■ 教育実習

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「えっ、教育実習?」

 今までテレビの画面に夢中になっていたとばかり思っていた妹の美奈が、聖輝と母親の会話にいきなり振り返った。その目には何やら怪しげな色が浮かんで見えた。

「中学? 高校よね。うちの学校、来てよ」

 いつもは嫌がるくせに、何を考えているのか。そう聞くと美奈は嬉しそうに返す。

「だってお兄ちゃん、面白いじゃない。めったにいないもん、竜になる…」
「美奈ぁ!!」

 慌てて言葉を遮ると、にっこり笑みを浮かべる美奈。

「あら、ごめーん」

 わざととしか思えなかった。しかし、隣で聞いていた母親は何のことかとキョトンとした表情のままだった。

「あいにく、出身校に行くことになる。お前の学校なんか誰が行くか」
「なーんだ、残念」

 それだけ言って、また美奈はテレビに顔を向ける。
 それから、ふと、呟いた。

「って、お兄ちゃんの出身校って、確か…」





 一応、新しく作ってもらったスーツはリクルート兼用だった。六月は真夏と比べ、まだまだ涼しいものの、衣替えの終わった時期に、やはり着慣れないスーツにネクタイでは辛かった。

 教育実習のお願いのあいさつに来たのは一か月程前のことだった。母校である県立玉藻高校は、聖輝が卒業した四年前とは随分変わっていた。一般教室のある第一第二校舎と特別教室のある第三校舎は古いままだったが、いつの間にかその奥に特別教室の入る校舎が一つ増えていた。また、在学中から念願だと言われていた学生会館が新しく建てられ、格技場までもができていた。

 自分の頃に比べて、何だか恵まれ過ぎているその環境に面白くないものを感じる聖輝だった。

「じゃ、静川先生、行きましょうか」

 教員室での朝礼も終わり、教室へ行こうと声をかけて来たのは、聖輝の担当の女教師だった。柔らかな笑みをこぼす美人の彼女は、今年五年目の独身社会科教師だった。最近は女性運がすこぶる悪いと感じる自分にとって、これは快挙とも言えた。
 彼女の後ろについて歩きながら、聖輝はそっと聞いてみた。

「先生って確か、三年生のクラスを持ってらっしゃいましたよね?」
「ええ、そうですよ」

 元気のいい声が返ってきた。

「うちのクラス、特異な生徒がごく一部にいますが、根はみんないい子ばかりですから、怒らないで指導してやってくださいね」
「はあ…」

 ため息が出た。とは言え、一学年十クラスあるうちの一つである。教科を教えるにしても担当授業からしても四クラスが限度である。
 当たるな、当たるなと、聖輝は思いっきり願った。

「つきました。ここです」

 三年G組のプレートがかけられた教室を前に、にっこり笑顔の女教師はそのまま先にドアを開けた。

 ぽとん…。

 頭の上に何かが落ちた。白い粉が舞う。途端に教室中で笑い声が巻き起こったのが聞こえた。
 彼女の頭に落ちて来たのは黒板消しだった。しかも、クリーナーにかけていない、チョークの粉がまぶりついたままのものだった。彼女はそれを頭に乗せうつむいたままだった。気の毒になり聖輝が声をかけようとした時、教室内で声が聞こえた。

「今時こんな古い手にひっかかる奴なんていねぇよなぁ」

 その声にぴくりと彼女の肩が揺れ、ガバッと顔を上げると、そう言った生徒をにらみつけた。

「ケツザキ、またあんたなのっ!?」

 突然の怒声に、聖輝は唖然とする。彼女は足元に転がった黒板消しを掴み上げると、教室の中に向けて投げ付ける。

「俺、知らねぇけどぉ?」
「絶対にあんた、内申で大学、落としてやるわっ!」

 聞き覚えのある声に、聖輝は思わず顔を覗き込ませた。そこに見覚えのある顔――結崎寛也がいた。

 しまったと思い、すぐさまドアの外へ身を隠す。

「そんなの、私情じゃねぇか。先生のくせしてきったねぇ」
「私情でも何でもないわ。あんたが素行不良なのよっ!」

 そう叫ぶ女教師には、最初のたおやかな印象はどこにもなかった。

 来るんじゃなかった、来るんじゃなかった、来るんじゃなかった。心の中で渦巻くのは、暗雲のような後悔だった。

「とにかくっ。教生の先生が来られたので紹介します」

 女教師は気を改めて振り返った。が、後ろに聖輝のいないことに気づいて、教室の外をうかがう。そこに、どんよりとうなだれる聖輝がいた。

「どうかしました?」
「あ…いえ…」

 今更嫌とは言えなかった。思いっきり、言いたい気持ちはあった。このまま姿をくらましたかった。

「じゃあ、紹介しますね」

 ぐいっと強引にも聖輝の腕を引く。そのまま聖輝は引きずられるようにして入った教室の中で――。

「あ」

 目が合った。

「今日からこのクラスを受け持ってくれることになった静川聖輝先生です。教科は私と同じ社会科です。みんな、余りいじめないようにね」

 はーいっと、わざとらしくも揃った声が返ってきた。聖輝はぐいっと、寛也から視線を逸らす。

「二週間という短い間ですが、みんなと一緒に勉強していきたいと思いますのでよろしく」

 そう言うと、まるで練習でもしたかのように奇麗に揃って、よろしくお願いしますと返ってきた。特に寛也がいるだけに、尚いっそう薄ら寒いものがあった。





 バンッと身体を突き飛ばして、へらへら笑う寛也をにらみつけた。

「こんな所に呼び出して何の用ですか、センセイ?」
「何の用かだと? お前はぁ」

 校舎裏にあるクラブハウスの横には、他に人の気配はなかった。この時間、ここに現れるのは自転車を置きにやってくる遅刻した生徒だけだろうが、三校時も終了したこの時間には、そんな生徒もそうそういる筈もなかった。

「いいか、この学校にいる間は、俺達は他人だからな」
「…この学校にいなくても他人だとは思うけど」
「うるさいっ」

 寛也の突っ込みに、思わずその胸倉を掴み上げる。

「俺は無事にこの二週間を乗り切りたいだけなんだ。邪魔をするな」
「へ―――――ぇ」

 しまったと、聖輝は寛也の表情に後悔する。今の言葉は弱みを見せたことにも等しかった。慌てて言い換える。

「俺達の関係がばれるってことは、俺達の正体がばれるってことなんだぞ。お前だって三年生とは言え、あと半年以上ここにいるんだろうが」
「俺、別に困ることないしぃ」
「内申に『竜』って書かれてもいいのか?」

「ばっかだな。俺、内申なんて気にしてねぇんだよ。どうせ相対評価の成績表なんだ。俺の人生は絶対評価でしか決められねぇんだよ」

 聖輝には寛也の言っている意味が理解しかねた。

「とにかく。俺に話しかけるな、俺に近づくな、俺の陰を踏むな。分かったな」

 そう言うと、くるりと寛也に背を向けた。去ろうとしたその時、ふと、背中に声がかけられた。

「らしくないんじゃねぇの」

 寛也のその言葉に立ち止まるり、振り返り様に、じろりと睨む。

「とんだ小心者でやんの。つまんねぇ」

 頭の後ろで腕を組んで、プイッとそっぽを向いたその胸倉を聖輝は再びつかみ上げる。

「お前はぁ、昨今の就職状況がどれだけ今の学生を脅かしいているか知りもしないで」

 聖輝の手に力が入った。

「国公立ならまだしも、俺のような地方の私大の社会学部生など、今の社会じゃ見向きもされないんだ。一つでも多くの資格を取得し、一つでも多くの就職試験のチャンスを手に入れることが最優先課題だ」
「分かった、分かった、分かったから、くるし…い…」

 もがきながら訴える寛也に、聖輝は手を放してやる。

「分かったら、二週間は他人のふりだぞ。弟にもそう言っておけ」

 言って、聖輝はスタスタと去っていった。それを見送って、寛也はやれやれと肩の力を抜く。

 と、チャイムが鳴った。

「やべっ」

 慌てて駆け出した。こんな寛也でも、一応、校則は守るのだった。





「であるから、地方自治体の財政は一般の税収の他に、交付税、交付金、負担金、補助金でまかなわれ、かつては三割自治とまで呼ばれてきましたが、地方分権一括法の施行に伴い―――」

 危うく遅れそうになった四校時目は、問題の三年G組だった。

 聖輝と一緒に、チャイムが鳴り終わると同時に教室に滑り込んだ寛也は、果たしておとなしく授業を受けていた。

 そうなのだ。寛也は決して話の通じない相手ではなかったのだ。このまま何事もなく実習を終えられれば言うことはなかった。二週間なんてあっと言う間だ。そう思うと、心にさわやかな風が過ぎるのを感じる聖輝だった。

 その時。

 ガラリ…。

 教室の後部のドアが開いた。

「おはよーっす」

 指にバイクのキーを絡めてくるくる回しながら、しかし手にカバンの一つも持つでなく入って来た生徒に聖輝は言葉を失った。

「遅いっ」

 教室の後ろで控えていた担任の女教師の声が、すかさず飛んだ。

「また遅刻? たまには朝のホームルームに顔を出しなさい」
「仕方ないじゃん。オレ、朝が弱いし」

 しれっとしてそう返したのは、寛也の出現ですっかり失念していた葵杳だった。

「って、あれ? どうして先生、後ろに…?」

 つぶやいて、壇上に目を向けてきた。慌てて逸らそうとしたが間に合わなかった。ばっちり目が合ってしまった。

「何でミルクセーキがここにいるんだ?」

 だからその呼び方はやめろと思ったが、時、既に遅かった。
 一瞬だけ間を置いて、杳はポンと手を打った。

「そういえば今日から教生が来るって言ってたっけ。それってもしかして…」

 杳の表情に僅かに笑みが浮かぶのが、はっきりと見て取れた。その表情のまま、杳は席につく。その杳に、横から大きな声で耳打ちするのは寛也だった。

「ピンポーン。就職難だからって、手当たり次第らしいぞ」
「へーえー。大変なんだぁ」

 チラリと聖輝を見やり、鼻先で笑った。

 ―――おしまいだ。

 そう直感した。

 その瞬間、聖輝は教員免許をあきらめる覚悟を決めた。





        END





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その昔、友人のリクエストで書いた聖輝兄ちゃんの教育実習物語。
2年生で教育実習はないとの突っ込みはなしで。



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