを始めとする全国の映画館46箇所で一斉に公開された。
2年後に同じスタッフで続編「1918年のレーニン」が制作された。レーニン長編映画二部作として、これも絶賛された。米国を含む海外にも紹介され、好意的に高い評価を得た。
残念なことに、主役をつとめたシチューキンは、過労で2本面の撮影直後に亡くなった。
これまでは、エイゼンシュタインの「十月」というレー二ン登場映画があったが、配役が素人の労働者であった。シチューキンのレーニンを見て、歩き方、表情、話し方などの細やかな動作がみごとで、誰もが引き付けられた。
レーニンもスターリンも、当時は映画のようなスタイルとはやや異なっていたのだが、世界的に記録映画や写真をみて受けていた印象に、あわせて作られた。
ヴァシーリイやマトベージェフは映画のなかだけの人物だ。しかし彼らの映画での活躍はストーリー上欠かせない。架空なのだが、映画をみた人びとは実物だと錯覚する人も多かった。「ヴァシーリイを人民委員会に入れろ」といった手紙が無数にモスフィルムに寄せられた。
スターリンが映画を通じて果たしている役割は、ストーリー上欠かせない。レーニンがペトログラードへ到着すると真っ先にスターリンとの長時間の相談に入る。ヴァシーリイにレーニンに対する細やかな配慮を語る。シナリオ原本のタイトル「蜂起」にあるように、蜂起を指揮する蜂起軍事委員会を組織しスターリンを長にする。
蜂起直前にレーニンとスターリンが肩を組んで、せわしなく話し合う。最終シーンでレーニンが右手を前に出すところで、スターリンが静かにレーニンの横に移動する。これは、レーニンの後継者がスターリンであることを想起させる。
1953年にスターリンが亡くなると、フルシチョフらによって一気にスターリン批判が出てくる。スターリン批判は共産党の中枢に及ぶ。ソ連共産党の死の始まりである。
スターリン批判は労働者人民国家のあらゆる方面に影響を及ぼす。映画を始めとする文化のすべてに及ぶ。この影響を受けて、1956年に「十月のレーニン」が再公開される際に、ロンムは自らレーニン二部作に修正を入れる。スターリンの存在をすべて消した。レーニン二部作は別物の短縮版(1:37:05)になり、これがロシアから改めて海外に出される。
各国にあった1937年初期版は回収される。日本では初期版は公開されいないので、改版されたものが上映さた。
ソ連は自らの革命の指導者を否定して捨てたがゆえに、必然的に自己瓦解に陥って、現在のロシアになった。
「1918年のレーニン」は、1918年にレーニン暗殺という重大事件が発生し、後継者スターリンの活躍を主に描いている。そのために、スターリンをシーンから消すことは作品として致命的だ。
初期版のレーニン二部作は、革命を目指す世界人民から支持された。観た人は心が揺さぶられた。映画はレーニンの動作・行動に主眼を置いているため、革命の理論を語ることは一切ない。だが、ストーリーの展開と登場する人物の振る舞いで、観る人に革命の何たるかを知らしめている。
ロシアになってから文化に対する認識に変化が生じる。スターリン批判で改版を作った無意味さに気づく。初期版をありのまま観ることの重要さが大勢になり、2012年になって1937年の初期版がテレビで放映された。2017年、2018年と放送された。
今は映像がインターネット空間に溢れている。「十月のレーニン」もある。改変版のほうが多かったが、現在では初期版も増えている。
改変版はスクリーンに映写された映像の撮影によったもので、手振れが多く、解像度も低い。初期版も同レベルであったのだが、近年に、元のフィルムから鮮明なデジタル復刻映像が作られた。現在の大型テレビでみてもそん色ない映像になった。
さらに「十月のレーニン」は、この高解像度版を、熱心なファンがカラー復刻版を作成した。近年にAIによるモノクロのカラー化が非常な発達をとげているが、その効用がもたらしたものだ。
これは感動ものである。
日本語字幕は公式には、改変版に日ソ協会が公開する際に付けたものが唯一だ。だが、日本の熱心なファンは、初期版についても独自に用意して完成させている。革命を目指す有志の間で、DVDにして観ている。
左が初期版、右の改版ではスターリンが消されている
◆この映画の見所の
「十月のレーニン」はレーニンは亡くなった後だが、まだ革命の息吹が冷めやらぬ、ソ連人民が民主主義を横臥しているときに作られた。時の指導者はスターリンで、スターリンの意思、革命を人民がいかにイメージで理解するかがよく表れている。
それは世界で初めて実現した労働者人民の国家のなかでの、現実の人民の革命を正しく理解しようとする総意でもあった。
確かに、革命の理論に対するやぼなお説教はない。現実に革命を成功に導いたレーニンの行動、姿を映し出すことで、人民国家への理解を知らしめようとしている。
脚本のなかに、それまで語られたレーニンと革命期に関するエピソードが、うまくまとめられてちりばめられている。
レーニンがドイツから封印列車で帰国する。直ちに武装蜂起が中央委員会に提案される。ジノビエフとカーメネフが反対した。そればかりか、新聞でボリシュビキの重大で、決定的な計画を暴露してしまう。レーニンは烈火のごとく非難する。
10月16日、ペトログラード・ソビエトにスターリンを中心とする軍事革命委員会が組織された。蜂起に関するあらゆる詳細な準備を指揮した。
ケレンスキー臨時政府の議会での決定を待つ、武装蜂起はまだ早いとする、トロツキー、ジノビエフらの見解。それにたいして、臨時政府は完全に死に体だ。人民はもう待てない。ソビエト(人民による協議会)は確固たる決意をしている。今こそ、すべての権力をソビエトに移す時だ。人民側が自らの政権の樹立を宣言する時だ。人民は権力樹立に反対する敵の行動を、武装した部隊で阻止する。これが、レーニンのくだした結論だ。
戦艦オーロラ号の号砲。プチロフ工場での武装した人民権力の姿。市電の運転手や車掌らが自らのソビエト(人民権力)指示のもと、蜂起に参加している様子。レーニンが変装して、敵の探索をまきながら革命本部がおかれたスモーリヌイ学院に行く。
こうしたいくつかの実際のエピソードに、ドラマとしての創作が絡み、重なる。ヴァシーリイの家に泊まる。ヴァシーリイの夫人の兄イワンが手紙をよこす。それをレーニンが聞く。イワンは12月24日の第2回ソビエト大会会場にきている。そこでレーニンと会う。彼の田舎でも、大衆は今と違いレーニンについてどんな様子の人か知らない。興味は賭けまでしている。
ボリシュビキの蜂起計画はそつなく勘所を抑えており、綿密で12月23日夜の蜂起では武力衝突はわずかで、実際の犠牲者は少なかった。だが、映画では、蜂起の映像的効果から仮想の冬宮襲撃シーンが加えられて、犠牲者がさもそうとう出たように描かれた。
スターリンの求めた臨時政府閣僚の逮捕シーンでは、なぜかマトベーエフが指揮官で登場するが、それは愛嬌として、臨時政府の終了を告げる。これは、ヤツらの政権を人民側がまさに放棄したことを、仮想表現した象徴的なところだ。
帝政の跡を継ぐ臨時政権の権力と、人民が日常的に自ら作り上げてきたソビエトの二重政権状態から、一方を破棄、放逐し、すべてを自らの権力であるソビエトに移す。この真理を映像化しているのだ。
映画ゆえに創造で追加したシーンによって、革命にむけて行われたボリシュビキの戦術は、より印象深くなっている。
映画完成後、スターリンによって、スタッフと役者の全員が特別に表彰された。
創造の象徴的な冬宮への襲撃シーンだが、後日になって西側ではこのシーンをロシア革命のニュース映像(暴力革命として)のように使われた
◆この映画が示すロシア革命の教訓
第2回ソビエト大会で労働者人民の国家成立を宣言する最も有名なレーニンのシーン
1991年暮れゴルバチョフが書記長を辞任して、ソ連は終焉を迎えた。レーニンがソ連を作り、スターリンがソ連を守りとおした。だが、前述したようにフルシチョフは突然指導者の否定をはじめた。
スターリンが党と国家を独裁し、結果途方もない犠牲を人民に強いたというのが理由だ。ゆうまでもなく、その犠牲は地球支配者がソ連人民にたいして行った結果であって、スターリンのせいではない。
現在のウクライナ戦争と同じだ。2021年ウクライナに突然侵攻したロシア・プーチンが犯した犯罪だというヤツらの論理とまったく同じだ。
プーチンがウクライナに軍事作戦の行動を起こしたのは、2014年にヤツらがウクライナでクーデターを行い、ナチ政権を打ち立て、東部の親露人民を激しく迫害した。さらには、米軍とNATOがウクライナに軍事基地、バイオ研究所をいくつも作り、そこにミサイル配備までした。
キューバ危機と同じ構図だ。当時は米国ケネディが起こり、フルシチョフはミサイルを撤去した。ウクライナでのヤツらのロシアに対する行為は、プーチンを激怒させた。プーチンが特殊軍事作戦を展開するに至った。
スターリンが時のソ連政権の意思として、ヤツらが送り込んだスパイ組織を、徹底的に撃破した。激しい戦争だった。当然行き過ぎはあっただろうが、スターリンが容赦ない行動をしたことで、ソ連は第二次世界大戦を生き延びることができた。レーニンが作った人民国家を守り抜いた。
スターリン批判はあらゆる点で間違っている。革命的、階級的視点からみて、天に向かってツバして、自分にかかってきたものだ。自分の思想、指導者、歴史を否定することなど、決して人民はやってはならない。
そのソ連が自壊したのは必然だ。
ソ連自壊の階級的、革命的教訓は何か。
❶人民国家の決定的土台はソビエトという人民権力組織である。全人民が足元のソビエトという協議会に属している。際低層のソビエトが上部のソビエトを構成する。その頂点がソビエト国家権力だ。このソビエトの機能を忘れ、捨てたことだ。
❷人民の足元のソビエトはすべての問題を人民が自由に話し合って決める。決める際の原則は人民の利益である。自由に徹底的に意見が交換されて最終的に決定に至る。これが上部ソビエトに伝わる。また、際底辺から幹部・指導者も上部に出す。つまり、人民の民主主義そのもの、最高形態だ。平時はこの民主主義が徹底される。だが、緊急時は討議の時間が限られる。場合によってはない。その時は、信頼する上部の指示・指令に無条件に従って行動する。
人民にとって最高の民主主義である。選挙は手段であり、最下部での徹底的な論議がなければ無意味なものだ。
ソ連の自壊は、緊急時の指示・指令を平常時でも適用したことだ。確かにソ連はヤツらに目の敵にされ、戦争に次ぐ戦争が強いられた。党と国家の指導部が人民民主主義の原則を忘れ、命令で下部を動かすという安易な緊急時の方法論を、平時のものにしてしまった。ありもしない権威、上部というだけで、言うことに下部が無条件に従う、というあってはならない組織がシステムになってしまい、それに指導部も、下部組織、際下層人民も従ってしまった。硬直した官僚組織となってしまった。
❸階級的革命的視点を常に堅持する党を形骸化してしまったこと。人民と党と国家の切っても切り離せない原則を捨てたこと。思想、原則をもたない、硬直した党は人民から見放される。さりとて、人民側が取って代わる党を自然成長的に再構築できない。
階級的、革命的思想は改良主義の延長では生まれない。思想があり、実践の総括を守る前衛により外から持ち込まれ(インスパイアされ)て、初めてうまれ成長する。
以上の三点が教訓である。
地球支配者という人民にたかる寄生虫が、我が物顔で悪魔的な邪悪を展開している限り、人民の歴史は必ずヤツらを放逐する。
つまり、ロシア革命を再現する。今度こそ、全世界的な規模で、世界人民はヤツらを放逐する。宿主としての人民は、何時までもヤツらの寄生を認めない。人民のすべての禍の根源としてのヤツらを一斉に放逐する。
「十月のレーニン」は、革命的階級的人民に、こうした決意を再確認させる武器である。