元気よく羽ばたこう明るい未来へ

大阪第120団の歴史-1<団の沿革>   団の現状はこちら



<発団までの経緯:団の沿革>
 大阪第120団は、昭和44年に大阪第54団より、大阪第119団とともに同時に分封され、発団しました。

 大阪第54団は、昭和31年に大阪市阿倍野区長池地区で創立されましたが、訓練資材も無く指導者も不足し運営の経験者もいない状態で、継続登録のみを行い、活動停止していました。
 昭和34年に当時の南東地区(まだ阪南地区が無かったころ)の地区委員会が実情を知り、副委員長の「住谷豊氏」が再建のため尽力され、父兄会を開催し、指導者の確保や育成会組織の確立を計りました。
 まず、父母の中から育成会長に、「杉岡正夫氏」が選出され、団委員長に「住谷豊氏」を迎え、ボーイ隊(当時の少年隊)隊長には大阪第3団より、「大井禧昌氏」をお願いし、再建の準備が整えられました。

 長池地区内の教育への関心が大きい事から、団委員会は育成会の要請で、カブ隊(当時の年少隊)を組織することととし、隊長に「今中敏夫氏」が就任、同年8月カブスカウト21名で加盟登録を行い、カブ隊・ボーイ隊それぞれが、活発な活動を開始しました。

 昭和35年3月に、カブ隊から上進とボーイ年齢の入隊などで、ボーイ2隊(現在の大阪第119団ボーイ隊)が併設しボーイ2ヶ隊となり、翌36年にはシニアー隊(当時の年長隊)が発足、10月にはガールスカウト大阪府第54団が誕生しました。また、昭和39年には、カブ隊も第2隊(現在の大阪第120団カブ隊)が併設されました。

 昭和41年4月には、待望のローバー隊(当時の青年隊)が発隊し、昭和34年の再建計画7年目で、カブからローバーまでの隊組織が出来上がり、カブ2ヶ隊、ボーイ2ヶ隊、シニアー隊、ローバー隊の大きな団となり、またローバー隊の活動により若手の指導者が続々と育ちました。

 団の発展で会議や集会が頻繁に行われ、集会所の必要性が痛感され、昭和43年3月、集会所の建設決定を決断しました。幸いに、団内の「田中旭氏:当時シニア隊長」のご好意で、文の里の空き地を借り入れ、7月に独自の集会所が完成しました。大きな広場に、国旗ポールもあった理想の集会所で、組集会や班集会が活発に行われていました。

 団のスカウト登録増員にからみ、昭和43年9月の団委員会で分封案が提案されました。既に、280名の登録人員に、なお入団申し込みが多く、受け入れの窓口を広げる為でもありましたが、全国でも前例のない3ヶ団分封が承認されました。
 これは、2ヶ団分封では、単に2分するだけで発展性がなく、3ヶ団分封こそ、発展ある分封として、住谷団委員長の周到な計画と信念のもとに、新団委員長の選任、隊指導者・スカウトの配分など、3ヶ団の実情を勘案した分封でありました。
 団の母体である育成会は、それぞれの団単位が理想でしたが、集会所の維持やボーイ3ヶ団およびガールスカウトを含めた連絡・協議のため、54グループ(後の長池グループ)育成会として運営することになりました。

<大阪第120団の発団>
 昭和44年2月、団合同B−P祭において発団宣言、翌3月大阪第120団は、石本静夫団委員長、築部てる子カブ隊長(大阪第54団カブ2隊を継承)、大塚正和ボーイ隊長(大阪第54団ボーイ1隊を分封)にて団登録を行い、登録承認を受けました。大阪第54団には樋川団委員長、大阪第119団には山積団委員長がそれぞれ選任され、住谷先生は育成会理事長として、ガールスカウト大阪府第54団を含めた、4ヶ団の総合運営を担当、育成会長には引き続き杉岡正夫氏が担当されることとなりました。

【<当時の年少隊・少年隊・年長隊の名称は、CS・BS・VSの各隊旗に継承され、現在も使用されています。】

=== === === === === === === === === === === === ===
  《団の現状はこちらへ》       ⇒⇒⇒次のページへ(発団初期)

<<発団後の歴史は、随時追加していきますので、お楽しみに>>     2001.09.03追加補正