ラオコーン群像 ラオコーンはトロイの木馬の物語で、「木馬を城内に入れてはいけない」と予言して、アテネの遣わした蛇に殺される、トロイの神官である。 美術様式としては、理想的な調和を目指すクラシック様式の後の、表現したいテーマのために理想的な調和を壊す様式である。 いくつかの美術館でラオコーン群像を撮影した。 これらを整理するのが、このページの目的である。 |
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ヴァチカン美術館のラオコーン群像である。 観客がいなくなるのを辛抱できない筆者は、「どうせ美術全集に写真があるから」と軽い気持ちで撮影した。 1506年、トラヤヌス浴場付近(ネロの黄金宮跡)の地中から発見されたもので、発掘の様子を見学に来たミケランジェロに、大きな感銘を与えた。時の教皇ユリウス二世によって、ヴァチカン宮殿に搬送された。 これを賞賛したヴィンケルマンに対してレッシングが反駁。ラオコン論争が起こる。 古代ローマの博物学者プリニウスの著書に、ローマ皇帝ティトス(在位79-81年)の宮殿にあったラオコオン群像に関する記述があり、ロドス出身の3人の作者名が挙げられている。これは1506年に発掘された彫刻と同一のものと考えられている。 ラオコオン像が元々ギリシアで造られた彫刻をローマ時代(1世紀)に模刻したものか、それともローマ独自の作品かどうか、については議論がある。 ところで、キリスト教にとって異教に当たるギリシャ・ローマの彫刻がローマで保存されるのも面白いし、レオーネが文化財保護のための資金源として作った免罪符が宗教改革の引き金になるというのも面白い話ではないだろうか。 因みに文化の中心は、フィレンツェ、ローマを経て、バロック様式と反宗教改革の神聖ローマ帝国に移って行く。 |
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ウフィッツィ美術館にあるレプリカである。 法王レオーネ十世(1513〜1521)がフランス王フランソワ一世との講和交渉のために作らせたレプリカである。 フランソワが興味を示さなかったのでイタリアに残った。 因みにこの交渉の後、レオナルドはフランスに招かれる。 法王レオーネ10世は、フィレンツェルネサンスの庇護者、ロレンツォ・デ・メディチの次男である。 ロレンツォは若いミケランジェロを育てた人。 レオーネ十世の時代、ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロの三人がローマに揃う。 |
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モスクワ、プーシキン美術館のラオコーン群像である。 プーシキン美術館には、芸術コースに学ぶ学生のための資料として、さまざまな作品のレプリカが展示されている。 見比べるとそれぞれ随分異なっている。 (3人が上げている右腕の角度、蛇の噛みつく位置などの違いがわかりやすい) それなりに専門的な技術を持った作家が作っていると思うのだが、見比べるとなかなか面白い。 本物は、右腕が欠けた状態で発掘された。 発見当時から、盛んに模刻され、失われた右腕を想像で付け加える試みもなされた。 ウフィッツィのものも、プーシキンのものも、こちらのスタイルになっている。 ヴァチカンにも、右腕を再生して模刻が展示されているという話だが、筆者は見落としたらしい。 |
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2009年10月19日、ネットサーフィンで、ロードス島のラオコーン群像に関する記事を見かけた。 欠けた右腕のまがり具合、蛇の噛みつく位置など、かなりヴァチカンの、(オリジナルとされている)ものに近い形である。 |
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付記 「彫刻」は、昔は、「彫塑」と教えた。 「難しいことを教えることが子どもの健全な成長を妨げる」ということだろうか、今の学習指導要領では「彫刻」と教えることになっている。 おかげで、今流行りのウイスクで、「音楽と彫塑の共通性」について「彫塑」という言葉を知らないために答えられない生徒が増えた。 そもそも、「彫ったり、刻んだりする彫刻」には「もりあげる」という意味の「塑」が欠落しているではないか。 ただし、絵画の「模写」に当たる言葉を、彫刻では「模刻」という。 筆者も学生時代「模写」や「模刻」をさせられた。 これらは、学ぶことが目的だから「真似る」、つまりそっくりに再現することを重視する。 過去の模作者はそうではない。 ここにある法王レオーネ10世がフランス王フランソワへの手土産として作らせたという由緒正しい(?)模刻も、当時の解釈に従って、右腕を高く上げた形で作られている。 レプリカについて4点ばかり紹介しておく。 その1 ロダンの「考える人」 これは、地獄の門の一部だが、元々粘土で作った塑像だから、原型からいくつも同じものが作れるから、オリジナルがいくつもある。版画とおなじようなもので、本来の場所でないからと言ってレプリカとは限らない。 その2 大塚美術館 四国徳島にある大塚美術館は信楽の釉薬の技術を使った、陶板によるレプリカ美術館。 古代ローマ遺跡のフレスコから古典主義、印象派は勿論のこと、ピカソ、ポロックに至るまで、世界の美術作品のレプリカが並んでいる。 ヴァチカンの最後の審判に至っては、それを展示するため、展示場所まで建築段階からレプリカを意識したという凝ったものである。 その3 法隆寺金堂壁画 オリジナルは1949年に焼けてしまったから、これこそ由緒正しい模写。 前田青邨、安田靫彦、橋本明治、吉岡堅二といった日本画壇の有名所がかかわった。 線描には作者の息吹が残るので、厳密な模写や古画の修復は、線を使わずに細かな点描で行う。 「『見事に修復されているが、線描の息吹に弱さを感じる』と言ったら、それからあまり声がかからなくなった」とは、恩師でもある某美学者の話。 その4 レプリカには、法隆寺金堂壁画や大塚美術館のような、再現を究極の目標にしたものばかりでなく、ラオコーン群像のように、作者の解釈が加わることがある。 筆者が最もわかりやすいと考えているのが「黄不動」である。 「赤不動」「黄不動」「青不動」を、俗に「天下三不動」などと言う。 不動明王は、大日如来の化身だと言う。 戦うために変身するから、仮面ライダーのようなものである。 黄不動は承和5年(838年)、比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に現れたという、三井寺にある伝説の秘仏である。 これの模写がある。 いくつかあるそうだが、有名なのが京都市左京区にある曼殊院(まんしゅいん)のもの。 これを比較すると平安時代前期と後期の絵画様式の流れがわかりやすい。 子どもにもわかる簡単なポイントは2つ。 前者は、画面一杯に像だけが描かれている。 これを図的(イコノグラフィックな空間)と言う。 細い針金を貼り付けたような鋭い細い線で輪郭が描かれている。 これを、俗に鉄線描と言う。 後者は、背景の比率が大きくなり、不動明王が岩の上に立っている。 空間意識が感じられるわけで、このような構図意識が現れた絵を絵画的(イリュージョナル)な空間と言う。 線描は描き始めの打ち込みがあり、終筆部に押さえがある。つまり線が太くなったり、細くなったりしているわけで、大雑把に言えば肥痩線である。 線に変化がつくと味が出る。 これを強調すると、かすれたり滲んだりする味が面白くなる。 この味だけで表現すると、水墨画になる。 こんな見方もあるという話である。 付記のつもりが長くなってしまった。 いずれ、このページは、分割して独立させなければならないと思う。 取り敢えず、今のところはこの程度にしておこう。 |
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