1991年/米国/カラー2時間17分
監督/脚本/アンドレイ・ミハルコフ・コンチャロフスキー
脚本/アナトーリ・ユソフ
製作/クラウディオ・ボニベント
原作/アンジェイ・ムラルチク
配給/コロンビア・ピクチャーズ
発売/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
◆ロシアにスターリンは必要だったのか
この映画は、革命のテーマを直接扱ったものではない。
作者であり、映画の監督をした人の問いかけだ。
作者は、ロシア人で、スターリン側近の一人であった。タイトルの通り、映写技師で後に警護員(KGBに所属)となる。映写技師といっても、ここではスターリン個人あるいは側近とともに映画を観る際の映写技師である。作者自身が自分の体験を書き、映画を作ったものである。
著者の意図は著作で、つぎのように述べている。
「人間の心の中の善悪に対する葛藤は、私の主な関心ごと一つであり、この映画では、国全体としてのそういった葛藤を取り上げている…。スターリンはロシアにとって必要であったのか。その問いに答えは出せないにしても、それを問いかけてみたかったのだ」。
◆スターリンへの礼賛、個人崇拝は何だったのか
映画は、革命があってから20年に経っていない1935年から、1953年のスターリンの死までの期間を映している。
ヒトラーがポーランド侵攻して第二次世界大戦に突入する。スターリンは矛先をファシスト・ドイツに戦争の舵を取る。連合軍が勝って終戦に至る。戦後は冷戦となるが、ソ連はひとときの平和を迎えるが、スターリンは死を迎える。このような時代である。
だが、映画は政治の流れと変化をほとんど写さない。主人公イワンの生活の変化を語るだけである。結婚する。映写技師に採用される。側近ゆえに他への口外はできない。隣の夫婦が反スターリンを口にして逮捕、恐らく処刑される。その幼い娘カーシャは孤児院に入れられる。イワンの妻はその娘を憐れむ。
妻は側近の一人べリアから目をつけられ子を宿す。長い別居から妻が帰る。夫に問う。「あなたが愛しているのは妻か、スターリンか」と。それでも夫を愛する妻は自殺する。
カーシャが成長して、自立のため院を離れ、イワンを訪ねる。警護員という秘密の職で、娘を擁護できない。スターリンが亡くなる。哀悼の200万人に及ぶ街頭の警備に当たる。混雑のなかでカーシャを見つける。
イワンはここで初めて妻の愛を思い出す。カーシャを娘として引き取る決意をする。
その時代を覆ったスターリンへの礼賛、個人崇拝。スターリンの側近が、人民に向かって意図的にし向けたような、礼賛、個人崇拝をめぐって、妻と感情が衝突した。隣の住民やカーシャとも、感情が交差しなかった。それが、スターリンの死を迎えて、眼に見えない鎖がはじけ切れたように蘇ったのだ。
◆反共主義者が映画製作に飛びついた
ソ連を描くのに反共主義者は手を緩めない。ロシア人の作者は、この作品を反共の道具にされたくなかったのが意志だった。だが、時は、ゴルバチョフのペレストロイカで、ソ連が雪崩のように崩壊していくことに、油を注ぐような素材として作られていった。
ロシアで撮影を決行し、当時ボロボロと漏れ出した膨大なソ連当時の、政治資料や写真などを用いて映画宣伝の印刷物ができた。
評価は当然視聴者になるが、視聴者の感情を反ソ、反スターリン、反共に誘導するように用意されたのだ。
日本でも、写真のように、VHSとレザーディスクで発売された。解説書が出版された。
キャストはほとんどがロシア人である。インタリアも製作に協力した。漏れ出た映像フィルムがところどころに挿入された。俳優は全編英語というところがやや不自然。
米国の制作となるのエンターテインメント性が欠かせない。最後の方で、カーシャとイワンが感涙して再会するというところが山場だ。
涙には正義と偽善の両面がある。この涙の方向性が、冷静に考えるべき問題である。ただの感情の赴くままの方向が、ハリウッドなどマスメディアが利用するものだからだ。
◆ソ連とスターリンが実現した成果と将来に託された課題
ソ連映画、スターリン映画で、革命的視点から評価できるのは、1937年の映画「十月のレーニン」「1918年のレーニン」である。これ以外にあるものは、大半がソ連をないがしろにし、スターリンを暴漢と叩くものである。
「映画技師は見ていた」も同じと言っていい。だが、この映画の作者が、自らに明確な問いを出している点が、他とやや異なる。
「ロシアにスターリンは必要だったのか」というものである。「スターリンへの礼賛、個人崇拝は何だったのか」と言い換えてもいい。
この問いに、作者が自らの回答を正直に出せなかったのかも知れないが、この問いは、ソ連・スターリンに関心をあるものであれば、この機会に考えるべきものである。
毛沢東が起こした1960年代中国の文化大革命という嵐があった。文革と毛沢東というテーマと重なる、重要なテーマと言える。
ソ連において、スターリンに対する礼賛、個人崇拝があったのは事実である。これを否定する意見も聞くが、どう欲目でみても、それは存在した。だが、存在したことを、した、しないで論議するのは無駄である。
問題は、何故それが存在したのか。存在することで、どのような効果が得られ、いかなる弊害が起こったのか。克服する方向は何なのか。このことを明らかにすることである。
弊害については、反共主義者がこれでもかと、ないことまで言いふらしている。多くは礼賛、個人崇拝が、無条件に強制された。いつの間にか、集団での宗教のようになり、思考が受け身になり、人間として自分で考えることができなくされた、というものだろう。
映画ではイワンがまさにそれだと。しかも、スターリンの側近となれば、信者でなければ、逆に裏切り者として、追放、処刑など処分対象になる。反スターリニストの手先に落ちかねないとなる。素朴なイワンは、深く考えるまでもなく、親スターリンとなる。
実際に、近くでスターリンに接していれば、実に細やかに思いやりを示し、横暴なことなどおくびにもでない。
妻とこの点で意見が逆になるのは当然のなりゆきだ。
イワンが自然に親スターリンとなり、礼賛するようになるのだが、それが崇拝にまで行くには、別の要素がある。それは、他の側近の作為という要素と、一般の大衆の礼賛傾向である。
側近は、スターリンと一般大衆との距離を広げるようにしていった。「偉大な人に一般人ごとくが軽口をいって悩ますな」「問うているのはこちらで、お前に質問する権利はない」などという思想だ。これは、自分こそが偉大なスターリンの近くであるという、虎の威を借る狐と同じ愚かな思想だ。
スターリンの質問や疑問に、嘘でも素早くこたえることで、信任を得ようとする。無茶な要請でも、多大な犠牲をして虚構の体制を作る。側近にはあってはならない、欲得思想である。
スターリンは、一般大衆から引き離されて、徐々に側近の返事を正確に判断できなくなったように見える。
スターリンは、幾度も欲得を優先させる側近を、クビにして入れ替えた。欲得を持つということは、敵の買収に負ける要素になるからだ。敵はスパイとして、スターリン殺害の手先として、常に側近の買収に努力している。カネに執着があれば、カネで動くからだ。
スターリンは、過去の政治家で最も多く暗殺計画にあっている。だからスターリンは警戒する。側近を怪しむのも無理はない事態だった。
それは、地球支配者位によるソ連封殺の攻撃が絶えなかったからである。
よく問題にるのは、親族、隣人による監視社会・通告制度だ。映画では孤児院でのちょっとしたシーンで表現されている。親が反ソ的なことを話していたのを、子供が当局に通報したのを、英雄のように崇めている。
親やお隣まで「売る」ような行為が、褒められる。輪をかけるのは、これを受けた当局が「成果」として、ほとんど真実視して、過酷な弾圧を実行したことだ。
ソ連では革命以来、行きつぐ暇もないほどの、世界中からの干渉と戦争が続いていた。奇跡的に勝ち取ったソ連という祖国を、どうしてでも守り抜く義務があった。革命政権には、カネも物資も不足していた。いわば弱小国である。
その祖国を防衛するためには、少しも気を緩められない。少しでも舵取りが誤れば、労働者・農民・兵士の国はひとたまりもない。
それだけに、側近の資質や能力は重要である。革命家として信頼のおけない側近は無用である。映画には表立って表現されていないが、昼夜も問わない戦争の指揮は、スターリンがすべて行った。
ソ連国内にスターリンへの礼賛と個人崇拝が起ったのは、祖国防衛にソ連人民を一致団結させる手段であった。トロツキーのように世界革命の条件ができるまで、一国で戦い続けても無意味だというような、日和見主義とは言い争っている暇はなかった。
弱小国が米英仏のような大国と戦っても、勝ち目はないというような、敗北主義といつまでも話し合っている場合ではなかった。
ソ連の全人民だけでなく、全世界の人民に「今、ソ連という人民の国家を守る」必要があることを訴えた。世界中が「プロレタリアートの祖国、ソ連を守れ」というスローガンで沸き立った。
人民の信頼と支持こそが、ソ連を防衛できるということで、なせることをすべて注いだのが、第二次世界大戦中のスターリンだった。
戦争となると、異様な心理状況になるのは、昔から同じだ。ブルrジョア陣営では、自国防衛の大成翼賛会に動員するためだ。上からのカイライの命令・支持を、自分で思考することなく受け入れるようになる。
ソ連でも同様な状態が起こったことは否定できない。ただ、戦時下の変性意識であっても、人民の正義の戦争(人民の祖国を守る)という意識で団結するということが柱であった。上が嘘でそそのかしたり、騙す以前に、自覚した人民の強い目的意識が柱だった。
だから、この点でブルジョア国家で大政翼賛会に走った連中に、ソ連人民がとやかく言われる必要はない。
スターリンの周囲、すなわち祖国防衛を戦う軍事指令センターでは、戦時下における戦術的な課題があった。敵側であるブルジョア国家では、戦時のために軍隊が日々軍事教練をしている。軍隊で上部の命令は絶対だ。その訓練に明け暮れていて、それが戦争の瞬間瞬間に使われる。
ロシアでも革命政権は赤軍を創設し軍事訓練をするが、絶え間ない戦争で、どうしても訓練に後れを取る。文字の読み書きができない農民が多く構成する。そうした遅れがあっても、革命への忠誠心があって、よく戦った。
上部の戦況判断にもとづく指令を下部が、忠実に実行するのは、革命国家では、組織原則に革命精神があったためだが、側近は「命令が下部を自在に動かせる」という、職権、今で言うパワハラという誤った習性を得た。
本来であれば、終戦で平和を得たときに、軍隊以外では、命令を組織を動かすときの基本にしてはならない。平和時には、原則と説得である。
平和時に、手っ取り早く、命令を乱用して、それを、さも革命国家の平常時の正式な方式のようにしてしまったのである。
もうひとつ、スターリンをブルジョアどもが非難攻撃する素材に、違法な強制労働があり、違法な捕虜への虐待をあげる。
専制主義、告発奨励、強制労働と捕虜虐待などは、どれ一つとってもスターリンやソ連の専売特許ではない。それどころか、非難するブルジョア国家はそれが常態だったことを、棚に上げてはならない。
当然日本も同じだ。隣組、婦人会などあらゆる組織が、専制的に戦争動員の強制をした。反戦思想のものを密告奨励した。朝鮮人を奴隷のように連れてきて、強制労働を強いた。
つまり、形態、様式は、敵味方なく同じなのだ。それを、局所的な反対の現象を宣伝して、日本にはそんなことはなかったと言うのは、欺瞞そのものである。
卑怯、卑劣、法違反、あらゆる理不尽を実行するのが戦争だ。勝てば官軍という。勝者は自分でなしたすべての破廉恥を偽善で覆い尽くす。正義だとまで言う。
すべてを許容する。だが、敗者の行為はすべてを黒く塗りつぶして、非難材料にする。戦争裁判までやる。
専制主義で敗北した日本帝国主義は、米国に占領されただけで、ヤツらの宣伝に頭が狂わされ、原爆を落としたやつを好きになり、崇め、戦勝国の民だったような「錯覚」が支配する。白黒逆転した頭で、ソ連やスターリンをののしる。
この姿の情けなさ、愚かさ、無様さに気づいていない。反ソ、反スターリンを言う前に、自分のなしたことを見つめるべきだ。ここでも、各国に配置されたカイライの主張と自分の主張が同じで、結果自分が地球支配者の側に立っていることを知るべきだ。
◆三つの教訓
第一、人民権力が機能していない
内容が正しければ、それにふさわしい形式がある。
だが、内容の正しさを、階級的な、革命的な、共産主義的な視点から理解しないと、決してふさわしい形式を取ることができない。
戦時下において、戦意高揚を目的にした、指導者礼賛や個人崇拝は、平和時にはいらない。法を用いるなら、憲法違反である。個人の心を法で動かすことをしてはならない。職場や生活上で、社会的強制に導くような事実上のルールはあってはならない。
人民の足元で、率直に、忖度、遠慮を排して、階級的視点から話し合い、納得していく形で解決すべきである。
この人民権力ことが、活きておれば、そこに依存できる。そのような、機能をその権力が失ったのであれば、人民自身の責任である。そのような、人民の意志を反映することができないなら、人民は、自らの意志の表現機構を、最初から構築する。それが人民権力である。
ソ連も中国も、人民権力思想を軽視、あるいは捨てたことが、変質し、崩壊した原因である。
第二、革命政党、労働者国家、権力機構は、命令方式を、組織を動かす主たる手法にしてはならない。
軍隊などの暴力機構であっても、戦時と平時、実戦時と訓練時を区別しなければならない。
平時、訓練時の命令はあってはならないパワハラである。平時、訓練時に深い階級的、思想的理論と道理を説いた説明、説得があるか否かで、実戦時の力が発揮する。
戦時の力の源は、平時の理論と思想の蓄積から生まれる。
特に、幹部要員は模範となる心がけが必要である。部下は平時、訓練時に上司がパワハラを行った場合に、率直に訴え、正す勇気と、思想への忠誠が必要得ある。
革命政党とは幹部と党員である。ここには形式的に上下はあるが、それは職務的なものであって、機械的なものではない。まして、人間的な差ではない。共通しているのは、世界人民の解放という命題である。
革命党には戦時も平時もなく、原則と基準があり、それを守り、沿うということだけがある。だがら、上部が下部を侮ったり、疑心になったり、ただの使い捨ての道具視するのは、あってはならない誤りである。
そうでないと、質の悪いブルジョア政党と同じだ。
まして、党が人民をそのように見る、扱うなど、絶対にあってはならない。党は、第一の人民権力の最大で、最後の砦である。
人民を支配する党は人民には無用だ。この視点で、現実を理解できない党は無用だ。人民は、そのような党を捨て、改めて自らを解放に導く党を作るだろう。
第三に、ソ連にスターリンは必要だった
ソ連にスターリンは必要だった。必要なかったというものもいよう。だが、ソ連に指導者は必要だったし、スターリン以外に誰か変わるものがいたとしても、スターリンほどの戦いはできただろうか。
おそらく、いないだろう。世界中を敵に回して、あれほど過酷な戦いをできないだろう。まして、現在、このような質問を考えているものに、国を左右するような広範な知識と能力を発揮できる偉人はいないだろう。自分が、その立場だったらと、かすかにでも考えてみたらいい。
きわめて残念なことに、地球支配者がしかけた世界中の反共キャンペーンの攻勢に、勝てなかった。このことで、スターリンに非があるような視点は、人民ならば許されない。ヤツらとその手先は、勝ち誇ったようにいうだろうが、そのようなことに手をたたいてはいけない。
世界人民の解放活動という歴史的な戦いで、一歩前進二歩後退をしただけだ。レーニンのロシア革命以来、毛沢東の文化か革命まで、それを称えることはあっても、非難するような話には絶対賛同できない。
革命の先人たちが、後継する現代の人民に後をまかせたのだ。彼らは、巨大な財産をこのしてくれた。この命をかけて成し遂げ、手にした財産を、見直し、分析する中で、次世代における革命路線、共産主義の新しい思想が形成する。それが、委ねられたのだ。
共産主義党、革命党が、大義から外れた時、人民に奉仕し、世界人民を解放する名義を忘れた時、いかなる悲劇が起こるのかを、歴史の体験は教えている。
スターリンは偉大な統率者だったことには違いない。もちろん、責任者だ。だが、党は人民の英知である。巨大な党員を擁している。党の光を守るのは、この膨大な数の党員一人ひとりでもある。党員が一人の指導者の同志として魂を心から信じ、軌道のぶれを正すのも義務の一つである。
党員として、命をかけて、一人でも光は守らなければならない。結党の精神を手放してはならない。人民の一角にいる党員は、もしも、万が一に、党が反人民に歪んだのなら、何度でも、真の党を作り直す権利を持つものだ。
これは、米国憲法に記載されているように、人民は「米国」という国が反人民の国となれば、幾度でも、原点から革命を起こす権利が保障されている、という考え方と同じである。
「密告制度」などはこの世に存在してはならない。人民の足元に存在するべき人民権力の思想とその運営が、原則を逸脱した証拠である。
現場の人民の疑惑など、あれば、その属する人民権力で判断するのが、大原則だ。
仮に、万が一、子供があるいは近隣が、疑惑の人を当局に通報したとしても、それは、現場の人民権力に決めるようにするものだ。そこで属する人民が判断すれば、真実は一目瞭然であろう。
もしも、敵の買収にあっていたり、スパイだったりしたら、人民権力のメンバーとして、浮いてしまい、確実に真実は分かる。
子供とか近隣というのは当事者ではない。当事者でない者の通告は、背景に邪心が伴いやすい。社会的な雰囲気のなかでの「お褒め」とか「忠誠心のポイント」を得たいという欲心だ。これを点検していないで、密告内容を真に受けたのなら、すでに当局が軌を逸している。また、邪心が起こりそううな雰囲気があるとすれば、すでに、人民権力は健全に機能していない。
捕虜の強制労働などは、地球支配者の編み出したもので、人間の歴史の負の遺産である。逮捕者には冤罪の疑いが付きまとう。捕虜にはただ動員されただけの民が多い。これをくクソ・ミソ一緒にするように、労働の必要、管理力の不足だけの都合で、強制労働に追いやることは間違いだ。
だが、現実には戦争という状態ではなされてしまう。つまり、戦争の廃絶なくして、この理不尽は解決できないのである。
戦争は地球支配者が起こすもの。地球支配者をこの世から放逐する以外に解決はできない。つまり、共産主義者、革命家が最大のテーマとしている革命の実現とゴールは一致する。
ソ連ではレーニン、スターリンが大義のもとに戦い勝利した。その大義は不動のものだ。彼らが残した文献を見たら分かる。あのようの内容を残せたのは、思想的・政治的に優れていたからこその成果だ。
地球支配者による間断ない反共キャンペーンと戦う中で、確かに大義から逸れた、認めがたいことは起こった。それを解決できないまま、指導者は亡くなり、後継者が育たぬまま今日を迎えた。
革命の後継を担う現在の自覚あるものが、そうした偉大な先人達を貶めるようなことをしてはならない。残された課題が過酷なものであるほど、真剣に克服することである。
以上である。