日進のおじいちゃん
【野嵜義雄】
戒名:「理正院徳譽義雄居士」
あゆととゆあたの
日進のおじいちゃんが亡くなった。
告別式で喪主のお父さんがあいさつした。

「父の事業を引き継ぎました私が、
遺族を代表してごあいさつ申し上げます。
本日は、野嵜義雄の葬儀に際しまして、雨の中、またご多忙のところ、
故人のために、ご会葬下さいまして、あつく御礼申し上げます。

父、野嵜義雄は、大正15年5月1日、中区西日置町に生まれ、
昭和19年3月、愛知県立惟信中学校を卒業し、
昭和23年3月、名古屋工業専門学校
(現名古屋工業大学)電気科を卒業しました。

日立製作所、清水建設等、10の職場を変遷し、
(昭和19年6月、海軍省名古屋海軍監督官事務所、
昭和23年4月、株式会社日立製作所亀戸工場、
昭和24年6月、名古屋高等検察庁事件課、
昭和25年10月、清水建設株式会社名古屋機械工場、
昭和28年2月、栗山製作所
昭和31年4月、株式会社中部経済新聞社
昭和32年9月、株式会社白川洋行、
昭和33年6月、株式会社中島製作所
昭和33年7月、所会計事務所
昭和34年6月、枇杷島製氷株式会社)

昭和35年2月、野崎会計事務所を
名古屋市南区平子の地に開設しました。
平成13年に税理士の資格を返上するまで、
約40年税理士業を営んでいました。
(元名古屋税理士会 参与、元名古屋税理士会熱田支部 副支部長)

その傍ら、
昭和34年、英数教室を開設したり、
昭和37年、(日本初のプリント基盤の)日本サーキット工業株式会社非常勤取締役、
昭和42年、台豊印刷電路股彷有限公司常務菫事兼総経理
昭和44年、日本サーキット工業株式会社代表取締役副社長
昭和47年、(貿易会社の)セントラル企業株式会社代表取締役
昭和49年、高源木業股彷有限公司菫事
その他、八事に輸入家具店を開店したり、
遠赤外線のエミール社を起業するなど、
いろいろな事業を手掛けました。

晩年は、我が家の歴史に関心深く、
今年5月21日から2週間、
ひとりで長江文明を勉強しに、中国を旅行してきました。
(重慶・揚子江・武漢・南京・上海・広州など)
・・・台湾には100回以上、アメリカ・ソ連・韓国・中国・シンガポールなど海外経験は豊富。

父は、平成3年に脳梗塞を患い、
それで私が父の仕事を手伝うようになりました。
私が父の尊敬するところは、強い正義感を持っているところでした。
どんな権力にも屈しない真の正義感でした。

父は、二人だけの兄弟でしたが、
その兄(野嵜繁治)を今年8月31日に亡くし、
先週の日曜日(10月17日)に、
ここ高岳院において四十九日の法要を終えたばかりで、
その後を追うかのように、
平成16年10月23日土曜日午後10時頃、
自宅でひとりで静かに永眠しました。
満78歳でした。

生前は、みなさまより格別なご厚情をたまわり、心より御礼申し上げます。

本日は、このような盛大なお見送りをうけまして、故人はさぞかし満足していることと思います。
今後は、生前の故人同様、遺族にもご厚情たまわりますようお願い申し上げます。
これをもちまして御礼のあいさつと致します。
どうもありがとうございました。」


著書・論文
著書 「我が家乗」(平成12年5月1日刊行、424頁)

論文 「中臣氏について」(名古屋文化史研究第一号)
   「龍門園(暮雨巷)と関わった人々」(名古屋文化史研究第三号)
   「尾張藩と戊辰戦争(北越戦争)」(愛知県護国神社)
   「尾張藩の御用水江と御用水及び御深井御堀について」
    (人間磯部巌と愛知の文化)

著者  野嵜義雄
発行者 野嵜義雄
発行所 蓬左文物研究所
住所  愛知県日進市東山五丁目1305番地

宗派・家紋・菩提寺
宗派  浄土宗

家紋 轡(くつわ)

菩提寺 高岳院(こうがくいん)
    名古屋市東区泉2−21−17
    
高岳院は、徳川家康の八男、仙千代の菩提寺です。
旧国宝であった山門は、戦災で失われました。
「高岳院」