■ ばくの話
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真夜中、目が覚めた。
ジージーと庭で鳴く虫の音がやけに耳につく。おかげですっかり目がさえてしまった。
僕はそっとベッドを抜け出した。
どこに行こうとも思わない。ただ、習慣になってしまった夜の散歩が心地よかっただけ。
今宵は満月だった。
月が地面に濃い影を落とす。それを踏みながら僕はゆっくりと歩いていった。
風が耳の端でゆるやかに流れていた。
告げられない思いよりも、告げてしまった後の拒絶の可能性の方が数倍恐ろしかった。だから、見つめていられればそれでいいと思っていた。ずっと。
「殊勝な男もおったものよの」
ぼんやりしすぎていた。目の前にぬっと姿を現したそれに、僕は顔色を変えずにはいられなかった。
ばくがこっちを見て笑っていたのだ。
幻覚か、幻聴か。その場に立ち止まったままの僕の方へ、ゆっくりとばくは歩を進めてきた。
口元が笑っている。比喩ではなくて、確かにそうなのだ。
そしてばくは口を開く。
「何をそう惚けた顔をしておる。わしが珍しいか。口を利くばくなど見たことないか」
何がおかしいのか、ばくが笑う。
そもそも何故こんなものがここにいるのか、それが疑問だった。その存在すら怪しすぎる。
「ぬしらの夢はうまい。刻々と色変わりする、希望に満ちた夢をはきだしておるからの。わしはそれを食うて生きておる」
夢? ならば自分も夢を見ているのか。一瞬目の前がかすんだ気がした。
「そうら、ぬしの夢がやってきおったぞ」
カサリ。草を踏む音。振り向くとそこに杳の姿。寝間着のまま、頼りなげにそこに佇んでいた。
思わず名を呼ぶが、どうしたことか杳のいらえはなかった。
歩み寄り、肩に手を置くと、ふわりと身を僕に預けてくる。甘い芳香が鼻をくすぐる。
「良い夢を見ておる。今ならぬしが夢も叶おうぞ」
ぴくりと目の下の辺りが痙攣する。睨み返すも、ばくは平然とした様で杳の方へ目を向けていた。
「どうした。このような好機、二度とないやも知れぬぞ」
くらりとする。
僕とて男である。清い思いで押し包んだとしても、その内はどす黒いものが渦巻いている。
寄り添う杳。その背に腕を回そうとして、ふと月の光が目の端を射た。
そこにいる生き物を映しだす。途端にふつふつと怒りの沸き起こるのを感じた。
こんな得体の知れぬ化け物に操られてたまるものかと、薄れかけていた理性が膨れあがる。
僕の見せる怒りに、しばらくの間を置いて、ばくは残念そうに言った。
「惜しいの。うまい夢を食わせてもろうた礼にぬしが夢、叶えてやろうと思おておったが。…後悔するぞ」
消え去れと、怒鳴る僕にばくはまた笑ってみせた。
そして、消えた。
すっと、月光の中、溶けるように消えていった。
と、同時に杳の身が腕の中へ崩れ落ちてきた。
* * *
ばくはそれから姿を見せなくなった。杳が少し寂しそうにしていた。それを慰めているのは寛也。
僕はそっと視線を逸らす。
しかし僕は知らないでいた。
僕を伺い見た杳が、誰にも気付かれないように優しい笑みをこぼしたことに。
-END-
※ばく【獏】想像上の動物。形は熊、尾は牛、脚は虎、鼻は象、目は犀に似て、人の悪夢を食うと言う。
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リメイクですみません。
ちょっと変わった文体で、気に入っているので乱用。