誰が最初のマトリョーシカを考案したか

 (このページはサンクトペテルブルグ在住のイリーナ・ソートニコワさんの「ロシアの指貫」というサイトの部分を訳すものです。元サイト紹介等は、こちらを御覧ください。)


 伝説はどのように発生するか。無からではない。何事にも始まりはある。しかし、誤解や修正、大げさな言い回しにごまかされないでいられるだろうか。万人の目に真実は歪んで、まことしやかに噂が広まる。それは華美な虚飾に包まれて、自分が目撃者だったとしても、その定着した見解は異論を唱えがたいものになっている。日々のあわただしさにまぎれて、些細で、日常的で、深刻でないようにみえる事柄は意識されにくい。
 年月を重ねて(はるか彼方を眺めれば)、誰が正しく、誰がそうでないか、もはやあきらかに断定することは不可能になるほどに人々の記憶はあまりに気紛れで奇妙に絡み合ってしまう(あるいは全く絡み合わない)。
 一見、マトリョーシカの歴史は単純で明白に見える。
 19世紀終わり頃に、マーモントフの「幼児教育」という名前の工房で、日本の「フクルム」という賢人の人形を原型として、画家のマリューチンが発案して、旋盤工のズヴョーズドチキンが削って、マトリョーシカが誕生した。
 ロシアの民芸愛好家よ。惑わされるな。上記の事実はかなり疑わしい。
 驚くだろうか。私にも変に見える。事実、そんなに古いことではない。順に進めよう。

 誕生
 確かなデータは誰も知らない。時々マトリョーシカの誕生は1893年〜1896年と言われる。これはモスクワ県議会執行機関の報告書に基づいた説である。
 そのような報告の一つとしてバルトラムは(Н.Д. Бартрам)1911年に、マトリョーシカは15年前に誕生したと書いている。(1896年ということになる)また、1913年、工芸職人組合で彼は、マトリョーシカは20年前に作られたと告げた。(1893年ということになる)
 このような曖昧な情報に立脚することはかなり問題があるから、こうした混乱を避けるために普通は19世紀末に誕生したということにする。また1900年に、マトリョーシカがパリ万博で好評を博し、海外からその制作の注文があったという記録がある。
 画家マリューチン(Сергей  Малютин)について
 全ての研究者が示し合わせたように、彼をマトリョーシカの下絵を描いた作家だとしている。
 しかし、彼の遺物にそのスケッチは存在しない。彼がそのようなスケッチをしたという証拠もまったくない。
 さらにその上に、旋盤工のズヴョーズドチキンはマトリョーシカを考案した名誉を自分自身のものとみなし、全くマリューチンに言及していない。

 旋盤工ズヴョーズドチキン(Василий Звездочкин)
 :多分、この混乱した歴史に参加したと、確かに云える唯一のキャラクター。
「確か」と言うか? いや、最近、しっかりした雑誌で、「ズヴョーズドチトフがマトリョーシカを削った」という記事を読んだ。滑稽な話ということにしておこう。

 次に、工房「幼児教育」
 時によってそのオーナーは、M.A.マーモントフ、あるいはA.I.マーモントフ、さらには S.I.マーモントフだといわれる。

 そして最後にフクルマ(Фукурума)
 ズヴョーズドチキンは、そのことについて言及しないが、ある日、雑誌で「手頃な端材」を見たということについてだけ語っている。そのモデルになった木製のフクルム人形は、その時、誰によって、どこからもたらされたか、日本からか、パリからか。
 このように私たちの愛らしいマトリョーシカはそんなに単純でなく、貴婦人のように謎に満ちている。
 では、謎に迫ろう。
 マトリョーシカはМ.А. と A.I.マーモントフの「幼児教育」という工房で生まれた。
 当時の芸術を保護した有名なサヴァ・イノヴィッチ・マーモントフの兄弟のアナトーリ・イワノヴィッチ・マーモントフは、全く新しい玩具のデザインを職人に求めることによって、マトリョーシカの創造に直接かかわった。
 アナトーリ・イワノヴィッチ・マーモントフの基本的な職業は出版業で、「幼児教育」という店は書店で、多分玩具工房はあとから加えられた。
 どのようにマトリョーシカが発生したかについて旋盤工ズヴョーズドチキンは次のように書いている。
 「1900年(!)3体、又は7体 (!) のマトリョーシカを創作し、パリの展覧会に送った。」
 「マーモントフのところでは、7年働いた。」
 「1905年、V.I.ヴォルツキーは、私(ズヴョーズドチキン)を、セルギーエフ・パサートのモスクワ県会執行機関の工房にマスターとして呼び寄せた」
 1949年に書かれたV.P.ズヴョーズドチキンの自伝から(上に引用した抜粋)、ズヴョーズドチキンが1898年に工房「幼児教育」に入ったということは良く知られている。(彼はポドリスク地方のシュービノ村の出身である)
 1898年にズヴョーズドチキンが「幼児教育」で活動を開始したということから明らかなように1898年より前にマトリョーシカが作られることはあり得ない。
 職人の回想は約50年後に書かれたから、その正確さをすべて受け入れるわけにはいかないが、マトリョーシカ誕生の年代は大体1898年〜1900年として良いだろう。
 周知のようにパリ万博は1900年4月に開かれたことを念頭に置けば、この玩具はこれより少し先、多分1899年に初めて作られたのだろう。
 ところで、パリ万博の玩具部門でマーモントフは銅メダルを授与された。
 1947年にマトリョーシカの創造に興味を持った E.N.シュルーギナ(Е.Н.Шульгина)は興味深い事実を集めた。
 ズヴョーズドチキンとの対談から彼女は以下のようなことを知った。
 彼は雑誌で「適切な端材」を見て、それをモデルにして人形を削った。その人形は、「奇妙な形をした修道女」のように見えて、開くことはできなかった。
 マスターのベローヴァ(Белова)とコノヴァロワ(Коновалова)の助言に従って、彼はそれをアレンジして削り、これをマーモントフに見せた。マーモントフはこれに共感してアルバート通りで働いている画家に絵をつけさせた。その玩具はパリの展覧会に送る作品として選ばれた。
 マーモントフは注文を受け取った。その時ボルツキー(В.И.Боруцкий)はサンプルを買って手工芸職人に回した。
 多分我々はS.V.マリューチンとマトリョーシカ創造の関係について正確に知ることはできないだろう。
 V.P.ズヴョーズドチキンの回想によると、マトリョーシカの形は彼自身が考え、誰がそれに絵をつけたかについては、イベントから時間が経ちすぎたので忘れたらしい。当時、マトリョーシカがそんなに有名になるとは誰も想像することができなかったから。
 その時S.V.マリューチンはA.I.マーモントフの出版社で一緒に働いていて本に挿絵を描いていた。だから、彼は、問題なく最初のマトリョーシカに絵をつけることはできたが、見本として他の職人が玩具に絵をつけたことも考えられる。

 マトリョーシカという呼び名はどこから来たか。
 「マトリョーナ」が農民の女性の愛らしい名前であることは良く知られている。
 しかし農民のポピュラーな名前はたくさんある。なぜそれが選ばれたのか。
 玩具はその外見から、例えばマトリョーシャという名前の、とある少女を想起させたからかも知れない。だから、そんな名前をつけられたのだろう。(よく知られたオスカーが誰かのオスカー叔父さんのようなイメージであるように)
 真実を見いだすことは困難だろう。
 ところで、マトリョーナという名前はラテン語の、貴婦人を意味するマトローナという名前からもたらされた。
マトリョーナ(Матрёна)という名前は教会ではマトローナ(Матрона)と綴られた。その愛称は マチヤ、モートリャ、マチューシャ、チューシャ、トゥーシャ、ムーシャ等々である。
 だからマトリョーシカは、モーチカとかムーシカとか名付けられることもあり得た。
 響きはおかしいけれど、たとえば「マルフーシカ」も悪くないだろう。
 その元のマールファという名前も、かわいくて人気があった。
 又は、アガーフィヤ。磁器の有名な絵付けの一つはアガーシカと言う。
 我々は、「マトリョーシカ」という名前が見事であると認めざるを得ない。
 人形は、本当に「貴婦人」になったから。
 マトリョーシカの1つの完成したセットにいくつ入れるかについて議論が残っている。
 旋盤工のズヴョーズドチキンは最初(3ピース、6ピースの)2セットのマトリョーシカを作ったと発言した。
 セルギーエフパサートの玩具博物館に8ピースの、サラファン、エプロン、花柄のスカーフを身につけ、手に黒い鶏を持った丸顔の少女の、まさしく最初のものと考えられているマトリョーシカが保存されている。
 彼女の中に3つの小さな兄弟姉妹、さらに小さな2つの妹と赤ん坊が続く。
 しばしば人形は8でなく7だったとか、女の子と男の子が入れ代わっている等と言われるが、博物館に保存されているセットにこの説は当てはまらない。

 次に、マトリョーシカの原型について。
 ところでフクルマはあったか。いくつかの疑いにもかかわらず、なぜこのような伝説が現れたのだろうか。そしてこれは果たして伝説だろうか。
 木製の神像は今もセルギーエフパサートの玩具博物館に保存されているらしい。しかしこれも伝説の一つでありうる。玩具博物館長のN.D.ヴァルトラムは、マトリョーシカが日本からの借用であるという見方を疑っている。
日本は偉大な旋盤細工の産地であるが、誰でも知っている「こけし」の作り方の原理はマトリョーシカと似ていない。
 では、気立ての良いはげ賢人で、神秘的なフクルムは誰で、どこから来たか。
 明らかにこれは成功のための7人の神の1つで、学習と知恵の神、福禄寿だろう。
その頭は普通の形ではない。額は、並外れた知性を示して桁外れに高く、手には長い杖と巻物を持っている。
 習慣により、日本人は新年に寺院を訪れ、成功を祈って、その小さな神像を手に入れたのだろう。多分言い伝えに従ってにフクルマは内部に6人の成功の神を含んでいたのだろう。これらは私たちの仮定であるにすぎない。(かなり疑わしい)
V.P.ズヴョーズドチキンは、2つに分割されて、中から別の老人が出てくる聖人フクルムについし全く言及していない。
 また、例えば誰でも知っているイースターの卵のように、ロシアの民芸品の着脱可能な木製品が大変愛好されたことに注目しよう。
 だから、フクルマについて知ることは困難であり、もはやさほど重要ではないだろう。
 誰が今日それを覚えているだろうか。
 一方、私たちのマトリョーシカは、世界で知られて愛されているということは事実である。。

Примечание: The note
Н.Д.Бартрам (1873-1931) - основатель и директор Музея игрушки, художник, ученый.
N.D.ヴァルトラム(1873〜1931)--玩具博物館の博物館の創設者、館長、画家、科学者


В.И.Боруцкий (1880 - после 1940) - предприниматель, организатор кустарного производства.
V.I.ボルツキー(1880〜1940)--企業家、手工芸のオーガナイザー
Первая русская матрешка 最初のロシアのマトリョーシカ
"Девочка с петухом" 鶏を持った少女
Худ. Малютин С.В. 画家、С.В.マリューチン
Токарь Звездочкин В.П. 旋盤工 V.Pズヴョーズドチキン
Мастерская-магазин "Детское воспитание" 工房・売店 「幼児教育
1899-1900гг.
Москва
1899〜1900年
モスクワ
Автор Ирина Сотникова 著者 イリーナ・ソトニコワ
Использованная литература 参考文献
Дайн Г.Л. Игрушечных дел мастера. ? М.: Просвещение, 1994.
Можаева Е., Хейфиц А. Матрешка. ? М.: Советская Россия, 1969.
Бартрам Н.Д. Избранные статьи. Воспоминания о художнике. ? М.: Советский художник, 1979.
Попова О.С., Каплан Н.И. Русские художественные промыслы. ? М.: Знание, 1984.
Барадулин В.А. и др. Основы художественного ремесла. ? М.: Просвещение, 1979.
Бардина Р.А. Изделия народных художественных промыслов и сувениры. ? М.: Высшая школа, 1986.
Блинов Г.М. Чудо-кони, чудо-птицы. Рассказы о русской народной игрушке. ? М.: Детская литература, 1977.
Орловский Э.И. Изделия народных художественных промыслов. ? Л.: Лениздат, 1974.
Каплан Н.И., Митлянская Т.Б. Народные художественные промыслы. ? М.: Высшая школа, 1980.
Справочник личных имен народов РСФСР. ? М.: Русский язык, 1979.
При полном или частичном использовании материалов активная ссылка на сайт "Русские наперстки" обязательна. (このページの)全部又は一部の利用に当たっては、「ロシアの指貫」というサイトを明示しなければならない。
訳者サイトへ  Go to translator's site  на сайт переводчика