極初期のマトリョーシカ

 (このページはサンクトペテルブルグ在住のイリーナ・ソートニコワさんの「ロシアの指貫」というサイトの部分を訳すものです。元サイト紹介等は、こちらを御覧ください。)
初期のマトリョーシカ(英語版から)

 明るい調子のサラファンを着た魅力的なスカーフの微笑みを誘う木の少女
 それは、2つに開くことができて、中に、又2つに開ける人形が入っていて・・・・という具合に中から人形が出てくる。
 これが世界的に有名なマトリョーシカである。
 最初のマトリョーシカ人形は画家S.マリューチン、当時有名だった工芸家V.ズヴョーズドチキンによって作って着色された。
 それは 8ピースの入れ子で、サラファンとスカーフをした少女が描かれている。次に男の子が出てくる。次に別の女の子、という具合で最後のものはおむつをした赤ん坊だった。
 それが高価であるにもかかわらずオリジナルマトリョーシカに対する需要は大きかった。
 すぐに、サラファンを着てショールをして、カゴと小さな包み、小さな鎌、花束、穀物の束などを手に持ったマトリョーシカ人形が現れた。
 さらには、羊皮の短いコートを着てショールをしてフェルト製長靴を手に持った少女、葦笛を持った羊飼い女、幅広くて濃いあごひげの老人、十字架を持った暗い色のサラファンを着た老信者等もあった。そして内部に縁者を入れ子にした新郎や火のついたろうそくを持った新婦、などもあった。
 大貴族シリーズは カフタン(西アジアの丈の長い長袖の服)や毛皮コートを着た、毛皮の帽子や杖を持った、短いあごひげの貴族、真珠の鋲のついたココシニク(古ロシアの女性用頭飾り)を被った令嬢、インク壺をベルトから吊した書記、鷹匠、勇士等々を含んでいた。
 歴史的記録と祝典がマトリョーシカに反映されていることを見ることもできる。
 ニコライ・ゴーゴリの生誕100周年を記念して、彼の書物の登場人物を描いたマトリョーシカが作られた。 タラス・ブーリバ、プリューシキン、チチコフ、マニーロフ、アンナ・アンドレーブナとゴールドニチ、クレスタコフ、不朽のコメディ「レビゾール」から、判事、郵便局長、その他の登場人物などである。
 職人たちは、「レプカ」、「カルテット」「金の魚」、「コネック・ゴルブノク」「イワン・ツァーレヴィッチ」、「ジャル・プチッツァ」等のおとぎ話や寓話を主題にしたマトリョーシカを作った。
 8ピースの、それぞれの幕僚を内部に納めた、ミハイル・クツーゾフとナポレオンを描いたマトリョーシカが、1912年に祖国防衛戦争(ナポレオン戦争)100周年を記念して作られた。
 工芸家は、おとぎ話や寓話の主題を土台にして、大きな蕪を持った老人、彼の年老いた妻、彼の孫娘、犬、ネズミ、そして猫を描いた「蕪」という人形を作った。金魚、イワン・ツァーレヴィッチ、ワンダーバード、等の2ピース〜8ピースの人形が20世紀初めに作られた。24ピース、8ピースなどが一般的だった。
 1913年に戻って、ペテルブルグの玩具祭りのために48ピースのマトリョーシカが作られた。
 (1917年の)10月大革命の後で、工芸家の境遇は大きく変わった。
 1918〜1919年にそれまで一人で働いていた工芸家の組合組織による工房が次々に現れた。
 1928年セルギーエフ・パサートの手工芸−工業アトリエは、ザゴールスク第1工場の名でよく知られている大きな工場に再編成された。
 そこで作られたマトリョーシカは世界に広まった。
 1958年、ブラッセルのワールドフェアでマトリョーシカに対する要望は大きなものだった。
 50ピースの美人が1967年にモントリオールに他の玩具と一緒に送られた。
 ザゴールスクの工芸家モキーエフはソヴィエト権力50周年を60ピースのマトリョーシカで祝った。
 1918年に玩具博物館がモスクワに開かれて、子供たちに計り知れない人気を博した。
 博物館職員のリーダーは、操り人形劇場を組織し、子どもたちの間で「博物館叔父さん」と呼ばれて、幅広く活動する I.バルトラムである。
 博物館にソヴィエト最初の玩具を作るワークショップが作られた。
 1932年にザゴールスクに世界最初の、(今日研究専門学校としてよく知られる)科学的実験的玩具専門学校が作られた。
 42ピースのマトリョーシカが他の多数のマトリョーシカに混じってソヴィエト誕生42周年を記念して作られた。
 1958年には、工芸家M.モーシキンは音の出るネヴァリャシュカという木とペーパーパルプに焼きゴテで装飾して(元々はヴァンカ・ヴスタンカと呼ばれる、常に立った状態に戻るために底に重りを貼り付けた)マトリョーシカを作った。
 今日、マトリョーシカの名前は厳密な意味に限らず木製の全ての人形に使われている。
 伝統的にマトリョーシカは入れ子人形である。
 最初の入れ子人形は、サラファンとショールを着た少女である。
 彼女はロシアのマトローナという名前からマトリョーシカと呼ばれた。
 マトリョーシカは有名になったので工芸家はオリジナルから遠く離れて色々なテーマを求めた。
 彼らは、持つところで人形を切り分けて、マトリョーシカをサラファンを着た小さな人形の入れ物にした。
 マトリョーシカのイメージは切手、マッチ箱のラベル、そして最近はゴーリキー市で作られたバッジ等に描かれた。
 それらの人気は高く急上昇している。
ロシア語 日本語    
Первая русская матрешка
"Девочка с петухом",
худ. Малютин С.В.
Мастерская "Детское воспитание",
конец XIX века
最初のマトリョーシカ
「鶏を持った少女」
画家=マリューチン.S.V
工房=「幼児教育」
19世紀末
Женщина с узелком
(матрешка 10-местная),
Сергиев Посад,
начало XX века
小さな包みを持った女性
(マトリョーシカ 10ピース)
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Бояре
(матрешка 12-местная),
мастер Д.Пичугин,
Сергиев Посад,
начало XX века
貴族
(マトリョーシカ 12ピース)
職人 D.ピチューギン
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Семья(матрешка 10-местная),
Мастерская Московского губ. земства,
Сергиев Посад,
начало XX века
家族(マトリョーシカ 10ピース)
工房=モスクワ地区、セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Богатырь и девушка
(матрешки 6-местные)
в виде древнерусского шлема,
мастер И.Прохоров,
Сергиев Посад,
начало XX века
富豪と少女
(6ピースのマトリョーシカ)
ロシア伝統的兜
職人 I.プロポロフ
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Старообрядки
Мастерская Московского губ. земства,
Сергиев Посад,
начало XX века
老信者
モスクワ地区工房
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Репка
(матрешка 8-местная)
по мотивам одноименной сказки,
мастер Шарпанов,
Сергиев Посад,
начало XX века
レプカ(蕪)
(8ピースのマトリョーシカ)
おとぎ話を主題に
シャルパノフ工房
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Женщина со сложенными руками
(матрешка 10-местная),
Сергиев Посад,
начало XX века
手を結んだ女性
(10ピースのマトリョーシカ)
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Квартет
(матрешка по мотивам одноименной басни
И.А.Крылова),
Сергиев Посад,
начало XX века
カルテット
I.A.クルィリョヴァの寓話を主題として
セルギーエフ・パサート
20世紀初め

Царевна-лебедь
(матрешка конусообразная
с иллюстрациями к сказке А.С.Пушкина
"Царь Салтан"),
Сергиев Посад,
начало XX века
皇后-白鳥
(円錐形の人形)
プーシキンの寓話「皇帝サルタン」の挿絵から
セルギーエフ・パサート
20世紀初め

Конек-горбунок
(матрешка 12-местная по мотивам
одноименной сказки П.П.Ершова),
Сергиев Посад,
начало XX века
猫背の馬
(12ピースのマトリョーシカ)
P.P.エルショワのあるおとぎ話から
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Жених и невеста
(матрешки 8-местные),
Мастерская Московского губ. земства,
Сергиев Посад,
начало XX века
親類と新郎新婦
(8ピースのマトリョーシカ)
モスクワ州の工房
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Ревизор
(к столетию Н.В.Гоголя),
художник Н.Бартрам,
Сергиев Посад,
начало XX века
ゴーゴリの「レヴィゾール」からの「ゴールドチニキ」
ゴーゴリの生誕100周年記念に
画家 N.バルトラム
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Тарас Бульба
(к столетию Н.В.Гоголя),
художник Н.Бартрам,
Сергиев Посад,
начало XX века
タラス・ブーリバ
ゴーゴリの生誕100周年記念に
画家 N.バルトラム
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Степан Разин,
мастер Бусыгин,
мастерская Московского губ. земства,
Сергиев Посад,
начало XX века
ステパン・ラージン
職人、ブスゥィギン
モスクワ地区、
セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Кутузов со своим штабом
(матрешка 8-местная)
к столетию Отечественной войны 1812 года,
мастер И.Прохоров,
Сергиев Посад,
начало XX века
クツーゾフとその幕僚
(8ピースのマトリョーシカ)
1821年の祖国防衛戦争を記念して
職人、I.プロホロフ
セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Наполеон
(матрешка 8-местная)
к столетию Отечественной войны 1812 года,
мастер И.Прохоров,
Сергиев Посад,
начало XX века
ナポレオン
(8ピースのマトリョーシカ)
1821年の祖国防衛戦争を記念して
職人、I.プロホロフ
セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Стрелец-неваляшка,
Сергиев Посад,
начало XX века
狙撃兵ネウァリャシュカ
セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Народы Прибалтики
(матрешки 8- и 12-местные),
мастер Д.Пичугин,
Сергиев Посад,
начало XX века
バルト地方の人々
(8又は12ピースのマトリョーシカ)
職人 D.ピチューギン
セルギーエフ・パサート
20世紀初め
Народы Севера
(матрешка 10-местная),
художник Н.Бартрам,
Сергиев Посад,
начало XX века
北の人々
(10ピースのマトリョーシカ)
画家=N・バルトラム
セルギーエフ・パサート
20世紀始め
Матрешка 30-местная,
художник С.Хованский,
Загорская фабрика игрушек 1
マトリョーシカ 30ピース
画家S・ホヴァンスキー
ザゴールスクの玩具工房
Матрешка 10-местная,
художник Р.Пчелкин,
Художественно-экспериментальная фабрика,
Горьковская область,
г.Семенов
マトリョーシカ 10ピース
画家 R・プチェルキン
芸術的実験的工房
ゴーリキー州
セミョーノフ市


(セルギーエフ・パサートのマトリョーシカが全面的にガッシュで着色されることが多いのに対して、セミョーノフのマトリョーシカは花柄の背景に木地が塗り残されていることが多い---訳者付記)
Космос освоен
(12-местная матрешка),
художник Р.Пчелкин,
Художественно-экспериментальная фабрика,
Горьковская область,
г.Семенов
宇宙探検
(12ピースのマトリョーシカ)
画家 R・プチェルキン
芸術的実験的工房
ゴーリキー州
セミョーノフ市
Семеновские матрешки,
Фабрика игрушек,
Горьковская область,
г.Семенов
セミョーノフのマトリョーシカ
玩具工房
ゴーリキー州
セミョーノフ市
Матрешки-малютки 3-х местные
(высота 3,5см),
Фабрика игрушек,
Горьковская область,
г.Семенов
マトリョーシカ
(3ピース)
(高さ3・5p)
玩具工場
ゴーリキー州
セミョーノフ市
Матрешки 8- и 18-местные
(работа надомников),
Горьковская область,
с.Полхов-Майдан
8又は18のマトリョーシカ
(ナドムニコフ)
ゴーリキー州
ポールホフ・マイダン村
Матрешки и свистульки,
Горьковская область,
с.Полхов-Майдан
さえずる小鳥とマトリョーシカ
ゴーリキー州
ポールホフ・マイダン村
Матрешка 4-х местная,
Производственное объединение
художественных промыслов,
г.Калинин
1967г.
4ピースのマトリョーシカ
芸術工芸生産協会
カリーニン市
1967年
Марьям
(матрешка 7-местная оригинальной формы
в башкирском костюме),
мастер В.Шутова,
Производственное объединение
"Агидель",
г.Уфа Башкирской АССР
マイヤム
(7ピースのバシキール地方の民族衣装のマトリョーシカ)
職人 V.シュートワ
アギディエリ生産協会
ウファ市 ASSR
Феня
(матрешка 9-местная),
Горпромкомбинат,
г.Йошкар-Ола
Марийской АССР
1967г.
フェニャ
(9ピースのマトリョーシカ)
イオシカル−オルラ市
マリンスキー(小さな)ASSR
1987年
Матрешка-неваляшка со звуком,
автор И.Мошкин, роспись В.Векшин,
Научно-исследовательский институт игрушки,
г.Загорск
1958г.
ミュージカルマトリョーシカ−ネヴァリャーシカ
作家 I.モーシキン
絵付け V.ヴェクシン
科学的玩具研究所
ザゴールスク市
1958年

30-местная семеновская матрешка,
Научно-исследовательский институт игрушки,
г.Загорск
1958г.
30ピースのセミョーノフのマトリョーシカ
科学的玩具研究所
ザゴールスク市
1958年

昔のマトリョーシカ(ロシア語版から)

 最初のマトリョーシカは19世紀末にロシアに現れた。それは、、サラファン(袖無しワンピース)を着て、白いエプロンをして、花柄のスカーフを頭に巻いて、手に黒い鶏を持った丸顔の少女の、8ピースの木の人形だった。
 モスクワの「幼児教育」という工房兼商店で、旋盤工のV.P.ズヴョーズドチキンが削りだして、有名な画家のS.V.マリューチンが絵をつけた。
 マトリョーシカのもとになったモデルは、偶然 A.I.マーモントフ一家にもたらされていたフクルムという日本の人形だった。
 にもかかわらず、今日マトリョーシカ誕生の地はモスクワ郊外の、ロシアの玩具生産拠点のセルギーエフ・パサートということになっている。
 セルギーの三位一体修道院はモスクワ近郊の手工芸のセンターだった。
言い伝えによると、修道院創設者のセルギー・ラドネジスキーは自ら玩具を削って子どもたちに与えた。
 絵の描かれた木製品は、この地方で 16世紀に始まり、土着の巧による玩具は皇太子を魅了した。
 マトリョーシカは20世紀の初めに、セルギーエフ・パサートに現れた。
 生粋の絵付け職人である S.A.リャブィシキンは、彼の父が1902年にモスクワからマトリョーシカをもたらし、隣人たちがそれを見に来て珍しい人形に驚き感嘆したことを思い出した。
 N.D.バルトラムの情報によると、当時マトリョーシカが、ワンセット10ルーブルで、当時にしては非常に高価だったことを記憶にとどめなければならない。
 やがてイコン作家がマトリョーシカに絵をつけるようになる。
 A.I.ソローキン、D.N.ピチューギン、A.I.トカレフ、がR.S.ブスゥィギンやV.S.P.Sイワノフ、その他の工房に集まった。
 お蔭で初期のマトリョーシカは、おもわせぶりな表情、綿密な輪郭線等イコン作家の絵付け技法を受け継いだ
 ポドリスク地方のバベーノクからセルギーエフ・パサートにもたらされた絵付け技法はマトリョーシカに適合した。
 ポドリスクの職人の彫刻技法は同じものではなかった。
 1891年、セルギーエフ・パサートで、ウラディーミル・イワノヴィッチ・ボルツキーを指導者とする、玩具・実験・見本・工房が開かれ、1913年には、革命後にRKKAと呼ばれるようになる、玩具のための旋盤作業所が組織され、1928年にそれは玩具製造第1工場になった。
 モスクワの工房「幼児教育」が閉鎖された後、そこでマトリョーシカが作られるようになった。1905年、B.I.ボルツキーはセルギーエフ・パサートの工房へV.P.ズヴョーズドチキンを招いた。
 30年代ザゴールスク(セルギーエフ・パサートは1930年にこのように名前がかわった)に、旋盤工のロマーヒン、クズネツォフ、ベリョージン、ベロウソフ、ネフェドフ等がやって来た。職人のS.F.ネフェロフ、D.I.ノヴィゼンツェフ、V.N.コジェヴェニコフなどの素晴らしいマトリョーシカ作家の名は今も残っている。
 マトリョーシカは、ロシアばかりでなく、諸外国でも大変な需要が生じた。
 パリ万博(1900年)以後 地方の製作所はマトリョーシカの注文を受け、毎年玩具がライプチヒのお祭りに現れるようになり、外国人を魅了し始め、1908年にそのことがドイツ−ロシア協会からサンクトペテルブルグに知らされた。(このことはニュルンベルグのアルベルト・リョルフという企業が研究した)
少しずつセルギーエフ・パサート様式のマトリョーシカは広まった。
 かごを持ってサラファンとショールで装ったマトリョーシカの他に、包みと鎌と花束、穀物の束とフェルトの長靴を持って短コートとショールに身を包むもの、葦笛を持った牧童、大きなステッキを持ったあごひげの老人、十字架を持った年寄り染みた黒いサラファンの信者、内側に親族を含む新郎、ろうそくを持った新婦などが作られた。
貴族のシリーズが大々的に作られた。
 1909年ゴーゴリの生誕100周年記念にタラス・ブーリバ、アンナ・アンドレーヴナのゴールドニチ、喜劇「鉄道監察官」のハレスタコフ、判事、郵便局員等のマトリョーシカが作られた。
 1912年、 フランスとの祖国戦争(ナポレオン戦争)100周年を記念してクツーゾフとナポレオンと彼らの幕僚の8ピースのマトリョーシカが作られた。
 職人たちは、「レプカ」、「カルテット」「金の魚」、「コネック・ゴルブノク」「イワン・ツァーレヴィッチ」、「ジャル・プチッツァ」等のおとぎ話や寓話を主題にしたマトリョーシカを作った。このような試みはマトリョーシカの形態を変化させ、ロシア伝来の円錐状兜の形も登場したが、需要は起こらずやがて廃れた。
 今日マトリョーシカは伝統的な形で削られる。
 マトリョーシカは木製品全ての呼び名ではなく、互いに内部に入れ子になっていることも忘れてはならない。
 1911年、セルギーエフ地方職人養成見本工房は1つに24ピースのマトリョーシカを削った
 最も需要の多いのは、3〜8、あるいは12ピースだった。
 1913年のペテルブルグの玩具展覧会のために48ピースのマトリョーシカが、バベンスキーの旋盤工 N.B.ヴルィチェフによって削られた。
 前世紀20年代にマトリョーシカの産地は、ニジニノブゴロド州の、セミョーノフ、メリノヴォ、ポールホフ・マイダン等の町や村に広まった。
 A.F.マイヨローフ(1885〜1937)はセルギーエフ・パサートからマトリョーシカをもたらし、その玩具は愛好されて、布海苔で下地を作った上に、アリザリン系の絵の具で鮮やかに彩色される独自のマトリョーシカになった。セミョーノフのマトリョーシカは、よりスタイリッシュで、下が広がっていて、サラファンとエプロンの代わりに色鮮やかな花が描かれる。
 ザゴールスクの(1991年。ザゴールスクは古い呼び名のセルギーエフ・パサートにもどった)マトリョーシカはガッシュで着色され、ラッカーをかけられる。
 1918年にモスクワで玩具を作る工房を併設した玩具博物館が作られた。
 1931年、博物館はザゴールスクに移設された。
 1932年、ザゴールスクに世界最初の玩具指導実験専門学校ができて、たくさんの様々な玩具見本の中で、ソヴィエト当局向けに42ピースのマトリョーシカが削られた。
 玩具専門学校の尽力でマトリョーシカ生産はソ連のたくさんの地域に広がった。
 それぞれの地方でマトリョーシカは独自の姿を持った。
 キーロフのマトリョーシカは藁で飾られており、ウファ(アギディリ)のマトリョーシカはバシキールの地方色を保持している。
 ここに出てくるロシアの地名は、ほとんどウィキペディアで検索できますが、都市ごとにページが変わって位置関係をつかみにくい。というわけで、おおまかな地図を模写しました。
   = モスクワ州(セルギーエフ・パサートを含む)
   = ニジニ・ノブゴロド市を州都とするニジニノブゴロド州
ピンク = キーロフ市(旧名ヴャツカ)を州都とするキーロフ州
オレンジ=ウファを首都とするバシコルトスタン共和国(バシキリア)
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