映画「カティンの森」

2007年/ポーランド映画
監督/脚本/アンジェイ・ワイダ
原作/アンジェイ・ムラルチク

 1939年9月1日にドイツ軍がポーランド侵略を開始して第二次世界大戦が勃発した。
 1941年6月には独ソ不可侵条約を破棄したドイツ軍がさらにソ連へと侵攻し、独ソ戦が開始された。
 ドイツ機甲師団がソ連の重要都市スモレンスクに侵攻し、ソビエト赤軍との大激戦が展開される。
 スモレンスクは市街の9割が破壊され廃虚と化した。
 
 1943年4月、ドイツの宣伝相ゲッペルスが、スモレンスク郊外のいわゆる「カティンの森(カチンの森)」で、虐殺され塹壕に埋められたポーランド軍将校四千数百人の死体が発見されたと発表した。
 ナチス・ドイツはこれがスターリンとソ連秘密警察の犯罪だと声明した。
 最初にこれを発表したのはドイツである。
 ドイツからのこの発表がなされた時期は、ソ連の奥深く侵攻したドイツ軍がスターリングラードをついに攻略できずに完全降伏(2月2日)し、東部戦線が総崩れとなって撤退に追い込まれていったときだった。
 ソ連は「カティンの森」事件はナチス・ドイツの犯行であるとの反撃声明を発表した。
 そしてこの事件は第二次大戦の暗闇のなぞとされたきた。
 
 映画はソ連軍の捕虜になったポーランド人将校数百人が一所に集められている場面から始まる。
 そこへ車で乗り付けたドイツ将校が現れ、迎えたソ連の内務人民委員が「ドイツ軍を歓迎します」と握手を交わす。
 つまり独ソ不可侵条約が生かされていた時期をこのようなかたちで描写している。もうここから作為が読み取れる。
 国家間の政略で不可侵条約は締結されていても、第一線の戦場で独ソの将校が同志的握手を交わしたなどという事実を私は知らない。
 まして捕虜とはいえ大衆の前で「ドイツ軍を歓迎します」などという言葉がどのソ連側幹部の口から出るというのだ。
 ナチス・ドイツとソビエト同盟をまず映画の冒頭で同列の犯罪者に印象づける手のこんだ作為だ。
 ドイツ軍将校が現地ソ連軍の作戦司令部をも通さず、いきなり内務人民委員に会うなどということ自体、ありえないことだ。
 
 映画の主人公はソ連軍の捕虜になった、アンジェイ大尉というポーランド軍将校。
 (アンジェイ・ワイダ監督の父親がポーランド軍人でこの「カティンの森」の犠牲者になっている)
 そして彼の妻、子供、大学教授の両親、妻の兄弟や甥、友人たち。
 アンジェイ大尉をとりまく人々がドイツのゲシュタポやソ連の秘密警察の「迫害」にあって人権と誇りを踏みにじられ、生き抜くために苦悩し、ある者はボロくずのように殺害されていく物語りだ。
 ソ連軍の捕虜輸送列車にのせられたアンジェイ大尉も、「カティンの森」の塹壕の前で頭を拳銃で撃ち抜かれて死ぬ。
 
 累々とした屍の重なる塹壕にトラクターが土をかぶせていく場面で映画は終わる。
 
 さてここで問題の本質に入ろう。
 1. 戦争における「虐殺」の問題
 2. スターリン批判の階級的性格の問題
 3. 文学・芸術とはいかにあるべきかの問題
 
〈1〉
 「虐殺」「大量虐殺」むごいものだ。反人道的で犯罪だ。誰しもがそう思う。
 しかし戦争ともなれば、そんな一般論やお題目は通らない。
 ドイツも、日本も、アメリカも、ソ連も、勝つために血みどろの戦いを繰り広げるのだ。
 
 戦略的に重要な作戦の任務をおびて、行動する部隊があったとする。途中で敵と遭遇して交戦し10人の捕虜を拘束したとする。その捕虜を監禁することもできず、収容所に移送することもできなかったとする。
 その場合、指揮官はどうするか? 捕虜全員銃殺である。
 捕虜を解放すれば作戦行動が漏えいする。捕虜の保護のために、自らの部隊の任務を放棄することなどできない。これが軍であり戦争である。
 射殺が10人であれ、100人であれ、1000人であれ同じことだ。
 
 アメリカは日本軍国主義の息の根をとめるために無差別空爆を行った。
 3月10日の東京大空襲では低空進入した米空軍300機のB29が38万発のナパーム弾、焼夷弾を投下して、下町市街地を焦熱地獄に陥しいれた。火焔による台風なみの上昇気流でB29は機体もゆさぶられ、後続機は爆撃範囲を延焼周辺部に変更せざるをえないほどだった。それによってさらに被害がひろがり、東京中心部は壊滅した。
 一晩で一般市民10万人以上が焼き殺され「虐殺」されたのである。
 子供をおぶったまま真っ黒焦げになっている母子の死骸、幼い兄弟が抱きあったまま黒焦げになっている死骸。炭化した死骸の山、目を覆いたくなる光景だ。
 この空襲を指揮したカーチス・E・ルメイ少将は「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」と証言している。そして「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」とも語っている。
 すべてわかっていて市民を焼き殺したのである。
 軍将校を殺した「カティンの森」どころではない。
 
 広島では一発の原子爆弾で14万人の市民が一瞬にして「虐殺」された。
 
 第一次世界大戦と第二次世界大戦で6000万人が殺されている。
 これが戦争なのだ。
 
 戦争とは「別の手段をもって行う政治の継続である」(クラウゼヴィツ)。
 戦争における「虐殺」の個々を他から切り離して、その個々の善悪を論ずることがいかに無意味であるかがわかるだろう。
 かかる虐殺を生み出す政治の世界を変革し、真に人民のための世界を建設する革命をしなければならないのだ。
 闘いの途上ではこれからも「犠牲」と「虐殺」は覚悟しなければならない。
 そのために闘うことを人民は恐れない。
 「人はパンのみにて生きるにあらず」だ。
 
〈2〉
 スターリン批判について。
 先にも記したが、「カティンの森」でポーランド人将校の虐殺死体が発見されたと最初の暴露をしたのは、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスである。
 なぜそれを知っているのか。
 それはみずから手を下して、そこに埋めたからである。
 1943年1月末、ドイツはスターリングラード攻略戦の決定的敗北によって東部戦線からの敗退をよぎなくされた。
 ナチス・ドイツが「カティンの森」事件を暴露したのはソ連領からの敗走をかさねる同年4月だ。
 ゲッペルスは「カティンの森」虐殺がソビエト政府とスターリンの犯罪だど声明しつつ、自らの日記にはこう記している。
 「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキ(ソ連共産党)は遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」
 ドイツが敗走したあとに、ソ連領土に残される虐殺の痕跡をあばかれることを恐れたゲッペルスが、いち早くソビエト政府とスターリンの犯罪であると世界に流布したのだ。
 これは1992年7月にモスクワのロシア公文書館で発見されたゲッペルス自筆の日記に記されている。
 これが歴史の事実なのだ。
 
 さて、ここで誰もが思う問題がある。
 1990年になって、ゴルバチョフが「カティンの森」事件は当時のソビエト政府の犯行であり、スターリンの命令であったと認めたこと。これこそがくつがえしようのない事実ではないか、ということについて。
 
 歴史の事象はすべて階級的にみなければならい。敵と見方の力関係によるのだ。
 歴史は権力によって作られる。
 最近ではアメリカの「9.11事件」をみればそれがよくわかるだろう。
 
 輝かしいソビエト社会主義共和国連邦が機能していたのは、レーニンとスターリンの指導下にあった時代である。スターリンの死後、フルシチョフによって権力がかすめとられ、党はブルジョア思想に敗北した修正主義へと転落し、偉大なソヴエト連邦は社会帝国主義の国家へと変質していった。
 中ソ論争で毛沢東が原則的に行った修正主義批判もついには実をむすばず、中国自体も毛沢東死後、同じ道をたどってしまった。
 
 スターリン死後のソビエト共産党第20回大会(1956年)で、フルシチョフが持ち出したのが「スターリン批判」である。
 フルシチョフのスターリン批判は西側ブルジョア世界の政治と思想を代弁するものであり、アメリカ帝国主義に屈服したフルシチョフがマルクス主義を放棄し、社会主義を放棄して修正主義と経済主義にのめりこんでいくために必要な「号砲」だった。
 スターリンを否定するという「手土産」をもって敵に屈服したのである。
 世界にまん延している「スターリン批判」のすべての出発点はここにある。
 ソビエト同盟を崩壊させ、社会主義を消滅させる最後の総仕上げがゴルバチョフのペレストロイカである。
 そして「カティンの森」をスターリンの「犯罪」にして、後ろ足で最後の砂をかけたのである。
 革命の変質者、その後継者の裏切り者達が自らを正当化し、敵に媚びを売るために言うことを誰が信用するというのか。
 その手のゴロツキの言うデマなど、町のおじちゃん、おばちゃんだとて見破るだろう。
 
 こういうデマとでっち上げの典型で、スターリン批判の一つのよりどころになっているものに「レーニンの遺書」がある。
 レーニンはスターリンを後継者とは認めず、スターリンを厳しく非難したという内容のものだ。
 これがいかにでたらめなものであるかを事実を追って書くと長くなるから、結論だけを記す。
 レーニンはそのようなものを遺していない。
 そのような捏造文書をつくらなければ自らの正当性を主張できないような者や、それに飛びつく者達を哀れむしかない。
 人を判断する基準は、その人が「何を言った」かではなく「何をやったか」である。
 レーニンは最後まで原則的なスターリンに最大の信頼をおき、共に最高の同志であった。
 
 裏切り者が何を捏造し、何を言おうと我々は信用しない。
 これが「カティンの森」事件の階級的分析である。
 最後に、千歩ゆずって、当時のソ連がそれを行ったとしても、それがその戦線にとって必要なことだったからである。
 戦争とはそのようなものだ。
 
〈3〉
 革命的文学・芸術とはいかなるものか
 アンジェイ・ワイダという人は、対独レジスタンスの闘いに参加しているし、反ファシズムと民族の独立、人民解放の闘いの中で、もう少しまともな階級的観点をもっている人かと思っていたが、どうもそうではないらしい。たんなる民族主義者であることがわかった。
 1926年(昭和元年・大正15年)生まれだから、レジスタンス運動の時期はまだ十代半ばだったことになる。
 当時、ポーランド政府はロンドンに亡命しており、その政府は反ナチスであると同時にさらに反ソ・反共であった。ドイツの侵攻とそれに対抗するソ連の進出によって、祖国が蹂躙されていくことへの怒りは若きアンジェイ・ワイダの根底にしみこんでいっただろう。当然だ。
 1944年のドイツ占領下でのワルシャワ蜂起のときは18歳。蜂起に呼応しなかったソ連軍への恨みがさらに積み重なっただろう。
 戦後の1946年に美術大学に進学し、さらに映画大学へ進み、1954年に監督デビューという道を歩む。
 たいしたインテリだ。
 1956年には「地下水道」
 1958年には「灰とダイヤモンド」
 と作品を世に送り、名声をはくしていく。
 
 しかし彼の作品は、祖国と民族におおいかぶさる直接的な「敵」「圧政者」をみつめることはできても、階級としての敵をあばき、それに向けての戦いを描くことができない。
 なにもかもお膳立てされた100%完成された世界をもちこんでくれるものなどいないのだ。
 あれも悪い、これも悪い、人民のための社会主義ソ連といえどナチスと同じじゃないか、引き裂かれた家族、親子の悲しみ辛さはこれほどのものだ、という恨みごとの羅列で映画がつくられている。それを暴くことが「ヒューマニズム」だと思っている。
 冗談じゃない。
 
 あなたの主体は何をしたんだ! 目指す世界を構築するためにあなたは何をしたんだ、あなたが直接できなくとも、その闘いに向けてどう人民大衆を鼓舞したのか、芸術戦線を担うあなたの使命は、ということを問いたい。
 
 人民の国家としてのソ連をナチスと同列に扱い、スターリンをけなし、あなたは何を得ようとしているのか。
 これは反人民的ブルジョア独裁を助け、反社会主義の第五列を形成していることに気づかないのか。
 もう、まったく期待しませんけど。
 
 革命的な文学・芸術とは何かを展開しようとしたのだけれど、また別の機会にいたします。