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 第39話 「研ぎ屋を呼べ」

  こんにちは。おいらは、飼い主も家も名前もとくに決めていない犬であります。川ぺりをうろついていると、いろんな人たちと出会います。犬にとっては、じいっと見てしまうこともあるけれど。
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 川ぺりの住宅街で、おいらと同じコースで歩いて行くおじさんがいました。一軒一軒、呼び鈴を鳴らして、家の人に何か声をかけて行きます。セールスの人かな?と思ったけれど、ちがうみたいです。なんと、家の人から包丁とかはさみをもらっています。えー! 何をする人か知りたくて、おいらはついて行きました。

 いくつか刃物がたまると、おじさんは川ぺりの暖かい日だまりで草の上に座り、何か始めました。ヒャキヒャキヒャキと音がします。おいらはおじさんの手元をじいっと見てしまいました。
「お、わんこ、どした。」と、おじさんは声をかけてくれました。手は休めずに話してくれます。
「何やってるのか不思議か? これはな、包丁を研いでいるんだよ。わしは研ぎ屋だからな、家を回って注文取って、こうして研いだらお金をもらうんだ。」
 へえー!そんな仕事があるのだね。おじさんの仕事をおもしろく思うのはおいらだけじゃないみたい。たまに「へえー」という顔をして通り過ぎる人がいます。立ち止まって見入る人もいます。

 「刃物はな、こうやって研がないと、切れ味が悪くなる。いつ出番がきてもすぐに役に立つように、準備しといてやれば、料理でも裁縫でも、楽しくなる。それなのに最近はなあ、驚いちゃうね、刃物が切れなくなると、もう使えないってんですぐ捨てちゃうそうだ! せいぜい簡易研ぎ器でキイキイと研ぐまねごとして、おしまいだ。おいおい、『刃物を研ぐ』って言葉を知らないのかい? 研ぎ屋を呼べばいいのになあ。」

 「・・何だか、包丁も人間も似てますね。」
少し前からひっそりと眺めていた若い女性が言いました。
「え? おもしろいこというね、お嬢さん。言われてみればそうかもなあ。
 『即戦力を期待しています』なんて言って、新人教育に時間をかけないと聞いたことあるねえ。採用されても、疲れ果てるまでこき使われて、病気にでもなればハイサヨウナラ。使い捨ての包丁とおんなじだ。使う前に刃を整える。なまったら研ぎを入れる。会社も社員に対して、そういう当然のことをしなくなったということかな。」

 女性は控えめにうなずきました。
 「私、給食調理の仕事なんですけど、栄養士の学校を出てもうすぐ1年になるのに、下ごしらえで野菜洗って皮剥くばっかりで・・。それも『ジャガイモの芽はもっと取らないと』とか、逆に『廃棄が多すぎ!無駄のないように!』とか怒られるし・・。切り物をしたいのにやらせてもらえない。切り物してる調理台とは背中合わせで洗っているから、先輩の切り方を見てみたくても無理なんです。パートのおばさんはニンジンの千切りだの、ワカメを1センチ角に切るだの、任されているのに・・。おまけに自分が研修で出ているときに限って、ベテランの調理師さんが手伝いに来るらしくて『○○さんのキュウリの切り方には惚れ惚れしましたねえ!』なんて話を聞くと、どうして私には見せてもらえないんだ!って悔しくて。何も進歩してないみたい。調理だってやってみたいけど、味見もさせてもらえないし・・。」

 女性は、一年間の仕事の愚痴を一気に口にしました。今まで、誰にも言わずに我慢していたとでもいうような感じです。それを研ぎ屋のおじさんはしっかり受け止めたみたい。
 「そっかあ、お嬢さんも大変だな。でも、同じことの繰り返しでも、とにかくやめずにな。今はこうして、砥石で研いでもらっていると考えてな。基本は挨拶だよ。自分から声出してな。知りたいことはうるさいくらいに質問して、家で野菜切る練習するんだな。『料理の勉強に味見させて下さい』ってのも自分から言ってな。お嬢さん、おとなしそうだが、控えめにしてたらそういう現場じゃ、認めてもらえないだろ? きっと先輩たちも、同じような道を通ってきただろうと思うんだよ。」

 女性の方も、おじさんの親身な言葉がとてもうれしかったみたいです。深くお辞儀をしてから歩いて行きました。
 おもしろいね、人間もひとつのことを続けるときは、包丁みたいにヒャキヒャキと研がなくちゃいけないみたいです。世間から研がれて、自分でも研いで。
 とにかく辞めずに続けられるといいね。今度、お姉さんの職場に遊びに行くから、余った給食をおいらにくれてもいいよ。わんわん。またね。

(2007.3月掲載)