■ 俺とそいつ
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雨に濡れた影が、小さく見えた。きっと涙なんか流さないだろう、頬に雨の滴が伝っていた。
それは多分きっかけでしかなく、多分。
朝から悲鳴じみた叫び声で起こされたが、夢見がよかったのか、すんなりと目が覚めた。こんなことはめったにないことだ。
俺は、それでも朝日の眩しさに目をそばめながら、俺の隣で真っ青になって硬直している人物に目をやった。
そこには昨夜のままの姿のそいつが、ベッドの脇に座り込んで、自分の格好と俺の顔を見比べながら、現状を把握しようと必死になっていた。
「…どうした?」
のんびりと問いかけると、そいつはよく整った顔を心持ち歪めながら問い返してきた。
「どうしたって…君、誰? ここどこ? 何だって僕がこんな所にいるんだよっ?」
「はぁ?」
あんまりな質問に、俺は寝起きでまだ重い身体をゆっくり起こした。そして呆然としたままのそいつの肩を引き寄せ、抱き締めた。
「何するんだよっ! この変態男!」
煥発入れず、平手が飛んで来た。
そいつは素早く衣類を身につけると、あいさつもせずに部屋から出て行こうとした。俺はあわてて引き留める。
「そんなに急いで帰ることないだろう」
「冗談じゃない。こんな訳も分からない所にいつまでもいられるかっ!」
「何言ってんだ。お前が来たいって言うから連れて来てやったんだろう」
「知らないよっ!」
「知らないわけないだろ、お前…」
言いかけて俺の言葉も止まった。
昨日の、あの横顔。
雨の中でそいつは一人、立っていた。最初は泣いているのかと思った。傘もささずに濡れそぼる姿はひどく悲しげに見えたから。
声をかけようかと戸惑う俺に先に気付いたのはそいつの方だった。
その時、向けて来た笑顔が目に焼き付いた。
「失恋…したんだ」
そいつは笑いながら俺に言った。人ごとの様に、さらりと。
俺はまともな恋愛の経験も、ましてや失恋なんてしたことがない。そいつはそう言う俺に少し驚いた風に目を丸くして、そして笑った。
次々に変わっていくそいつの表情に俺は見とれた。それは雨露に濡れる紫陽花のよう。柔らかに色彩を変えていく。どこか寂しそうな陰りを残して。
その後俺はそいつを連れて夜更けまで街を歩いた。意味もない芸能ネタやら、自分達には到底縁のない世界情勢やらを延々と語り論議しながら、気付いたら俺のアパートにいた。
「思いだした?」
覗き込むとそいつは顔を背ける。
「な、飯くらい食って帰れよ」
俺にしては随分優しく言ってやれたと思う。昨日会ったばかりのヤツだけど、情が移ってしまったのだろうか、そのままにしておけなかった。いや、多分あの時から。
流せない涙を胸に溜めていた姿を見た時から。
「何にもないけど、腹一杯にだけはしてやれるぜ」
一瞬目を丸くして、それからそいつは小さく声を漏らしながら笑った。
それは雨上がりの朝のこと。
互いにまだ名も知らぬ、出会いの日。