Yakkoのページ  この地球の上で&四季の台所 2007年

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この地球の上で(緑といのち)(07.12月)

 12月に入るとなんとなく気ぜわしい。子どもたちが楽しみにしているクリスマスの用意、学校の懇談会、年賀状も書かなくっちゃ・・・

 でも今は、子どもたちはお出かけ中、掃除も洗濯物の片付けも終わって、ひとりでコーヒーを入れてゆっくり庭を眺めてみる。冬でも緑がたくさん残っているのに気がついて、なんだか嬉しい。狭い庭なのに金木犀、椿、枇杷、沈丁花、松、鉢から地面におろした毎年大きくなっていくゴールドクレスト、ローズマリー、実が赤くなり始めた万年青、クリスマスローズ、ラベンダー、曼珠沙華、パンジー、リュウノヒゲ、スープセロリ、小松菜、チェリーセージ、レモンバーム、紅葉中のいちごとニリンソウとセージ、ハコベ、タンポポとけっこうな種類。

土の下ではチューリップ、水仙、そして今年初めて植えたアネモネとチオノドクサと植えっぱなしで勝手に増えてくれるというまさに私向きのトリトニア・ラクシフォリアが春を待っている。

なぜ人は緑が好きなんだろう。部屋の中にもグリーンを置いて安らいだりする。北欧で冬至に樅の木を飾り、私たちが松を新年に飾るように、緑は生命の存続を象徴しているからにちがいない。緑の木々に生命の存続を見ること、それは又私たちが自然とは切っても切れない関係であることを表わしていると思う。

草や木なしには人類は生きてこれなかったはず。食べ物として、衣類として、住居として、エネルギーとして生命を支えてきてくれた。そんな草木に、山、川、火に神さまとして畏敬と感謝をもって、手を合わせてきたのは自然なことだったのだろう。ちょっと前まで、そう、私の明治生まれのおばあちゃんは朝起きると一番に朝日に手を合わせ、水の神さま、荒神さま(火の神さま)を大事に祀っていた。おばあちゃんは町の人だったけど、土を耕す人々は稲の神さま、山の神さまも大事にしていたことだろう。これらの神さまは、明治に近代国家形成のために絶対的存在として正当化されて作られた国家神道の神とは性格の違う、私たちの生活に根ざした神さまだった。その神々としての自然を収奪するなどもってのほか。例えば山菜はほしいからと全部採ってしまったら来年芽が出てこないので、いる分だけ採るというのがお約束事だった。今、私たちは輸入材が「安い」という理由だけで熱帯雨林の木を切り続けている。

地面に光が届かないといわれていたマレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の原生林は9割が失われたという。しかも、最近では石鹸や食品になる食用油やバイオ燃料の原料として需要が拡大しているアグラヤシのプランテーションに変わっているらしい。森には食べ物が、薬、建材など生活に必要なすべてのものがあった。森とともに暮すプナンの人々は「伐採だけの時はまだ新しい木が生えてきたが、アブラヤシだけの単一の農園はわれわれの暮らしを完全にだめにする。」と云っている。自分たちの快適さ、便利さのために誰かの生命や暮らしを脅かす行為の中にはもう神さまはいない。

地球温暖化STOPの活動やエコロジーの中に、生命を存続させる思想哲学が生まれつつあるが、これも緑とは切っても切れない思想哲学であるはずだ。

年の瀬の忙しさが始まる前に、ちょっと一息入れながらこんなことを思った。

・・・・Information・・・・

ドキュメンタリー「いのちの食べかた」上映

監督:ニコラウス・ゲイハルター(オーストリア・ドイツ2005年)

1月13日(日)13:30〜  1月14日(月)16:00〜     ◇ 松本市 Mウィング6Fホール

前売:1400円 当日:1800円     ◇問合せ:松本シネマセレクト(0263-98-4928)

―予告編で見た、まるで工場製品のように扱われるひよこ、豚、牛、農作物のいのちたち。
これを食糧生産のグローバル・スタンダードとする世界に住むことを拒否したくなった。

この地球の上で(冬支度)(07.11月)

 モモとモクレンの葉が庭をおおっている。去年、町内子ども会の清掃活動のために竹箒を買っておいてよかった。こんなにスグレモノだとは知らなかった。落ち葉掃きが楽しい。

 葉っぱがみんな落ちてしまったら、いよいよ冬の到来だ。

 うちは暖房を灯油に頼っているので、値上がりが辛い。原油の先物価格が高値で止まっているためだそうだが、オイルマネーやヘッジファンドのような世界のお金の投資の動きは、私の理解を超えていてよくわからない。お金が利益を生むために問題が起きているからと、物々交換のような地域通貨が提唱されて実践もされたりしているが、とてもグローバルな経済に太刀打ちできる実力は持てそうもないようだ。

 さて、今年は光熱費節約のためだろう、家庭用品売り場では断熱グッズが目につく。コタツやホットカーペットの下に敷くシート、ガラス窓に貼るもの、カーテン下の冷気を防ぐシートなどなど。灯油や電気を使わないにこしたことない。

 まずは、居間のカーテン。気に入ったカーテンが見つからなかったので、白い厚手のインド綿を買ってきて作ったものが、洗い縮みして丈が短くなっている。しっかりした丈のカーテンを新調することにして、落ち着いたグリーンのものが半額になっていたので買ってきた。それからコタツ。うちにはオソロシイうたた寝魔がいるので、コタツはなるべく作らないようにしている。フローリングにただのラグを敷いているだけなので、二畳用アルミシートを買ってみた。テントの中に敷くものと同じだから夏にはアウトドアにも使えそうだ。

 さて問題は、北側の台所の窓。暖房していてもこの窓に近寄ると冷気が漂っている。夏はカフェカーテンでおしゃれしているこの窓、冬は自作の丈の長いカーテンに付け替えてはいたけれど、今年はもっとグレードアップしようと思う。梱包のクッションに使われるプチプチ(・・・でわかります?つい指でプチプチつぶしたくなるあれです。)をガラス窓一面に貼り付けるというもの。磨りガラスで外の光が直接入ってくるところではないので、うっとうしくなるという心配はなさそう。そうそう、先日NHKの「住まい自分流DIY」で、プラスチック段ボールとアルミチャンネルで自分で作るという二重窓を紹介していた。電気ドリルなどお持ちで大工仕事に自信のある方はテキストを参考に作ってみてはいかがでしょう。(テキストには短いカーテンにアジャスター付のフックをつけたり、裾に布を足して長くするというアイディアや、障子の内側にも障子紙を貼る太鼓張りというやる方なども紹介してあるはず。)遮熱高断熱ペアガラスに取り替えるという方法もあるらしいがこちらは予算が必要。

うちでは、あとは、ポンちゃん(ネコ)に戸を開けたら閉めるという躾ができたら、防寒対策は完璧なのだけれど・・・無理よね。

友人に、石油のためにイラクで殺されている人がいることを考えると石油は使えないと、この寒い松本で何年かストーブなしで生活している潔さがすごい人がいる。その彼女が80歳を超えたお母さんを茨城県から呼び寄せて一緒に暮らすために家を新築した。暖房なしの生活をするわけにはいかず、ログキャビンにペレットストーブを使うそうだ。廃材やおが屑、間伐材などをペレット状にして燃料とするペレットストーブは温暖化STOP!で環境にやさしそうだが、本体価格の高いのと耐熱リフォーム、煙突取り付けなどの費用がかかるのが難点で、私には無理だけれど、一度成果を見におじゃましてみようと思う。

今年は暖冬になるか厳冬になるか、地球温暖化=気候変動なので、どうなるかわからないが、エネルギー消費が少なくなるように工夫していこう。

四季の台所(上映会のカレー) (07.10月)

 10月になって、夏から一気に秋になってしまった。冬近し。そして2008年まであと2ヶ月余り。来年2月になると、六ヶ所村(青森県)再処理工場の本格稼動が始まる予定だ。この再処理工場をめぐる映画「六ヶ所村ラプソディー」の上映会が先月開かれた。再処理工場というのは、原発の使用済み核燃料から、プルトニウムを取り出す施設で、プルトニウム生産工場である。このプルトニウムを再び燃料として電気を起こすというのだけれど、そのための高速増殖炉もんじゅは、事故で止まったまま、ウランとプルトニウム混合燃料を燃やすプルサーマル計画も止まったままで、使い道のないプルトニウムが年間最大8t(長崎型原爆1000発分)、ひたすら増えることになる。再処理の工程の配管は約1500km、配管の継ぎ目は40万箇所、この複雑なシステムに事故が起きないと誰がいいきれるのだろう。もし、事故が起きなくても、原発1年分の放射能を再処理工場は1日で出すそうだ。

「六ヶ所村ラプソディー」は、核とは共存できないとチューリップや野菜を育てながら反対する「花とハーブの里」、これが最後の無農薬トマトになるかもしれないよと売る有機農業者、慈しんで育てた無農薬のお米を再処理工場が稼動したら買わなくなるかもしれないと書かれた消費者からの手紙、そして再処理工場で働かなければ子どもを育てられないという労働者、反対したけど作られてしまった工場に今は沈黙する漁師さんたちなどなど賛否両方の六ヶ所村を描いた映画だ。国策として進められる再処理工場は、本当に必要なの?遠い青森県の再処理工場は原発の電気を使っている私たちとは無関係なの?と様々な問いを見る者に投げかけてくる。

声掛け合って集まった実行委員会で、実行委員長は高校生が勤めてくれた。書籍の他に六ヶ所村の昆布や、映画を観て「花とハーブの里」をひっきりなしに訪ねてくるおなかをすかせた若者の食費に全額カンパされるチューリップのポストカードもある物販、再処理工場の写真をみんなのチューリップ型のカードで埋め尽くすメッセージボード、私にできることは何か?と作られたちらし、託児、手作り野草茶とチューリップ型のクッキーがあるカンパ式のカフェ、幕間に流れるスライドショーなどに30人以上の人がスタッフとして参加した。朝昼晩の3回上映なので、スタッフ用お昼も用意される。何がよかったかといえば、お昼ご飯がおいしかったこととの感想。そりゃそうでしょ、辰野町で有機農業をしている小沢尚子さんが提供してくれたお米と雑穀のご飯に、畑の野菜で作られたカレー。手作りの福神漬けも添えられてね。あまりにおいしかったので、うちで再現してみた。それで今回は、季節とはあまり関係なく食べるカレーです。

小じゃがごろごろカレー

  1. みじん切り玉ねぎをよーく炒める
  2. ひき肉とにんじんも炒めて、皮付き小じゃがと水を加えて煮る。じゃが芋の芽が出ていたり皮がきれいでなかったら、皮をむいてもいい。
  3. ルゥも加えて煮込む。
  4. じゃが芋をスプーンでくずしながら食べるのが楽しい。

福神漬け

  1. 大根、にんじん、なす、きゅうりを食べやすい大きさに切る。しょうがは千切りにする。レンコンはうす切りして、さっと茹でる。これからは、なすやきゅうりの季節ではなくなるので、かぶや、カリフラワー、ごぼうなどもいいかもしれない。全部で1kg用意する。
  2. 水1ℓに塩80gを混ぜたものに野菜を入れ、重石をして一日置く。(これだけでもおいしかった。が、ここで食べ過ぎたら福神漬けができない!)
  3. 醤油、300cc、洗双糖200g、酢60cc、酒70ccを沸騰させ、冷めてから、野菜の水気をきつく絞って入れる。シソの実の塩漬けや味噌漬けがあったら加えると風味がよくなる。
  4. 食べて水っぽいようだったら、漬け汁だけ焦がさないように煮詰める。

四季の台所 (かぼちゃ料理) (07.9月)

 9月になってもまだまだ昼間は暑い日が続きそうだが、夜、虫の音と一緒に入ってくる風は、すっかり秋のもの。

今年は、つるなしインゲンを作った。私のうちみたいに狭い庭では、丈が低いままで実を成らせてくれるつるなしで正解だった。倒れないように「手」を立てるには、2列にしないといけないのだけれど、そうするとかなりうっとうしいのだ。8月中は毎日すらりとしたきれいな実をならせてくれたのだけれど、この頃は葉っぱも落ち、曲がった小さな実しかとれない。ご苦労さんでしたと、そろそろ片つけなくては。やはり8月中、毎日実を採っていた黒イチゴもだんだん寂しくなってきた。鍋1杯になるまで冷凍してためたイチゴを昨日2回目のジャムにしたところ。

 つる性の黒イチゴはお隣のフェンスに這わせているが(勝手に使ってごめんなさい)、つるでも、かぼちゃはフェンスに這わせるわけにはいかないので、堆肥から出てくるかぼちゃの芽は再び堆肥に戻ってもらっている。おやおやのかぼちゃが480円/kgから300円/kgにと安くなってきたので、これからは、かぼちゃもたくさん食べようとかぼちゃ料理を紹介します。

雑穀とかぼちゃのスープ(4人分・「うかたまvol.5」より)
 ―かぼちゃの甘味と雑穀のとろみとペンネの歯ごたえがいい感じ。これだけで朝ごはんになる。
【材料】
  • にんにく1/2かけ ………みじん切りにする
  • 玉ねぎ 中1個  ………縦に薄切り 
  • かぼちゃ 100gくらい……一口大に切る
  • ひえ、もちきび 各1/4カップ 
  • ペンネ 1カップ弱(50g)
  • スープストック3〜4カップ
  • 塩、油
【作り方】
  1. ペンネを茹でておく。
  2. 油を熱し、にんにくを炒め、香りが出てきたら玉ねぎも炒める
  3. 洗った雑穀と、かぼちゃ、スープを入れて、柔らかくなるまで煮る。
  4. ペンネ、塩、青みを加える
うなぎとかぼちゃの煮物(2人分)
―スタミナがつきそう。でも、かぼちゃをたくさん使って煮たら、うなぎがどこにあるかわからくて悲しかったので、ご注意を!
【材料】
  • うなぎの蒲焼 1パック …短冊切り
  • かぼちゃ 150g
  • さやいんげん
  • にんにく1かけ(なくてもいい)
  • 油、しょう油、みりん、水
【作り方】
  1. にんにくを香りが出るよう炒める。
  2. かぼちゃを炒め、調味料を加えて煮る。
  3. 柔らかくなったら、うなぎ、いんげんを
かぼちゃプリン(4個分)
―卵入りの蒸プリンはこってりしているけど、こちらはさっぱりプリン。
【材料】
  • かぼちゃ 100g(皮をむいて正味)
  • 牛乳 500t
  • 棒寒天 1/2本
  • 洗双糖…1/2カップ
【作り方】
  1. 寒天をちぎって水にふやかしておく。
  2. かぼちゃをふかして、マッシュするか裏ごしする
  3. 牛乳に寒天を入れ煮溶かし、かぼちゃと洗双糖を加え型に流して冷やし固める。

 他にも・・・かぼちゃのポタージュ、ただ素揚げしてゆずポン酢をかけたもの、かぼちゃのコロッケ、かぼちゃあんのお焼きやおまんじゅう、書いているだけで、おなかが空いてきた。       

この地球の上で (私たちとは誰か)(07.7月)

松本でも何回か話していただいたことのある一ツ橋大学大学院教授鵜飼哲さんが、ここ何年かは塩尻アイオナ教会(日本キリスト教団)で「政府の平和と私たちの平和」というテーマで話しに来られている。このテーマを発案したのは、横田幸子牧師。政府の使う「平和」と私たちの考える「平和」とはどうやら同じ言葉でも、意味が違うらしい。例えば、政府はイラクの平和のために自衛隊を派遣したというが、私はイラクの平和のために自衛隊を撤退してほしいと思う。まるで正反対に使われるこの言葉を、鵜飼さんと共にじっくり考えようという集まりである。前の年の話を聞いた何人かが発題する。それに応答する形での鵜飼さんの話というスタイルで続いている。

前回までを復習しつつ考えてみた。国家によって、唯一人を殺す武器をもち使うことが認められている警察と軍隊が国家の内の平和を守るために存在する。これで守ろうとするのは、ある一定の領域の内部での平和だ。領域内の秩序や豊かさ、繁栄を守るために、他者を殺してまで得ようとする平和である。領域を作って、それを守るために戦争が起こるならば、私たちが、人が人として生きていくために、領域の境をとりはらって、ボーダーレスでつながっていけばいいのだろうか。では、領域を超えたところで「私たち」とは誰だろう。

北朝鮮の人々は「私たち」とは違う「あいつら=他者」なのだろうか。その国の政府がどんな政府であろうと、そこには日々の営みをして、ささやかな幸せで生きたいと願う人々が暮らしているはずだ。そんな人々は「私たち」とどこが違うのだろう。仕事をし、毎日のご飯を作り、天気のいい日には気持ちがいいと洗濯物を干している「あなた」と「私」が「私たち」に、死にたくもないのに殺されるのはイヤだと思う「私」と「あなた」が「私たち」にならないだろうか。ある一定の領域内に自分の感覚や意思が押し込められ、人とひととのつながりが断ち切られていないだろうか。

「私たち」とは危うい言葉だ。「私たち」がある一定の領域内で同質の集団として成り立つために、個々の違いを認め合わずに、あいまいにするために発せられてしまう。戦争中、「私たち日本人」が一丸となって戦争をしている時に、戦争反対を叫ぶものは、「非国民」として排除された。あるいは、選別された。アジアで、日本で、戦争で数多く死んでいった人の中から、国家のために命を捧げ戦った兵士だけを靖国神社に神として祭り上げ顕彰するというふうに。

いやこれは昔話ではない。最近だって、イラク戦争で人質として拘束されたイラクの子どもを支援している高遠菜穂子さんや劣化ウラン弾の被害を知らせようとした今井君に対して日本の社会が行ったバッシング、「非国民」の罵声の数々。彼らはいまだ心の傷を抱えたままだ。

「私たち」と「国家」の関係は、現憲法にあるように主権者である「私たち」が「国家」の権力を制限するというものだ。ところが自民党改憲案を読むと、現憲法で私たちに課せられている義務が納税と子どもに教育を受けさせることしかないのに、いたるところで私たちに国家に対する「責務」が課せられていることに気づく。それは、国家のために責務を果たす人間がいなければ、戦争などできないからだが、私たちは国を守るために生きている存在ではないはずだ。殺す権利も殺される義務もなく、人間として幸福に生きていく権利があるだけだ。改憲というのは、「私たち」と「国家」の関係を変質させるものであることに注目したい。

領域と領域の間の平和は、武力によって他の領域に暮らす「私たち」を殺すことなく、多国間協議を重ねたり平和条約を結んだり、非核地帯を作り上げたりと、あらゆる努力を重ねて作り上げていくしかない。そこで大きな力を発するのが、日本国憲法9条ではないだろうか。

今年の集まりで、「私たちとは誰か」を発題してほしいといわれたので、こんなことなどを出してみたいと思う。これに対する鵜飼さんの応答をお聞きになりたい方は

8月5日(日)14:00〜16:30塩尻アイオナ教会(レザンホール西側 52-1889)

「政府の平和と私たちの平和」講師:鵜飼哲  参加費:300円

にどうぞお出かけください。

この地球の上で(キャンドルナイトに考えた温暖化問題)(07.6月)

 6月22日に松本美術館でキャンドルナイトをやるという回覧板が回ってきたので、興味を持って仕事の帰りに寄ってみた。あいにくの雨降り。それでも芝生や軒下では蓋つきのろうそく立てに灯がともり、竹を使ったろうそく立て作りのワークショップをやっていた。傍のレストランの電気の強い明かりに対して柔らかな光がきれいだった。雨さえなければ、プラスチック製の良いろうそく立てでなくともアーティスト・春のうららが考案した、リユースの空き缶(それも形や大きさからいってネコ缶が一番らしい)に廃油のてんぷら油を入れて100%綿ロープを芯にした明かりで十分きれいにできるけどな、と思った。去年は千歳橋のあたりで灯したようなので、防火上、火が直接出ているといけないのかもしれないが、プラスチックのこのろうそく立てを作るのにどれだけCO2が出たのかしらとつい思ってしまう。ネコ缶あかりを何十個と長良川の川原に子どもたちと並べたことがある。渦巻き模様に並べたり、どこまでも直線を作ったりの光のアートは、すてきだった。

6月22日夏至の日のキャンドルナイトを、環境のために何かやっていますという打ち上げ花火に終わらせないためにはどうしたらいいか。あるいは安陪首相がリビングの電球を白熱電球から電球型蛍光ランプに変えて温暖化対策をやりましょうというパフォーマンスをみせたらどうしたらいいか。

今世界では、72億トンのCO2が排出されるが、森林や海での自然界の吸収能力は31億トン。残りの半分以上のCO2が温暖化の原因になっているので、排出を半分にしないと温暖化は止まらないと先日のG8では2050年までに半減するというシナリオができた。日本では大阪万博が開かれた1970年ごろが、今のエネルギー消費の半分だという。しかし、京都議定書で2012年までに6%削除しなければいけない日本は、逆に8.1%増加している。おいおい、これではレジ袋をマイバック持参に変えても、電球を蛍光灯に替えても、道は遠すぎる。ハチドリのひとしずくで自分にできることをしていればいいというレベルの時点ではない、自分にできること以上のことをしなければ、もう間に合わないと言う人の話をキャンドルナイト・トークの中で谷崎テトラ氏が紹介してくれたがそうだと思う。

国連安全保障理事会の席でナミビア代表が、「今、生物多様性の豊かさで知られた土地で多くの動植物種が絶滅しつつある。発展途上国が『低強度の生物・化学戦争』にさらされている様なもの。生死に関わる問題だ」と発言した。CO2は先進国が排出したものが77%を占めている。エネルギーを消費する先進国に住む私たちは、この言葉になんと答えていったらいいのだろう。

 排出量世界第1位のアメリカが、バイオ燃料の比率を増やしている。生産や消費をそのまま続けて、代替エネルギーに変えればすむことだとは思えない。バイオエタノールの原料のとうもろこしの価格が高騰している。60数億の世界人口は、2050年には90億人を超えると予測されている。穀物を人が食べるか車が食べるか、食糧問題とエネルギー問題との競合が始まったが、けして食糧が余っているわけではないのだ。

 そして、温暖化が進むと、雨が多いところはますます雨が多くなり、少ないところはますます少なくなるという異常気象が起こる。それは、砂漠地帯はさらに砂漠が広がるということで、アフリカの飢餓はますます進むだろう。中国も砂漠地帯が広がっている。今まで食料輸出国だった中国が人口増加もあるだろうが、昨年から食料輸入国に転じたそうだ。

 世界−特に先進国は、エネルギー消費社会から持続可能な社会への転換を図るしかないと思う。経済産業界からの反発は強いだろう。しかし、非正規雇用者を増やし、どんどん消費させて、自由に利潤を追求する社会を続けて、地球レベルで国が水没し、生物の種が次々と絶滅し、病気や災害や戦争、飢餓で死ぬ人がいる問題にいつまで目をつむり続けるというのだろうか。先のパフォーマンスについていうならば、電球ぐらい自分で換えられる。それより首相には、新自由主義や改憲をすすめるやり方がCO2削減につながるかと問いただすことこそやってほしいものだ。

この地球の上で(シーバルクで遊ぼう)(07.5月)

こんなはずではなかった。連休中は遠出する予定もなく、庭をちょこちょこいじったり、セーターをしまったり、台所にこもって、ひたすら何かを作ったり、ちょっと遠いレンタルビデオ屋まで頑張ってチャリで行ったり、つまりはのんびりとした休日になるはずだった。

連休中に10年間続いた神宮寺浅間尋常学校の閉校記念イベントも開かれたけれど、お金がないので、その中の参加無料の「シーバルクで遊ぼう」を主催する沢畑勉氏に会いに行こうかなと思っていた。

ところが、その沢畑氏から連休前日に、東京から電話がかかってきたのだ。

「今、ベットの上から電話しているんだけど・・・・」聞けば、39℃の熱を出して松本に行けそうにない、神宮寺に行ってシーバルクを手伝えということらしい。

そもそもシーバルクとは何ぞや?パンフレットの説明によると、「農業用ビニールシートを貼り合わせ、送風機で空気を送って風船のようにふくらませた巨大な空気のオブジェ、中に入って遊ぶことができる」・・・??おもしろそうだけど想像できるような、できないような。行ってみないと分からないと思っていたけど、本当に行くはめになってしまった。

3日は家事を片付け、4日に、やはり「緊急事態だ」とベットの上の電話でかり出された東京の友人と浅間温泉ホットプラザ横の広場に向かった。10代から60代までのメンバーで構成される遊びのサークル「うんどうぐつ」(東京)のスタッフがテトラ型や四角型のビニールを、やはりビニールで作った通路と手際よくテープでつないでいく。つなぎ方次第でいくらでも複雑な迷路を作ることができそうだ。空気を送り込むと不思議でおもしろい空間が出現!―百聞は一見にしかず。パソコンをお持ちの方は「シーバルク うんどうぐつ」で検索してみてください。「うんどうぐつ」のHPに写真が載っています。―しかし、待てども、遊びに来る子どもの姿はまばら。そうよね、こんなお天気のいい日に子どもが温泉に入りにくるわけはない。この日の風速は3〜5m。人間にとって気持ちのいいそよ風でもビニール袋風船はすぐ舞い上がろうとするので、角っこにロープを縛り付け、フェンスなどにとめる。宣伝塔として立てた高さ18mのシーバルクタワーはこの“そよ風”のせいで5分で立てるのを諦めた。

5日は神宮寺の駐車場に作るというので、また出かけた。関わってしまった以上気になるから。遅れて着くと、昨日5分で諦めたタワーがすっくと立っているので感激した。夕方5時まで立ててみんなに見てもらうのだと張り切っているけれど、連日の日差しにさらされて、疲れがでているようだった。もう限界の様子の若い人何人かを先に帰して、66歳の竹本さんが、足がつった、頭が痛いといいながらも頑張っているので私も最後まで付き合うことにした。吹きさらしのホットプラザ広場と違って、山際の神宮寺は、風は少ないけれど、突然に吹き込んでくる。その度に満身の力を込めて、倒れないように支え、穴が開いたといってはテープでふさぎ、舞い上がらないように人間重石になる。この日も一日中、上機嫌のお日さまの日差しの中で過ごす。大きな発砲スチロール箱でドーンと氷とお茶とジュースを差し入れてくれた友人の心づかいが嬉しかった。重石になりながら、3年間児童館に勤めて辞めたばかりの25歳のクンちゃんと、「一見、一人で立っているように見えるけど、実は多くの人の支えで立っているんだよね」と人生訓みたいなことを、しみじみ語り合ったりして。

無事タワーは5時半まで立っていた。

家に帰ると疲れ果ててバタンキューだったけれど、子どもたちが火をたいたり、小屋を作ったり、どろんこになったりという本来の自然との遊び方を東京の公園の中に実現した「プレーパーク」活動や日頃パワフルな児童館活動を実践している東京世田谷界隈の人々と出会って過ごして、心はなんだか楽しかった。

この地球の上で(映画「ダーウィンの悪夢」から)(07.4月)

 ある日誰かが、世界第2位の大きさのアフリカ・ヴィクトリア湖に巨大な肉食の外来魚ナイルパーチを放した。生物多様性の宝庫であることから「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていたヴィクトリア湖の生態系は壊れ、多様な草食魚はナイルパーチに食べられていく。

 そして、これは食物連鎖のトップに立つ人間にも大きな影響を与えていた。ヴィクトリア湖のある赤道より少し南の国タンザニア。湖畔の町にはナイルパーチを加工して輸出するための工場が建つ。農村部から魚を取るために人が集まる。それで人々が皆豊かになったとなればめでたく話は終わるのだけれど、それは経済グローバリゼーションの元での新たな人々の物語の始まりだった。

 世界銀行、IMFの融資で建設された工場で加工されたナイルパーチは、ヨーロッパに輸出される。(日本にも輸出され、お弁当、給食、レストランなどの白身魚フライに使われている。)きれいに切り身として加工された魚はタンザニアの人々が買うには高価すぎる。工場から廃棄される頭と骨は、トラックに山積みされ冷蔵施設も何もない露地に運びこまれる。そこでは現地の人々向けに売られるために、3枚おろしの中骨を干し、頭を油で揚げるのであるが、衛生管理も何もなされない中での仕事だ。働く人々の足元にはウジが這い上がり、目はつぶれ体調はすこぶる悪い。アンモニア臭で耐えられないほどの臭いも充満していることだろう。

 出稼ぎに来る男たちのいるところに貧困で売春しかする仕事のない女たちがいる。エイズの流行の一端をになう。エイズで夫を失った妻たちも売春の道しかない。そこには、親のない子どもたち―誰からも保護されないストリート・チルドレンが生み出されていく。やりきれない現実を逃れるために、空腹を紛らわせるために、ドラッグに身をゆだねる。

 そして、誰も公然と語りはしないが、ヨーロッパからナイルパーチを積みに飛んでくる飛行機は、来るときには武器弾丸が積み込まれている。ここから、アフリカの紛争地へと運ばれていくために。パイロットが苦渋に満ちた顔で言う。

「クリスマスにヨーロッパの子どもはプレゼントに魚をもらう。アフリカの子どもはプレゼントに武器をもらう」

これが、先日上映された「ダーウィンの悪夢」(2006年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネート作品)の内容だ。貧困、エイズ、果てしない紛争、飢餓・・・距離的に、そして心理的にも遠いアフリカの問題が、「これは、わたしたちが生きている世界の物語」として目の前につき出される。世界銀行、IMFと経済グローバリゼーションが、世界の貧困の解決にならないどころか富める者をますます裕福に、貧しい者をますます貧困にするという構造がここでも起こっている。果てしない戦争を大国と大国の軍事産業が後押しをしている。日本が9条を変えて「普通の国」になるということは、この仲間入りがしたいのだろうか。9条「改正」を強く推し進めたいのは経済連だったりするのだから。

あまりにひどい現実にぶつかると打ちのめされそうになってしまう。しかし何が起きているか、誰がそれを引き起こしているのかがわかれば、気を取り直して次の一歩を踏み出す時にはどこに向かって歩けばいいかがわかるというものだ。

この地球の上で(レジ袋と温DOWN化A)(07.3月)

この4月から施行される改正容器包装リサイクル法(家庭ごみの多くを占める容器包装廃棄物を減らすことを目的に作られた法律。小売店にプラスチック容器などの減量化が義務付けられたほか、取り組みが不十分な業者に国が是正を命令できるようになり、従わない業者への罰金も導入された。企業が商品の生産だけでなく廃棄物の処理費用にまで責任を負う「拡大生産者責任」の導入こそ必要だと批判がある。)に伴い、レジ袋の新聞特集やTV番組をよく目にするようになった。日本全体で使われるレジ袋は一年間で約300億枚、単純な平均値にすると赤ちゃんからお年寄りまで一人当たり年間300枚、石油に換算すると56万klになるそうだそうだ。レジ袋を使わないでどれだけ地球全体の温DOWN化に貢献できるかわからないが、やらないよりやったほうがいい。

CO2はモノが生産され、消費されると排出される。前号に書いたように温暖化が見える形で現れている今、私たちは、使い捨てて次から次へと消費する生活から、何度でも使えるものを「もったいない」と長く大事に使う暮らし方へと切り替えをせまられ、切り替えようとしている。おやおやにあるような、使い捨てナプキンから洗って何度も使える布ナプキンへ、詰め替えのできる石けん類へ。割り箸を使わないで、MY箸を持ち歩く人もいるだろう。どうしても使い捨てになるトイレットペーパーはバージンパルプのものではなくリサイクル品を買うとか、省エネノンフロンの冷蔵庫を買うとか、買い方で温DOWN化に参加する人もいるだろう。余裕のある人は、燃やすとCO2は出るけれど、生育するためにCO2を自分の栄養に取り込む木を暖房につかったりすることもできる。

見えることのできるものは、想像がしやすく、アクションにつながっていく。

このごろ気になるのが、オール電化の家の宣伝が多いこと。オール電化だと自分の家で直接CO2を排出することはほとんどなくなるのだろう。火のないクリーンで安全な生活。でもその電気はどうやって作られているのか?どこかで石油を燃やしたり、核分裂をさせてできた電気が、やってくるはず。原発はタービンを回すお湯を沸かすのに核分裂のエネルギーを使うので、CO2を排出しない。しかし地中のウランを掘り出し、精錬し燃料棒を作るのに使うエネルギー、核のゴミとして出る放射性物質を半永久的に管理するエネルギーは大いに地球温暖化に寄与しているはずだ。あちこちの原発で事故隠しが発覚したことで明るみに出た臨界事故(核分裂で放出された中性子が、連鎖的に反応が続く状態を臨界という。原子炉内では制御棒などで中性子の量を調整して制御された臨界状態を保っているが、志賀原発では制御棒が89本のうち3本が抜け落ち、制御不能のまま約15分間臨界状態が続いた)。幸い大きな事故にならなくて本当によかったと思うのだけど、原発は常に地球規模で私たちを放射能汚染にさらす可能性を持ち合わせている。CO2を出さないクリーンなエネルギーではけしてない。

そして、もっと見えないのは戦争によるCO2排出だ。私たちの使う乗用車はどんどん燃費がよくなっている。かつて1ℓで8kmしか走れなかったものが、最近では20q以上走らせるようになった。しかし戦車の燃費を聞いて驚いた。わずか200m!!ほとんど石油をジョウロで撒きながら走っていると表現した人がいるが、そういうことなのだ。人を殺し、モノを破壊する兵器がいのちが生きていく環境に気を配るはずがない。東京都のようにパレードで戦車を走らせるなんていうムダなことはやめてほしいし、実戦で使うこともやめてほしい。戦闘機に至っては、1分間飛ぶごとに908ℓの燃料を消費、約8時間飛ぶだけで日本人が生涯に排出するCO2を出すという。爆弾が炸裂しても、それによって火災が発生しても、CO2は排出される。戦争は破壊という大量消費と復興という大量生産の最たるものだ。

私たちはレジ袋を使わないようにしたいと思う。

だから戦争をしているあなた方、戦争を支持しているあなた方、戦争をできる国作りを進めているあなた方は、温DOWN化のためにも、今すぐ戦争をやめてほしいと思う。

<おすすめ参考資料>
岩波ブックレットNO.675「戦争って、環境問題と関係ないと思ってた」田中優

この地球の上で(レジ袋と温DOWN化)07.2月

あちこちで、ふきのうとうを食べたと言う話を聞く。地区のPTAの仕事や子供の卒業の文集、アルバムの用意や松本市の国民保護計画策定に反対で動いていたりして、休みの日もなんだか忙しくてふきのとう探しにも出かけられない。こんなに暖かいと、ぼやぼやしているうちに食べそこないそう。2月は本来なら松本では雪が降るところだが、雨が降った。そして東京では、観測統計上初めてだそうだが、初雪を見ずに春一番が吹いたそうだ。

世界各地で異常気象らしい。2月4日付の信濃毎日新聞などによると、中国−寒冷地のハルピンで1月の平均気温が5.9度高い。ベトナム−降雨量が減少して穀物地帯の水源が危機に陥る。ホーチミンでは異例の涼しさで「生まれて初めて毛布を買った」という人が続出。オーストラリア−厳しい干ばつにおそわれ、森林火災が発生したり、河川やダムの水量が激減。アメリカ−東海岸では記録的暖冬、ニューヨークでは1月6日に22.2度を記録。セントラルパークでは1月に桜も咲いたとか。一方西海岸では、大寒波に見舞われシュワルツネッガー知事は高齢者らが寒さで死亡する恐れもあるとして非常事態宣言を発令した。ロシア−暖冬。1月上旬の平均気温が例年より10度高い。ヨーロッパ―暖冬。イギリスでは春を告げるマツユキソウが昨年末に開花、川でオタマジャクシも見られた。ブラジル−アマゾンで激しい干ばつと森林火災によって広大な草原が消失。それからシベリア西部では永久凍土が溶けはじめ、マンモスが掘り出されている。

ロマンチックな話に聞こえるが、永久凍土が溶けると大量のメタンガスが放出されるという。メタンガスは二酸化炭素、フロンガス、亜酸化窒素と共に、温暖化を加速させる。キリマンジャロやヒマラヤでも雪が消え始めているというし、書き出したらきりがないほどだ。

こんな中、世界の一線の研究者でつくるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2月2日、人間活動の結果に大気中に放出された二酸化炭素と、干ばつや豪雨、熱波との関連を指摘する報告書を発表した。何をいまさらとも思うが、もはや躊躇している時ではないと言う政府関係者も出はじめた。

地球温暖化防止のため二酸化炭素削減を決めた1997年京都議定書の批准を拒否した世界最大の二酸化炭素発生国アメリカで、「不都合な真実」という映画が話題になっている。2000年のアメリカ大統領選でブッシュに敗れたアル・ゴアが温暖化問題を訴えるためにスライド講演会を行っているものをドキュメンタリーにした映画だ。アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞したこの映画、5月12日(土)に松本エンギザで公開予定だそうなので、楽しみにしている。

 さて、3月からおやおやのレジ袋が有料化される。はっきり言って、レジ袋の消費を減らしても地球温暖化を食い止めるには微々たる力にしかならないと思う。しかしそれでも有効だと思う。

政府も企業も個人もできること、気づいたことは即やるしかない。レジ袋をはじめ使い捨てするものは使わない。ペットボトル飲料を買う代わりにポット(携帯に便利な小さいのがある)を持ち歩く。電気、ガス、灯油、ガソリンは節約してお日さまのエネルギーを使う。早寝早起きする。使えるうちはしっかり使う。買う時にはノンフロン製品、省エネなど環境を考慮した製品を買う。何を買うか選ぶことで企業に意思表示をする。

もちろん、おやおやの循環型農業の有機野菜を食べることも温暖化ストップ=温DAWN化になる。有機土壌は、従来型農地よりもはるかに大量の二酸化炭素を取り込んで蓄積するそうだから。

この地球の上で(モノが壊れる) (07.1月)

給湯器が壊れた。蛇口からのお湯の温度がだんだん下がって、25℃まで下がった。前にふじさわゆういちろう君のお風呂が使えなくなったという話を読んでたいへんだなぁと同情したのに、我が身にもふりかかろうとは。ゆういちろう君は車で温泉に行くという楽しみで乗り切っていたが、うちには車がない。近くに銭湯もない。お手上げだ。どうしてもお風呂に入りたいし、毎朝、朝シャンをしたい娘のために、母は大鍋とやかんでお湯を沸かしている。仕事が休みの日まで待って、もちろんメーカーに修理に来てもらった。すると、ちゃんと熱いお湯が出てくるではないか。普通にお湯が出るときはどこが悪いかわからないということで、修理屋さんはそのままお帰りになったが、14年前に取り付けた給湯器であることがわかった。中古の家に移ってきたので、仕様とかいつ取り付けたかとかわからないことだらけで、不都合がある度にわかるという状態。

台所の混合栓の水が止まらなくなって、水道屋さんに見てもらった時は、阪神大震災より前、つまり12年以上前のものであることがわかった。うちのはレバーを上げると水が止まるタイプのものだが、これは地震でレバーが下がって水が出っぱなしになるので、下がると止まるタイプに統一されたということだ。

5年前に築23年という家を手に入れた。建てた当時のままではなく途中でリフォームしたようであったけれど、それが何年前にしたのかはわからなかった。でもどうやら14年くらい前と推定していいだろう。するとあちこち壊れる時期かもしれない。家を手に入れる時は備品に寿命があることまで考え付かなかったので、なかなか痛い日々だ。

さてどうしよう。熱いお湯は2日くらい出たけど、又ぬるくなってすごく不安定だ。付け替えたほうがいいのだろう。ランニングコストの安い灯油給湯器は、給湯器代+工事費+灯油タンク代。灯油タンクが高い。現状のままのガス給湯器を付け替えるのが一番お金がかからないけど、この際だから、追い焚きのできるタイプに切り替えようとすると工事費がかさむ。見積もりに来てもらったガス屋さんは浴槽の裏を見て断熱のためのコーキングが薄すぎると言うし、凍ってひびの入った蛇口を見に来た水道屋さんは、ユニットバスは蛇口だけ取り替えるわけにはいかないので全部取り替えなければだめだから、とりあえず自分でテープを買ってきて巻いておけと言うしで、(ステンレステープを巻いたらポタポタは止まった)いつかはユニットバス自体を取り替えなくてはいけない日も来るのだろうか。その時そんな費用はあるのだろうか。引っ越してきた当時の、いつでも自分の家でお風呂に入れるなんてシアワセと思った日々が懐かしい。

日々の身の回りのモノが壊れることでこんなに悩んだり痛かったりしている。これが戦争ですべてが破壊されたらどうなるのだろう。太平洋戦争を体験していなくても、ベトナムで、パレスチナで、アフガニスタンで、イラクで、何が起きたか知れば容易に想像はつく。2004年に武力攻撃された場合を想定した国民保護法ができた。今年3月までに松本市が作成しなければいけないという国民保護計画に対して市民の意見を募集していたので、100ページ近い素案に目を通したのだけれど、ここに書かれている攻撃された場合の体制作りや避難訓練などするよりなにより、国民を保護するには、武力攻撃(戦争)という事態を政治的外交努力によって引き起こさないよう最大限努力するしかないと思った。9条を変えるなど改憲して米軍と一体化した軍事行動をして攻撃されても、他国を攻撃しても、一度破壊されたモノを直すのは容易ではない。ましてや生命には二度と、いうことはないのだから。

寿命で壊れることや、自然災害で壊れるのは、しょうがないとなんとか諦めをつけるしかない。しかし、戦争で壊されるのは、人間の手で引き起こされたこと、諦めなんかつきはしないだろう。

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