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この地球の上で(耳を疑うことばかり)(2015年11月)

 思わず耳を疑った。台所仕事をしながらTVをつけっぱなしにして衆議院予算委員会中継をなんとなく聞いていたら、民主党議員の「国民基礎年金満額の月65000円で生活できるか?」との質問に、首相の「蓄えをお願いしています。」との返答が聞こえてきたことに。
 年金生活者の約4000万人のうち基礎年金のみしか受給できない人はその1/4の約1000万人。ほとんどの人は、貯蓄を切り崩しているか、節約してかつかつの暮らしをしているのだと思う。町会の仕事をしていて70歳以上の方の中には町会に入っていない人が何人もいることを知った。かつかつの生活をしていて、町会費を収める余裕がないのだと思う。他の人にも聞いてみると、どこの町会にもいるようだ。
 さて、貯金のない人はどうしているのだろうか。65歳以上の生活保護受給者は83万人。うち年金収入が生活保護費にも満たないため、年金を受けながら生活保護も受給している人が39万人。83万、39万という数字が出ているが、日本では補足率が低いので(日本では生活保護を利用できる資格がある人のうち利用している割合が1518%。ちなみにフランスは92%)、生活困窮者はもっと多いと思う。OECD(経済開発協力機構・加盟国34カ国)2010年のデータで日本の65歳以上の貧困率は19.4%。2012年の貧困ラインは、122万円で、5人に1人が貧困ライン以下の生活をしていることになる。特に男性単身者の貧困率は29.3%、女性単身者の貧困率は46%。現役時代、非正規での働き方が多い女性の方が貧困になるのは、どう考えてもわかる。厚生年金や共済年金なしの国民基礎年金だけの収入だと満額でも65000×12で年収78万円。途中収入が少なくて減免期間が長いと最低の22000×12で年収264000円の年収しかない。無年金者もいる。この収入ではとうてい暮していけないから、貯金のある人は切りくずし、働ける人はずっと働き続けるしかないが、貯金のない人や高齢になって働けない人は、憲法25条<すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。>にのっとって、生活保護を利用する権利がある。ここで問題になるは、受ける側がそれを恥と感じることであったり、出す行政の側がなるべく出さないようにしていることが、本当に必要とされる人に届かない補足率の低さに現れることだろうか。数少ない不正受給が大きく取り上げられ、バッシングされるということもあったし。
 寿命が延び、少子化が進んで、保険料を納付する人が減ると自動的に年金が減る「マクロ経済スライド」なるものが今年から発動されているらしい。ということは、これからもっと年金が減るということなのね。
 そして最近、安倍首相は、経済財政諮問会議で、法人税を早期に20%台に引き下げたいと強く意欲を示したそうだ。お金のある企業の税金を下げ、貧困ライン以下の人々からもあまねく税金をとれる消費税が上げられる。戦争のできる国になり、軍事費は増え(オスプレイ17+付属品で3600億円!で購入予定)、社会保障費や教育費は削られていく。
 一番初めの話に戻ると、今や非正規雇用者が4割を占める。雇用が不安定で、厚生年金・社会保険の保障もなく、給金も少ない現役世代だって、かつかつの暮らしの中で、どこに貯金をする余裕があるというのだろうか。
思わず耳を疑ってしまうことばかり云っている。現政権は。

この地球の上で(民主主義ってなんだ?)(2015年10月)

 「民主主義ってなんだ?」国会の前でSEALDsがコールする。人々の間から「これだ!」とレスポンス(応答)が返される。私を含め国会前に集まった人々は、民主主義ってこうやって、一人ひとりが政治を自分で考え声を上げることだと思う。
 選挙で選ばれた人だけに政治を任せておけばそれでいいとは思わない。選挙の実態をみると、2014年衆議院選では、自民党は48%の得票で議席の76%を占めてしまった。全有権者でみてみると、全国比例区で17%、小選挙区で24%の支持しか得ていない。とても民意を得ているとはいいがたい政権が、国民投票による憲法改正の手続きもへずに、解釈だけで憲法9条を変えて、集団的自衛権を行使できる法律を成立させてしまった。憲法学者のほとんどが違憲であるという集団的自衛権である。(合憲であると言っているのは西修氏ほか数名にすぎない)
 憲法98条には、最高法規の憲法に反する法律はその効力を持たないこと、99条には、政府・国会議員等は憲法を守らなければいけないと、はっきり書いてある。(ただ日本には憲法違反かどうかを裁く憲法裁判所がないので、今回の安保法制自体を裁くことは無理らしい)
 国民全員が議論し決めることなどできないので、選挙によって選ばれた議員に委ねる仕組みを「代議制民主主義」という。この代議制民主主義で安保法制が成立した。でも、民主主義って多数決で決めることなんだろうか?有権者の1/4に満たない支持しか得ていない政党が国会で過半数を占めているからといって、憲法をないがしろにしていいのだろうか?代議制民主主議ってオールマイティなものだろうか?
 明治大学院教員で作家の高橋源一郎さんとSEALDsのメンバーの対談「民主主義ってなんだ?」(河出書房新社)を読んだ。デモクラシー(民主主義)が生まれたのは2500年前の古代ギリシャのアテナイ。全員参加(とはいえ成人男性のみ)のそれは、「直接民主主義」と呼ばれている。人々はクニュクスの丘に登って、何かが決まるまで意見を云い合う。投票はしない。考えただけでもたいへんそうだが、ルールはあった。<一日で終わること、愚かなことを云ってはいけない>と。ソクラテスは、愚かな民衆が惑わされたり、扇動する人間が現れて独裁になる可能性があると反対していた。でも、ソクラテスの心配は代議制民主主義でも解決はされなかったな。ヒットラーは選挙で選ばれていたのだから。アテナイには政府はなく、行政にあたる者は任期1年で、くじ引きで決めたそうだ。権力の一極集中を防ぐという意味で興味深い。その後、長い間、民主主義は息を潜めていたが、近代に復活して今に至る。
 国民国家という枠組み自体が、まだ200年しか経っていないので、近代の民主主義は人類が選んだわりと新しい制度。デモクラシー(民主主義)とはデモス(民衆)+クラトス(権力)。代議制民主主義にお任せするのではなく、直接民主主主義のよさも取り入れて、進化させたい。選挙に行く以外にも、主権者である私たちが政治に意思を表明する方法はたくさんある。市町村議会に請願を出す、路上で声を上げる、街の中で集会を開く、新聞に投稿する、パンフレット作って配る、署名を集める・・・
 今の政権は民主主義に則ってやっていると言っている。更なる問いを発しよう「民主主義ってなんだ?」
民主主義って「一緒に社会を作っている人と、どうやって生きていくか話し合って決めること」(高橋源一郎)「その共同体の全員が当事者」(奥田愛基)「他者と生きる共生の能力」(ジョン・デューイ)・・・どれも共感する。SEALDsから投げかけられた「民主主義ってなんだ?」これからも問い続けていこう。

この地球の上で(おかしいだろ、これ)(2015年9月)

 今年もお彼岸にはヒガンバナが咲き、おはぎを作った。あたり前のことだけれど、その普通の日常を嬉しいと思った。
 9月19日、安全保障関連法案が可決されてしまった。これで日本はアメリカと戦争を共にできる国へと変容したのだった。その日のうちに出された新潟県弁護士会の会長コメントが、端的に言い得ている。「おかしいだろ、これ」
 14日以降の週に採決される可能性が高いということで、めまぐるしい一週間だった。13日は、パルコ前の公園で「戦争法案!本気でとめる」の集まりとデモ。道行く人も気軽に参加できるようにと、音楽とトークを交えたステージができ、私は友人たちと作った「憲法9条ってなぁに?と聞いてきたキミに」のパンフを配るブースを担当した。前回の集まりの時に、友人が小学生の男の子に「憲法9条ってなぁに?」と聞かれたそうだ。その時はすぐに答えられなくて「おうちの人や先生に聞いてね。」と云ったが、ちゃんと説明できるパンフを作ろうと思い立った。女7人が、メールで侃々諤々(かんかんがくがく)のやり取りをして、この日暫定版ができたのだった。松本おかんの会のHさんが作った風車(かざぐるま)を添えてパンフを手渡すと、みんな笑顔で受け取ってくれた。(イラスト入りの完成版は1034日あがたの森文化会館での「ぼくらの学校」で配る予定)
 14日、私はこの日しか国会前に行けないので13時からの座り込みに間に合うように電車に乗った。830日に続き2回目。平日の昼間なので年配者が多い。夕方になるにしたがって、勤め帰りの人や若い人が増えてきた。この日も万単位の人が集まったのではないだろうか。
 15日、この週は毎日松本駅前での座り込みがあった。浦和の娘の家から帰る電車を降り立ち、すぐに座り込みに参加。国会中継をツイキャスしたものをスクリーンに映し出し、道行く人が見られるようにしてあった。夜は市民グループ「希望・長野」の会議。
 16日は終日仕事。17日は「憲法9条って」のパンフの会議。文を修正して確定した。終わるとその足で駅前の座り込みに参加。小雨の中、温かいコーヒーを差し入れしてくれる人がいて嬉しかった。夕方からは信州大学での「信州大学人の会」シンポジウムに参加。信州大学人文学部教員・渡邉匡一さんの「戦時下における旧制松本高校生の青春」たった70年前に戦争へとかり出された人がいたことを当時の寮誌から読む。元京都大学教員の小出裕章さんの「原子力と戦争」日本は原爆を作るための中心3技術であるウラン濃縮・原子炉・再処理をすでに持つ。原子力基本法が2012年に改定されて<我が国の安全保障に資する>が加えられた。大きな流れは気づいた時には止められない。などのお話し。参議院憲法審査会や法制局にいた方の発言もあった。官僚も議員もみんな、この法案をおかしいと思っているが声に出せないでいるとのこと(たぶん保身のため)。

 18日終日仕事の後、駅前の集会とデモに参加。帰宅後TVとネットで国会の様子をチェックしていたが<延会>と出たので、寝てしまった。よもや真夜中に採決が行われたとは!この日、終電が出てしまった中、国会前では雨に濡れながらSEALsをはじめ大勢の人が一晩中抗議を続けていた。後で、映像を見て胸がいっぱいになった。ネットには「おばちゃんは、温かい豚汁やおにぎりを作って食べさせてあげたい。」との書き込みがあり、同感。(今回の路上民主主議について、海外特派員が、「ヘルシーな民主主義」と評していたが、家に帰る暇なく動いていると、コンビニのおにぎりやパン、ラーメンばかりで食事はちっともヘルシーではなかったよ。)
 一度原発の恐ろしさやおかしさに気づいてしまった人が、もう二度と原発賛成とは言えないように、おまかせ民主主義ではなく、一人ひとりが、主権者として考え声を上げることで意思を表明する民主主義に目覚めてしまった人々は法律が成立しても、おかしいことはおかしいと、これからも言い続けるだろう。今度また経済政策を持ちだして私たちの目をそらそうとしても、騙されないよ!

この地球の上で(戦後70年の8月)(2015年8月)

 じっとしているだけで汗がしたたり落ちる暑い夏だった。この暑さの中でいいことといったら、ガス代・電気代・灯油代がかさまないことと、洗濯物が早く乾くこと、そして保温なしでパンが膨らむことくらい。

 今年の盆休みも、いつものようにキュウリとナスの馬と牛を作り、樺皮で迎え火・送り火を焚き、生家のお墓参りをするといった正統派のお盆の過ごし方をした。「パン屋のケンちゃん」と呼ばれていた夫へのお供え物は、私が焼いたパンしかない。冷蔵庫から前回取り分けておいたレーズン酵母のパン生地に、全粒粉と水を足しホットケーキくらいの硬さにして酵母の状態をみる。酸味がなく、ぷくぷくと泡立てばOK。いつも水と塩と粉だけのリーンなパンを焼く。時々はクルミやレーズン、自家製伊予柑ピールも入れる。寒い時期の発砲スチロール箱にお湯を張った中にボールを浮かべるといった手間なしに、夏はそこら辺に置いても発酵するからありがたい。自分で焼いたパンが一番おいしいと手前味噌ならぬ手前パン。ただし、材料の穀物を畑で作ることからやっていっていたケンちゃんの五穀パン(実際には十穀くらい入っていた)には、かなわないと思う。

 お盆にはあの世から霊が帰ってくるという。松本に今も残る青山様は森や山に祖霊が宿っていて、そこから祖霊が帰ってくるというもの。仏教でも神道でも、身近な人が帰ってくるというのは、なんだか嬉しい。そして、戦後70年の今年、戦争で亡くなった多くの人の霊魂も帰ってきたのだろうか。身近な方たちに何を語りかけたであろうか。

 今年は戦後70年ということもあって、NHKは、戦争のドキュメンタリーをたくさん製作していた。全部は見ていないのだが、その中の一つ「きのこ雲の下でなにが起こっていたか」広島への原爆投下後から3時間後に、御幸橋で撮られた2枚の写真。証言や専門家の意見を参考に、なにが起こっていたかを分析して丁寧に検証した番組だった。この写真は、原爆の被害の大きさを隠して核兵器を開発中のアメリカに没収されて、7年後にやっと公開されたものだという。幽霊のように垂れ下がった皮膚をぶら下げ、腕を前に突き出して歩いていたのは身体につくと痛いからだが、すごい熱で身体の中の水分が蒸発して皮膚がはがれたのだと知った。痛みの中では一番ではないだろうかという。どんなにか辛かっただろう。86日に亡くなったのは、1213歳の勤労動員された中学生が一番多かった。生き残った当時13歳だった人は「私はどうして生きたんですかね。どうして助かったんかね。」という思いを胸に70年間生きてきた。「伝えるためかね。」少女が救援のトラックに乗り込もうとしたら、「女子どもはダメだ。」戦争に行けそうな若い男ばかりを助けて連れて行ったそうだ。利用できるものしか助けない。
 これが戦争。
 911日に芸術館小ホールで上映される「野火」。大岡昇平の原作を読んでいなかったので、読んだ。太平洋の島々の日本軍の兵士は、戦闘で亡くなった方より餓死された方のほうが多かった。これは、レイテ島での、そんな状況下での物語。せつない。
 安全保障関連法案の国会答弁で、弾薬は消耗品だから武器ではないと政府。核弾頭も武器ではないと言い張るのだろうか。兵站の後方支援は戦争ではないとか、都合のいい憲法解釈のように、相変わらず言葉を空回りさせている。

 安全保障関連法=戦争法に対して、高校生も大学生もママたちも、老いも若きもNO!と声を上げている。憲法の前文にある。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 そう、主権者として政府の行為によって再び戦争が起こることがないように、今は声を上げる時。お金がないから、時間がないからなどと言わずに、8301400国会前に行こうと思う。あなたも!

この地球の上で(軍隊をすてた国コスタリカ)(2015年7月)

 梅雨のあいまに考える。このまま戦争のできる国になってほしくないという多くの私たちの声を無視して、衆議院で安全保障法案が強行採決されてしまうのだろうか?集団的自衛権が戦争の抑止力になると政府与党はいう。が、アメリカの戦争に協力することこそが危険を招くはず。アメリカの敵から日本は敵とみなされるのだから。
「武力で平和はつくれない」。これを実践している国が、地球上には存在する。中米のコスタリカだ。コスタリカは1949年に発布された憲法で「恒久的組織としての軍隊はこれを禁ずる」と、軍隊廃止を宣言した。
 中米といえば、「アメリカの裏庭」と呼ばれ、アメリカの利権が絡んだ内戦が続いた地域だ。そこでコスタリカだけが何故、非武装宣言をすることができたのだろうか。もちろん、すんなりと丸腰国家が誕生したわけではない。その経緯を簡単に追ってみよう。
 内戦の続く中米で、コスタリカも例外ではなく、疲弊していた。この「非武装憲法」が受け入れられたのは、太平洋戦争で疲弊した日本で、戦争放棄の9条を持つ「日本国憲法」が受け入れられたのと同じようなものだったと思う。が、その道は平坦ではなかった。宣言直後には、隣国ニカラグアからコスタリカの内戦で負けて亡命していた一派が武装して攻めてきた。コスタリカは解体したばかりの軍をかき集め、現場に向かわせる。と同時に米州機構(北米中米南米における国連憲章に定められた地域機構。米州相互援助条約という集団的安全保障の条約加盟にあたってコスタリカは軍隊派遣義務の免除を条件につけた。)に訴え、支持される。1955年には再び、亡命一派が攻めてきたが、この時も米州機構がニカラグアに圧力をかけた。これらの危機は、コスタリカに軍事的侵略に対して外交の場に持ち込込めば、非軍事的解決が可能になるという教訓をもたらした。米州機構はアメリカが主導権をとっているので、コスタリカはアメリカのイエスマンになり下がってしまうのでは?という疑問が生まれるが、次の危機をみてみよう。
 1980年、ニカラグアで独裁御政権に対して武装蜂起した人々がサンディニスタ革命を成功させる。共産主義のサンディニスタを嫌うアメリカは、反サンディニスタ勢力コントラを作る。コスタリカにも火の粉が降りかかる。サンディニスタとアメリカにはさまれたコスタリカがとった道は「どちらにもつかない。」そして1983年「積極的永世中立非武装宣言」を発表する。この宣言は国際社会から支持を得て、アメリカの介入を防ぎ、ニカラグアを納得させることになった。コスタリカはニカラグアのみならず、グアテマラ、エルサルバドルの国々の内戦を終わらせるべく、仲介に乗り出し、1987年中米和平交渉が妥結。紛争の仲介が成功したのは、非武装だからできたこと。安倍首相の武力を使った「積極的平和」とは雲泥の差がある。コスタリカは有事のたびに、非軍事を最大の防衛力として身につけてきた。
 憲法9条戦争放棄をないがしろにする前に、学ぶべきことがあると思う。そして、日本が「主権在民」の民主主義国家であるならば、「戦争をしない」という人々の声が尊重されるべきだし、ずっと私は「戦争をしない」という意思表示をしていく。

(参考:「平和ってなんだろう」岩波ジュニア新書・「丸腰国家」扶桑社新書 共に足立力也・著

この地球の上で(手をつなぐ)(2015年6月)

 松本シネマセレクトで、いい映画を見た。「パレードにようこそ」
 ―1984年、不況に揺れるイギリス。サッチャー首相が発表した20か所の炭鉱閉鎖案に抗議するストライキが4カ月目に入ろうとしていた。ロンドンに暮らすゲイのマークはそれをニュースで見て、炭鉱労働者とその家族を支援しようと思いつく。「彼らの敵はサッチャーと警官。僕たちと同じだ」とバケツを持って、ゲイの権利を訴えるパレードで、街頭で、募金を始める。罵声を浴びながらも。LGSM(炭鉱夫支援レズビアン&ゲイ会)を設立し、募金で集めたお金を送ろうと全国炭鉱夫組合に電話をかけるのだが、名乗ったとたんに切られてしまう。そんな中ウールズの組合が受け入れてくれる。Lはロンドンの略だと誤解してだったけれど。
 支援者への感謝パーティに招かれたLGSMだが、ゲイとレズビアンだと知るや否や冷やかな態度を人々はとるのだった。しかし、話をし、一緒に踊るという交流の中で彼らの偏見もほぐれていく。組合と政府の交渉は決裂し、ストは42週目に入り、LGSMは更なる支援を決意する・・・・
 実話だそうです。今から31年前だとLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランシジェンダー《性同一障害》)に対する偏見や差別は、今より数段も大きかったと思う。その中で弾圧されている者同士が、手をつなぎあって偏見と蔑視を乗り越えた時に未来を切り拓いていく、という大きな希望を与えてくれる映画だった。
 LGBTは、20人に1人いるという。今も苦しんでいる人は沢山いるはず。心をバリアフリーにしてみたら、世界はもっと住みやすくなるのでは?東京・渋谷区では、同性カップルを結婚に相当する関係と認める条例を作っているし、世界で同性婚を認めている国は、オランダ、スペイン、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、デンマーク、フランス、ベルギー、南アフリカ、アルゼンチン、カナダ、ニュージーランド、ウルグアイ、イギリス、ブラジル、米国(ニューヨーク州、カルフォルニア州等34州)ルクセンブルク、フィンランド、エストニア(2016年より)。日本はいつになるやら。緑の党グリーンズジャパンでは、性別は戸籍上と関係なく自分で妥当だと思う性を名乗ることができるというようにして、LGBTに取り組んでいる。
 「手をつなぐ」ことが社会をよりよいものにしていくためのキーワードかもしれない。私のささやかな家計の中でも「手をつなぐ」という項目がある。わずかなカンパを送ることしかできないのだけれど、先月は、「経産省前テント村」と「パレスチナ子どもキャンペーン」と「ネパール地震支援」に送った。貧者の一灯でも、心を寄せて、つながっていることが大切だと思うから。
 今月は「辺野古基金」に送ろうと思う。沖縄の人々の民意を無視し、政府が辺野古に粛々と新基地を作ろうとしていることに反対し沖縄を支援するために「辺野古基金」が作られている。共同代表にはジブリの宮崎駿さん、報道写真家の石川文洋さん、故菅原文太さんのお連れ合いさん、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんらが名を連ねる。寄付金の7割が県外からの振り込みだというから、まだまだ世に中、捨てたものではない。
ゆうちょ銀行 店番:708 口座番号:1365941 「辺野古基金」

コザ信用金庫 那覇支店 店番号:017 口座番号:2032531 「辺野古基金」
琉球銀行 県庁出張所 店番:251 口座番号:185920 「辺野古基金」
沖縄銀行 県庁出張所 店番;012 口座番号:1292772 「辺野古基金

この地球の上で(統一地方選)(2015年4月)

 今年の4月初めの週は、暖かくて花々が一気に咲いたと喜んでいたのに、次の週は、満開の桜に雪が降り積もるという急変激化のお天気だった。でも、季節は確実に前に進んでいるから大丈夫。さて、人間の営みの方は。
 これが出る頃には、統一地方選前半の県議選が終わり、市議選が始まっていることだろう。TVで中継される国会の方が、私たちにより近いはずの県議会市議会より、身近に感じられてしまう。議員の議会での顔を見る、発言を聞くということが、私たちが自ら議会に足を運ばないとわからないからだと思う。そのため選挙の際に、誰に入れたらいいのかわからない、あの人が頼まれたから投票するということになってしまうことも多いのかもしれない。前にこんなこともあった。町会の定例会で、組長が候補者の後援を集めてほしいと町会長から発言があり、私を含めた数人から「それはおかしい」「民主的ではない」と反対意見が出て、結果、賛同できる人だけでやることに落ち着いた。選挙は、私たちが意思を政治に反映させる大事な権利。自分で情報を集め、五感を研ぎ澄まして投票したい。
 今回の統一地方選は、国政とも深く関わっている。統一地方選の結果をもって、現政権は信任を得たものとして安保法制を整えていくだろうから。どのように変えていくのか。
 「周辺事態法」から、現行の「周辺事態」を取りはらい「重要影響事態」として、地理的制約をなくし世界中どこでも米軍の後方支援に行けるようにする。
 新たに「存立危機事態」を作り、日本と綿密な関係にある他国への攻撃により、日本の「生命、自由、及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危機がある場合」に武力行使できるものとする。ややこしい表現なので、噛みくだいて言うと、日本と仲よしのアメリカが攻撃された時に一緒に戦争ができることにする(集団的自衛権)。世界中で戦争ばかりしているアメリカと一緒に戦争に参加するほうが、「生命、自由、及び幸福追求の権利」が脅かされるのでは??
 そして、こんな集団的自衛権行使容認に対して、私たちの身近な市議会の議員が、一緒に反対して政府に意見書を出してくれると思いたいが、とんでもなかった。賛成してくれたのは、30人中8人だけだった。(詳しくは昨年の伝言板に書いたとおり)
 いのちが大切にされる平和な未来・希望の持てる社会を築くために、一人ひとりの市民が主体となって、幅広く手をつなぎ、現憲法を守り、原発をなくし、格差貧困のない社会をめざす市民グループ「希望の種」が、<超スピードで「戦争のできる国」へ向かっている今、どんな選挙も棄権はキケン!>といカラーチラシを作り、裏面には集団的自衛権と原発再稼働に対して個々の議員がどのような考えを持っているかを一覧表にしたものを載せたので、多くの人に見てもらいたいと思っている。ご覧になりたい方は、声を掛けてください。
 戦後70年の今年、戦争体験が希薄なっていく中で、再び武力行使(戦争)ができる国にと向かっている。沖縄ひめゆり部隊の生存者が、私たちに語りかける。
 「戦争は始まったら止められない。」
そう、今は始まらないように力を注いでいくしかない。

この地球の上で(4年目の3.11)(2015年3月)

 福島原発事故から4年がたった今年の、脱原発信州ネットワーク・松本主催の「つながろうフクシマ・ひろげよう脱原発」の集会宣言を書かせてもらうことになったので、思いのたけを綴らせてもらった。(私の原文に一部追加訂正あり)
 ここには書ききれなかったが、福島の子どもたちに112人の甲状腺癌が見つかっている。浜通りに関しては、日本の平均の30倍という異常多発である。チェルノブイリでは年間5ミリシーベルトで強制退去させられたのに、今福島では20ミリシーベルトで避難解除が行われている。一体この国は何を考えているのだろう。原発を推進してきたドイツのメルケル首相は、3.11福島原発事故をみて2022年までに原発を全廃するという英断をしているのに。
  <集会宣言>
 福島第一原発事故から、もうすぐ4年が経とうとしています。未だ事故の責任は問われず、事故の被災者の生活は壊されたままです。しかし、福島の人々も私たちも諦めてはいません。
 昨年11月、飯館村民の約半数にあたる2,837人が、東京電力に対して賠償の増額や慰謝料などを求めて、原子力損害賠償紛争解決センターに申し立てをしました。飯館村は、酪農などを中心に農業で生計を立ててきた村です。山も川も大地も放射能で汚され、全村避難を強いられています。原発事故によって奪われた生活、その保証もなしにこれから先どうせよと言うのでしょうか。怒りを共有しましょう。
 また、原発事故の責任者たちの刑事裁判を求める福島原発訴訟団は、東京地検によって今年1月、再度不起訴とされましたが諦めていません。東電は津波の高さを予測しながら対策を怠ったという新たな証拠をもとに、新たな告訴を始めています。
 子どもたちの健康被害も心配です。政府は汚染された地域から避難もさせず、放射能の安全神話をふりまいています。長野県内では、子どもたちを留学させたり、休みの間だけでも保養させたり、避難者の相談に乗る取り組みが数多くなされています。本来ならば、原発を推進してきた政府がやるべきことを、人々のカンパに頼って行っているため、どこのグループも資金不足に悩んでいます。
 私たちは、福島や関東圏で被害にあわれた方々に思いをよせ、これらの行動を共にし、支え合っていきましょう。
 原発事故が未だ何の解決もせず、放射能が今も漏れ続ける中で、政府と電力会社は原発を再稼働させようとしています。原子力規制委員会は、昨年の九州電力・川内原発12号機に続き、今年2月には関西電力・高浜原発34号機が、新規制基準に適合していると認めました。避難計画の妥当性の評価を除外したままで、今年の夏には再稼働する可能性があります。原発が止まっていても電力不足が起きていないにもかかわらず、また、世論調査では国民の半数以上が反対しているにもかかわらず、なぜ再稼働させるのでしょう。相変わらず、いのちより目先の経済が優先です。
 事故が起きれば、元通りにはならないことは、4年前の事故で身を以って体験したはずです。そして原発を運転すると核のゴミは貯まっていくのに、その処分方法さえ決まっていないのです。
 私たちは原発の再稼働を許しません! そして、核エネルギーを消費する社会から、自然との調和のとれた真の豊かな社会への転換をめざします。

この地球の上で(イラクのお菓子)(2015年2月)

 1月の雪の降る日、日本チェルノブイリ連帯基金の主催で、イラクのお菓子をフダさんが教えてくださるというので参加した。イラク人のフダさんには、前に野菜の中にお米とひき肉を詰めて炊きこむ「ドルマ」を教わったことがある。今回はお菓子。イラクのお菓子ってどんなだろうと雪道を小1時間歩いて出かけた。作ったのは「クレチャ」。小麦粉にバターやサラダ油、パン酵母を入れた生地をのばして、丸くくり抜いたものにクルミと砂糖を包んだり、デーツ(ナツメヤシ)を温めて練ってあんこのようにしたものを生地の上に広げクルクル巻いて切り分けたものをオーブンで焼く。おやおやで売っている「カルアシチミーのパイ」と「おやゆびトム」を思い浮かべてもらって、そこにカルダモンの香りを加えてもらうといいかもしれない。イラクの人はカルダモンが大好きなようで、最後に塗る溶き卵にも加えていた。コーヒーにも。極細かなコーヒーの粉とお湯を小鍋に入れカルダモンを加え、ゆっくり、丁寧にかき混ぜながらコーヒーを煮だし、そのままカップに注ぐ。こちらはバリコーヒーにカルダモンの香りを加えたものを想像してもらうといい。(ちなみにアフガニスタンの人は緑茶にカルダモンを入れる!)

 フダさんの娘さんのリカアさんは医師で信州大学に研修に来たことがある。今回はイスラム国がイラク北部のモスルに侵攻し、キリスト教徒であるフダさんとリカアさんは身の危険を感じ、前に来たことのある松本に避難してきたのだった。おいしいお菓子をいただきながら、リカさんからイスラム国によるキリスト教徒への弾圧の惨状を聞いた。おりしも、2日前に湯川遥菜さんと後藤健二さんが拘束されているビデオが公開されたことがあって、マスコミが複数社、取材に来ていた。参加者の一人としてインタビューされたので「そもそもは2003年にアメリカがイラクを攻撃したことから始まった。今回のことは外交で何とか助けてほしい。このままでは、暴力の応酬はひたすら続くと思う」と答えたのだけれど、前半の部分はカットされて放送された。(NBS
 2003年、米国はイラクが大量破壊兵器を持つとして攻撃した。攻撃前でさえ経済封鎖で医薬品の輸入を止められ、殺菌されない飲料水によって子どもたちが下痢や風邪といった病気で亡くなっていくという状況だった。あるいは湾岸戦争時に米国が使用した劣化ウラン弾(ウランの中から原発や核兵器で使うウラン235を取り出した後に残る劣化ウランウラン238は、貫通力が強いため砲弾として使用)によって、子どもたちが白血病になり障害を持って生まれているイラク。石油の利権やアメリカ型グローバリズム経済を中東に広げるために、ありもしない核兵器疑惑で米国はイラクを320日に攻撃を開始し、日本はわざわざ新しい法律を作って自衛隊をイラクの「非戦闘地域」に派遣した。フセイン政権は倒れたものの、その後イラクは混乱に陥り、イスラム国が誕生していく。暴力が新たな暴力を生む。悲しみが新たな悲しみを生む。
 ここで思い出すのは、中米の小さな国コスタリカ。1979年隣国ニカラグアのサンディニスタ政権と米国の後押しのあるコントラが戦っていた時に両方から支援を要請されるのだが、第三の道を選び、「積極的永世非武装中立宣言」をする。1949年に軍隊を廃止したコスタリカは、ずっとどこの国とも敵・味方にならないと世界に宣言したのだった。
 ノーム・チョムスキーも言っている。「テロを止める簡単な方法は、参加しないこと。」
米国の有志連合の側に立つと表明して、日本は敵を作ってしまった。中立の立場にあって人道支援を行っているNGOをも危険に落としかねないと心配だ。

この地球の上で(憲法の「空語」を充たすために)(2015年1月)

 新しい年が明けた。昨年暮れの選挙から、2015年がどんな年になっていくのか気になっている。全有権者の17%しか信任を得ていない自民党が原発を再稼働し、集団的自衛権の行使のために法整備をしていくことは間違いなさそうだから。彼らは改憲にも意欲的だ。
 お正月に「憲法の『空語』を充たすために」内田樹(フランス現代思想・武道家)<かもがわ出版・税込972円>を再読した。カタログハウスの「通販生活」秋冬号の表紙で「目からウロコ本第1位はこれだ。わぁ目からウロコがポロポロとれていく・・・。」と紹介されていたから、お読みになった方もいるかもしれない。
 タイトルの「憲法の空語」とはなんだろう。憲法とはその国家の「あるべきかたち」を指示するもの。指示するものでしかないから、それはまだない。それを実現しようとする生身の人間がそれを実現する。アメリカの独立宣言もフランスの人権宣言も、できた時には「空語」だった。全ての人の平等を謳った宣言が出されても、アメリカで奴隷制が廃止されたのは南北戦争後で、90年たっていた。事実の積み重ねによって充たさなければならないという強い責務の感覚がアメリカ人やフランス人にはあったが、日本人にはなかったから日本国憲法が今のように軽んじられていると内田はいう。
 立憲主義というのは、国民が憲法制定の主体であるという法擬制だそうだ。1946年憲法が発布された時、「日本国民」という実体はいなかった。(大日本帝国憲法では国民ではなく、天皇の臣下である「臣民」だった)戦争が終わった時に敗戦責任を引き受けることのできる主体を立ち上げることができなかったという歴史的事実が憲法の本質的な脆弱性であり、その起源において主体の欠如を充たすために「空文であった憲法を私たちが現実化した」と名のる主体を立ち上げること、憲法という最高法規にふさわしい重さや厚さや深みをどのように与えていくか、どのように実質を込めていくかが私たちに課せられた課題だ。9条だけは、戦争に負けた日本を軍事的に無力化するという戦略の帰結であっても、70年間どこの国とも戦争をしないで守り続けてきて、空文でないものにしたのは私たちだと誇ってもいい。
 ところが、自民党憲法草案では、制定主体の国民に憲法の尊重擁護義務が命じられていて(現憲法では天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員が命じられている・99条)、草案の憲法の制定主体が国民ではないことを暴露してしまっている。
 昨年12月の衆議院選では争点があたかも、経済政策だけのように報じられていた。暮らしが良くなるようにとは、全て人の願いだと思う。「人民の安寧が最高の法なり」。このラテン語の古い法諺の安寧salusには、健康、幸福、無事、安全、生存、救済の意味はあるが、「金」は含まれていないそうだ。経済成長=幸せではない。2013年の経済成長率トップ6が、東スーダン、シエラレオネ、アフガニスタン、モンゴル、ニジェール、トルクメニスタンと内戦、クーデター、独裁の国が占めることからもわかる。経済成長せずとも、人々が安寧に暮らせる道を探ることはできるはずだ。
 紙面の都合で、グローバリズムとナショナリズムや、国の統治を株式会社の論理で行っていることなど紹介しきれなかったので、目からウロコの「憲法の『空語』を充たすために」を読んでください。「金がないから不幸になる。軍事力がないから侮られる」と思われる方も是非。

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