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「こんな時代に母になり。」

佐々木優子

子供はなんでも知っている(2013年12月) 
 我が娘が連れて行かれてしまう。どこか見つからない所に隠さなければ。夫と私は穴を掘り、そこに娘を隠すことに。深く深く掘らなければ・・・。私は泣きながら、必死で土を掘り続けました。「なんという夢。ひどい夢を見た。」
 2011年3月11日の巨大地震の後、福島原発の事故で放射能が大量に降り、当時暮らしていた茨城県つくば市も汚染されました。当時3歳の娘のことが心配で、そして故郷が汚染された事実は、もう取り返しがつかなくて・・・。私は、かなりひどい精神状態でした。
 もともと、辛い事や、とても嫌な事があると、時間をかけて自分の中で消化し、自分で立ち直るすべを私はこころえています。友人にグチり、ひとりで涙を流し、ゆっくり回復する。今まではこれで100%、心が晴れました。しかし、今回の原発事故の事は、泣いても泣いても、気が晴れません。とても気持ちが悪いです。
 娘を隠すために、穴を掘る夢の事は、誰にも話したことはありませんでした。その夢は1回きりですが、震災の影響の夢は、今も見続けています。大きな揺れの中、娘の手を引っぱり、建物内から外に逃げようとする夢、大きな炎を目の前にして、娘を探している夢など。実際に体験したものもあり、してないものもあり、いろいろです。
 震災の写真、津波の動画の映像など、小さな子供には影響が大きすぎると思い、いっさい見せないように努めていました。実際に目の前で起こった事なら、仕方ないにしても、大人が見て、ウツになるような映像を子供に見せる必要があるのでしょうか?
 しかし、ある日、つくばの図書館に娘と行った時、「震災特集コーナー」(な・ん・で・す・か、このコーナーは?)があり、目を離したすきに、娘は見てしまいました。津波で崩壊した建物、泥だらけのなか、いくつもの炎があがっている光景など、何枚もひとりで見てしまいました。「どうしてお家が壊れているの?どうして燃えているの?泥だらけなの?」と、娘は私に、恐怖と質問をあびせました。自宅に戻ると、大切なぬいぐるみ、本、おもちゃを2階に運び始めました。「ここにも津波は来るの?ここなら流されないの?」ちっとも片づけなんてしたことないのに、その日は夜遅くまで、全てをひとりで運んだのです。私は、娘の気がすむまでやらせました。その行動を通して、娘は恐怖を消化していったのでしょう。
 さて、現在6歳の娘は「○○は本当にいるの?」が、最近やたら多くなりました。サンタのこともしつこく聞いてきます。昨年までは、全く疑わなかったのに。私は「お母さんは見たことない。いるかいないか知りません。」と。そして、クリスマスプレゼントを娘に贈ったこともありません。キリスト教の洗礼を受けた方にとっては、クリスマスはとても大切な行事です。でも、無宗教の私が誕生を祝うなんて、恥ずかしくて、とてもできません。娘がイエスキリストの事を本当に知りたくなったら、自ら学ぶでしょう。娘にはその時間はたっぷりありますから。しかし、行った事もない、遠い国の風習や宗教を語っている時間は、私にはもうありません。
 汚染した土地で暮らし、汚染した食べ物を口にし、原発事故の後片づけをこれから何十年としていかなければなりません。それを主にするのは、これから大人になる、今の子供たちなのです。除染をしてくれるロボットは現れません。セシウムを消す魔法の薬もありません。人が運び、這いつくばって掃除するしかないのです。被ばくしながら・・・。
 母親として、せめて私だけでも、娘には真実を伝えていこうと思うのです。大人が何を欲しがり、何を犠牲にして、今、こうなってしまったのかを。
 ところで、先月引っ越しました。松本に母子避難をして2年ちょっと暮らした小さな住まい。陽が全く入らず、寒い冬を2回過ごしました。我が娘に明るい未来の話が出来ない私は、せめて、おひさまのありがたさを伝えなければと思いました。現在の住まいは、たっぷりとその力を感じる事ができます。それだけで幸せを感じます。カーテンのない窓から夜空を眺め「流れ星って、どんななの?」と聞く娘。「それなら、たくさん見たことありますよ。」どうやって見つけるかも知っています。太陽と月と星と・・・。安全な土地、安心な食べ物、自然の恵み、そして命。それを娘に伝えることだけで、私には、せいいっぱいです。

友を待つ。(2013年11月)
 松本に友人が来ることになり、家族総出で(といっても、たった3人)迎えに行きました。彼女と会うのは昨年の春以来。娘もこの日をずっと待っていました。しかし、約束の時間を30分過ぎても、1時間がたっても、駅の改札に友人の姿は見えません。場所を間違えたのか、事故でもあったのかと、駅員さんに聞いたり、家族みんなでやきもきしました。彼女が遅刻するはずはないのです。だって、私の遅刻を本気でしかるもの。彼女はパーフェクトだもの。「そうだ、そうだ、おまえが何か間違えているんだ」と、夫は私を責めます。(事実はこうです。友人は列車「しなの」の中で寝過ごし、しなの辺りまで行ってしまい、車中の駅員に伝言をし、松本駅構内のアナウンスにて、私の名が呼ばれ、無事、汚名は払拭されました。)事実が判明すると、夫は「ごめんごめん」と、私をたたき、そのまま、つくば市へ帰っていきました。私たち母子避難の生活を支えるために・・・。(世界平和は、まず、夫婦間からだと思う、今日この頃です)夫と私の意見の相違は大きくなるばかりです。この問題が第一関門!)
 山口県祝島にIターン者として暮らすその友人は、ケータイどころか腕時計もせず旅に出ます。インドにも行きます(むしろインドは必要ないか)。そもそも彼女との出会いは、旅行中「朝起きれないから、起こしてくれ」と、突然声をかけられた事がキッカケです。何も持たない理由は動物的な本能とか、カンとかを鍛えるため(体内時計を研ぎすますということか・・・)。今回、彼女は車内で熟睡してしまい、車窓からの陽ざしがみょうに変だと目覚めたらしい。「これは、午後3時の陽ざしではない!」と。
 島での自給自足の暮らしは大変なことだと私にも理解できる。お疲れだったのでしょう。そして彼女はもちろんパーフェクトではない。そもそもそんな人、どこにもいない。しかし、彼女はりっぱ。見習うべき所がたくさんあります。彼女は今、現代生活には必需品といわれる品々を、手放す試みをしています。快適・便利・スピーディーな物を手離すからといって、それは、ストイックになってはいけないともいいます。むしろ、彼女にとって、
 手離すことが「今は心地良い」のです。
 島に住む彼女との連絡方法は主に手紙です。好んでチラシの裏を使ってよこします。使い捨ての時代の中、とことんまで物を使いこなす姿はあっぱれです。今回、島から米や野菜をたくさん送ってくれました。こん包も徹底しています。古紙や古布で丁寧につつみます。島のおばちゃんが作った、古いふるい梅干しの瓶詰めを、フリースのジャケットが守ってくれていました。いつも感じます、彼女からの荷をほどく時、とても良い気が中にたちこめていることを。
 しかし、今回は私に大迷惑をかけた。彼女をただただ待つこと2時間。その間、私は家に戻ることもできず、駅の周りを娘とブラブラ過ごしました。娘はグズリまくり、お腹がすいただの、何か買ってくれーだの・・・。私は、「あー疲れる」と、ため息ばかり。こんなにやきもきさせて、夫婦ゲンカまでさせて、ホントに、もーっ!
 さて、ようやく改札口に現れた友人は、私の目をしっかり見て、頭を下げて謝りました。私たちがどんな思いで待っていたのか、想像できたのでしょう。自分の行いの非を認めた彼女を許せないはずはないじゃない?
 しかし、この『人を待つ』ということ、久しぶりにしたなぁと、とても懐かしい感じがして、ノスタルジックに浸りました。
 (だいぶ時間がたって、こうして思い返すとですが・・・。)
 ところで、友人は、4泊5日の滞在中に、避難者交流事業でお話をしたり、憲法学習会に参加したりと大忙し。彼女からの要望で、どうしても1日はフリーになりたい、とのこと。その気持ち、私もよくわかりまず。知らない土地、知らない人との会話。ひとりになって、じっくり考える日も必要です。しかし、そのフリーの日、生憎の台風で雨でした。そのせいか、さすがの彼女も寂しくなったようで、家に電話がかかってきました。ケータイを持たない友人は、どこからかけているのだろうか?「公衆電話?」と聞くと、お城の北のそば屋の電話を借りてかけているという。なんと、まぁ・・・。借りた電話だから、長くは話せなといいながら、今日1日どんな風に過ごしたかとか、島の生活が恋しいとか、ちょっと長話になった。
 電話が終わった後、私は「まるで、昭和ですね。」と、『懐かしい未来』を予感した。
※友人が、そば屋の電話のわきに、10円玉を何個置いたかは、明らかではない・・・。

ロウソクの灯りのなかで。(2013年10月)
 「電気、つけっぱなしよ。消しなさい。」
 とにかく口うるさくなったと我が身を思います。
 福島原発が爆発する前もうるさかったけど、、、。「電気代がもったいない」と、お金が理由。
 電気がどこから来るのか、子供でも知っていたこと。でも、スイッチを入れる時、原発、そして、そこで働く人々のことを考えたことはなかった。今は電気を使うことすら罪だとさえ思うことがある。それが、石炭だろうが、太陽光発電で作られたものであろうが、、、。
 娘にいくら言っても消さない時は、「そうやって電気の無駄使いをしているから、原発が爆発して、お父さんと離ればなれになっちゃったのよ。」と、お・ど・す。「それは、うそでしょう。へんなことを子供にすりこむな。」と、夫から指摘され、もう言ってませんが、、、。
 夫婦仲が良い時は、水道もキュッとしめるし、電気もバチバチ消してくれる。逆に仲がよくない時はじゃんじゃん使う。いったい何なんでしょうかこれは、、、。電気が争いの元にさえ思える。
 一般家庭でどんなに節電しても、日本全体の消費電力はそれほど変わらないよ、と節電しない人は多い。大企業の工場など、莫大な電力を使っている所が節電しない限り、何も変わらないと。
 生産者は、劣悪な物を大量生産し、それをステキな物だと宣伝し、うのみにした消費者が買いあさる。その流れが止まらずに、グルグル回っていれば、経済は発展し、成長を続け、私たちの生活は豊かになる。だから成長を止めないように、物を作り続けなければならない。電気を大量に使って。だから原発は必要、、、。という人はとても多い。(これはある一面だけを簡単に述べたにすぎないが)
 しかし、とことん最小限に電気を使わない生活を望んでいる人が確実に増えているのも事実。上の関原発建設を30年も反対し続ける人々が多く住む離島、山口県祝島。その島に暮らす芳川太佳子さんもそのひとり。現在寝泊りしている住まいは、一切の電力を使っていない。「とても気持ちが良い」と私に話してくれました。昨年の春に娘と遊びに行ったときは電話もあったし、少ない電気で暮らしていると聞いた。最近、電話が壊れ、良い機会だから、、、とのことらしい。一般的には、買い換えるのが常識といわれるのに。
 自給自足に近い豊かな島の暮らしにひかれて、近年移住する人が増えている祝島。太佳子さんも島に恋して暮らし始めた乙女。なんとIターン第1号なのです。それまで島内にはなかった食堂を2010年11月に開店。島のおじちゃん、おばちゃんに学びながら海に入ったり野菜を育て、食堂を切り盛りしています。そんな彼女が言います。「禁欲的になってはいけない。」と。私は島を訪れて、その暮らしを体験して、自分の罪に気がつきました。福島原発が爆発して、原発の恐ろしさを知ったのも事実ですが、「無知は罪なり」と私に教えてくれたのは祝島の暮らしです。「日々の暮らし」は、未来を変えます。
 電力を使わない暮らしは祝島だからできるのであって、大都会ではできないよ、と思う人は多いでしょう。松本だって無理だろうと。しかし、あの東京のドまん中で、電気を使わずロウソクの灯りの中で暮らしている山田征さんという女性がいます。征さんは「代替えエネルギー」なんて、そもそもナンセンスだと(そんな感じの話でした)征さんは松本に何度か来てお話をしているので、ご存知の方も多いと思います。
 日本全体から考えたら、電気なしの暮らしをすることは、とてもとても小さな事で、消費電力うんぬんには影響していないのでしょうが、賢い女性たちの「たましい」が少しずつ広がっていることも事実です。
 私は、娘に「何か買って〜」攻撃をされる時、「電気の力で作られてないものにしようね」と必ず言っています。そうしたら、先日「お母さんがいつも買っているバスの回数券は電気からでしょ」と言われ、初めて気がつきました。190円×13枚つづりで¥1900。3枚お得。でも使い捨て。お金なら使い回しできる。う〜ん(汗)。

信州のみなさん「リニアモーターカー」いいんですか?(2013年9月)
 今年の夏休みの我が家のイベントは、1泊2日の「大鹿村ツアー」でした。和牛農家の牛舎見学、ヤギの乳搾り体験、山桜の木でスプーン作り、そして、ブルーベリー摘みなど、もりだくさんの内容で、夫も娘も楽しめました。しかし、私の真の目的は、別にあり、食卓にのぼる肉はどこから来ているのか?を、家族と学ぶというものでした。それから、リニアの工事予定地を見に行くことも、目的のひとつでした。
 娘は、「お肉が食べた〜い」と、私にワンワン泣きながら訴えたことがあります。こう書くと、佐々木家はベジタリアンか、と思うでしょうが、そんなストイックではございません。しかし、量は確かに少ないです。肉魚を食べない日は多く、たっぷり食べる日は、たまにのことです。それは私が意識的にやっていることです。その一番の理由は、健康のことを考えたうえでのこと、そして、もうひとつは、動物の命をいただくということ、そして、動物を殺す人の気持ちを考えてほしいという思いから、そうなったのです。
 我が家にも、クモや小バエなどの小さな虫は少なからずいます。なるべく外に逃がしたいと思うのですが、めんどうになり、私は素手で、ぶちっと殺します。それを見ていたせいか娘も最近やっと殺すことを覚えたようです。ただし、必ずティッシュを使います。
 それでは、とり、豚、牛を殺す時、人は心の中でどんな感情が起きるのか?自分自身でやった豚の肉を美味しいと思えるのか?娘にも夫にも、そこのところをたまには考えてほしいと思い、食事作りをしているのです。(こんな母親(妻)うっとうしいね〜)
 実際にツアーに参加したご婦人の中から「もうしばらくは食べれません」と涙ながらに話す方も、、、、、それにつられてもらい泣きする人もいました。それを見た生産者の方は「まいったな〜、なんだか暗くなっちゃて〜」と、あっけらかんと笑っていましたが、命の尊さを知っているのは、なにより生産者本人です。こだわりのエサ、きれいな牛舎を見れば、大切に育てているのは一目瞭然です。
 そして、ツアーに参加したもうひとつの目的、リニア予定地の見学です。今回は計画反対を訴える村議会議員のお話を聞くこともできました。問題点は、莫大な電力を必要とするので、原発再稼働、建設再開が不可欠、そして、残土のことです。路線はトンネル内を通過するのがほとんどです。トンネルを掘削するのに伴い発生する土を運ぶために、トラックが村内の狭い道路を何年も行き交います。そして、どこに運ぶのでしょう。
 (大鹿村は「日本で最も美しい村」連合に加盟して村づくりを進めています。)
 それから、リニアモーターカーは、経済効果が非常に悪い公共事業です。
 リニアは東京大阪間を67分で行ききできるようになります(総工費9兆300億円)
 これは「のぞみ」の157分を1時間半短縮することになります。
 ちなみに1964年に開通して東海道新幹線は工費3800億円をかけて、3時間10分で、在来線特急「こだま」に比べて3時間の短縮を実現しました。
 リニアによる短縮時間1時間あたりの費用は6兆円で東海道新幹線開業当初の時間短縮コスト1300億円の48倍にもなります。
(S.39とH.25では物価の違いがあるので実際は12倍ほど)
 飯田市で多くの高校生が「リニアなんて要らない」と言い、それを聞いた県議が「今の高校生は夢がない」と見当はずれなことをつぶやいたそうです。
 科学技術の発展は、平和の上に行ってほしいものです。土地をうばったり、子供たちが病気になったり、死んだり、、、、、人の悲しみの上に成り立つ発展は夢と言えるのでしょうか。
 時速500qでぶっ飛ばし、乗客は車窓の見えない状態で電磁波を浴びながら座らされ、運転手も乗っていないのでいつ制御不能になるかわからない、、、、、これが「夢の乗り物」なの?と、ツアーに参加した男性が絶対乗りたくないとつぶやいていました。
 ちなみに娘の大きくなったら?は、「バスの運転手」です。

松本に暮らして、もうすぐ2年、、、。(2013年8月)
 震災直後の冬に、私の父が亡くなり、急きょ茨城に戻ることになりました。
 その時、私と同じように、関東から避難しているお母さんから「子供は連れていかない方がいいのでは、、、。」と、心配の言葉をもらいました。確かに、余震、それから福島原発からは放射能がだだもれ。心配してくれる気持ちはありがたい。しかし、私は傷つき、とまどいました。「故郷に二度と足をふみ入れない」とは思えない。身内が亡くなったのに、かけつける事ができないほど、汚染がひどいのか、、、。
 「茨城のレンコンからセシウムが検出されたよ、そして、このあたりは、茨城のレンコンしか店にないから、、、。」母子避難のお母さんたちと共有しているMLでこういった内容のメールを目にすると、やはり傷つきます。私も娘には汚染した野菜は食べさせたくないです。でもね、、、。知らず知らず、人を傷つけ、自分も傷ついている。原発事故は、健康被害の他に、人間関係もダメにする。
 また、ある時は、私が原発の話をすると「気をつけた方がいいわよ。ねらわれるから。」と、、、。何の力もない、影響力もない主婦が、原発の話をしただけで、いやがらせを受けたり、つけねらわれたりするの?誰からそんなことをされるの?反原発・脱原発という言葉に異常に敏感な人たち。
 また、食物への放射能汚染に対し敏感に反応するのに、農薬に関しては鈍感。私には理解できないです。ま、セシウムと農薬、どちらが健康被害が大きいかは、難しいところです。
 いったい彼女たちは何から逃げているのか?(夫か姑か?)
 そういう私も夫から逃げているのかも、、、と思うことがたまにあります。
 そんなグチを帰省した時に、友人にこぼしました。私にとっては「とても子育てはできない」と離れた茨城で現在も暮らし、子育てをしている友人たち。移住はしなくても、我が子を心配していることは事実。その彼女たちとは、原発の話も政治の話もできます。
 震災後の混沌としたこの時代。怒りと憎しみと悲しみ。その中で、娘の幼稚園のママたちと話す時が唯一、真空地帯。「避難者の気持ちをわかってあげたいけど、正直、同じ思いにはなれないんだよね。」と。放射能の事は全く気にせず、震災前と同じ生活を続けているように見える。子育ての事、ごく普通の日常の生活をネタに、私をゆかいな気持ちにしてくれる。ホントに、彼女たちといると震災前の何も知らなかった自分に戻れる。しかし、その空気を破って、原発や政治の話をする(ういた)私がいたりもする。
 どこに行っても、誰と話していても、なんだか違和感を覚える。そして、いごごちの悪さを感じる。私は他者からどう見られているのか、、、。
 以前の私なら、もうとっくに、母子避難のお母さんたち、そして松本からも逃げだしていただろう。何かに目覚めてしまうとは、ある部分、鈍感になってしまうことなのかも、、、。私と娘が他に暮らしていける所がない、、、だから私はここにいるのかも、、、。自分の非を認めると、人間強くなれますね。
 ひとりで子育てをする責任の重さ。その重圧に押しつぶされそうになりながらも母子避難を続けること大変さ。目覚めるとは、つらく、とても大変なんですよ。
 低線量被ばくを気にするか、しないか。そして、移住する人に対して「逃げるのか」と非難する声。それに対し、「子供の健康を天秤にかけて。」と、残る人に対しての非難の声。雑魚の小競り合いが続く限り、選挙の結果は期待できないだろうと、参議院選をふり返って、思いました。

「壁 かべ」(2013年7月) 
 「なんでもかんでも反対する人々」と、夫はこう表現して、市民活動のことをバカにします。娘の幼稚園のママに、反原発集会や講演会などのチラシを渡すと、「あなたがやっていることは、本当に子供たちのためになっているの?」と、疑問を投げかけられます。
 また、何度もデモに参加してくれた友人は、「何も変わらないよ。私は別のやり方を考えるよ。」と、去っていきました。そして、しみじみと私に「人や世の中は変わらないよ。変えようとすると、膨大なエネルギーが必要。自分と家族を守ることだけに、力をそそぎたい。」
 確かに、市民活動の甘さを指摘する人は多いです。何十年も反原発の活動をしている大先生は「趣味でやってもらっちゃ〜困るんだよね〜」と。
 震災後、今だかつてない盛り上がりをみせた、全国各地での反原発デモ集会も、だんだんと参加者が少なくなっていることも事実です。
 ちょっとまって!どうして市民活動は、こんなにも倦厭されるのでしょうか?
 福島原発事故で避難を強いられている人たちでさえ抗議の声をあげようとしない。いったい誰のせいでこんな目にあっているのかわかっているのだろうか。
 確かに、市民活動には甘さがあることは事実。いつも同じメンバー内での話し合いに心地好さを感じている。講演会に行っても、聴衆の顔ぶれは、なんだかいつも同じ。その会場内で配られるチラシの行先には、限界がある事は、はっきりわかる。
 「どこから、そういう情報をもらってくるのよ。」と、チラシや勉強会の出所をママ友に聞かれました。そりゃ、感心があるからアンテナをはりめぐらしているし。でもまてよ、アンテナをはっていない人には、情報は全く届いていないんですね。
 それでは、なんで、あなたはそんなに感心があるのかと聞かれれば、今回の震災で私はとても痛い思いをしたこと。常にアンテナをはっていないと我が子を守れないのだと強く思ったこと。今、この時代は決して平和ではないと気がついたこと。平和だと思い込んでいた自分がうらめしい。「無知は罪なり」ではなく、情報は、あらゆる所から発信していたのに、見ようとせず、聞く耳を持たなかったのです。
 ところで、私は平和ボケしたママ友たちとおしゃべりすると、妙にリラックスするのです。不思議です。「目を覚ませ!」と、怒鳴りつけてもいいくらい?なのに。。。。。。なぜか怒りはしぼんでしまうのです。幸せな人は、回りをリラックスさせる魅力を持っているようです。憎しみでいっぱいの人間の側には人は寄ってきはしません。
 脅したり、怒ったりしても人々は変わってはくれない。どんどん耳を傾けなくなるだけです。「なんだかあの人いつも楽しそう。生き生きしているわ。話をしてみたいわ」ぐらいにならないと誰も側にはきません。「なんだか市民活動って楽しそう。私もやってみたいわ。」と、人々の心を捕えることが大切です。そして世間に広げること。女子高生がルーズソックスを日本全国に、そして、ヨーロッパにも広げたように流行という波にのせられたら最高ですね。。。。。
 私の中は「憎しみ」でいっぱいです。政府がなんとかして「放射線の思い出は忘却のかなたに」という政策をとっても、私は忘れません。「憎しみ」の矛先はどこにもないことも知っています。憎しみからは、ろくなものは生まれないと、心の奥に奥にしまったつもりでも、よく顔を出して来ます。そして「憎しみ」が人を動かすことも知りました。幸せな日常を送っている人は動きません。幸せというよりは、楽と言った方がいいかもしれません。
 福島原発事故を忘れないためには「憎しみ」の心も必要だと思います。
 「執念深い」私は「怨念」にはならないように、自分の心を保つよう気をつけなければと思っています

覚醒(2013年6月)
 先日、祝島に暮らす友人と電話で話をしていたら、「ササキさんは、祝島に来て目覚めたんだよね。」と、彼女が言いました。自分でもわかっていた事ですが、こうして言葉にされると、それが呪文のように私の頭の中で「私は目覚めたのか、そうか」と、自覚し始めるから不思議です。祝島を訪れ、その友人や島のおばちゃん、おじちゃんたちの仕事っぷりを目の当たりにすると、自分の非を認めないわけにはいきません。(原発を享受していたこと、そして今も享受している事実。そして、無知だったこと。)
 巨大地震が来て、福島原発が爆発して、放射線が大量に降り、大地が汚染され、水が汚染され、私の心の中は怒りと憎しみでいっぱいだった。「直ちに影響はない。」と、政府は言っているけれど、本当に避難しなくていいのだろうか。窓を閉め、換気扇をふさいで、家の中にこもっていても、被ばくは避けられないのではないのだろうか。いくら微量とはいえ放射線ヨウ素が入った水道水や野菜は口にしてはいけないのではないのだろうか。無知な私はいくら考えてもわからなかったし、正解を答えてくれる人はどこにもいなかった。こんなんで我が子を守れるはずはなかったのです。
 私の夫は夜通し電気はつけっぱなし、歯ミガキ中は水を出しっぱなし、お茶をこぼせば大量のティッシュペーパーで始末する。私がそのことをいちいち注意すると逆ギレする。そんな人ですが、「しばらく西に行った方がいいんじゃないか。」と言い出したのは夫でした。ヘビースモーカーの夫が、まるまる3日間も外に出ず、たばこを吸いに外に出かけませんでした。(我が家は室内禁煙です)私は夫の様子を見て、これはただ事ではないと危機感が増したのです。電気や水はいっぱい使って、環境の事なんて、これっぽっちも心配していないのに、夫は私の何百倍も放射線を危険だと知っていたし、直ぐに逃げなければならないと感じていたのです。
 しかしながら、夫は「目覚めてはいない」のです。それは今もです。憲法が改正されてしまったら、将来子供たちが戦争に行くことになるかもしれないよ。TPPは農業を潰すよ。と、私がいくらいきりたって話しても「ありえないよ」「そんな先のこと、わからないよ」と、返事がきます。他人の気持ちを変えるのは難しい。身近な人を変える事さえできないもどかしさ。そもそも、変えようと思うことが間違っているのか。
 未曽有の出来事が起こったのに「世の中も、人も、何にも変わらないね。」と、よく耳にします。どんなに有名な大先生の講演を聞いても、大量の資料に目を通しても、そう簡単に目覚めてはくれません。外部被ばくや内部被ばくの影響で自分が、そして、かわいい我が子が病気になっても、ダメなのかもしれない。我が子を戦場へ送ることもなんとも思ってないのかもしれません。
 汚染された土地からすぐに子供を連れて離れた友人、放射線が危険だとわかっていてもそのまま留まった友人、今も悩み続ける友人、全く気にしない友人、、、、、いろいろです。祝島に住む友人の言う「目覚めた人」とは「避難した人」とは全く別物です。避難しなかった友人、全く放射線を気にしない友人の中にも「目覚めた」友人もいるのです。
 あんなことがなければ、私と娘はこうして松本で暮らすことはなかったでしょう。あんなことがあったおかげで、出会わなかったであろう人々と知り合ったわけです。避難者ではなく、もともと震災前から松本に暮していた人々とも友人になり、お茶をしたり、ランチをして、ママ友としておつき合いをしています。彼女たちの中に、震災前の目覚めていない自分を見つけることがたびたびあり、私はそういう彼女たちと話す時、震災前に戻れた気がして、とてもリラックスすることもあるのです。私は彼女たちを嫌いではないし、そして、私が彼女たちを変えられるとは思っていません。ただ、伝えるべきことは伝えようと、日々がんばるしかないと思っています。

サボっています。(2013年5月)
 私は、学校や仕事をサボる事がとても苦手です。病気でもないのになんだか行きたくない。そんな時は「ちょっと体調不良で、、、。」と口実をつけて仕事を休んだこともありますが、その日は罪悪感がつきまとい、こんな思いをするのなら、辛くても休まなければよかったと思いました。この強迫観念はいったいどこから来ているのか?私の子育てにもそのことが大きく影響しています。
 私の娘はひとりっ子。誕生してからずっと母子密着です。母子避難で更に密度が増しました。私から離れることが大変で幼稚園に送り出すのがひと苦労。
 「お母さんがいいの。行きたくないの。」
 だらだら朝の支度をする娘を急き立て、大声で怒鳴る日々。親になって初めて知りました。「行きたくない」「やりたくない」は人間の欲求であり、罪な事ではないのですね。
 ダダをこねる娘に、
 「お母さん、ひとりになりたいの!」と説き伏せ、なんとかやり過ごしたのですが、娘にしてみれば、幼稚園はお母さんのために行かなければならない所、と思っているはずです。
 結局、そんな毎日に私の方が疲れてしまいました。いつまでこんな状態が続くのだろう?小学校に行っても?大人になっても?どうしたら自ら行くようになるの?
 自ら考え決断し、行動する。私自身、親になってもこれができていない。福島原発が爆発し、放射線が大量にふっているのに、私は娘を幼稚園に行かせてしまった。茨城の県南地域には、フレッシュは放射性ヨウ素やセシウム、そして、ストロンチウムなど、多くの核種が落ち、強い春風で空気中を漂っていた。その中を、娘が園庭で遊んでいるのかと思うと、気が気ではなくなり、園に電話をした。
 「こんな強風なのに外で遊ばせているのか」と、
 先生は落ち着いた口調で「そんなに心配なら、どうぞ休ませてください」と、、、。
 しかし私はどうしても休ませることができなかった。娘の体内には確実に放射線が入った。私の判断ミスで。このことは私の頭から今も離れることはなく、私をとことん滅入らせる。娘に万一の事があったら、私は自分を許す事は出来ないだろうと思うのです。
 震災後、何を食べたらいいのか、どこに住んだらいいのか、どう生きたらいいのか、誰かに指示してもらいたかった。京都に原子力に詳しい先生がいると聞けば、夫と娘を連れて話を聞きに行った。反原発30年、自給自足の暮らしをしている祝島という離島があると聞けば、「もうここしかない」と娘と旅に出た。いったい私は何を探していたのだろうか。万能の教祖は存在しないし、楽園はどこにもない、ということがわかっただけ、、、。 
 この春から、娘は年長さんになりました。幼稚園に「行く」「行かない」は、彼女の意志にまかせることにしました。夫は週末に松本に来て、月曜の朝に茨城へ戻ります。娘はお父さんと離れるのが悲しくて、朝の仕度どころではありません。もちろん「行かない」です。そんな日は、私の用事につき合わせたり、散歩をしたり、のんびり過ごします。夕方頃になると私といる事に飽きてきて「お母さんとずっと一緒はイヤ!明日は幼稚園に行く。」となります。
 私が休む(サボる)ことに罪悪感を持たない生き方を知っていれば、、、。あんなに無理して、娘を幼稚園に行かせなかったかもしれない。そして、あの時、すぐに故郷から脱出できたのかもしれない、、、。と思う今日この頃です。

思考停止にならないために。(2013年4月)
 「もう、こんな思いはしたくない。もう、ここから出たい。」という思いで、茨城から松本に来たのに、このところずっと故郷が恋しくてまいりました。松本の冬は本当に厳しい。やっと春が来たというのに、気はふさいでいます。芽吹く草木をここで見ても、思い出すのは故郷の景色。四季折々の花を見たり、青々としていく田んぼを眺めるだけで、心が浮き立ち、世界はすばらしいと思っていた(おめでたい人間だったのです)。原発はそういう人としての喜びを奪うものなのです。見た目は何も変わっていないのに、汚染された事実はもうどうにもならなくて、それは、汚染の少ない松本も同じこと。世界のどこへ行っても、震災前の感情を取り戻すことはできないです。そんな自分に対して、なんと、ごうまんな!と思うこともたびたびあります。。。原発を享受している限り責任は自分にもあるので。。。
 最近よく思い出す話で、どこか外国のりっぱなお坊さんが、戦争でとても辛く苦しい時代を生きたことがあり、やっと世の中が平和になった時、一般に公害と言われる排気ガスや騒音の中に身をおいても、世界のすばらしさ、生きることの尊さを感じることができると語っていたこと。私は車の排気ガスはとても苦手で、そのお坊さんの気持ちに共感することはできなかった。しかし今、松本で、幹線道路を娘とトボトボ歩いていると、お坊さんの言っていた事がほんの少し理解できるようになったのです。排気ガスは実際に臭いし、娘にマスクをつけさせることもよくあります。そういう物理的なことではなく、生きていることに感謝をできるようになった?のかな。。。私はそんなことを考えながら車を使わず、毎日娘と歩いているのです。自分はもしかして病んでいるのかもしれない、と思うくらい物事を深く深く考えてしまうクセがあります。「考えすぎだから」「そんなに考えなくていいから」とまわりからよく言われる。。。これって何?考えることを否定することこそ、諸悪の根源の何ものでもないと私は思います。
 世界征服を考えている人(たちが)、人々が考えることをしなくなる、そういうシステムを作る事は簡単なことなのです。深く考えたり、おかしいことをおかしいと言ったり、そういう人間の欲求をなくすことはできるのです。もうすぐ6歳になる娘と私の関係もそう。娘は見た物、聞いたことに興味を持ち、私に「何で?どうして?」の連発。特に食べ物の事に関しての抗議が多く、それに対して説明するのが面倒だったり、私の都合で、娘の口を封じることをやってしまう。「うるさい!」と大声でどなったり、ウソをついたり。。。娘は率直に自分の思いを口に出し、考えることを学んでいるのに。。。私も娘を征服しようとしているのだな、と思うことが多くなりました。考えることは、人間と動物の大きな違いであるのに、それを放棄しようとしている。思考停止をしてはいけない、それにようやく気がついたのです。二度とあんな思いをしないために、私に何ができるのか、その答えのひとつがそれなのです。そもそも、人々が深く考え、おかしいことをおかしいと言える社会なら、こんなことにはならなかったはず。。。
 ところで、私はあえて車を持たない生活をしています。どこに行くにも歩いていきます。バスは使います。歩いても、バスでも行けないところには行きません。心ある方が「よかったら一緒に」と言って下されば、心よく乗せてもらいます。しかし、手段がない時は、どんなに魅力的な場所でも行きません。そんな私に対して周りの反応は(主人も含めて)、気の毒そうな表情を浮かべたり、奇異の目で見るのです。こういう私も茨城では車依存症でした。評判の店には、なんとしても行ってみないと気がおさまらなかった。。。
 松本に来てから1年半がたちました。車を持たない生活は大変で、あきらめなければならないことも少なからずあります。しかし、「日々歩くことは」「日々考えること」なのだと知りました。思考停止にならないために、人は歩くことをしなければなりません。
母ちゃんが嫌いじゃ。(2013年3月)
 もうすぐ2年がたつんだね。2年たつと、セシウム134が2分の1になるっていうけど、それは本当に楽しみ。少しでも放射能の力が減ってくれるのはいいこと。
 しかし、長い、、、。 セシウム137の方は、半減期30年。
 娘が34歳になった時に、やっとですよ。そのころには結婚して、子供を産んでいるのだろうか。まさに、孫の顔を見るまでは安心できない。
 私にとっては、あれからずっと非日常の生活なわけですよ。政府が収束宣言をしても、私の気持ちは、何も解決していないのです。
 先日、友人から離婚したことを告げられました。本人よりも、私の方がショックが大きかったです。次はいつ自分に起きるかもしれない「原発離婚。」当の本人は、「前向きなんです。」と、あっけらかんとしている。ふっきれたのかな。確かに、以前よりもいきいきしている。
 「子供が病気になってもいいから帰ってこいっていうんだよね。」
 母子避難をしている友人たちからよく聞きます。私も主人から言われたことがあるこのセリフ、戦時中の「お国のためなら死んでこい」に、なんか似ていませんか?そう思うのは私だけ?
 先日、金城実さん(彫刻家・沖縄靖国訴訟原告団団長)のお話を聞きに行きました。小さな会場で、彼の息遣いを感じる空間だったせいか、悲しみ、怒りが真に伝わってきました。
 原発以外のことも、知らなければならないこと、たくさんあります。特に沖縄の問題は、本土に伝わりにくいことを知りました。
 金城さんは、とても心豊かな人。もう何十年と戦ってきている方なのに、説教臭くなく、ユーモアを交えて、ご自身の体験や気持ちを語ってくれました。原発問題に対して、「絶望の毎日です」という聴衆からの声に対して、「絶望の日々を、前に歩いていくしか道はないのだ。」(と、いうような事を)おっしゃっていました。私も(そうは見えないかもしれないけど)絶望の毎日です。その絶望に慣れてしまい、濁流の中に身をおいているような感じ。でも、ほんの少しでも、清流がある事、それに気づける生活をしていきたいと勇気づけられました。沖縄の問題にしても、原発の問題にしても、何十年と戦っている人たちがいることを思えば、たった2年で、ため息をついているあたしは、弱いですね、、、。
 ところで、金城さんは、幼い時に戦争でお父さんを亡くしました。母ひとり子ひとりで戦後を暮してきたのです。お母さんの話をする時、彼は涙ぐんで語るのですが、「わしゃ、母ちゃんが嫌いじゃ。」と。息子のためと思ってやっていた事が、子供にとっては、とても辛かったことをしみじみ語ってくれました。お母さんは金城さんに、何としてもりっぱな人になってほしかった。そのために、とても厳しく教育したようです。そのせいで吃音にたってしまったと、、、。 興奮して話す時、金城さんは、今でも吃音になってしまいます。自分の子供をそこまで追い詰めなければならない母の心情、痛いほどわかります。私も娘に同じことをしていないか、、、ドキリとしました。「さわっちゃダメ。」「食べちゃダメ。」「○○ダメ。」の生活。娘にどう影響するのか、、、。
 たまたま、30年前の金城さんの写真を持っている人がいました。髪とひげの色が、黒から白に変わっただけ?お元気な方です。

同じ釜の飯を食えない。(2013年2月)
 今年の正月は、娘とふたり松本で過ごしました。移住後、父の法事で何度か茨城に戻っているのですが、その度に、食の事で私は母とぶつかります。母子避難をしている理由、特に幼い子供に影響が大きい事を話すと、「小さい子供を持つ親は大変ね。」と、母は理解を示すのです。しかし、舌の根のかわかぬうちに、食卓に地場産の料理が並びます。
 母は、X線が体に良くないことは充分理解していて、「歯医者でも内科でもレントゲンをとられ、今年はもう5回目よ。気持ち悪いわ。」と、こぼします。しかし、内部被ばくと外部被ばくの違いを理解するのは難しいらしい。エラソウな事を言っている私も、その違いを知るのに多くの時間を費やしました。本を読み、講演会に足を運び、ネット検索をしたり、、、。とても震災前はできなかったこと。興味がわかなかった分野です。
 それではと、私が食事を作ることにしたのですが、「味つけがちょっと、、、」と、気に入らないようで、同じ屋根の下、別々な食事をする事になりました。娘からすると、「どうして、おばあちゃんと同じものは食べれないの?」と、不満そう。すぐ隣に住む、姪と甥が遊びに来て、これまた好き勝手に食べ始める。また娘は不満を言う。「あなたも、おばあちゃんになったら、好きなだけ食べれるよ。」と、私は答えるしかありません。
 福島原発の事故のために、同じ釜の飯が食えなくなったのか?たしかにそれもあるけれど、もうずっと前から、それはおきていたことです。娘のアレルギーもそのひとつ。実家に行く時は、「パンは食べれないから出さないでね。牛乳は使わないでね。」と、母に電話をしていた。「昔はアトピーなんてなかったのに、今の親は大変ね。」と、母。それでも現在よりは、食を共有できたと思う。お正月のおせち、ごぼう、れんこん、栗、、、を考えると、クラクラしてくる。
 主人ともそうである。同じ釜の飯はたまにの事になってしまった。そして、主人の食事を作らなくなって、心も離れてきたような気がします。たまに、私の作った食事を食べて、肉がないだの、しょっぱいだの、、、。まぁこれは、震災前からのことか、、、。
 それに対して娘は、「お母さんの作るごはんが一番おいしい。」と言ってくれる。娘が口にする物は、ほとんど私の手作り。外の味を知らないのです。
 著名な歯科医が「子供の歯と心のために質素は食事を心がけよ。」と、言っていた。これ、とても奥が深いことだと、子育てをしていて感じます。子供の欲しがるままに与えると、もうキリがない。まさに「あめとむち」を使いわけよ。
 そして、「食」は、思想をコントロールするのに都合が良い。宗教、祭り事、教育等々、「食」は大切な要になっている。好みが合うと、話もはずむ。好きな人と好みが合えばうれしいし、そうでもなかった人と好みが合うと、好感度が上がる。
 同じ土地に住み、同じ教育を受け、同じ言葉を話す。「食」という文化がポッカリぬけた中で、娘はこれからどう生きていくのだろう。私は「食」のかわりになる何かを娘に与えることができるのだろうか。 ところで、私は子供の時、食べたい物は何でも与えてもらえた。しかし、私は、全く親の言うことを聞かない人間に育ってしまった。娘はいつまで、私の作るごはんを、おいしいと言って、食べてくれるのだろう。

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