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原作 平成9年10月16日
最終訂正 平成22年2月17日
研究通信(マトリョーシカ)-訪問記録

 本文は、1997年10月16日に、セルギエフ・パサートのマトリョーシカ工場や博物館を訪問した時の記録を中心に、後日少しずつ訂正を加えて作成して来ました。
 2010年1月23日(土)、他の拙サイトのリンクを含めて多少手を加えます。
 この部分だけ、「です・ます」調になります。
 全部書き直す余裕が無いことをご理解ください。



 ○ マトリョーシカ

 マトリョーシカは菩提樹の木を削って作られる、達磨のような形をした中空の人形である。
 手作りのため胴のくびれ具合や太さはまちまちである。
 この人形は胴体の一番太い部分で上下に分けることができる。
 中に一回り小さなマトリョーシカが入っている。これを取り出して蓋をあけると又小さな人形が入っている。こんな具合に次々と取り出すと、最後に蓋の開かない、中の詰った小さな人形が出てくる。

 マトリョーシカの大きさは一般的に10センチ〜20センチ程度だが、大きな物は50センチ程度、小さな物は4センチ程度のものもある。

 大きなマトリョーシカに興味をお持ちの方は、、イリーナ・ソートニコワさんのサイトを訳した、拙訳「極初期のマトリョーシカ」の一番下の写真を御覧ください。横にいる少女が入れそうな、餅つきの臼のようなマトリョーシカです。
 このサイトは、左側、目次の、「マトリョーシカ、(初期の写真付きの訳文です)からも入れます。


 中の人形を順に取り出して、4つ5つ並べると興味を覚える。7つくらい並べると感嘆する。10個を超える頃から飽きてくる。20個程並ぶと呆れる。それ以上並ぶと馬鹿らしさを通り越して感心にもどる。そして並べたり片付けたりする手間を考えると購入意欲を失う。

 マトリョーシカは、モスクワの見本工房で誕生し、以前から木製品の産地であったセルギエフ・パサートが大量生産を引き受け、その後ソ連時代に各地に広がります。
 ニジニ・ノブゴロドのセミョーノフ、ポールホフ・マイダン、キーロフのヴャツカ、ノーリンスク等が有名です。その他、ノヴォ・クズネッォフ、ウファなどと言った地方都市、モスクワ〜セルギエフ・パサート間のハチコーヴォ、有名なトベルスカヤ通りの行き先であるトベリ等でも作られており、そのほとんどが、それぞれの特徴をもっていて見分けることができます。
 そのような産地別の特徴については、拙ブログ「マトリョーシカ博物館」を御覧ください。


 ○ セルギーエフ・パサート

 モスクワ市北方約70キロの所にセルギーエフ・パサートという町がある。モスクワ市の北方から東側にかけて古い町が環状に並んでいて、この町の輪を『黄金の輪』と呼ぶ。
 セルギーエフ・パサートはこの黄金の輪を右回りに回ろうとしたときに、最初の頃に通過する町である。

 セルギエフ・パサートについては、拙ブログで何度かとりあげました。
 下にリンクを貼っておきます。


 セルギエフ・パサート
 セルギエフ・パサート方面の町や村

 この町の名前は、この町を作った聖人セルゲイに由来する。ロシア正教の聖人の名前に因んだ名前であったために1917年の革命後この町の名前は革命運動家ザゴルスキーに因んでザゴールスクに変えられた。ロシアの文化は革命の影響を無視して語ることができない。

 1991年の政変でこの町の名前は元のセルギエフ・パサートに戻された。
 この町には16世紀に築かれた城壁があり、中に聖セルギー三位一体修道院、ウスペンスキー寺院等があり、玉葱型の色取り取りの屋根が美しい。これだけで観光の価値があるのだが、同時にここがマトリョーシカの産地でもある。

 ロシアは木の国である。今のモスクワは木造家屋が禁じられているが、伝統的には家屋も家具や食器や玩具も木造品が多い。モスクワ近郊のこの町には古くから木材工芸が発達したようである。


 ○ ロシアの情報収集方法

 ロシアの伝統産業の産地と連絡をとるのは難しい。通訳、日本人の世話をしてくれるロシア人等を通じて探しても連絡先がわからないことが多い。観光案内とか伝統産業の紹介というような日本でお馴染みの方法は期待できない。
 セルギエフ・パサートのマトリョーシカ工場に関しては、あったことはわかっているのだが、どこにあるのか、今活動しているのか、全くわからなかった。「あるはずだ。」ということで、私が提案したのがルイノックで立ち売りしている人に片っ端から声をかける方法。家内と通訳のロシア人に任せておいたが幸い最初に声を掛けた立ち売りの人が工場を知っていた。嘘のような話である。その後試しに何人か声をかけたところ後の人は皆知らなかったというから余程運が良かったのだろう。

 電話で対応してくれたのはディレクターのSさん。女性である。「残業して工場を見せてマトリョーシカの作り方を全部説明する。」という返事。私たちの勤務時間と工場の営業時間はほとんど重なっている。学校の夏休みは工場も夏休み。土日は工場も休業。困っていたところ非常に有り難い返事をしてくれたわけである。

 2010年現在、ロシア大使館も宣伝しており、日本でマトリョーシカ工場見学ツアーも企画されるようになりました。本文は、1997年の記録として御参照ください。


 ○ 玩具博物館
 一杯書き散らして、無料枠残量が少なくなったので、サイトダイエットの目的で、玩具博物館の記事は、下記へ移動しました。
 http://drab.at.webry.info/200808/article_11.html

 ○ 渋滞による挫折

 実は9月19日(金)に工場に行くことにしていた。工場側では「20時くらいまでなら残業しても良い。」という返事をくれていた。「17時30分に学校を出発すれば19時頃には着くだろう。」と思って出発したのだが、大渋滞に巻き込まれてプロスペクト・ミーラに入った時点で19時になってしまった。
 「待たせると悪いから。」ということで取り敢えず電話で連絡することにする。電話で連絡しようとしてロシアの電話事情を思い知らされる。なんと公衆電話から市街通話ができないのである。ガイドのAさんは「ポーチタで電話をする。」と言う。ポーチタは郵便局。この場合正確には電報電話局のようなものである。ここの電話の掛け方が傑作で、先ず三万ルーブル(約600円)前払いする。そして電話をかけた後で釣が返ってくる。この前払いをAさんは「保証金」と訳した。訳の正確さはわからないが多分にそのようなニュアンスがあるのだろう。
 プロスペクト・ミーラはサドーボエ環状道路から北に伸びている。後にやや北東に方向を変えてヤロスラブリ街道になる。ヤロスラブリまで約二百数十キロの街道である。プロスペクトは町の大通りである。まだモスクワの市内である。「ミーラで19時ならその後も渋滞しているからこちらに着くのは21時頃になるだろう。」ということでこの日は予約をキャンセルされてすごすごと引き返したわけである。


 ○ メトロ

 10月13日(月)、前週の土曜日に行事があったので勤務時間が土曜日と振り替えられたのを利用して再度セルギーエフ・パサートへ出かける。時間に余裕ができたので悪戯心が出た。電車で行ってみることにしたのである。先ず地下鉄で電車の駅まで移動しなければならない。
 モスクワの地下鉄は全部で11号線。5号線が中央環状線に当る。11号線は南東部の短い線である。残りは中央から放射状に出ている。中央を貫いているものと中央から1方向に出ているものがあるが、概ね放射状になっている。
 私のドームの最寄り駅は1号線の南西の終点。駅の名前もユガザーパドナヤ(南西)駅である。1号線は南西から市の中央を貫いて北東に走っている。途中ウニベルシチェート(大学駅=モスクワ大学最寄り駅)、スパルチーブナヤ(運動=レーニン名称体育館がある)、パルククリツーリ(文化公園)、ビブリオチェーカ(国立レーニン名称図書館)、チスチィプルーディ(綺麗な池=中央郵便局がある)等、よく使う駅が並んでいる。チスチィプルーディの次がコムソモーリスカヤ駅。これがヤロスラブリ駅の最寄り駅になる。セルギーエフ・パサートへはヤロスラブリ駅から電車で約1時間30分である。

 地下鉄に乗るにはプラスチックのジェトンを購入して自動改札口で投入する。公衆電話も形は違うがプラスチックのジェトンを使う。値上がりが激しくて直接コインを使えないのである。

 その後、地下鉄の運賃支払い方法も変わりました。
 2007年と2008年でも、切符の購入方法が変わっていました。


 駅にはエスカレーターがある。ユガザーパドナヤ駅はそれほど深くないが、深い所になると2分近く乗っていなければならない。一気に地上まで上がらせるからである。スピードも結構早いので混雑していると乗り降りに神経を使う。
 駅の構内も電車の中も照明はスリガラスのカバーのついた白熱灯である。電車が走っていると、多分電線のつなぎめだろうと思うが、時々電燈が消える。


 ○ エレクトリーチカ

 エレクトリーチカは電車である。列車はポーィエストと言う。ポーィエストは長距離の拠点間輸送で座席指定、私は寝台車しか使ったことが無い。ロシア人はエレクトリーチカとポーィエストをはっきり区別する。踏切で待っていて「ポーィエストが来る。」と言うと「いいえ、今来るのはエレクトリーチカです。」と訂正される。エレクトリーチカもポーィエストも線路は共有している。
 かつてサンクト・ペテルブルグからロマノフという町へ移動するのに木製の椅子のついたエレクトリーチカに乗った。モスクワも同じような状況だと思った。記念に乗ってみたかった。予想通り車内の両側に木製の向い合せの椅子が並んでいる。それぞれ3人ずつ掛けられる。ロシア人の体は大きいが椅子は小さい。でも通路の両側に3人ずつだから、電車の幅は日本のものよりはかなり広いはずである。
 ヤロスラブリ駅はサドーボエ環状道路の外、北東にある。横にはサンクト・ペテルブルグ駅、大通りをはさんで向かい側にはカザン駅がある。それぞれその名前の都市に向かう列車のターミナル駅である。近くにあるが駅どうしはつながっていない。途中の線路は列車も電車も共有している。だから電車を乗り継いでサンクト・ペテルブルグやヤロスラブリへ行くことができる。安い。うんと時間がかかるだけである。
 ロシアのターミナル駅には行き先の名前がついている。だからサンクト・ペテルブルグにはモスクワ駅がある。「では、途中の駅はどうするのだ。」と何度もロシア人に尋ねたが適切な返事は帰ってこなかった。電車に乗ってみてわかった。途中の駅はその町の名前がついている。ソフリナ、アブランツエヴァ等の駅を通過してセルギーエフ・パサートに着く。乗車時間は約1時間半。お尻が痛くなってしまった。座席が木製で硬いので踏ん反り返って眠ることができない。見るとロシア人も膝に肱を置いた、俯いた姿勢で眠っている。苦しんでいるように見える。 
 なお、帰りの電車の座席はビニールカバーがかかっていた。かすかにクッションらしいものも感じる。別の車両は木製だったが迷わずビニールカバーの車両に乗ることにした。


研究通信(マトリョーシカ)-2


 ○ マトリョーシカ博物館

 セルギーエフ・パサート駅からタクシーで数分。大きな建物の裏に回って受付で来意を告げる。年配の女性が鍵を開けながら事務室へ案内してくれる。大きなホールのような部屋を通過する。バスケットボールのコートには一寸狭いかなと思う。かなり広いホールである。階段を上がってまたホールに出る。大きいホールの横にあるから事務室だと思った。

 2001年、モスクワにマトリョーシカ博物館ができました。
 詳しくは、先に紹介しました

 「2008年 モスクワ=8 8月11日(月)=1 マトリョーシカ博物館
 を御覧ください。

 ここで「マトリョーシカ博物館」としたのは、このモスクワのマトリョーシカ博物館とは無関係です。
 取材当時の筆者が勝手にそう名付けただけで、正式名称はわかりません。


 若い女性が迎えてくれる。「部屋の隅のソファに座って、まず何が知りたいか話し合いましょう。」この話はたいてい無駄である。何を頼んでも、相手は自分の喋りたいことを喋る。ここでも木材玩具の歴史を滔々と聞かされる。後で気付いたことだが、この事務室が工場の博物館である。先に訪れた玩具博物館とは別の、この地方の伝統を守ろうとする人達の博物館である。


 大きなロシア人からは想像もできないような小さな玩具がある。ビリューキと呼ばれる1〜2センチ程度の、瓶、椀、皿等のミニチュアである。これを山に積み上げて、小さな針金のついた道具で音がしないように1つずつ取って遊ぶ。指先の神経を鍛えて器用にする効果があるとか。

 そしてヴィドーチカ。断面が三角形の木彫りの人形である。ヴェジョートから派生し女と子供を意味する。粗い細工で一見日本の円空仏や木喰仏に似ている。粗く削った形に部分的に着色する。

 このあたり、かなり怪しいカタカナロシア語が見られます。
 文字で確認せず、耳学問で、耳に入った音を書いたものと御了察願います。



 次が白樺の木材に着物を着せた人形。長さ40センチ、太さ7センチ程度の、丁度焚きつけによさそうな1本の木材に衣服を着せる。女性であることを示すために胸にふくらみをつける。顔は木のまま加工しない。厄除けのような効果も期待されている。


 別にパピエマッシュの人形もある。パピエマッシュは紙、糊、石膏等で作った張り子である。これらを混ぜて作ったパルプ状態のものを木の雌型に押しつけて成型する。中に音を出したり人形を揺らしたりするための錘が入っている。


 ○ 歴史

 セルギーエフ・パサートがこのような木製品の産地になったのは14世紀頃である。18、19世紀には世界有数の木材玩具の産地になった。そして1917年の革命を迎える。

 ここの玩具は土着の信仰やロシア正教を反映していたので、革命によって致命的な打撃を受ける。7000種類くらいあったパターンの90パーセント程度が、革命的でないとして製造を禁止される。又技術者が殺される。大工場が優先され、小さな工場は潰れる。そして1991年の政変。

 政変の後、手作りの人形を見直す風潮に乗って、セルゲイ文化センターと博物館が作られる。この体育館の事務室のような博物館も、これから訪ねるマトリョーシカ工場もこのような動きの一環として作られたものである。


 ○ マトリョーシカの歴史


 書物を見せて説明している。
 ハードカバーの「ロシアのお土産(シリーズ)マトリョーシカ」という書物。
 博物館というと学術的という先入観のある私には、安っぽい一般の市販書物を紹介するところに軽さを感じた。
 軽い書物に見えたので、購入して、後日訳した。
 マトリョーシカや彼女たちの気持ちを理解する上で随分役立った。
 訳文は別のページに貼り付けた。(2007年8月26日追記)


 この書物が、ルースキー・スヴェニール・マトリョーシカでした。
 訳文は以下を御参照ください。

 ルースキー スヴェニール マトリョーシカ−1


 マトリョーシカが最初に作られたのは1890年代中ごろである。モスクワの「ジェーツキー ヴァスピターニエ(子育て)」という小さな印刷屋で作られたと言われている。
 モデルは日本からもたらされたフクロージ、またはフクロームという人形である。福禄寿のような長い頭の木の人形の中にお椀を伏せたような人形が順に4体ほど入っている。私はフクロージという音から日本のそれらしい人形を連想できない。実物を見ても、それが日本の人形かどうかわからない。福禄寿の間違いだったら話がはやいのだが、今のところ何とも言えない。(後日福禄寿であることを確認)

 とまれかくまれこうして体内に順に人形を収納していくマトリョーシカの原型ができる。最初はクリスチャンスカヤ ジェーヴシカ ス チョールヌイム ベドーファム(黒い雄鶏を連れた農民の女の子)と呼ばれた。これは長くて呼びにくいのでロシアの女性の名前を使ってマトリョーナ、そしてこれを指小形にしてマトリョーシカになる。

 セルギーエフ・パサートの近くにアブランツェヴァという町がある。ここに豪商サヴァ・マーモントフの別荘があって、バスネツォーフ、レーピン、ブルーベリ、スーリコフ等の画家が集まった。サヴァはジェーツキー・ヴァスピターニエの経営者アナトーリ・マーモントフの弟である。彼らは共に経営者であると同時に芸術や民芸のパトロンでもあった。彼らの回りに集まった芸術家や職人はロシア文化復興運動を担っていく。と同時に芸術家の創造性を刺激するために各国から民芸品が輸入される。この中に日本からのマトリョーシカの原型になった人形も含まれていた。

 パドリシクという小さな玩具の産地から削り職人がやって来た。セルギーエフ・パサートは既述の木箱や人形の他にイコンも制作していた。ここにマトリョーシカが伝わり、これらの技術が集められてマトリョーシカの技法が磨かれたようである。

 1900年のパリ万博のときマトリョーシカは始めて外国に出され、受賞する。
 やがて1904年にモスクワの店が閉店されセルギーエフ・パサートはマトリョーシカ生産の拠点になる。同じ頃パドリスクという町の職人がマトリョーシカをロシア各地に広める。今ではニジニノブゴロドが大量生産の拠点になっているようである。

 耳学問の怪しいロシア語「パドリシク」だけ説明を加えます。
 これは、都市の名前だから、私が復唱して確認した音です。
 つまり、ロシア人との会話はこれで通じます。
 でも、文字をそのまま書くと「ポドリスク」です。
 筆者は、帰国後、書物やネットサーフィン、つまり文字学問でこの町を調べました。

 最初にマトリョーシカを作った、モスクワ市南方のポドリスク出身のズヴョーズドチキンについては、下記、拙ブログを御覧ください。


 キーパーソン



 「熟練した旋盤職人はこんなに薄く削れるのです。どうそ触ってください」


 ○ 国営マトリョーシカ工場

 工場は博物館から歩いて約10分の所にある。煉瓦作りの、大きいが、粗末な建物の1室である。向かいの小屋に木工旋盤の工房がある。ディレクターであるM女史が迎えてくれる。先に説明してくれた女性と2人の女性職人、1人の男性旋盤工がいる。もう1人男性がいたがこの人が何をする人かはわからない。単なる客かも知れない。

 博物館でマトリョーシカに関する書物を購入した。著者はこのディレクターのお母さんだとか。研究者である。彼女達は売ることが目的ではなくて民族の伝統芸術を守るのが使命だと言う。

 ルースキー・スヴェニール・マトリョーシカの著者はラリサ・サラヴョーヴァです。
 この時出会った女性は、スヴェトラーナさんと、マリヤさん。サラヴョーヴァさんの娘さんは、まだお逢いできていませんので、実名表記をさけますが、名前が違います。
 ごの情報は、確かめようがありません。


 だからこの工場も個人の集合体のような組織になっている。
 流れ作業をしない。
 マトリョーシカは相似に近い形の人形がセットになる。
 一貫した表情や模様を描くためには一人の職人が作業しなければならない、
 と彼女たちは考えている。
 だからたくさん作れない。

 マトリョーシカの産地そのものは既述のようにロシア各地に広がっている。白木の人形を買い求めて個人で絵付けする人もいる。
 ディレクターは「経済目的の商品が増えて品質が落ちた」
 「モスクワのサロンに並んでいるマトリョーシカはほとんど偽物だ」と言う。
 意気込みはたいしたものである。
 ひとつの意見として拝聴しておく。


 ○ 木を乾かして削る


 マトリョーシカの白木の人形は木工旋盤で槍のような刃物を当てて削る。


 まず食い込み口のついた茶筒のような筒を作る。次にこの口にピッタリ合う別の筒を削って先の筒で蓋をする。それから一体になった筒の外側を人形状に削る。こうして蓋の開くマトリョーシカが一体できる。優秀な職人はこのような作業で肉厚2ミリ程度の薄いマトリョーシカを削れる。

 
後はこの作業の繰り返しである。全て手で削るからマトリョーシカは一体一体微妙に形が異なる。ディレクターは「彫刻だ。」と言った。少し形が違うだけで絵付けの雰囲気も異なる。同じ物は2つとできない。同じモデルから作っても少しずつ雰囲気が異なるそうである。


 削る元の木は菩提樹の木を3年以上自然乾燥させなければならない。
 木を切る時期は木の生命活動が活発になる直前の3月頃でなければならない。
 電気等で強制乾燥させると樹液や木の繊維が硬く引き締まらない。
 ただし今は3年後に工場があるかどうかわからないので3年待てない。
 だから1年ほど乾かして使っている。しかもヒビの入っていない大きな木片が得にくくなったので、こちらの職人が削るマトリョーシカは僅かである。
 残りは大きな木の残っているニジニノブゴロドからマトリョーシカの形に削ったものを購入している。ニジニノブゴロドの材料は3分の1程度の価格で手に入る。「形は気に入らないがしかたがない。」のだそうである。

 削り作業を見せてくれた男性職人は「ディレクターは5年乾かした木を約束してくれた。」と言ってニャッと笑った。ディレクターは寂しそうに苦笑していた。

 2008年、この記述を思い出して、セルギエフ・パサートで探し回ったのですが、この工場を見つけることはできませんでした。

 とにかくマトリョーシカの最も大切な工程は削りである。今ここに削り職人は2人しか残っていない。ロシアには人間国宝とか伝統工芸士というような称号制度がない。国の保護が受けられるような制度にしたい。と、ディレクターは熱っぽく語った。

(今読み返してみて、ソ連時代から、取材当時のロシア時代まで、ロシアには「偉大な○○」という称号があることを思い出した。本文はインタヴュー後の記録をまとめたものだが、多分、「マトリョーシカ職人にはそのような称号や経済的支援は無い」という意味なのだろうと思う。2007年8月2日追記)


 ○ 着色


 マトリョーシカは女性の名前である。そのイメージは母子像である。ただし20世紀初頭に既にクツーゾフとナポレオンをあしらったマトリョーシカが作られている。騎士や僧侶あるいはお伽噺の主人公のものもある。

 ここの職人は淡い色調で彩色する。黒、金、赤等の毒々しい色のマトリョーシカは本来の伝統的なものではない。赤いスカーフをしていることはあるが、総じて色調は明るく、地味で素朴な人形である。


 着色には市販のテンペラやガッシュを使う。日本のポスターカラーと大差ない。「被覆力が弱くて下地が透けることはないのか。」「水性塗料だと上から模様を書き加えるときに下の絵の具が動かないか。」等と質問してみた。
 木に直接このような絵の具で着色すると木目を完全に被い隠すようには着色できないものである。あまり厚く塗ると絵の具を定着させる糊の成分が吸い込まれて表面の絵の具が剥げ落ちやすくなる。この上から別の色で模様を描くと下の色が混ざって汚くなることがある。「あまり無い。たまにある。」これは私の経験と同じ回答である。


 こうして着色した上からニスをかける。ディレクターはニスにもこだわる。「最近のニスはツヤが出過ぎて情緒が無い。情感を出すためにはツヤは控え目にしたい。」
よく見かけたツヤツヤ光ったものは本来のマトリョーシカではなかったようである。


 同じような形だが、微妙に違う。
 色も、光沢も微妙に違う。


 これらがもともとの旋盤による作品。
 このような木工作品の技法がマトリョーシカを削る土台になった。


 木工旋盤室の隣にこのような作業室がある。
 特に下の作品は日本の曲げ物に似ている。


 ○ 感想

 私は赴任直後にマトリョーシカを購入した。その後何体か購入したが最初に購入したものが一番気に入っている。細く鋭い目をした、緻密な模様のマトリョーシカである。Mディレクターの語った民族伝統のマトリョーシカとは異なるものである。

 モスクワで知り合った画家Vは元教員である。食っていけないから画家になった。画家でも食って行けないからアルバイトで日銭を稼いでいる。こんな風に技術者が市井に溢れている。彼らが白木のマトリョーシカを購入して緻密な模様を描いたり、あるいは政治家やスポーツマンを描いたりしても不思議ではない。最近は浮き彫りのような模様を施したもの、綺麗な木目を生かして透明水彩で着色したものまで売り出されている。

 私はこのような所謂邪道のマトリョーシカを先に購入した。幾つか買い集めて鑑賞しているうちにもっと素朴な物も欲しくなった。これがセルギーエフ・パサートのマトリョーシカだった。精密な凝った装飾を施した作品、キャラクターをあしらったアイデア商品等々と比べて素朴な伝統的なマトリョーシカに競争力があるかどうか疑問である。大量生産しないから品物が広く知られない。私もここを訪問して始めて伝統的なマトリョーシカのデザインを知った。そしてこの素朴なデザインではそんなに高額にできないだろう。ひたすら3時間近く語り続けたディレクター達の熱意が報われることを祈るだけである。因みに見学費用は私たちを連れて行ってくれた通訳、つまり向うにすれば客の一人である通訳を含めて5人に対して五万ルーブル、約千円である。十万ルーブル差し上げておいた。「こんな日本人がロシア人をつけ上がらせて価格を上昇させている。」と悪口を言われそうだが構わない。熱意溢れる親切なもてなしに対しては十万ルーブルでも安いと思う。

 なお参考までに付記する。
 ディレクターの思い入れとは別に、マトリョーシカは各地で生産されて一人歩きしている。どれも偽物とは言えない。ただ木を削って作るものだから、素材には注意した方が良い。外側は着色されていてわからないから内側を見る。節のあるものは節が抜けたり割れたりしやすい。手で持ってみて木が柔らかく感じる物は乾燥が甘いから寸法が狂いやすい。日本に持って帰ったら湿気で開かなくなったというような事故も耳にする。

 最後にセルギーエフ・パサートのマトリョーシカを見分けるコツを付け加えておこう。ここのマトリョーシカはスリムである。そして奇を衒わない。緻密さも求めない。地味で素朴である。しかし丹念に描かれているので顔の線がゆったりしていて美しい。そして顔、腕、衣服等々重要な部分に伸びのある輪郭線がはっきりと入っている。


 ○ 帰路

 職人達は好きでこの仕事をしているので夜遅くまで働くことがある。残業して待ってくれることはそんなに負担ではなかったようである。M女史は私たちと同じ電車に乗って帰る。電車の中で梅干の握り飯を勧めた。後でこの話をしたら「嫌がられたでしょう。」とロシア生活の長い日本人。「そうでもなかったみたい。フクースナって、喜んで食べていたよ。」「無理をしていたのでしょう。」とか。悪いことをしたのだろうか。
 突然の押し掛け訪問なのに親切に対応して頂いてすぐ和気合い合い。私はロシアのこの雰囲気が好きだ。この人の良さ。きっと商売も下手だろうと思う。健闘を祈る次第である。